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第二部・二章 誇り高き竜
第九話
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暗黒騎士見習いジン・リスデールは、飛竜の動きが止まる前にその背から飛び降りると、発着台と帝宮を繋ぐ空中回廊を全力で走り始めた。
すぐに息苦しさを感じ、右手で顔まで覆う兜を引き剥がす。
ばさっ、と広がった黒色の長い髪を、左手でまとめて背中に戻し、ジンは更に速度を上げた。重く窮屈な鎧とマントも脱ぎ捨ててしまいたいが、帝宮にはびこる執政官どもに叱られる気がするのでやめた。
湾曲する回廊を駆け抜けると、右手に立ち並ぶ円柱の隙間から、赤い空を切り裂いて黒々とそびえる居城が姿を現した。
帝宮バルビエル城は、魔界で最も高い──もちろん、忌々しい《分断の壁》を除いて、だが──山を何百年かけて掘り抜き、築かれた城だ。
初代皇帝・バルビエルの銘が付いた城は、最上階の玉座の間から、地平線にうっすらと浮かぶ分断の壁がかすかに望めるという。
しかし、その言い伝えの真偽を知る者は一人もいない。
バルビエル城の玉座は、初代皇帝であるバルビエルと、天界から追放されし邪教神が、太古の昔に地の底の暗闇に去って以降空位なのだ。最上階の大扉は《暗黒鉄石》以上の硬度を持つ謎の鎖によって封印され、永遠に開くことはない。
ジンは、漆黒の城の最上部から視線を引き剥がすと、目前に迫った城門を守る亜人族の衛兵に呼びかけた。
「暗黒騎士団補佐団員、ジン・リスデールだ! 開門せよ!」
亜人である衛兵たちは少々頭の回転が鈍く、ジンが鋳鉄の門に達する寸前になってようやく開閉装置の把手を回し始めた。
ゴ、ゴン、と重苦しい音を響かせながらわずかに開いた門の隙間を、体を横にしてすり抜ける。
半年ぶりの城は、以前と変わらぬ冷え冷えとした空気でジンを迎えた。
下働きのゴブリンが毎日愚直に磨き上げる廊下には塵ひとつ落ちていない。黒曜石の敷板を靴底でカンカン鳴らして走っていると、前方から肌も露わな衣装に身を包んだ妖艶な女二人が、足音一つ立てずに滑るが如く歩いてくるのが見えた。
艶やかに波打つ髪に腰につけた黒い長剣が、彼女らが暗黒騎士の同志であることを示している。眼を合わせずにすれ違おうとした時、女の片方がきんきん響く声でわざとらしく言った。
「なぁに、今のガサツな地響き! 廊下を何者かが走ってるのかしら!」
すぐさま、もう一方が甲高く笑いながら言い返す。
「仕方ないわよ! だって男なんだもの!」
──融和関係がなければ、首を切り飛ばしてやるものを。
と思いつつ、ジンは鼻を鳴らしただけで一気に駆け抜けた。
魔界に生まれる人族の女は、訓練学校を卒業したのちはほとんどが所帯を持つ。このような世界でも己の幸せを守ることために戦う女には、尊敬の念を禁じ得ない。
それでいて、騎士となる道を選んだ女はやたらと男に敵対心を燃やしている。特に、暗黒騎士団に所属する者に。結婚出来ない独身女性は下らない理由で男子を忌み嫌い、我々よりも優っていることを証明したいがためだけに女性専用暗黒騎士団を立ち上げた始末だ。
女性専用の騎士団は我ら暗黒騎士団同等の実力と権力を持っており、以前に一度だけ、どちらが本当の強者か決めるための決戦が行われた。結果は男性陣の勝利で終わり、男性側の団長が女性側の団長に融和関係を申し立て、下らない争いは終止符を打った。
とはいえ、女性が男性を見る目は変わらず、今のように野次を飛ばしてくる者がほとんどだ。
所詮、この国の連中は、先を見ずに今しか見ない馬鹿者どもばかりだ。
組織が、そして個人が常にいがみ合い、力で優劣を決めることしか知らない魔界には未来がない。
現実でこそ、《五種会議》のもとに危うい均衡が保たれているが、それも長続きしない。目前にせまった人界との戦争で五種族の誰かが命を落とせば均衡は崩れ、再び血で血を洗う戦乱の世がやってくる。
その未来図をジンに語ったのは、五種族の一人であり、直属の上官たる暗黒騎士団の長であり、また師匠でもある男だった。
そしていまジンは、彼が待ち望んだ機密情報を胸のうちに携えているのだ。
となれば、女騎士どもの戯言にかかずらわっている暇など一秒たりともない。
無人の広間を一直線に横切り、大階段を二段飛ばしでひたすら駆け上る。鍛え上げた体ではあるが、さすがに息が切れてきた頃、ようやく目指す階に辿り着く。
魔界全土を合議によって支配する《五種会議》は、亜人族・人族が二席ずつ、残る一席をデーモン族によって占められている。何百年にもわたる内乱を経てようやく条約らしきものが結ばれ、五族の間に上下はないという約定が取り交わされた結果だ。
ゆえに、バルビエル城の最上階にほど近い九階に、五人の諸侯それぞれの私室が設けられている。足音を殺しながら回廊を走り抜けたジンは、奥まった一室の扉を右手の甲で三度叩いた。
「入れ」
すぐに、低い声でいらえがある。
廊下の左右を見やり、人目がないことを確認してから、ジンは素早く扉の中に滑り込んだ。
装飾を最低限に抑えた部屋に漂う男っぽい匂いを懐かしく思いながら、床に片膝をつき、頭を垂れる。
「暗黒騎士団補佐団員ジン・リスデール、ただいま長期の遠征任務から帰参仕りました」
「ご苦労。まあ、座れ」
久方の師匠の声を噛みしめながら、視線を上げる。
丸テーブルを挟んで置かれた寝椅子の片方にどっかりと腰掛け、高々と足を組む男こそが、暗黒騎士団の長──別名《漆黒の雷将》のラギルス・テン・ウルムだ。
