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プロローグ
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目覚めた時、最初に感じ取ったのは、空気の匂いだった。
鼻腔に流れ込んでくる空気には、大量の情報が含まれている。甘い花の匂い。青々と生い茂る雑草の匂い。汚れた胸を浄化するように爽快な樹の匂い。乾燥で渇いた喉を刺激する水の匂い。
聴覚に意識を傾けると、圧倒的な音の洪水が押し寄せる。
無数に重なった葉擦れの音。陽気にさえずる小鳥の声。控えめに奏でられる虫の羽音。樹を突く啄木鳥の音。遠くからかすかに届く川の音。
このまま永遠に眠っていたい、という欲求を辛うじて押し退け、俺はようやく両眼を開けた。
揺れる無数の光がまっすぐ飛んできて、何度も瞬きを繰り返す。滲んだ涙を右手の甲でごしごし擦りながら、ゆっくり上体を起こす。
「……ここ……どこ……?」
思わず呟いた。
まず目に入ったのは、淡い緑色の草叢だった。所々に色鮮やかな花が群生し、それらの間を蝶が行ったり来たりしている。草の絨毯はほんの十メートルで途切れ、その向こうは、樹齢何年とも知れない節くれだった巨木が連なる深い森になっている。
幹の間の薄暗がりに眼を凝らすと、光が届く限界まで木立はどこまでも続いているように見える。ごつごつ波打つ樹皮や地面は分厚い苔で覆われ、差し込む陽光を受けて輝いている。
その場に立ち上がり、体ごと一回転してみたが、古木の幹は全ての方位で俺を出迎えた。俺はどうやら、森の中に開けた円形の広場で眠っていたらしい。
最後に頭上を仰ぐと、伸びる節くれだった梢の隙間に、積乱雲が漂う空を眺めることが出来た。
「……どこだ?……ここ」
もう一度、ぽつりと呟いた。が、答える声もなく、ただ虚しく声が森に響いた。
こんな所に来た記憶も昼寝をした覚えも、記憶の隅々まで模索しても出てこない。記憶喪失、夢遊病、明晰夢、脳裏を横切る物騒な単語を、慌てて打ち消す。
夢でない事を明らかにするために、右頬を軽くつねる。
痛い。普通にヒリヒリする。つまりこれは夢ではなく、現実だという事だ。
その事実に少しだけ安堵しながら、今度は別の事を試みる。
俺は──俺の名前は、水樹和也。十八歳で、東京都足立区で、母親と父親、三つ下の妹と四人で暮らしている。
大丈夫だ。ちゃんと覚えてる。
自分に関するデータがすらりと出てきた事に再度安堵しながら、更に記憶を手繰る。
高校三年で、来年には既に合格通知を貰ってる環境工学の大学に進学が決まっている。母さんと妹に報告した時は、二人が盛大にお祝いしてくれた。
あと、水樹って苗字が女みたいだから、小学生の時茶化されていたのも覚えてる。
覚えていなくていい記憶まであるが、記憶喪失でもない事が分かった。
次に俺は、ここに至るまでの経緯を思い出す事にした。
確か──クラス全員の進路が無事に決まったことから、思い出作りのために登山に来ていた。きちんと整備された山道を通るため、特に危険もなく無事頂上に辿り着いた。
集合写真や昼食を食べ終えた後、俺たちは名残惜しくも下山し始めた。
登りと同じ最初は何事もなく順調に下山出来ていた。
──が、そこでアクシデントが発生した。
下山の最中、突然の地震。突発的な地震であり、普通のに比べ長い時間揺れていたため、クラス全員が慌てふためいていた。
しばらく経った後、地震は収まった。だが、事態はそれだけでは終わらなかった。
地震のせいか、突如山崩れが発生。下山道に大量の岩石が、雨霰の如き勢いで降り注いできた。
全員近くの物陰に隠れ収まるのを待ち続けていた。
そして、俺が隠れている木に、重い物が衝突し──。
記憶は、そこで途切れている。
結局俺はその後どうなったんだ? 今の記憶の通りなら、俺は運悪く落石に巻き込まれ、崖から転落。そのまま亡くなったことになる。
だがこの通り、どこも異常なく起きている。
やや愕然としながら、俺は必死に記憶を引っ張り出そうとした。
だが、どこをどう押しても引いても出てこなかった。両眼をつぶり眉を寄せて、重苦しい灰色の空白を懸命に掘り返す。
「……駄目だ。全然思い出せない」
思考と一緒に吐き捨てるように言い、胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。そして今まで忘れていた喉の渇きを、強く意識する。
兎に角、今は分かってる事から整理しよう。自分に言い聞かせながら、現状についてゆっくりと纏め始めた。
俺はクラス全員で登山をし、転落した。だが何故か無傷で、どことも知れない森の中で独り寝していた。
とても信じられないが全て真実だ。にわかに信じ難いが。
一体何時間寝ていたんだろう? クラスのみんなは、救助隊を要請してくれたかな?
