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第8章 ピアス
3.愛人、恋人、彼氏
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「そろそろ出るぞ」
「あ、はい」
結局、返信はしないまま携帯を鞄にしまう。
玄関のドアノブに池松さんが手をかけたところで、反対側から開いた。
「たっだいまー」
ドアを開けた女性――世理さんは、朝だとは思えないほどハイテンションだ。
「あっれー、めずらしー。
和佳が女の子連れ込んでるー」
けらけらと世理さんが笑い、池松さんは苦々しそうに顔をしかめた。
「……羽坂が酔い潰れて寝落ちたから、仕方なく連れて帰っただけだ」
「えー?
別に言い訳しなくていいのよー。
だいたい、互いに浮気は公認でしょ」
靴を脱ぎ、世理さんが部屋の中へと消えていく。
私はどうしていいのかわからずに、ただ突っ立っていた。
「あー、化粧品、使ったんだー」
寝室から世理さんの声が響いてくる。
もしかして、マズかったんだろうか。
「まだ時間あるー?
ちょうどいいからいろいろ、羽坂さんにあげたいんだけどー」
「もう出る」
「いいじゃない、渉に送らせるしー」
はぁっ、小さく池松さんの口からため息が落ちた。
「わかった。
手早くしてくれ」
池松さんが家の中へ戻っていくから、私も一緒に行く。
寝室ではごそごそと音がしていた。
「お待たせー。
これ、私が使わないので悪いんだけど。
よかったら使ってくれる?」
世理さんから渡された紙袋の中には、さっき私が使った化粧品と同じラインのものが山ほど詰まっていた。
「いえ、そんな!」
「いいの、いいの。
どうせ使わないし、それに和佳の彼女だったら……私のなんになるんだろ?
ねえ、和佳?」
「……知るか、そんなの」
はぁっ、再び池松さんの口からため息が落ちる。
彼は怒っているというよりも、完全にあきれていた。
「とにかく。
よかったら使って?
ね」
「はぁ……。
じゃあ、遠慮なくいただきます」
押しつけられた紙袋を受け取る。
世理さんはこの場に似つかわしくないほど、にこにこと笑っていた。
会社までは待っていた、世理さんの彼氏の渉さんが送ってくれた。
世理さんは着替えを取りに帰ってきただけらしい。
それはいい。
でも旦那を自分の浮気相手に会社へ送らせる、世理さんの神経がわからない。
「そうそう、この間、旅行に行ったときに羽坂さんに会ったのよ。
……あれ?
でもあのとき、彼氏と一緒じゃなかったっけ?」
はぁーっ、池松さんの口から落ちるため息は苦悩で重い。
「……だから。
羽坂と俺は付き合ったりしてない」
「そうなの?
でも、和佳が羽坂さんを見る目……」
「世理!」
珍しく池松さんが大きな声を上げ、一瞬にして車内が静かになる。
ただ、カーステから静かな洋楽だけが流れた。
「……ごめん」
「いや、俺も悪かった」
そのあと会社に着くまで、誰も口を開かなかった。
会社の裏で車を降りる。
「あ、今度、東京コレクションでヘアメイクの仕事が取れたの。
よかったら来てね」
「ああ」
「じゃあねー」
ひらひらと手を振って世理さんは去っていったけど……いったい、何者?
あの、日本最大級のファッションイベント、東京コレクションでヘアメイクの仕事とか。
「俺はその辺で少し時間を潰してから出社するから、羽坂は先に行ってろ」
「えっと……」
「一緒に出社したら、世理みたいな奴がいるだろ」
「あ……」
池松さんが苦笑いし、ようやくマズい状況にあるのだと理解した。
「じゃあ、お先に」
「ああ」
裏口から入る私と違い、池松さんは近くのコンビニへ向かったようだった。
こういう、小さな気遣いがいちいち嬉しい。
「おはようございます」
まだ、大河は出社していないようでほっとした。
自分の席でパソコンを立ち上げ、仕事の準備をはじめようとした、が。
「詩乃」
すぐ私のあとから出社してきた大河が、迫ってくる。
「ちょっと来て」
「えっ、あっ」
いいともなんとも言っていないのに、大河は私の腕を掴んで歩きだした。
「ねえ、昨日の夜、どこにいたの?」
連れてこられたバックヤードで、大河は私を逃がさないかのように壁ドンの姿勢を取った。
「ど、どこって……。
自分の、アパート」
真っ直ぐに私を見つめる、大河の瞳が怖い。
ついつい、視線を逸らしていた。
「……嘘つき」
耳元で囁かれ、背筋が粟立つ。
おそるおそる見上げた大河の顔からは一切の感情が消えていた。
「さっき、池松係長と一緒に出勤してきたの、見たよ。
……寝たの、池松係長と」
「……」
池松さんとはそういう関係にはなっていない。
ベッドすら、別だった。
だけどキスをした事実が後ろめたく、大河へ上手く説明ができない。
「わかってる?