人族としては図抜けた体軀。鎧なしとは思えない巨体は、オーガ族にも引けは取らない。赤々とした髪を短く刈り込み、口許の髭もきれいに整えられている。
簡素な麻のシャツは、ボタンを弾き飛ばしそうなほどに逞しい筋肉を包んで盛り上がり、しかし腰回りには余計な肉のひとつまみもない。四十歳を超えているとはとても思えない完璧な肉体が、騎士の最高位に上り詰めても欠かすことのない、凄まじいまでの日々の鍛錬によって保たれていることを知る者は、我が暗黒騎士団以外に少ない。
半年ぶりに目にする師匠の姿を目に焼き付けながら、ジンはラギルスの向かいのソファに座った。
上体を起こしたラギルスは、卓上に二つ用意されていた水晶杯の片方をジンに持たせると、年代物らしきワインの封を切った。
「長い任務の労い品だ。長期に渡る遠征任務の無事を祝おうじゃないか」
片目をつぶりながら、香り高い深紅色の液体をグラスに注ぐ。そういう表情をするとどこか悪戯っ子めくところも、昔とまったく変わらない。
「ありがとうございます、団長」
「今は二人だけなのだ。いつも通り、師匠で構わん」
「いえ。まだ報告が終わっていないので、一応は任務中です」
やれやれと肩をすくめるから控えめにグラスを打ち合わせ、芳醇なワインを一息に呷ると、長旅で疲弊した精神がじわりと回復するのを感じる。
「……それで、だ」
自分も杯を干し、表情を改めた団長は、少しばかり低めた声で聞いた。
「遠征任務での報告を聞かせてもらおうか」
「は……」
ジンはつい視線を左右に走らせてから、体を乗り出した。ラギルスは豪放磊落な男だが同時に細心でもある。この部屋には防御術が幾重にも張り巡らされ、たとえデーモン族の長たるあの《死星》であろうとも盗み聞きはできないはずだ。しかし、そうは解っていても、己の携えた情報の重大さを思えば囁き声にならざるを得ない。
「人界に侵入したザルザード副隊長が……死にました」
途端、さしもの漆黒の雷将もカッと両眼を見開いた。
静寂を、ふううーっという太いため息が破る。
「それは本当か……などと訊くのは、お前に対する侮辱だな。疑いはせんが……まさかザルザードほどの実力者が……」
「直接目にしたわけではありませんが、ザルザード殿は撤退時間までに戻らなかったことから、死亡扱いとなりました」
「ならば、本当に死亡したとは決まっていないのだな?」
「いえ……ザルザード殿は倒されました。天界の騎士と、謎の少年の手によって」
「……うむ……またもや天界の騎士か」
二杯目のワインをちびりと舐め、ラギルスは剛気な顔を俯かせた。
「府に落ちぬな。騎士一人にザルザードが倒されるとは到底思えない。となれば、敗因と死因はもう一人の少年の関与か……ジン。その少年の特徴を頼む」
「はい。自分目も脅威と感じたので、詳しく観察しました。まず、少年は騎士ではない可能性が高いです。片腕に鎖が繋がっていたので、多分脱獄した瞬間にザルザードに襲われ、騎士と共闘して倒したのでしょう。次に、少年の髪色は、自分と同じ黒色でした」
「……黒色。まさか……あやつか?」
「心当たりが?」
「一年前、マガツヒを利用しアースリアを襲撃したさい、私に挑んだ一人の勇敢な戦士である男の髪色も黒だったのだ」
「人界での黒髪はそう多くありません。同一人物という可能性は充分にあり得ます」
「うむ……ま、今はそんなことはどうでも良い。しかし……死んだか、デーモン部隊副隊長たるザルザードが……」
ラギルスは瞑目し、両腕を組むと、上体を背もたれに預けた。
そのまま長いこと黙考していたが、やがて、短い言葉とともに勢いよく瞼を開いた。
「好機だ」
ジンは一瞬息を詰めてから、掠れた声で訊ねた。
「何が、ですか」
答えは即座に返った。
「無論……他の将を討ち倒すな」
この城で口に出すには危険すぎる言葉は、部屋の空気に即座に溶け、消えた。
「それが可能だと……お考えなのですか、団長」
囁くように問うたジンに対し、ラギルスは視線をグラスの中の赤い液体に据えながら、ゆっくりと、しかし深く頷いた。
ぐいっとワインを干し、続ける。
「我等の戦力は魔界に於いて二番目であり、一番はデーモン族であった。だが副隊長であるザルザードの死亡となれば、戦力は大きく劣化している。その隙にデーモン族を葬り我等が最強と世に知らしめることが出来れば、魔界は二度と内乱は起こらないだろう。我々魔界の民はもう、同じ領域に住む同士で争ってはいけないのだ」
「……団長」
「ジンよ。我は誓うぞ。魔界で最高権力者に成り上がり、全ての民に伝えてみせる。世界は争いだけで回るものではないと」
本来なら口にすること自体が危うい台詞を、ラギルスは平然と言った。それほどまでに、ラギルスはその願いに必死なのだ。
魔界の民は長年による内乱によって、戦力は跳ね上がりはした。だが人口が圧倒的に少なく、過疎化が深刻になりつつある。
このままでは魔界に未来はない。ラギルスは現状を打破するために、力による優劣を廃止するつもりでいる。
いくら邪教神に闘争本能を植え付けられていたとしても、団長は違う。団長は、魔界の民全員により良い未来を進んで欲しいのだ。そのためなら、いかなる犠牲を厭わない覚悟を持っている。
「……ジンよ」
「は、はい!」
不意に呼ばれ、声を上げながら返事する。
するとラギルスはなぜか、孫を見るような目でジンを見つめ、言った。
「……もう三年も経つのか。お前を弟子にしてから」
「そうですね。早いものですよ……時間というものは」
俺は三年前、デーモン族の実験で記憶を失ってしまい、以後ラギルスが身を引き取った。何故団長が俺を引き取ったのかまでは知らない。
親の顔も知らなければ子供の頃の記憶もない俺にとって、ラギルスや他の団員と一緒にいる時間はとても幸せなものだった。