肌を撫でていく微風の心地よさに意識を傾けながら、能天気に考える。
両手を仔細に眺める。崖から転落したのに綺麗なままで、どこも怪我などしていない。右手人差し指の背に子供の頃作った傷痕を発見し、ほんの少し胸を撫で下ろす。
そこでようやく、俺は自分が妙な格好をしていることに気付いた。
今日着ていた軽装でも、学校の制服でも、いや手持ちの服のどれでもない。それどころか、どう見ても市販の既製服とは思えない。
上着は、黒く染められた、荒い木綿かもしかしたら麻の半袖シャツだ。布目は不規則で、ざらざらした感触。袖口の糸かがりも、ミシンではなく手縫いのようだ。襟はなく、V字に切られた胸元に茶色の紐が通されている。指先で摘んでみると、紐は繊維を編んだものではなく、細く切った革のように思える。
ズボンも上と同じ素材で、こちらは生成りと思しきクリーム色だった。ポケットの類はひとつもなく、腰に回された革製のベルトは、金属のバックルではなく細長い木のボタンで留められている。靴も同じく手縫いの革製で、厚い一枚革の靴底には滑り止めの鋲がいくつも打ってある。
等々理解が追い付かない領域にまで踏み込んでしまったことに、ここにきてようやく理解した。
崖から転落して無傷だったことは、百歩譲って納得出来る。落ちた先にたまたま林の群生があってクッションになったとか。
だが格好が変わっている所まで来たら、流石に冷静を装うのは不可能だ。
念の為、もう一度格好を見直す。
果てしなく異質だ。中世ヨーロッパ風の、言い換えればファンタジー風の、いわゆるチュニック、コットンパンツ、そしてレザーシューズ。
その考えに至った瞬間、脳裏に不安な単語が横切ろうとした。
「落ち着け俺……状況が分からない現状じゃ推測の域は出ない……」
混乱する自分をなだめるように言い聞かせ、考えを無理矢理中断する。
これ以上なけなしの知恵を絞っても、推測だけで終わってしまう。今はクラスメイトが呼んでいるであろう救助隊を待つ他ない。
でもその前に、そろそろ我慢しきれなくなってきた喉の渇きを潤したい。草地の真ん中に立ったまま、ぐるりと体を一回転させた。
転落と一緒に持ってきていた鞄も落ちていないかと期待したが、そう上手い話なんてない。いや、無傷で命に別状がないのだから、これ以上求めたらいけない。
そこで俺は、覚醒直後に聞き取った、遠くから聞こえる川の音を思い出した。その場で足を止め、聴覚に全神経を傾ける。
せせらぎの音がかすかに届いているのは、太陽の位置からして恐らく西だ。
本来遭難した時は動き回っては駄目だと聞くが、このままここに座っていたら、脱水症状で死亡してしまう。
それに人は水分なしじゃ三日も生き残れない。いつ来るのか分からない状況下なんだから、水場の確保は最低限必要だ。
自分の行動を正当化させるような言い訳を並べながら、心細さを蹴り飛ばす勢いで右足を踏み出す。ほんの十歩足らずで草地は終わり、まるで神社の鳥居のようにそびえる二本の古木を通り抜け、薄暗い森の奥へと歩を進める。
びろうどのような苔に分厚く覆われた森の底は、怪しい雰囲気を漂わせつつも神秘的な空間だった。遥か高みで生い茂る木の葉が陽光をほとんど遮ってしまい、地表まで届くのは金色の細い帯でしかない。
草地で舞っていた蝶に変わって、今度はトンボや蛾みたいな虫が奇妙な羽音を鳴らしながら宙を滑り、時折どこか遠くから謎の鳴き声が届いてくる。
二十分ほど歩いた頃、行く手にたっぷりと降り注ぐ日差しの行列が現れ、少なからず安堵した。もうかなり明瞭になりつつある水音からして、この先に川が流れているのは間違いなさそうだ。渇いた喉に急き立てられ、自然と足が速まる。
鬱蒼とした森から出ると、横幅四メートルの草むらを隔てて、陽光を銀色に跳ね返す水面が目に入った。
