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偽りの令嬢フローラの恋心
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フェリシアが「告白」を完全にあきらめてから、一週間が過ぎた。
学園の廊下でステファンとすれ違っても、彼女は足を止めることすらしない。優雅に、そして事務的に、一介の下級生として完璧な礼を施し、そのまま風のように去っていく。
「……フェリシア?」
すれ違いざま、ステファンが思わず漏らした声も、彼女の耳には届かないようだった。
振り返った先に見えるのは、一度もこちらを見ることなく友人と談笑しながら歩く、フェリシアの明るい茶色の後ろ髪だけ。
いつもなら「ステファン様!」と腕に飛びついてくるはずの温もりが、そこにはない。
「どうした、ステファン? 運命の『妖精さん』が待ってるんだろう?」
友人の冷やかしに、ステファンはハッとして我に返った。
そうだ。自分には、今、フローラ・ゼット子爵令嬢がいる。十年前の夏、薔薇のアーチで出会った運命の少女が。
「ステファン様、どうかされましたか?」
廊下の向こうから、フローラが不安げに彼の名を呼んだ。淡い金髪、薄い緑の瞳。記憶の中の妖精に、驚くほどよく似ているはずの少女。
ステファンは自分に言い聞かせるように、彼女に微笑みかけた。
「いや、なんでもないよ。……行こうか、フローラ」
――これでいいはずだ。僕はついに「運命の妖精」と再会できたのだから。
そう自分に言い聞かせながらも、ステファンの胸の奥には、正体不明の『理由のわからない違和感』が居座り続けていた。
一方、フローラ子爵令嬢は、ステファンの腕に寄り添いながら、心の中で勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
彼女がステファンの「運命の相手」の話を知ったのは、完全なる偶然だった。
数週間前、母と立ち寄った市井の高級カフェ。衝立の向こう側で、いかにも育ちの良さそうな貴族青年たちが、一人の美青年の「初恋」について語り合っていた。
『ステファンはまだ、あの薔薇の庭の妖精を探しているのか?』
『ああ。金の髪で、水色のドレスを着ていた、あの日のピンクの薔薇の妖精のような少女をな』
その声の主——ステファン・アルバンを一目見た瞬間、フローラは恋に落ちた。
夜の月を溶かしたような銀髪、気高くも冷ややかなアメジストの瞳。そして何より、自分たち子爵家とは比べものにならない、侯爵家嫡男としての圧倒的な気品。
家柄も産業も持たぬゼット子爵家が、この至宝を手に入れる方法はただ一つ。「運命の妖精」に成り代わることだけだった。
( 髪の色も、瞳の色も、私の方がよっぽど『妖精』に近い。あんな茶髪の侯爵令嬢より、私の方がふさわしいわ)
フローラは確信していた。ステファンが求めているのは「フェリシア侯爵令嬢」ではなく、「記憶の中の美しい幻想の少女」なのだと。
ある日の放課後。ステファンはフローラを連れて、わざわざ一年棟の校舎近くの噴水広場に姿を現した。
そこには、友人たちと語らうフェリシアがいた。
「フェリシア、まだ帰っていなかったのか」
ステファンは、必要以上に親密な仕草でフローラの肩を抱き、フェリシアに声をかけた。
無意識の、あまりに子供じみた執着だった。
自分を追いかけてこないフェリシアに、「自分にはこんなに素敵な運命の相手がいるのだ」と見せつけたい。そうすれば、彼女がまた泣きながらすがってくると信じていた。
だが、フェリシアの反応は、彼の予想を残酷に裏切った。
「ええ、ごきげんよう。……そちらが、例の『運命の方』ですの?」
フェリシアの瞳に、かつてあった熱は一滴も残っていなかった。
彼女はただ、観察するようにフローラを見つめている。そのエメラルドの瞳は、まるで硝子玉のように冷ややかに澄んでいた。
「……あ、あぁ。フローラ・ゼット子爵令嬢だ。僕がずっと探していた女の子だよ」
ステファンがそう告げると、フローラは殊勝に頭を下げた。
「フェリシア様、お噂はかねがね。ステファン様とは、幼い頃に薔薇の庭で迷子になって震えていた際、運命の導きにより出会っていたようで……。本当に不思議ですわね」
