契約書は婚姻届

霧内杳/眼鏡のさきっぽ

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第12話 尚一郎と元カノ

5.私を諦めないで

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そのとき、なにがあって、どうして尚一郎が朋香を好きになったのかはわからない。
なぜなら、思い出すととても恥ずかしいので、話すのは勘弁して欲しいと云われたから。

とにかく、ずいぶん前に一度、朋香と尚一郎は会っており、尚一郎は朋香に一目惚れしたらしい。
しかし、そのときは名前を聞くこともできなかったし、自分の事情が事情なだけに、諦めて捜すようなこともしなかったそうだ。

契約打ち切りの噂の件で川澄を訪ねた折り、すれ違った朋香にあのときの少女だとすぐに気付いたのだという。

さらにきれいになった朋香に、二度目の一目惚れをしたのだと照れたように尚一郎は笑っていた。

誰かと尋ねると、近頃CEOから切り捨てを命じられた町工場の、社長の娘だという。
好都合だと思った。

ずっと、利益ばかりを追求し、高い技術のある工場を簡単に切り捨てるCEOのやり方が不満だったから。
 
彼女と結婚すれば、社長の義理の実家を簡単に、倒産に追い込むことなどできなくなるのではないか。

仕事にプライベートな事情を持ち込むことは躊躇われたが、それ以上にCEOに反発したかった。

しかし、万理奈の前例がある。
結婚すればきっと、彼女を不幸にする。

悩みに悩んだ末、朋香と結婚する決定を下した。
それほどまでに、また朋香に会えたことが嬉しかったから。

 
結婚を決めたものの、不安がなかったわけではない。

以前、一目惚れしたのは朋香の性格も込みだった。
けれど、実際は違ったら?

しかし、そんな不安は杞憂に終わった。

父親の工場を救うために自分が犠牲になろうとする姿も、迎えに行ったときに高額なプレゼントに困惑するのも、尚一郎の容姿を莫迦にする弟に怒っているのも思った以上で、ますます朋香が好きになっていた。



「僕はね。
朋香を妻に迎えたとき、神様に誓ったんだ。
絶対に朋香を守って、幸せにしてみせるって。
朋香の幸せの中には、お義父さん、洋太くん、それに工場のみんなも含まれてる。
それを全部全部、守ってみせるって誓ったんだ」

泣き出しそうに笑う尚一郎に心臓を強く握られているかのように胸が痛く、苦しい。

かつて愛した人間に、あそこまで怖がられるのはどんな気持ちなんだろう。
そんなことがあってなお、自分との結婚を決めた尚一郎の心は計り知れない。

……やっぱり尚一郎さんが好き。
離れたくない。

――しかし。

「でも、万理奈の話を聞いて、怖くなっただろう?
朋香が僕と別れたいというなら止めない。
僕には止める権利がないから。
ああ、僕と別れてもお義父さんの工場……」

「なんでそんなこと云うんですか!?」

ぼろぼろと涙がこぼれ落ちていく。
キレて泣き出した朋香に、尚一郎は意味がわからないとでもいうような顔をしていて、ますます腹が立った。

「ひとりにしないでってさんざん人に縋ってきたのは誰ですか!?
確かに、怖いですよ、実際、万理奈さんに会ったうえにあんな話聞かされたら!
後悔もしましたよ、尚一郎さんなんて好きにならなきゃよかった、って。
でも、私はなにを犠牲にしたって、尚一郎さんと一緒にいたいんです。
尚一郎さんは違うんですか?
そんなに簡単に、手放さないでください……」

「朋香……」

尚一郎の手がふれると、びくりと身体が震えた。
けれど、かまわずに尚一郎が抱きしめてくる。

「絶対に、朋香を守るから。
だから、ずっと僕と一緒にいてくれるかい?」

「……嫌だって云っても、一緒にいます」

見上げると、目のあった尚一郎がくすりと小さく、おかしそうに笑った。
瞬きすると碧い目からはぽろりときれいな涙がこぼれ落ちる。

そっと、その涙を拭うと、幸せそうに眼鏡の奥の目が細くなった。
 
近づいてくる顔に目を閉じると、唇が重なる。
ゆっくりと押し倒されていきながら、やっと身も心もひとつになれるんだと思うとたまらなく嬉しかった。

「朋香……」

うっとりと尚一郎の手が頬を撫で、涙で潤んだ瞳で見上げる。

「|Ich bin in dich verliebt(君だけしか見えない)」

再び近づいてくる顔に目を閉じた……瞬間。

ぐーっっっっっっ!

「夕食、食べてないし、朝も昼もあまり食べなかったからね」

「……そうですね」

どちらともなく鳴り出した、大きな腹の音に、ふたりで顔を見合わせて笑うしかなかった。
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