「み、水だ……」
情けない呻き声を出しながら最後の距離を踏破し、下草に覆われた川縁へと身を置く。
何という美しい流れだろうか。川幅は広くないが、緩やかに蛇行する水流は見事なまでの透明度だ。清澄極まる渓水を通して、川底の白砂がくっきりと見える。
本来生水には細菌が含まれているため、一度煮沸させ死滅させる熱消毒が必要だが、水晶を溶かしたかの如き透明度を見れば、誘惑に抗しきれず右手を川面に突っ込むしかない。氷水を思わせる冷たさに思わず絶句しながら、すくい取った液体を口に流し込む。
甘露。この生水にはその言葉が当てはまる。一切の不純物を感じさせず、ほのかに甘く爽やかな水は、ミネラルウォーターに金を払う気を無くすほどの美味さだった。富士の水よりも美味しいとさえ思えてくる水を、両手で立て続けに何度も掬い、終いには川の中に顔を突っ込み、ひたすらに貪る。
川から顔を上げ、水を振り払うためにかぶりを振る。生涯で一番の水の味わいに陶然となりながら、綺麗な川を無心で眺めた。
ここは本当に日本なのか──と思いたくなる現実が、目の前にある。こんな綺麗な川や、対岸にもずっと続いている幻想的な森が、日本に実在するとはとても思えない。
だいたい、自然は人が触れなければ触れないほど過酷な環境になるのではないだろうか? ここに来るまで数え切れない虫と遭遇したが、未だ一回も刺されていないのはどういうわけだ?
──俺は雑念を振り払って再度立ち上がった。
川は、緩やかなカーブを描きつつ北から南へと流れている。双方とも、巨樹の群に呑み込まれ、奥まで見通すことが出来ない。
水の綺麗さと冷たさ、川幅からして、水源はかなり近い。となれば、民家や村がもし存在するなら下流のほうが可能性は高い。
ボートでもあれば楽に下れるのに、と思いつつ、下流方向へと足を踏み出そうとした──、その時。
右足を踏み出す所で、歩みを止めた。理由は明白だ。
別に無理して下流に沿って歩く必要はない。水場は確保出来たし、ここで救助隊を待っていれば助かるかもしれないのだから、無駄に動いて体力を消耗する必要はない。
それに今のは、都合のいい妄想から来る結論だ。もし下流に沿って歩いて何も無かったら、無駄に体力を消耗しただけになる。最悪救助隊が来るのに一週間以上掛かるかもしれない状況で、限りある体力を無駄には出来ない。
だがしかし、それにも問題がある。体力のある内に出来る限りの行動をするのも理にかなっている。それに、もしかしたら本当に民家があるかもしれない。
行動に出るか、待機するか。数秒間の苦慮の果て、答えは決まった。
止めていた左足を踏み出し、下流に沿って歩み始める。
待ち続けるのも悪くないが、終わりの見えない待機は苦痛になる。体力だって無限じゃないんだ。いつ終わるかわからない時間を過ごすぐらいなら、体力がある内に出来る限りの行動を起こした方が良いに決まってる。
確固たる意志を胸に、俺は人里目指して、未知なる世界へと歩み始めた。
鼻腔に流れ込んでくる空気には、大量の情報が含まれている。甘い花の匂い。青々と生い茂る雑草の匂い。汚れた胸を浄化するように爽快な樹の匂い。乾燥で渇いた喉を刺激する水の匂い。
聴覚に意識を傾けると、圧倒的な音の洪水が押し寄せる。
無数に重なった葉擦れの音。陽気にさえずる小鳥の声。控えめに奏でられる虫の羽音。樹を突く啄木鳥の音。遠くからかすかに届く川の音。
このまま永遠に眠っていたい、という欲求を辛うじて押し退け、俺はようやく両眼を開けた。
揺れる無数の光がまっすぐ飛んできて、何度も瞬きを繰り返す。滲んだ涙を右手の甲でごしごし擦りながら、ゆっくり上体を起こす。
「……ここ……どこ……?」
思わず呟いた。