父のように尊敬する団長の言葉を待っていると、
「……ジン。お前が良ければだが、私の養子になる気はないか」
と、宣言してきた。
突然の告白に、ジンは一瞬押し黙る。
「私はお前と接触していくうちに、人にとって大切なものを取り戻すことが出来た。だから今のような目標が出来たのだ。その感謝もこめて、私の養子にならないか」
突然すぎる告白に唖然としたジンは、丁重にお断りしようと口を開いた瞬間──。
城全体を大きく揺らすほどの地震が発生。その揺れは地震とは違い、バルビエル城以外は揺れていなかった。
長時間続いた揺れが終わると次に、一つ上の階で大きな物音が鳴った。
「……ジン。お前はここで待機。我が確認してくる」
「了解です。お気をつけて、ラギルス団長」
ジンの言葉に頷きながら肯定すると、扉前に置いてある剣と鎧を身に纏わせ、最上階の玉座の間へ駆け上っていった。
邪教神の全貌を知っている者は、今の魔界には誰一人いない。過去の大戦時に多くの者は戦死、もしくは寿命での死を迎えたために、我らが神・邪教神の本当の姿を知っている者はいない。皆が知っているのは、邪教神に似せて造られた石像での姿のみであり、それが本当に本人なのかさえ解らない。
ゆえに我等は、長年の封印が解かれた玉座の間に降り立った存在に、疑惑を持っている。
十分前、バルビエル城にのみ起きた地震の後、一つ上の階、玉座の間から物音が鳴り響いた。それを聞いた暗黒騎士団団長のラギルスは、物音の正体を確認するために廊下へ飛び出そうとした時。
分厚い扉の向こうで、引きつったような甲高い声が響いた。
「一大事!! 一大事です!!」
かすかに聞き覚えのあるその声は、五種会議に席を置く女騎士団の副団長のものか。
女騎士団の団長とは最低限の友好関係を築いてはいるが、任務以外の会話を互いにしようとはしない。それは他の団員も例外ではなく、特に副団長は団長に執心のため、我のことを嫌っている。
話をかけずに聞き耳だけ立てていると、裏返った悲鳴が、なおも続いた。
「一大事ですよ!! ──ぎっ、玉座の間の! 封印の鎖が! 切断されています!」
そして各部屋で待機していた五種族の長全員が玉座の間に赴き、そこに立つ者を目にした。
黒に近い赤髪に、額には黒い金属に深紅の宝石を嵌め込んだ宝冠が飾られ、漆黒の豪奢な毛皮のガウンをまとっている。腰には朧な燐光を放つ細身の長剣がぶら下がり、ブーツと手袋には精緻な銀糸の刺繍が施されている。さらに背中には、血の色に染められた長いマントに、二翼の翼。
そこにいる者全員が、脳の奥で直感した。
この者こそが、邪教神様だと。
我等魔界の民に闘争本能を植え付け、常に血と殺戮を求める存在に変えた、天界から追放されし堕天の神。あらゆる物質を負の因子で消滅させようとする、世界から拒絶された存在なのだと、全員が一瞬で直感した。
最初に動いたのは、ラギルスだった。邪教神の足元にひざまずき頭を垂れる。
暗黒騎士団にとって、邪教神は忠誠を誓いし主君であり、広大な魔界を統べる皇帝。
そして、神なのだ。
ラギルスは両眼を閉じると、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
この者が本当に邪教神様なのだとしたら、状況は最悪だ。
今まさに五種会議の頂点を目指そうとした矢先に、絶対的な存在が君臨してしまっては、我が暗黒騎士団が最高権力を得られない。そうなれば魔界は現状の内乱状態を維持したままだ。それでは、魔界には未来はない。
今は頭を下げているが、最悪この者を斬らねばならない。魔界の未来のためにも、そこに暮らす民のためにも、再度災いが及ぶ前に、この者を。
邪教神に斬撃が有効なのかは定かではない。例え有効だとしても、仕留め切れるかは解らない。
そして、暗黒騎士団団長が斬撃を放った後は死ぬだろう。だが、志はあとに続く者たちに引き継がれるはずだ。
──ジンよ、我の死地はここかもしれん。だが忘れるな。我は常にお前たち団員を見守っていることを。
団長の後任候補であるジンに思念を送り、ラギルスはゆっくりと息を吸い、溜めた。
腰から外し、床に置いた愛剣に、そっと左手の指先を触れさせる。
玉座まではおよそ三メートル。踏み込み抜きで届く距離だ。
初動を悟られてはならない。抜くときは無想たるべし。
限界まで研ぎ澄まされた精神を力に、左手全体に意識を集中させる。そして体を空にする。
左手が、剣の鞘を摑み上げる────
その寸前。
深紅のマントをばさりと翻して振り向いた邪教神が、五人の将軍たちを睥睨しながら、人間味の欠片も残されていない声を玉座の間に響かせた。
「顔を上げ、名乗るがいい。──そちらの端の、お前からだ」
絶好の機を逃してしまった。背を向ける邪教神が真正面を向いてしまっては、剣で斬ることが出来ない。
人生で最大級の失敗を悔やむと、突然、ぐるるるっ! という唸り声が轟いた。
発生源は、人間離れした体軀の亜人種だった。上半身は、ほぼ全体が長い毛皮に包まれている。衣装ではなく地毛らしいと解ったのは、頭部が完璧に獣のそれだと知ってからだ。
狼によく似ている。突き出た鼻筋と、のこぎりのように並んだ牙、そして三角の耳。人界に存在する獣人族よりも獣に近い存在は、長い舌が垂れる口から、聞き取りにくい声が漏れ出した。
「ぐるる……オーガ族の長……エガリル……るるる……」
それが仲間なのか、最初は判断出来なかったが、エガリルはかなりの実力者だ。
隣に立ったエガリルは、ラギルスと同じように片膝立ちになり頭を垂れた。
途端、キイキイと耳障りな声が鳴り響いた。
「ゴブリン族の長、ナルガウンにござりまする! 陛下、是非とも我が種族に一番槍の栄誉をお与えください!」
