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十九回目で止まった時計
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翌日から、フェリシアの日常から「ステファン・アルバン」という色彩が抜け落ちた。
これまでの彼女なら、朝の登校風景に彼の姿を見つければ、淑女の嗜みも忘れて駆け寄っていたはずだ。昼休みになれば、彼が禁じたことも忘れて三年棟の入り口で彼を待ち伏せ、呆れ顔の彼に「ステファン様、大好きです!」と二十回目の告白を捧げていたに違いない。
けれど、フェリシアはそれをしなかった。
一年生の教室で、彼女はただ静かに教科書を開いていた。
心の中にあったはずの熱い塊は、昨日の放課後、春の風に吹かれてどこかへ消えてしまった。残ったのは、空っぽになった胸の空洞と、不思議なほどの冷静さだけだった。
「フェリシア様、今日は高等部の方へは行かれないのですか?」
幼い頃からの友人である伯爵令嬢のルイーゼが、不思議そうに首を傾げた。彼女もまた、フェリシアの熱烈な片思いを応援していた一人だ。
「ええ。三年棟には来ちゃダメだと、ステファン様が仰ったから」
「……まあ。いつもはそう言われても『照れていらっしゃるんだわ!』と、笑って突き進んでいたのに」
「昨日までの私は、少し頭がどうかしていたのよ」
フェリシアは、自分でも驚くほど穏やかな微笑みを返した。
傲慢だったのは、彼だけではない。自分もまた、「いつか私の想いは彼に届くはずだ」という傲慢な希望を抱き、彼を困らせていたのだ。
彼は運命を待っている。偶然が重なる、劇的な出会いを。
そこに、十年間も隣で「大好きだ」と騒ぎ続けていた、家族のような幼馴染が入る余地など最初からないのだ。
――もう、十分だわ。
一方、高等部三年棟のラウンジでは、ステファン・アルバンが奇妙な居心地の悪さを感じていた。
「……来ないな」
友人とチェスを指しながら、ステファンは無意識に時計の針に目をやった。
昼休みも終わる。いつもなら、この時間までに一度は「ステファン様!」という、鈴を転がすような、けれど少し騒がしい声が届くはずだった。
昨日は、つい突き放すような言い方をしてしまった。それは、彼なりにフェリシアを思ってのことだ。三年棟は一年棟とは空気が違う。特に三年棟は卒業を控えた社交の場でもあり、入学したばかりの彼女がうろつくのは、彼女自身の評判に障る。
だから、優しく諭したつもりだった。いつも通り、彼女が「嫌です、会いたいんですもの!」と食い下がってくるのを、やれやれと笑って受け流す準備はできていたのだ。
「どうしたステファン。指し手が止まっているぞ」
「いや……別に。ただ、今日は静かだと思ってな」
「ああ、例のオタワ侯爵令嬢か。お前の『来るな』をようやく真に受けたんだろう。お前、昨日はひどい言い草だったからな」
友人の言葉に、ステファンは眉を寄せた。
「ひどい? 幼馴染として、当然の忠告をしたまでだ」
「幼馴染、ねえ。あんな美少女に死ぬほど惚れ抜かれて、贅沢な男だよ」
ステファンは照れ笑いを浮かべた。
フェリシアの好意は、彼にとって「あって当たり前」の空気のようなものだ。五歳の出会いから、彼女は自分と共に歩くものだと決まっている。彼女の「大好き」も「結婚して」も、季節が巡れば咲く花のような、予定調和の行事だった。
――そんなものより、俺が求めているのはもっと……。
その時、ラウンジの扉が開き、一人の女子生徒が入ってきた。ステファンの目が、吸い寄せられるように止まる。
淡い、透き通るような金髪。春の若葉を思わせる、薄い緑の瞳。小柄で、どこか儚げな雰囲気を纏ったその令嬢は、慣れない高等部の空気に戸惑うように、辺りをきょろきょろと見渡していた。
ステファンの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
( 似ている。雰囲気が、あの子に…… )
脳裏に焼き付いている、あの日の記憶が鮮烈に蘇る。薔薇のアーチの奥で、自分を見上げた「金の髪の妖精」。あの時の子は、確かにこんな色をしていたはずだ。
「……あの、失礼いたします」
彼女が、ステファンたちのテーブルのそばで足を止めた。
その令嬢――ゼット子爵家のフローラは、上目遣いにステファンを見つめ、頬を林檎のように赤らめた。
「お探し物ですか?」
ステファンは、自分でも驚くほど熱を帯びた声で話しかけていた。フェリシアに向ける「兄」のような余裕など、そこには欠片もなかった。
「ええ……。実は、昔お世話になった方に、ご挨拶をしたいと思いまして……。でも、もうお忘れかもしれません。ピンクの薔薇の咲くお庭で、迷子になった私を助けてくださった、銀色の髪のご令息のことを」
その瞬間、ステファンの世界が輝きに包まれた。
これだ。この偶然。この、奇跡のような再会。探し続けていた「真実の愛」が、向こうから自分を見つけてくれたのだ。
「君だったのか……!」
ステファンがフローラの手を取ったその時。
図書室で静かに本を閉じたフェリシアは、幼い頃からずっと大切に持ち歩いていた、ステファンからもらった古い栞をゴミ箱に落とした。