頬を染めて語るフローラの言葉に、フェリシアの口角がわずかに上がった。
それは慈しみでも、嫉妬でもない。ただただ、「滑稽なものを見る」時の冷笑だった。
薔薇のアーチ。水色のドレス。あの日、自分がどれほどの思いでステファンの手を取ったか。
それを、こんな浅ましい嘘で上書きしようとする女。そして、あんなに大切そうに語っていた「運命の出会いだったと言う相手」の顔さえ判別できず、似た色の髪の女に鼻の下を伸ばしている初恋の男。
「そうですか。それは、おめでとうございます」
フェリシアは、心底どうでもよさそうに短く言った。
「私の記憶にある『あの日の妖精』は、色とりどりの薔薇園で、もっと鼻水と涙を流し、無様に泣きじゃくっていた気がいたしますけれど。……ステファン様の思い出の中では、ずいぶんと美化されていたのですね。いいえ、失礼。きっと私の思い違いだったのでしょう」
フェリシアは早口で小さく呟きをもらすと、優雅にカーテシーを披露した。
「どうぞ、お二人でその『真実の愛』を育んでくださいませ。……私はもう、部外者ですので」
そう言い捨てて歩き出す彼女の背中に、ステファンは言いようのない焦燥感を覚えた。
今の言葉は何だ。まるで、俺の方が間違っていると言わんばかりではないか。
「待て、フェリシア! 次の告白は……どうなったんだ」
思わず口をついて出た言葉に、フェリシアが足を止めた。
彼女は振り返り、心から不思議そうに小首を傾げた。
「告白? ……ああ、あの子供の戯言のことですか」
彼女のピンクの唇が、長い恋に幕を下ろすかのように、ゆっくりと動いた。
「十九回も繰り返して、一度も受け取っていただけなかった想いですもの。もう、二十回目を数える気力はございませんわ。どうぞ、そのお優しいフローラ様に、たっぷりと愛を囁いて差し上げてくださいな。……アルバン侯爵令息様」
その呼び方は、かつての甘い響きではなく、血の繋がらない他人であることを強調する、冷徹な響きを持っていた。
去っていくフェリシアを見つめるその腕には、フローラが縋りついている。
その温もりを感じながらも、ステファンは自分が底なしの沼に足を踏み入れたかのような、形容しがたい寒気を覚えた。
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学園の廊下でステファンとすれ違っても、彼女は足を止めることすらしない。優雅に、そして事務的に、一介の下級生として完璧な礼を施し、そのまま風のように去っていく。
「……フェリシア?」
すれ違いざま、ステファンが思わず漏らした声も、彼女の耳には届かないようだった。
振り返った先に見えるのは、一度もこちらを見ることなく友人と談笑しながら歩く、フェリシアの明るい茶色の後ろ髪だけ。
いつもなら「ステファン様!」と腕に飛びついてくるはずの温もりが、そこにはない。
「どうした、ステファン? 運命の『妖精さん』が待ってるんだろう?」
友人の冷やかしに、ステファンはハッとして我に返った。
そうだ。自分には、今、フローラ・ゼット子爵令嬢がいる。十年前の夏、薔薇のアーチで出会った運命の少女が。
「ステファン様、どうかされましたか?」
廊下の向こうから、フローラが不安げに彼の名を呼んだ。淡い金髪、薄い緑の瞳。記憶の中の妖精に、驚くほどよく似ているはずの少女。
ステファンは自分に言い聞かせるように、彼女に微笑みかけた。
「いや、なんでもないよ。……行こうか、フローラ」
――これでいいはずだ。僕はついに「運命の妖精」と再会できたのだから。
そう自分に言い聞かせながらも、ステファンの胸の奥には、正体不明の『理由のわからない違和感』が居座り続けていた。
一方、フローラ子爵令嬢は、ステファンの腕に寄り添いながら、心の中で勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
彼女がステファンの「運命の相手」の話を知ったのは、完全なる偶然だった。
数週間前、母と立ち寄った市井の高級カフェ。衝立の向こう側で、いかにも育ちの良さそうな貴族青年たちが、一人の美青年の「初恋」について語り合っていた。
『ステファンはまだ、あの薔薇の庭の妖精を探しているのか?』
『ああ。金の髪で、水色のドレスを着ていた、あの日のピンクの薔薇の妖精のような少女をな』