まず目に入ったのは、淡い緑色の草叢だった。所々に色鮮やかな花が群生し、それらの間を蝶が行ったり来たりしている。草の絨毯はほんの十メートルで途切れ、その向こうは、樹齢何年とも知れない節くれだった巨木が連なる深い森になっている。
幹の間の薄暗がりに眼を凝らすと、光が届く限界まで木立はどこまでも続いているように見える。ごつごつ波打つ樹皮や地面は分厚い苔で覆われ、差し込む陽光を受けて輝いている。
その場に立ち上がり、体ごと一回転してみたが、古木の幹は全ての方位で俺を出迎えた。俺はどうやら、森の中に開けた円形の広場で眠っていたらしい。
最後に頭上を仰ぐと、伸びる節くれだった梢の隙間に、積乱雲が漂う空を眺めることが出来た。
「……どこだ?……ここ」
もう一度、ぽつりと呟いた。が、答える声もなく、ただ虚しく声が森に響いた。
こんな所に来た記憶も昼寝をした覚えも、記憶の隅々まで模索しても出てこない。記憶喪失、夢遊病、明晰夢、脳裏を横切る物騒な単語を、慌てて打ち消す。
夢でない事を明らかにするために、右頬を軽くつねる。
痛い。普通にヒリヒリする。つまりこれは夢ではなく、現実だという事だ。
その事実に少しだけ安堵しながら、今度は別の事を試みる。
俺は──俺の名前は、水樹和也。十八歳で、東京都足立区で、母親と父親、三つ下の妹と四人で暮らしている。
大丈夫だ。ちゃんと覚えてる。
自分に関するデータがすらりと出てきた事に再度安堵しながら、更に記憶を手繰る。
高校三年で、来年には既に合格通知を貰ってる環境工学の大学に進学が決まっている。母さんと妹に報告した時は、二人が盛大にお祝いしてくれた。
あと、水樹って苗字が女みたいだから、小学生の時茶化されていたのも覚えてる。
覚えていなくていい記憶まであるが、記憶喪失でもない事が分かった。
次に俺は、ここに至るまでの経緯を思い出す事にした。
確か──クラス全員の進路が無事に決まったことから、思い出作りのために登山に来ていた。きちんと整備された山道を通るため、特に危険もなく無事頂上に辿り着いた。
集合写真や昼食を食べ終えた後、俺たちは名残惜しくも下山し始めた。
登りと同じ最初は何事もなく順調に下山出来ていた。
──が、そこでアクシデントが発生した。
下山の最中、突然の地震。突発的な地震であり、普通のに比べ長い時間揺れていたため、クラス全員が慌てふためいていた。
しばらく経った後、地震は収まった。だが、事態はそれだけでは終わらなかった。
地震のせいか、突如山崩れが発生。下山道に大量の岩石が、雨霰の如き勢いで降り注いできた。
全員近くの物陰に隠れ収まるのを待ち続けていた。
そして、俺が隠れている木に、重い物が衝突し──。
記憶は、そこで途切れている。
結局俺はその後どうなったんだ? 今の記憶の通りなら、俺は運悪く落石に巻き込まれ、崖から転落。そのまま亡くなったことになる。
だがこの通り、どこも異常なく起きている。
やや愕然としながら、俺は必死に記憶を引っ張り出そうとした。
だが、どこをどう押しても引いても出てこなかった。両眼をつぶり眉を寄せて、重苦しい灰色の空白を懸命に掘り返す。
「……駄目だ。全然思い出せない」
思考と一緒に吐き捨てるように言い、胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。そして今まで忘れていた喉の渇きを、強く意識する。
兎に角、今は分かってる事から整理しよう。自分に言い聞かせながら、現状についてゆっくりと纏め始めた。
俺はクラス全員で登山をし、転落した。だが何故か無傷で、どことも知れない森の中で独り寝していた。
とても信じられないが全て真実だ。にわかに信じ難いが。
一体何時間寝ていたんだろう? クラスのみんなは、救助隊を要請してくれたかな?