あの人はそういう関係になっちゃいけない人だって」
「……」
酔っていたとはいえ、好きだとキスした。
これはもう、大河に責められても仕方がない。
「ねえ、なんでさっきから黙ってるの?」
するり、大河の壁についていない方の手が、私の頬を撫でる。
「やっぱり詩乃、無理矢理オレのものにするしかないのかな……」
ゆっくりと大河の顔が近づいてきて唇が……重なった。
「……!」
無理矢理唇をこじ開けられ、舌をねじ込まれる。
反射的にその舌を噛んだ。
「いっ!」
離れた大河が恨みがましく睨んでくる。
けれど私は口紅が落ちるなんてかまわずに、何度も唇をごしごしとこすった。
「私はっ、池松さんが好き、だからっ。
片想いでかまわない。
だから、大河を好きになれないっ」
目からは勝手にぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
大河はただ、なにも言わずに突っ立っていた。
「だから、ごめん!」
左手薬指の指環を抜き、大河へ差し出す。
受け取ろうとしない彼の手に無理矢理それを握らせた。
「本当に、ごめん!」
後ろも振り返らずに、その場を逃げだす。
大河は追ってこないどころか、なにも言わなかった。
「おっと」
泣いている顔なんて人に見られたくなくてトイレに駆け込もうとしたら、ちょうど出社してきた池松さんとぶつかった。
「……どうした?」
一気に、池松さんの表情が険しくなる。
「なんでもない、です。
ちょっと目に、ゴミが入って」
「宗正と喧嘩でもしたのか」
人が笑って誤魔化そうとしているのに、核心を突いてくる。
「だから、なんでもないですって」
「俺が、言ってやる。
昨日の夜はなにもなかったんだって」
「池松さん!」
私が駆けてきた方向へ一歩踏み出した彼は、足を止めて振り返った。
「なんでもないんです。
なんでもない、ですから」
必死に、袖を引いて引き留める。
いま、池松さんが出ていけば、よけいにややこしいことになる。
「……羽坂が、いいのなら」
「はい」
しぶしぶ、だけどやめてくれてほっとした。
「あ、はい」
結局、返信はしないまま携帯を鞄にしまう。
玄関のドアノブに池松さんが手をかけたところで、反対側から開いた。
「たっだいまー」
ドアを開けた女性――世理さんは、朝だとは思えないほどハイテンションだ。
「あっれー、めずらしー。
和佳が女の子連れ込んでるー」
けらけらと世理さんが笑い、池松さんは苦々しそうに顔をしかめた。
「……羽坂が酔い潰れて寝落ちたから、仕方なく連れて帰っただけだ」
「えー?
別に言い訳しなくていいのよー。
だいたい、互いに浮気は公認でしょ」
靴を脱ぎ、世理さんが部屋の中へと消えていく。
私はどうしていいのかわからずに、ただ突っ立っていた。
「あー、化粧品、使ったんだー」
寝室から世理さんの声が響いてくる。
もしかして、マズかったんだろうか。
「まだ時間あるー?
ちょうどいいからいろいろ、羽坂さんにあげたいんだけどー」
「もう出る」
「いいじゃない、渉に送らせるしー」
はぁっ、小さく池松さんの口からため息が落ちた。
「わかった。
手早くしてくれ」
池松さんが家の中へ戻っていくから、私も一緒に行く。
寝室ではごそごそと音がしていた。
「お待たせー。
これ、私が使わないので悪いんだけど。
よかったら使ってくれる?」
世理さんから渡された紙袋の中には、さっき私が使った化粧品と同じラインのものが山ほど詰まっていた。
「いえ、そんな!」
「いいの、いいの。
どうせ使わないし、それに和佳の彼女だったら……私のなんになるんだろ?
ねえ、和佳?」
「……知るか、そんなの」
はぁっ、再び池松さんの口からため息が落ちる。
彼は怒っているというよりも、完全にあきれていた。
「とにかく。
よかったら使って?
ね」
「はぁ……。
じゃあ、遠慮なくいただきます」
押しつけられた紙袋を受け取る。
世理さんはこの場に似つかわしくないほど、にこにこと笑っていた。
会社までは待っていた、世理さんの彼氏の渉さんが送ってくれた。
世理さんは着替えを取りに帰ってきただけらしい。
それはいい。
でも旦那を自分の浮気相手に会社へ送らせる、世理さんの神経がわからない。
「そうそう、この間、旅行に行ったときに羽坂さんに会ったのよ。
……あれ?