猿に似た禿頭の両脇から細長い耳を伸ばす、小柄な亜人種。背丈は五種族の中で一番小さいが、数が異常に多い。繁殖力も立派な力であるため、五種会議に席を置いている。
「女性専用暗黒騎士団団長、フロリダ・テン・ナーチスと申します。我が団の全戦力は全て陛下のものです」
艶やかな声とともに名乗ったのは、肌も露わな衣装に体を包んだ若い女騎士だった。
ゆるりと並び立った女は、豊満な肢体と妖艶な美貌を誇示するように腰を反らせてから、気取った仕草で一礼した。
雪のように白い肌を、黒の鎧が申し訳程度に隠している。ブーツは、針のようなピンヒール。背中には巧者な茶色の髪が腰下まで流れる。
ラギルスの反対側で片膝を突くと、こちらに敵対心の宿った瞳を向けながら頭を垂れた。やはりこの者は、我を根本的に嫌っている。
「デーモン族の長……ボルザック……」
耳障りな掠れ声を発したのは、事実上で魔界を裏から支配しているデーモン族の長・ボルザックだ。幾つもの禁忌魔術を副作用無しで詠唱するほどの頭脳を持っており、闇魔術の扱いで右に出る者がいない。
そして何より、本人の不気味な思想が何よりも特徴的だ。五種会議に於いても一度も出席せず、いつも副団長のザルザードに一任している。
ボルザックは常に自室の研究室にこもっており、マガツヒの完成に没頭している。生物を魔術で創造すること自体が禁忌とされているにも関わらず、本人はそれを辞めようとせずに、人界から攫った人族を素材にした儀式を行なっている。
最後に、錆びたバリトンをした声で発した。
「暗黒騎士団団長、ラギルス・テン・ウルム。我が剣を捧げる前に……邪教神様に問いたい」
仰向けられた顔を上げ物申すと、ラギルスがかつて出会った数少ない《本物の戦士》たちよりも劣るほどの覇気を纏っていた。だというのに、ラギルスは怯えていた。
怯えの正体は、神の放つ覇気に含まれた、ドス黒いナニか。
これが理を逸脱した、堕天の神。両眼の輝きは薄く濁っており、生きているにも関わらず死んでいるような眼をしている。それどころか、まるで生物の命自体に興味を持たない、自らの命にすら興味を持たない虚無を司っている。
なにより、瞳の奥に続く闇が見えない。あらゆる光を吸収し、二度と戻れなくなりそうなほどの深さを思わせる瞳を見詰めていると、自らの胸中にある不安が強くなってくる。
──自分は、何故生きているのか。
不意に、自分に問うた。
そう思うほどに、奴の瞳は生きようとする意志を奪っているのだ。
これが……世界そのものに拒絶された神。あらゆる事象をマイナス因子で相殺し、無に変える存在。
暗黒騎士団団長は、正体不明のナニかに生命力が吸われるような感覚を、己が信ずる信念を成し遂げるための意思力で跳ね除け、焦燥を見せずに低い声で続けた。
「いまこの時に玉座に戻った皇帝の望みは、奈辺にありや」
この質問への返答次第で、邪教神は斬るべき対象となるか決まる。
邪教神は一瞬の沈黙の後に、無慈悲な答えを冷ややかに答えた。
「血と殺戮。恐怖と悲鳴。死と絶望。それらを求めるために、我は蘇った」
邪教神の、切削された金属のように硬質な声が流れた途端、将軍たちの表情がさっと引き締まった。
五人の顔を順番に見やってから、邪教神は毛皮のマントを翻し、右腕を高々と分断の壁へかざした。
「古の大戦時、我が妹・ヒヅキが支配する人界を、今度こそ我等の領土とするために、我は長年の封印から目覚め蘇った! 我が威光を愚かな人界に知らしめるために!」
玉座から立ち上がると、なおも続けた。
「人界と魔界を隔てる忌まわしき壁は、長年の月日と共に廃れてきている! 壁が崩れた時こそ、人界は我ら魔界の民のものとなるのだ! 我が欲するのはただ一つ、人界を支配するヒヅキの首ただ一つ! それ以外の民どもは望むままに殺し、奪うことを許そう! 古の大戦の報復を待ち望んだ、全ての魔界の民が望んだ約束の時だ!」
しん、と静まり返った空気を──。
甲高い野蛮な雄叫びが破った。
「ギィィィィッ!! 人族の連中、みんな殺すウウウウゥッ!!」
両足をジタバタさせながら喚いたのは、小さい眼に欲望と鬱憤を滾らせたゴブリン族の長だった。すぐに、オーガ族の長たちが口を開けて追随する。
「殺すッ!! 人界に逃げた愚か者の同志を殺すッ!!」
巨大な広間に満ち満ちた、プリミティブな蛮声のまっただ中にあって──。
ラギルスだけが跪き俯いた姿勢のまま、身動きひとつしないことに、ナーチスは気付いた。
それが、団長らしい抑制のたまものなのか、あるいは何らかの感情に起因するものなのかは、彫像のような鎧姿からは判断できなかった。
鬨の声が鳴り止み玉座の間が静寂に包まれると、邪教神の冷え切った声が再度響いた。
「だが人界には面倒な存在、守護竜が四体存在する。古の大戦に於いて、奴等の関与によって我等は敗退した」
確かに、四体の守護竜がいる限り、人界制圧は苦難だ。幾らかの犠牲を払えば倒せるかもしれないが、その後に天界の騎士との戦闘を考えると絶望的だ。
「しかし喜べ。今の守護竜たちに過去のような力はない。人界も長年の堕落した時間の中、守護竜の個体数が著しく減少している」
降臨して初めて感情的な声を出した邪教神は、顔をボルザック、ナーチス、ラギルスと順番に向けてから指示した。
「お主ら三人にはこれより、人界に兵を連れて侵入。それぞれ三体の守護竜を根絶やしにしてこい」
突然の命令に、ラギルスは──
「了解であります!」
「……よかろう」
「……承知しました」
拒否をしなかった。この場で拒否すれば、部下たちの立場が危うくなってしまう。この場は邪教神に忠実になったフリをし、気を伺うしかない。