肌を撫でていく微風の心地よさに意識を傾けながら、能天気に考える。
両手を仔細に眺める。崖から転落したのに綺麗なままで、どこも怪我などしていない。右手人差し指の背に子供の頃作った傷痕を発見し、ほんの少し胸を撫で下ろす。
そこでようやく、俺は自分が妙な格好をしていることに気付いた。
今日着ていた軽装でも、学校の制服でも、いや手持ちの服のどれでもない。それどころか、どう見ても市販の既製服とは思えない。
上着は、黒く染められた、荒い木綿かもしかしたら麻の半袖シャツだ。布目は不規則で、ざらざらした感触。袖口の糸かがりも、ミシンではなく手縫いのようだ。襟はなく、V字に切られた胸元に茶色の紐が通されている。指先で摘んでみると、紐は繊維を編んだものではなく、細く切った革のように思える。
ズボンも上と同じ素材で、こちらは生成りと思しきクリーム色だった。ポケットの類はひとつもなく、腰に回された革製のベルトは、金属のバックルではなく細長い木のボタンで留められている。靴も同じく手縫いの革製で、厚い一枚革の靴底には滑り止めの鋲がいくつも打ってある。
等々理解が追い付かない領域にまで踏み込んでしまったことに、ここにきてようやく理解した。
崖から転落して無傷だったことは、百歩譲って納得出来る。落ちた先にたまたま林の群生があってクッションになったとか。
だが格好が変わっている所まで来たら、流石に冷静を装うのは不可能だ。
念の為、もう一度格好を見直す。
果てしなく異質だ。中世ヨーロッパ風の、言い換えればファンタジー風の、いわゆるチュニック、コットンパンツ、そしてレザーシューズ。
その考えに至った瞬間、脳裏に不安な単語が横切ろうとした。
「落ち着け俺……状況が分からない現状じゃ推測の域は出ない……」
混乱する自分をなだめるように言い聞かせ、考えを無理矢理中断する。
これ以上なけなしの知恵を絞っても、推測だけで終わってしまう。今はクラスメイトが呼んでいるであろう救助隊を待つ他ない。
でもその前に、そろそろ我慢しきれなくなってきた喉の渇きを潤したい。草地の真ん中に立ったまま、ぐるりと体を一回転させた。
転落と一緒に持ってきていた鞄も落ちていないかと期待したが、そう上手い話なんてない。いや、無傷で命に別状がないのだから、これ以上求めたらいけない。
そこで俺は、覚醒直後に聞き取った、遠くから聞こえる川の音を思い出した。その場で足を止め、聴覚に全神経を傾ける。
せせらぎの音がかすかに届いているのは、太陽の位置からして恐らく西だ。
本来遭難した時は動き回っては駄目だと聞くが、このままここに座っていたら、脱水症状で死亡してしまう。
それに人は水分なしじゃ三日も生き残れない。いつ来るのか分からない状況下なんだから、水場の確保は最低限必要だ。
自分の行動を正当化させるような言い訳を並べながら、心細さを蹴り飛ばす勢いで右足を踏み出す。ほんの十歩足らずで草地は終わり、まるで神社の鳥居のようにそびえる二本の古木を通り抜け、薄暗い森の奥へと歩を進める。
びろうどのような苔に分厚く覆われた森の底は、怪しい雰囲気を漂わせつつも神秘的な空間だった。遥か高みで生い茂る木の葉が陽光をほとんど遮ってしまい、地表まで届くのは金色の細い帯でしかない。
草地で舞っていた蝶に変わって、今度はトンボや蛾みたいな虫が奇妙な羽音を鳴らしながら宙を滑り、時折どこか遠くから謎の鳴き声が届いてくる。