その声の主——ステファン・アルバンを一目見た瞬間、フローラは恋に落ちた。
夜の月を溶かしたような銀髪、気高くも冷ややかなアメジストの瞳。そして何より、自分たち子爵家とは比べものにならない、侯爵家嫡男としての圧倒的な気品。
家柄も産業も持たぬゼット子爵家が、この至宝を手に入れる方法はただ一つ。「運命の妖精」に成り代わることだけだった。
( 髪の色も、瞳の色も、私の方がよっぽど『妖精』に近い。あんな茶髪の侯爵令嬢より、私の方がふさわしいわ)
フローラは確信していた。ステファンが求めているのは「フェリシア侯爵令嬢」ではなく、「記憶の中の美しい幻想の少女」なのだと。
ある日の放課後。ステファンはフローラを連れて、わざわざ一年棟の校舎近くの噴水広場に姿を現した。
そこには、友人たちと語らうフェリシアがいた。
「フェリシア、まだ帰っていなかったのか」
ステファンは、必要以上に親密な仕草でフローラの肩を抱き、フェリシアに声をかけた。
無意識の、あまりに子供じみた執着だった。
自分を追いかけてこないフェリシアに、「自分にはこんなに素敵な運命の相手がいるのだ」と見せつけたい。そうすれば、彼女がまた泣きながらすがってくると信じていた。
だが、フェリシアの反応は、彼の予想を残酷に裏切った。
「ええ、ごきげんよう。……そちらが、例の『運命の方』ですの?」
フェリシアの瞳に、かつてあった熱は一滴も残っていなかった。
彼女はただ、観察するようにフローラを見つめている。そのエメラルドの瞳は、まるで硝子玉のように冷ややかに澄んでいた。
「……あ、あぁ。フローラ・ゼット子爵令嬢だ。僕がずっと探していた女の子だよ」
ステファンがそう告げると、フローラは殊勝に頭を下げた。
「フェリシア様、お噂はかねがね。ステファン様とは、幼い頃に薔薇の庭で迷子になって震えていた際、運命の導きにより出会っていたようで……。本当に不思議ですわね」
頬を染めて語るフローラの言葉に、フェリシアの口角がわずかに上がった。
それは慈しみでも、嫉妬でもない。ただただ、「滑稽なものを見る」時の冷笑だった。
薔薇のアーチ。水色のドレス。あの日、自分がどれほどの思いでステファンの手を取ったか。
それを、こんな浅ましい嘘で上書きしようとする女。そして、あんなに大切そうに語っていた「運命の出会いだったと言う相手」の顔さえ判別できず、似た色の髪の女に鼻の下を伸ばしている初恋の男。
「そうですか。それは、おめでとうございます」
フェリシアは、心底どうでもよさそうに短く言った。
「私の記憶にある『あの日の妖精』は、色とりどりの薔薇園で、もっと鼻水と涙を流し、無様に泣きじゃくっていた気がいたしますけれど。……ステファン様の思い出の中では、ずいぶんと美化されていたのですね。いいえ、失礼。きっと私の思い違いだったのでしょう」
フェリシアは早口で小さく呟きをもらすと、優雅にカーテシーを披露した。
「どうぞ、お二人でその『真実の愛』を育んでくださいませ。……私はもう、部外者ですので」
そう言い捨てて歩き出す彼女の背中に、ステファンは言いようのない焦燥感を覚えた。
今の言葉は何だ。まるで、俺の方が間違っていると言わんばかりではないか。
「待て、フェリシア! 次の告白は……どうなったんだ」
思わず口をついて出た言葉に、フェリシアが足を止めた。
彼女は振り返り、心から不思議そうに小首を傾げた。
「告白? ……ああ、あの子供の戯言のことですか」
彼女のピンクの唇が、長い恋に幕を下ろすかのように、ゆっくりと動いた。
「十九回も繰り返して、一度も受け取っていただけなかった想いですもの。もう、二十回目を数える気力はございませんわ。どうぞ、そのお優しいフローラ様に、たっぷりと愛を囁いて差し上げてくださいな。……アルバン侯爵令息様」
その呼び方は、かつての甘い響きではなく、血の繋がらない他人であることを強調する、冷徹な響きを持っていた。
去っていくフェリシアを見つめるその腕には、フローラが縋りついている。
その温もりを感じながらも、ステファンは自分が底なしの沼に足を踏み入れたかのような、形容しがたい寒気を覚えた。
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