「我は残った竜を仕留める。お主らの働きに期待するぞ」
そして、時は動き出す。魔界と人界、両界の大戦への時間が──。
すぐに息苦しさを感じ、右手で顔まで覆う兜を引き剥がす。
ばさっ、と広がった黒色の長い髪を、左手でまとめて背中に戻し、ジンは更に速度を上げた。重く窮屈な鎧とマントも脱ぎ捨ててしまいたいが、帝宮にはびこる執政官どもに叱られる気がするのでやめた。
湾曲する回廊を駆け抜けると、右手に立ち並ぶ円柱の隙間から、赤い空を切り裂いて黒々とそびえる居城が姿を現した。
帝宮バルビエル城は、魔界で最も高い──もちろん、忌々しい《分断の壁》を除いて、だが──山を何百年かけて掘り抜き、築かれた城だ。
初代皇帝・バルビエルの銘が付いた城は、最上階の玉座の間から、地平線にうっすらと浮かぶ分断の壁がかすかに望めるという。
しかし、その言い伝えの真偽を知る者は一人もいない。
バルビエル城の玉座は、初代皇帝であるバルビエルと、天界から追放されし邪教神が、太古の昔に地の底の暗闇に去って以降空位なのだ。最上階の大扉は《暗黒鉄石》以上の硬度を持つ謎の鎖によって封印され、永遠に開くことはない。
ジンは、漆黒の城の最上部から視線を引き剥がすと、目前に迫った城門を守る亜人族の衛兵に呼びかけた。
「暗黒騎士団補佐団員、ジン・リスデールだ! 開門せよ!」
亜人である衛兵たちは少々頭の回転が鈍く、ジンが鋳鉄の門に達する寸前になってようやく開閉装置の把手を回し始めた。
ゴ、ゴン、と重苦しい音を響かせながらわずかに開いた門の隙間を、体を横にしてすり抜ける。
半年ぶりの城は、以前と変わらぬ冷え冷えとした空気でジンを迎えた。
下働きのゴブリンが毎日愚直に磨き上げる廊下には塵ひとつ落ちていない。黒曜石の敷板を靴底でカンカン鳴らして走っていると、前方から肌も露わな衣装に身を包んだ妖艶な女二人が、足音一つ立てずに滑るが如く歩いてくるのが見えた。
艶やかに波打つ髪に腰につけた黒い長剣が、彼女らが暗黒騎士の同志であることを示している。眼を合わせずにすれ違おうとした時、女の片方がきんきん響く声でわざとらしく言った。
「なぁに、今のガサツな地響き! 廊下を何者かが走ってるのかしら!」
すぐさま、もう一方が甲高く笑いながら言い返す。
「仕方ないわよ! だって男なんだもの!」
──融和関係がなければ、首を切り飛ばしてやるものを。
と思いつつ、ジンは鼻を鳴らしただけで一気に駆け抜けた。
魔界に生まれる人族の女は、訓練学校を卒業したのちはほとんどが所帯を持つ。このような世界でも己の幸せを守ることために戦う女には、尊敬の念を禁じ得ない。
それでいて、騎士となる道を選んだ女はやたらと男に敵対心を燃やしている。特に、暗黒騎士団に所属する者に。結婚出来ない独身女性は下らない理由で男子を忌み嫌い、我々よりも優っていることを証明したいがためだけに女性専用暗黒騎士団を立ち上げた始末だ。
女性専用の騎士団は我ら暗黒騎士団同等の実力と権力を持っており、以前に一度だけ、どちらが本当の強者か決めるための決戦が行われた。結果は男性陣の勝利で終わり、男性側の団長が女性側の団長に融和関係を申し立て、下らない争いは終止符を打った。
とはいえ、女性が男性を見る目は変わらず、今のように野次を飛ばしてくる者がほとんどだ。
所詮、この国の連中は、先を見ずに今しか見ない馬鹿者どもばかりだ。
組織が、そして個人が常にいがみ合い、力で優劣を決めることしか知らない魔界には未来がない。
現実でこそ、《五種会議》のもとに危うい均衡が保たれているが、それも長続きしない。目前にせまった人界との戦争で五種族の誰かが命を落とせば均衡は崩れ、再び血で血を洗う戦乱の世がやってくる。
その未来図をジンに語ったのは、五種族の一人であり、直属の上官たる暗黒騎士団の長であり、また師匠でもある男だった。
そしていまジンは、彼が待ち望んだ機密情報を胸のうちに携えているのだ。
となれば、女騎士どもの戯言にかかずらわっている暇など一秒たりともない。
無人の広間を一直線に横切り、大階段を二段飛ばしでひたすら駆け上る。鍛え上げた体ではあるが、さすがに息が切れてきた頃、ようやく目指す階に辿り着く。
魔界全土を合議によって支配する《五種会議》は、亜人族・人族が二席ずつ、残る一席をデーモン族によって占められている。何百年にもわたる内乱を経てようやく条約らしきものが結ばれ、五族の間に上下はないという約定が取り交わされた結果だ。
ゆえに、バルビエル城の最上階にほど近い九階に、五人の諸侯それぞれの私室が設けられている。足音を殺しながら回廊を走り抜けたジンは、奥まった一室の扉を右手の甲で三度叩いた。
「入れ」
すぐに、低い声でいらえがある。
廊下の左右を見やり、人目がないことを確認してから、ジンは素早く扉の中に滑り込んだ。
装飾を最低限に抑えた部屋に漂う男っぽい匂いを懐かしく思いながら、床に片膝をつき、頭を垂れる。
「暗黒騎士団補佐団員ジン・リスデール、ただいま長期の遠征任務から帰参仕りました」
「ご苦労。まあ、座れ」
久方の師匠の声を噛みしめながら、視線を上げる。
丸テーブルを挟んで置かれた寝椅子の片方にどっかりと腰掛け、高々と足を組む男こそが、暗黒騎士団の長──別名《漆黒の雷将》のラギルス・テン・ウルムだ。
人族としては図抜けた体軀。鎧なしとは思えない巨体は、オーガ族にも引けは取らない。赤々とした髪を短く刈り込み、口許の髭もきれいに整えられている。
簡素な麻のシャツは、ボタンを弾き飛ばしそうなほどに逞しい筋肉を包んで盛り上がり、しかし腰回りには余計な肉のひとつまみもない。四十歳を超えているとはとても思えない完璧な肉体が、騎士の最高位に上り詰めても欠かすことのない、凄まじいまでの日々の鍛錬によって保たれていることを知る者は、我が暗黒騎士団以外に少ない。