二十分ほど歩いた頃、行く手にたっぷりと降り注ぐ日差しの行列が現れ、少なからず安堵した。もうかなり明瞭になりつつある水音からして、この先に川が流れているのは間違いなさそうだ。渇いた喉に急き立てられ、自然と足が速まる。
鬱蒼とした森から出ると、横幅四メートルの草むらを隔てて、陽光を銀色に跳ね返す水面が目に入った。
「み、水だ……」
情けない呻き声を出しながら最後の距離を踏破し、下草に覆われた川縁へと身を置く。
何という美しい流れだろうか。川幅は広くないが、緩やかに蛇行する水流は見事なまでの透明度だ。清澄極まる渓水を通して、川底の白砂がくっきりと見える。
本来生水には細菌が含まれているため、一度煮沸させ死滅させる熱消毒が必要だが、水晶を溶かしたかの如き透明度を見れば、誘惑に抗しきれず右手を川面に突っ込むしかない。氷水を思わせる冷たさに思わず絶句しながら、すくい取った液体を口に流し込む。
甘露。この生水にはその言葉が当てはまる。一切の不純物を感じさせず、ほのかに甘く爽やかな水は、ミネラルウォーターに金を払う気を無くすほどの美味さだった。富士の水よりも美味しいとさえ思えてくる水を、両手で立て続けに何度も掬い、終いには川の中に顔を突っ込み、ひたすらに貪る。
川から顔を上げ、水を振り払うためにかぶりを振る。生涯で一番の水の味わいに陶然となりながら、綺麗な川を無心で眺めた。
ここは本当に日本なのか──と思いたくなる現実が、目の前にある。こんな綺麗な川や、対岸にもずっと続いている幻想的な森が、日本に実在するとはとても思えない。
だいたい、自然は人が触れなければ触れないほど過酷な環境になるのではないだろうか? ここに来るまで数え切れない虫と遭遇したが、未だ一回も刺されていないのはどういうわけだ?
──俺は雑念を振り払って再度立ち上がった。
川は、緩やかなカーブを描きつつ北から南へと流れている。双方とも、巨樹の群に呑み込まれ、奥まで見通すことが出来ない。
水の綺麗さと冷たさ、川幅からして、水源はかなり近い。となれば、民家や村がもし存在するなら下流のほうが可能性は高い。
ボートでもあれば楽に下れるのに、と思いつつ、下流方向へと足を踏み出そうとした──、その時。
右足を踏み出す所で、歩みを止めた。理由は明白だ。
別に無理して下流に沿って歩く必要はない。水場は確保出来たし、ここで救助隊を待っていれば助かるかもしれないのだから、無駄に動いて体力を消耗する必要はない。
それに今のは、都合のいい妄想から来る結論だ。もし下流に沿って歩いて何も無かったら、無駄に体力を消耗しただけになる。最悪救助隊が来るのに一週間以上掛かるかもしれない状況で、限りある体力を無駄には出来ない。
だがしかし、それにも問題がある。体力のある内に出来る限りの行動をするのも理にかなっている。それに、もしかしたら本当に民家があるかもしれない。
行動に出るか、待機するか。数秒間の苦慮の果て、答えは決まった。
止めていた左足を踏み出し、下流に沿って歩み始める。
待ち続けるのも悪くないが、終わりの見えない待機は苦痛になる。体力だって無限じゃないんだ。いつ終わるかわからない時間を過ごすぐらいなら、体力がある内に出来る限りの行動を起こした方が良いに決まってる。
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