でもあのとき、彼氏と一緒じゃなかったっけ?」
はぁーっ、池松さんの口から落ちるため息は苦悩で重い。
「……だから。
羽坂と俺は付き合ったりしてない」
「そうなの?
でも、和佳が羽坂さんを見る目……」
「世理!」
珍しく池松さんが大きな声を上げ、一瞬にして車内が静かになる。
ただ、カーステから静かな洋楽だけが流れた。
「……ごめん」
「いや、俺も悪かった」
そのあと会社に着くまで、誰も口を開かなかった。
会社の裏で車を降りる。
「あ、今度、東京コレクションでヘアメイクの仕事が取れたの。
よかったら来てね」
「ああ」
「じゃあねー」
ひらひらと手を振って世理さんは去っていったけど……いったい、何者?
あの、日本最大級のファッションイベント、東京コレクションでヘアメイクの仕事とか。
「俺はその辺で少し時間を潰してから出社するから、羽坂は先に行ってろ」
「えっと……」
「一緒に出社したら、世理みたいな奴がいるだろ」
「あ……」
池松さんが苦笑いし、ようやくマズい状況にあるのだと理解した。
「じゃあ、お先に」
「ああ」
裏口から入る私と違い、池松さんは近くのコンビニへ向かったようだった。
こういう、小さな気遣いがいちいち嬉しい。
「おはようございます」
まだ、大河は出社していないようでほっとした。
自分の席でパソコンを立ち上げ、仕事の準備をはじめようとした、が。
「詩乃」
すぐ私のあとから出社してきた大河が、迫ってくる。
「ちょっと来て」
「えっ、あっ」
いいともなんとも言っていないのに、大河は私の腕を掴んで歩きだした。
「ねえ、昨日の夜、どこにいたの?」
連れてこられたバックヤードで、大河は私を逃がさないかのように壁ドンの姿勢を取った。
「ど、どこって……。
自分の、アパート」
真っ直ぐに私を見つめる、大河の瞳が怖い。
ついつい、視線を逸らしていた。
「……嘘つき」
耳元で囁かれ、背筋が粟立つ。
おそるおそる見上げた大河の顔からは一切の感情が消えていた。
「さっき、池松係長と一緒に出勤してきたの、見たよ。
……寝たの、池松係長と」
「……」
池松さんとはそういう関係にはなっていない。
ベッドすら、別だった。
だけどキスをした事実が後ろめたく、大河へ上手く説明ができない。
「わかってる?
あの人はそういう関係になっちゃいけない人だって」
「……」
酔っていたとはいえ、好きだとキスした。
これはもう、大河に責められても仕方がない。
「ねえ、なんでさっきから黙ってるの?」
するり、大河の壁についていない方の手が、私の頬を撫でる。
「やっぱり詩乃、無理矢理オレのものにするしかないのかな……」
ゆっくりと大河の顔が近づいてきて唇が……重なった。
「……!」
無理矢理唇をこじ開けられ、舌をねじ込まれる。
反射的にその舌を噛んだ。
「いっ!」
離れた大河が恨みがましく睨んでくる。
けれど私は口紅が落ちるなんてかまわずに、何度も唇をごしごしとこすった。
「私はっ、池松さんが好き、だからっ。
片想いでかまわない。
だから、大河を好きになれないっ」
目からは勝手にぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
大河はただ、なにも言わずに突っ立っていた。
「だから、ごめん!」
左手薬指の指環を抜き、大河へ差し出す。
受け取ろうとしない彼の手に無理矢理それを握らせた。
「本当に、ごめん!」
後ろも振り返らずに、その場を逃げだす。
大河は追ってこないどころか、なにも言わなかった。
「おっと」
泣いている顔なんて人に見られたくなくてトイレに駆け込もうとしたら、ちょうど出社してきた池松さんとぶつかった。
「……どうした?」
一気に、池松さんの表情が険しくなる。
「なんでもない、です。
ちょっと目に、ゴミが入って」
「宗正と喧嘩でもしたのか」
人が笑って誤魔化そうとしているのに、核心を突いてくる。
「だから、なんでもないですって」
「俺が、言ってやる。
昨日の夜はなにもなかったんだって」
「池松さん!」
私が駆けてきた方向へ一歩踏み出した彼は、足を止めて振り返った。
「なんでもないんです。
なんでもない、ですから」
必死に、袖を引いて引き留める。
いま、池松さんが出ていけば、よけいにややこしいことになる。
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「はい」
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