半年ぶりに目にする師匠の姿を目に焼き付けながら、ジンはラギルスの向かいのソファに座った。
上体を起こしたラギルスは、卓上に二つ用意されていた水晶杯の片方をジンに持たせると、年代物らしきワインの封を切った。
「長い任務の労い品だ。長期に渡る遠征任務の無事を祝おうじゃないか」
片目をつぶりながら、香り高い深紅色の液体をグラスに注ぐ。そういう表情をするとどこか悪戯っ子めくところも、昔とまったく変わらない。
「ありがとうございます、団長」
「今は二人だけなのだ。いつも通り、師匠で構わん」
「いえ。まだ報告が終わっていないので、一応は任務中です」
やれやれと肩をすくめるから控えめにグラスを打ち合わせ、芳醇なワインを一息に呷ると、長旅で疲弊した精神がじわりと回復するのを感じる。
「……それで、だ」
自分も杯を干し、表情を改めた団長は、少しばかり低めた声で聞いた。
「遠征任務での報告を聞かせてもらおうか」
「は……」
ジンはつい視線を左右に走らせてから、体を乗り出した。ラギルスは豪放磊落な男だが同時に細心でもある。この部屋には防御術が幾重にも張り巡らされ、たとえデーモン族の長たるあの《死星》であろうとも盗み聞きはできないはずだ。しかし、そうは解っていても、己の携えた情報の重大さを思えば囁き声にならざるを得ない。
「人界に侵入したザルザード副隊長が……死にました」
途端、さしもの漆黒の雷将もカッと両眼を見開いた。
静寂を、ふううーっという太いため息が破る。
「それは本当か……などと訊くのは、お前に対する侮辱だな。疑いはせんが……まさかザルザードほどの実力者が……」
「直接目にしたわけではありませんが、ザルザード殿は撤退時間までに戻らなかったことから、死亡扱いとなりました」
「ならば、本当に死亡したとは決まっていないのだな?」
「いえ……ザルザード殿は倒されました。天界の騎士と、謎の少年の手によって」
「……うむ……またもや天界の騎士か」
二杯目のワインをちびりと舐め、ラギルスは剛気な顔を俯かせた。
「府に落ちぬな。騎士一人にザルザードが倒されるとは到底思えない。となれば、敗因と死因はもう一人の少年の関与か……ジン。その少年の特徴を頼む」
「はい。自分目も脅威と感じたので、詳しく観察しました。まず、少年は騎士ではない可能性が高いです。片腕に鎖が繋がっていたので、多分脱獄した瞬間にザルザードに襲われ、騎士と共闘して倒したのでしょう。次に、少年の髪色は、自分と同じ黒色でした」
「……黒色。まさか……あやつか?」
「心当たりが?」
「一年前、マガツヒを利用しアースリアを襲撃したさい、私に挑んだ一人の勇敢な戦士である男の髪色も黒だったのだ」
「人界での黒髪はそう多くありません。同一人物という可能性は充分にあり得ます」
「うむ……ま、今はそんなことはどうでも良い。しかし……死んだか、デーモン部隊副隊長たるザルザードが……」
ラギルスは瞑目し、両腕を組むと、上体を背もたれに預けた。
そのまま長いこと黙考していたが、やがて、短い言葉とともに勢いよく瞼を開いた。
「好機だ」
ジンは一瞬息を詰めてから、掠れた声で訊ねた。
「何が、ですか」
答えは即座に返った。
「無論……他の将を討ち倒すな」
この城で口に出すには危険すぎる言葉は、部屋の空気に即座に溶け、消えた。
「それが可能だと……お考えなのですか、団長」
囁くように問うたジンに対し、ラギルスは視線をグラスの中の赤い液体に据えながら、ゆっくりと、しかし深く頷いた。
ぐいっとワインを干し、続ける。
「我等の戦力は魔界に於いて二番目であり、一番はデーモン族であった。だが副隊長であるザルザードの死亡となれば、戦力は大きく劣化している。その隙にデーモン族を葬り我等が最強と世に知らしめることが出来れば、魔界は二度と内乱は起こらないだろう。我々魔界の民はもう、同じ領域に住む同士で争ってはいけないのだ」
「……団長」
「ジンよ。我は誓うぞ。魔界で最高権力者に成り上がり、全ての民に伝えてみせる。世界は争いだけで回るものではないと」
本来なら口にすること自体が危うい台詞を、ラギルスは平然と言った。それほどまでに、ラギルスはその願いに必死なのだ。
魔界の民は長年による内乱によって、戦力は跳ね上がりはした。だが人口が圧倒的に少なく、過疎化が深刻になりつつある。
このままでは魔界に未来はない。ラギルスは現状を打破するために、力による優劣を廃止するつもりでいる。
いくら邪教神に闘争本能を植え付けられていたとしても、団長は違う。団長は、魔界の民全員により良い未来を進んで欲しいのだ。そのためなら、いかなる犠牲を厭わない覚悟を持っている。
「……ジンよ」
「は、はい!」
不意に呼ばれ、声を上げながら返事する。
するとラギルスはなぜか、孫を見るような目でジンを見つめ、言った。
「……もう三年も経つのか。お前を弟子にしてから」
「そうですね。早いものですよ……時間というものは」
俺は三年前、デーモン族の実験で記憶を失ってしまい、以後ラギルスが身を引き取った。何故団長が俺を引き取ったのかまでは知らない。
親の顔も知らなければ子供の頃の記憶もない俺にとって、ラギルスや他の団員と一緒にいる時間はとても幸せなものだった。
父のように尊敬する団長の言葉を待っていると、
「……ジン。お前が良ければだが、私の養子になる気はないか」
と、宣言してきた。
突然の告白に、ジンは一瞬押し黙る。