十年の恋の終わりと、偽りの運命の始まり。
二つの物語が、フェリシアの知らないところで残酷に交差しようとしていた。
______________
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これまでの彼女なら、朝の登校風景に彼の姿を見つければ、淑女の嗜みも忘れて駆け寄っていたはずだ。昼休みになれば、彼が禁じたことも忘れて三年棟の入り口で彼を待ち伏せ、呆れ顔の彼に「ステファン様、大好きです!」と二十回目の告白を捧げていたに違いない。
けれど、フェリシアはそれをしなかった。
一年生の教室で、彼女はただ静かに教科書を開いていた。
心の中にあったはずの熱い塊は、昨日の放課後、春の風に吹かれてどこかへ消えてしまった。残ったのは、空っぽになった胸の空洞と、不思議なほどの冷静さだけだった。
「フェリシア様、今日は高等部の方へは行かれないのですか?」
幼い頃からの友人である伯爵令嬢のルイーゼが、不思議そうに首を傾げた。彼女もまた、フェリシアの熱烈な片思いを応援していた一人だ。
「ええ。三年棟には来ちゃダメだと、ステファン様が仰ったから」
「……まあ。いつもはそう言われても『照れていらっしゃるんだわ!』と、笑って突き進んでいたのに」
「昨日までの私は、少し頭がどうかしていたのよ」
フェリシアは、自分でも驚くほど穏やかな微笑みを返した。
傲慢だったのは、彼だけではない。自分もまた、「いつか私の想いは彼に届くはずだ」という傲慢な希望を抱き、彼を困らせていたのだ。
彼は運命を待っている。偶然が重なる、劇的な出会いを。
そこに、十年間も隣で「大好きだ」と騒ぎ続けていた、家族のような幼馴染が入る余地など最初からないのだ。
――もう、十分だわ。
一方、高等部三年棟のラウンジでは、ステファン・アルバンが奇妙な居心地の悪さを感じていた。
「……来ないな」
友人とチェスを指しながら、ステファンは無意識に時計の針に目をやった。
昼休みも終わる。いつもなら、この時間までに一度は「ステファン様!」という、鈴を転がすような、けれど少し騒がしい声が届くはずだった。
昨日は、つい突き放すような言い方をしてしまった。それは、彼なりにフェリシアを思ってのことだ。三年棟は一年棟とは空気が違う。特に三年棟は卒業を控えた社交の場でもあり、入学したばかりの彼女がうろつくのは、彼女自身の評判に障る。
だから、優しく諭したつもりだった。いつも通り、彼女が「嫌です、会いたいんですもの!」と食い下がってくるのを、やれやれと笑って受け流す準備はできていたのだ。
「どうしたステファン。指し手が止まっているぞ」
「いや……別に。ただ、今日は静かだと思ってな」
「ああ、例のオタワ侯爵令嬢か。お前の『来るな』をようやく真に受けたんだろう。お前、昨日はひどい言い草だったからな」
友人の言葉に、ステファンは眉を寄せた。
「ひどい? 幼馴染として、当然の忠告をしたまでだ」
「幼馴染、ねえ。あんな美少女に死ぬほど惚れ抜かれて、贅沢な男だよ」
ステファンは照れ笑いを浮かべた。
フェリシアの好意は、彼にとって「あって当たり前」の空気のようなものだ。五歳の出会いから、彼女は自分と共に歩くものだと決まっている。彼女の「大好き」も「結婚して」も、季節が巡れば咲く花のような、予定調和の行事だった。
――そんなものより、俺が求めているのはもっと……。
その時、ラウンジの扉が開き、一人の女子生徒が入ってきた。ステファンの目が、吸い寄せられるように止まる。
淡い、透き通るような金髪。春の若葉を思わせる、薄い緑の瞳。小柄で、どこか儚げな雰囲気を纏ったその令嬢は、慣れない高等部の空気に戸惑うように、辺りをきょろきょろと見渡していた。
ステファンの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
( 似ている。雰囲気が、あの子に…… )
脳裏に焼き付いている、あの日の記憶が鮮烈に蘇る。薔薇のアーチの奥で、自分を見上げた「金の髪の妖精」。あの時の子は、確かにこんな色をしていたはずだ。
「……あの、失礼いたします」
彼女が、ステファンたちのテーブルのそばで足を止めた。
その令嬢――ゼット子爵家のフローラは、上目遣いにステファンを見つめ、頬を林檎のように赤らめた。
「お探し物ですか?」
ステファンは、自分でも驚くほど熱を帯びた声で話しかけていた。フェリシアに向ける「兄」のような余裕など、そこには欠片もなかった。
「ええ……。実は、昔お世話になった方に、ご挨拶をしたいと思いまして……。でも、もうお忘れかもしれません。ピンクの薔薇の咲くお庭で、迷子になった私を助けてくださった、銀色の髪のご令息のことを」
その瞬間、ステファンの世界が輝きに包まれた。
これだ。この偶然。この、奇跡のような再会。探し続けていた「真実の愛」が、向こうから自分を見つけてくれたのだ。
「君だったのか……!」
ステファンがフローラの手を取ったその時。
図書室で静かに本を閉じたフェリシアは、幼い頃からずっと大切に持ち歩いていた、ステファンからもらった古い栞をゴミ箱に落とした。
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