「私はお前と接触していくうちに、人にとって大切なものを取り戻すことが出来た。だから今のような目標が出来たのだ。その感謝もこめて、私の養子にならないか」
突然すぎる告白に唖然としたジンは、丁重にお断りしようと口を開いた瞬間──。
城全体を大きく揺らすほどの地震が発生。その揺れは地震とは違い、バルビエル城以外は揺れていなかった。
長時間続いた揺れが終わると次に、一つ上の階で大きな物音が鳴った。
「……ジン。お前はここで待機。我が確認してくる」
「了解です。お気をつけて、ラギルス団長」
ジンの言葉に頷きながら肯定すると、扉前に置いてある剣と鎧を身に纏わせ、最上階の玉座の間へ駆け上っていった。
邪教神の全貌を知っている者は、今の魔界には誰一人いない。過去の大戦時に多くの者は戦死、もしくは寿命での死を迎えたために、我らが神・邪教神の本当の姿を知っている者はいない。皆が知っているのは、邪教神に似せて造られた石像での姿のみであり、それが本当に本人なのかさえ解らない。
ゆえに我等は、長年の封印が解かれた玉座の間に降り立った存在に、疑惑を持っている。
十分前、バルビエル城にのみ起きた地震の後、一つ上の階、玉座の間から物音が鳴り響いた。それを聞いた暗黒騎士団団長のラギルスは、物音の正体を確認するために廊下へ飛び出そうとした時。
分厚い扉の向こうで、引きつったような甲高い声が響いた。
「一大事!! 一大事です!!」
かすかに聞き覚えのあるその声は、五種会議に席を置く女騎士団の副団長のものか。
女騎士団の団長とは最低限の友好関係を築いてはいるが、任務以外の会話を互いにしようとはしない。それは他の団員も例外ではなく、特に副団長は団長に執心のため、我のことを嫌っている。
話をかけずに聞き耳だけ立てていると、裏返った悲鳴が、なおも続いた。
「一大事ですよ!! ──ぎっ、玉座の間の! 封印の鎖が! 切断されています!」
そして各部屋で待機していた五種族の長全員が玉座の間に赴き、そこに立つ者を目にした。
黒に近い赤髪に、額には黒い金属に深紅の宝石を嵌め込んだ宝冠が飾られ、漆黒の豪奢な毛皮のガウンをまとっている。腰には朧な燐光を放つ細身の長剣がぶら下がり、ブーツと手袋には精緻な銀糸の刺繍が施されている。さらに背中には、血の色に染められた長いマントに、二翼の翼。
そこにいる者全員が、脳の奥で直感した。
この者こそが、邪教神様だと。
我等魔界の民に闘争本能を植え付け、常に血と殺戮を求める存在に変えた、天界から追放されし堕天の神。あらゆる物質を負の因子で消滅させようとする、世界から拒絶された存在なのだと、全員が一瞬で直感した。
最初に動いたのは、ラギルスだった。邪教神の足元にひざまずき頭を垂れる。
暗黒騎士団にとって、邪教神は忠誠を誓いし主君であり、広大な魔界を統べる皇帝。
そして、神なのだ。
ラギルスは両眼を閉じると、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
この者が本当に邪教神様なのだとしたら、状況は最悪だ。
今まさに五種会議の頂点を目指そうとした矢先に、絶対的な存在が君臨してしまっては、我が暗黒騎士団が最高権力を得られない。そうなれば魔界は現状の内乱状態を維持したままだ。それでは、魔界には未来はない。
今は頭を下げているが、最悪この者を斬らねばならない。魔界の未来のためにも、そこに暮らす民のためにも、再度災いが及ぶ前に、この者を。
邪教神に斬撃が有効なのかは定かではない。例え有効だとしても、仕留め切れるかは解らない。
そして、暗黒騎士団団長が斬撃を放った後は死ぬだろう。だが、志はあとに続く者たちに引き継がれるはずだ。
──ジンよ、我の死地はここかもしれん。だが忘れるな。我は常にお前たち団員を見守っていることを。
団長の後任候補であるジンに思念を送り、ラギルスはゆっくりと息を吸い、溜めた。
腰から外し、床に置いた愛剣に、そっと左手の指先を触れさせる。
玉座まではおよそ三メートル。踏み込み抜きで届く距離だ。
初動を悟られてはならない。抜くときは無想たるべし。
限界まで研ぎ澄まされた精神を力に、左手全体に意識を集中させる。そして体を空にする。
左手が、剣の鞘を摑み上げる────
その寸前。
深紅のマントをばさりと翻して振り向いた邪教神が、五人の将軍たちを睥睨しながら、人間味の欠片も残されていない声を玉座の間に響かせた。
「顔を上げ、名乗るがいい。──そちらの端の、お前からだ」
絶好の機を逃してしまった。背を向ける邪教神が真正面を向いてしまっては、剣で斬ることが出来ない。
人生で最大級の失敗を悔やむと、突然、ぐるるるっ! という唸り声が轟いた。
発生源は、人間離れした体軀の亜人種だった。上半身は、ほぼ全体が長い毛皮に包まれている。衣装ではなく地毛らしいと解ったのは、頭部が完璧に獣のそれだと知ってからだ。
狼によく似ている。突き出た鼻筋と、のこぎりのように並んだ牙、そして三角の耳。人界に存在する獣人族よりも獣に近い存在は、長い舌が垂れる口から、聞き取りにくい声が漏れ出した。
「ぐるる……オーガ族の長……エガリル……るるる……」
それが仲間なのか、最初は判断出来なかったが、エガリルはかなりの実力者だ。
隣に立ったエガリルは、ラギルスと同じように片膝立ちになり頭を垂れた。
途端、キイキイと耳障りな声が鳴り響いた。
「ゴブリン族の長、ナルガウンにござりまする! 陛下、是非とも我が種族に一番槍の栄誉をお与えください!」
猿に似た禿頭の両脇から細長い耳を伸ばす、小柄な亜人種。背丈は五種族の中で一番小さいが、数が異常に多い。繁殖力も立派な力であるため、五種会議に席を置いている。
「女性専用暗黒騎士団団長、フロリダ・テン・ナーチスと申します。我が団の全戦力は全て陛下のものです」
艶やかな声とともに名乗ったのは、肌も露わな衣装に体を包んだ若い女騎士だった。
ゆるりと並び立った女は、豊満な肢体と妖艶な美貌を誇示するように腰を反らせてから、気取った仕草で一礼した。
雪のように白い肌を、黒の鎧が申し訳程度に隠している。ブーツは、針のようなピンヒール。背中には巧者な茶色の髪が腰下まで流れる。
ラギルスの反対側で片膝を突くと、こちらに敵対心の宿った瞳を向けながら頭を垂れた。やはりこの者は、我を根本的に嫌っている。
「デーモン族の長……ボルザック……」
耳障りな掠れ声を発したのは、事実上で魔界を裏から支配しているデーモン族の長・ボルザックだ。幾つもの禁忌魔術を副作用無しで詠唱するほどの頭脳を持っており、闇魔術の扱いで右に出る者がいない。
そして何より、本人の不気味な思想が何よりも特徴的だ。五種会議に於いても一度も出席せず、いつも副団長のザルザードに一任している。
ボルザックは常に自室の研究室にこもっており、マガツヒの完成に没頭している。生物を魔術で創造すること自体が禁忌とされているにも関わらず、本人はそれを辞めようとせずに、人界から攫った人族を素材にした儀式を行なっている。
最後に、錆びたバリトンをした声で発した。
「暗黒騎士団団長、ラギルス・テン・ウルム。我が剣を捧げる前に……邪教神様に問いたい」
仰向けられた顔を上げ物申すと、ラギルスがかつて出会った数少ない《本物の戦士》たちよりも劣るほどの覇気を纏っていた。だというのに、ラギルスは怯えていた。
怯えの正体は、神の放つ覇気に含まれた、ドス黒いナニか。
これが理を逸脱した、堕天の神。両眼の輝きは薄く濁っており、生きているにも関わらず死んでいるような眼をしている。それどころか、まるで生物の命自体に興味を持たない、自らの命にすら興味を持たない虚無を司っている。
なにより、瞳の奥に続く闇が見えない。あらゆる光を吸収し、二度と戻れなくなりそうなほどの深さを思わせる瞳を見詰めていると、自らの胸中にある不安が強くなってくる。
──自分は、何故生きているのか。
不意に、自分に問うた。
そう思うほどに、奴の瞳は生きようとする意志を奪っているのだ。
これが……世界そのものに拒絶された神。あらゆる事象をマイナス因子で相殺し、無に変える存在。
暗黒騎士団団長は、正体不明のナニかに生命力が吸われるような感覚を、己が信ずる信念を成し遂げるための意思力で跳ね除け、焦燥を見せずに低い声で続けた。
「いまこの時に玉座に戻った皇帝の望みは、奈辺にありや」
この質問への返答次第で、邪教神は斬るべき対象となるか決まる。
邪教神は一瞬の沈黙の後に、無慈悲な答えを冷ややかに答えた。
「血と殺戮。恐怖と悲鳴。死と絶望。それらを求めるために、我は蘇った」
邪教神の、切削された金属のように硬質な声が流れた途端、将軍たちの表情がさっと引き締まった。
五人の顔を順番に見やってから、邪教神は毛皮のマントを翻し、右腕を高々と分断の壁へかざした。
「古の大戦時、我が妹・ヒヅキが支配する人界を、今度こそ我等の領土とするために、我は長年の封印から目覚め蘇った! 我が威光を愚かな人界に知らしめるために!」
玉座から立ち上がると、なおも続けた。
「人界と魔界を隔てる忌まわしき壁は、長年の月日と共に廃れてきている! 壁が崩れた時こそ、人界は我ら魔界の民のものとなるのだ! 我が欲するのはただ一つ、人界を支配するヒヅキの首ただ一つ! それ以外の民どもは望むままに殺し、奪うことを許そう! 古の大戦の報復を待ち望んだ、全ての魔界の民が望んだ約束の時だ!」
しん、と静まり返った空気を──。
甲高い野蛮な雄叫びが破った。
「ギィィィィッ!! 人族の連中、みんな殺すウウウウゥッ!!」
両足をジタバタさせながら喚いたのは、小さい眼に欲望と鬱憤を滾らせたゴブリン族の長だった。すぐに、オーガ族の長たちが口を開けて追随する。
「殺すッ!! 人界に逃げた愚か者の同志を殺すッ!!」
巨大な広間に満ち満ちた、プリミティブな蛮声のまっただ中にあって──。
ラギルスだけが跪き俯いた姿勢のまま、身動きひとつしないことに、ナーチスは気付いた。
それが、団長らしい抑制のたまものなのか、あるいは何らかの感情に起因するものなのかは、彫像のような鎧姿からは判断できなかった。
鬨の声が鳴り止み玉座の間が静寂に包まれると、邪教神の冷え切った声が再度響いた。
「だが人界には面倒な存在、守護竜が四体存在する。古の大戦に於いて、奴等の関与によって我等は敗退した」
確かに、四体の守護竜がいる限り、人界制圧は苦難だ。幾らかの犠牲を払えば倒せるかもしれないが、その後に天界の騎士との戦闘を考えると絶望的だ。
「しかし喜べ。今の守護竜たちに過去のような力はない。人界も長年の堕落した時間の中、守護竜の個体数が著しく減少している」
降臨して初めて感情的な声を出した邪教神は、顔をボルザック、ナーチス、ラギルスと順番に向けてから指示した。
「お主ら三人にはこれより、人界に兵を連れて侵入。それぞれ三体の守護竜を根絶やしにしてこい」
突然の命令に、ラギルスは──
「了解であります!」
「……よかろう」
「……承知しました」
拒否をしなかった。この場で拒否すれば、部下たちの立場が危うくなってしまう。この場は邪教神に忠実になったフリをし、気を伺うしかない。
「我は残った竜を仕留める。お主らの働きに期待するぞ」
そして、時は動き出す。魔界と人界、両界の大戦への時間が──。
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