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第三部・一章 一年後の人界
第一話
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セレナは毎朝、六時の鐘が鳴る十分ほど前に目を覚ましている。
何故そんな中途半端な時間なのかというと──騎士として早朝の修練もあるが──カズヤの起床時刻が六時ちょうどだからだ。十分早く目を覚まし、ベッドに入ったまま、隣で眠る彼を見ているのが好きなのだ。
今朝も目覚めた後、そっと体をうつ伏せにして、両手で頬杖を突きながらカズヤの寝顔を眺めていた。
この小屋に二人で引っ越してきてから、もう一年近く経つ。一応任務ではあるが、カズヤと一年もの間、一つ屋根の下で衣食住を共にしたにも関わらず、まだまだ知らないことが多い。それは寝顔ひとつとっても言えることで、こうして眺めていると、だんだん心安らいでいく。
普通は飄々とした物腰で掴み所がないくせに、深い眠りに落ちている時のカズヤには、無邪気と言っていいほどのあどけなさがある。
ほんと、幸せそうに眠るわね。そう思いながら、セレナはそっと手を伸ばし、眠るカズヤの頬に触れた。
カズヤの強さについては今更疑うことは何もない。騎士に劣らない途方もない経験と、絶え間ない努力と、それらを支える意思力。全てが騎士をも凌駕する彼が傍らにいる限り、不安なんて微塵も感じない。
しかし、寄り添って横たわるカズヤを眺めていると、なぜか彼が傷つきやすいナイーブな弟でもあるかのような気持ちがきゅうっと胸の奥に湧き上がってきて、抑えられなくなる。守ってあげなくちゃ、と思う。
そっと息をつきながら、セレナは身を乗り出し、カズヤの体に腕をまわした。かすかな声で囁きかける。
「このまま、ずっと一緒にいたいです」
その途端、カズヤがわずかに身動きし、ゆっくりと瞼を開けた。二人の視線が至近距離で交錯する。
「わっ!!」
セレナは慌てて飛び退った。ベッドの上にぺたんと正座して、顔を真っ赤に染めながら言う。
「お、おはよう。……いまの……聞いてた……?」
「……? なんか言ってた?」
上体を起こし、欠伸を嚙み殺しながら聞き返すカズヤに向かって、セレナは両手をぶんぶんと振り、適当に話題を逸らした。
「なんでもないから! そうだ、朝食にしましょう」
洗い終えた皿を水切り籠に立て、制服の裾で手を拭きながら、カズヤはふと顔を上げた。
小さな硝子窓の向こうに見える樹々の梢は、ここ数日の冷え込みで、赤や黄に色づいていた葉をかなり散らしてしまった。やはり中都に比べると、冬の訪れが早い。
それでも、久しぶりの青空から降り注ぐ太陽の日差しはぽかぽかと暖かそうだ。正面の樹の太い枝では、ムーンラビットのつがいが身体を寄せ合って、気持ちよさそうに日光浴をしている。
微笑みながらその様子をしばし見入っていると、悲しい思い出が蘇ってくる。それを振り払うように振り向き、言った。
「なぁ、今日はいい天気だから、東の丘まで行ってみようぜ」
丸太小屋の、居間と食堂、台所を兼ねた部屋の真ん中には、飾り気のない白木のテーブルが置かれている。
同じく簡素な椅子の片方に腰掛けるのは、一年前から共に暮らしている女騎士。カズヤの呼びかけに顔を上げ、太陽よりも眩しい笑顔をこちらに向けながら、ゆっくりと頷いた。
「既にお弁当の準備は出来てますよ」
そう言うと椅子を横に動かし、テーブルの上に置かれた籐籠を見せつけてきた。中には、美味しそうな昼食がぎっしりと敷き詰められている。
「さすがセレナ。俺の考えは予測済みってわけか」
調子のいい捨て台詞を放ち、隣の寝室に向かう。セレナの装飾品を適当に見繕ってから居間に戻る。
居間では、出掛ける支度を済ませたセレナが待ち遠しそうにしていた。
長い金髪を後ろでまとめて、綿のスカーフで覆い、小脇に抱えた毛織りの外套を羽織らせる。
「いつもごめんね、カズヤ」
「気にすんなって。あとは……」
そう声をかけ、急いで部屋の片隅へと走る。
そこに置いてあるのは、明るい茶色の木材でこしらえた頑丈な椅子だ。四本の脚の代わりに、大小二組の鉄製の車輪がついている。コモレヴィの森にある大木を切り倒し、試行錯誤して作り上げた車椅子だ。
その車椅子の、背もたれについている握りを持ってごろごろと女騎士の背後まで移動させる。革の座面に座らせて、分厚い膝掛けで両脚を少しキツめに覆ってやる。
「よし! じゃあ、行こうか」
ぽん、と騎士の両肩を叩いてから、握りを摑んで、部屋の南にある扉へと車椅子を転がしかけた時だった。
「あ、ごめん。ちょっと忘れ物した」
一言断ってから、壁の頑丈な金具に掛けられた三本の剣を眺める。
右側に、セレナの所有する白銀の長剣、《華焔剣》。
左側に、常に腰に帯びていた漆黒の長剣、《焔天剣》
そして真ん中には、英雄が所持していた純白の長剣、《激凍剣》。
カズヤはまず、焔天剣を壁から外し、左腕に抱えた。
次に、激凍剣を見詰める。毎日手入れを怠っていないが、いつ見ても惚れ惚れするほどの光り輝いている。
しかし、手入れ以外で鞘から抜き放たれることはないだろう。この剣の所有者であり、カズヤの中で最も尊敬する騎士は、いまはもういない……。
一瞬瞑目してから、焔天剣を持って車椅子のところに戻る。膝に剣をそっと載せると、騎士はその上に左手を置き、楽な姿勢に入った。
「しっかり持っててくれよ」
カズヤはそう声を掛けて、重みを増した車椅子を押し、扉から外に出る。
ポーチから地面までは、階段ではなく分厚い板を渡してある。その方が移動も楽だし、乗ってるセレナに負担が掛からなくて済むから。
そこを通って庭に降りると、ひんやりした微風と、穏やかな日差しが二人を包む。
丸太小屋は、コモレヴィの森の奥にぽっかりと開けた草地に建っている。カズヤが自分で木材を切り出し、皮を剥ぎ、組み上げたものだ。見栄えは良くないが、造りはしっかりしている。
この草地は、カズヤがこの世界で目覚めた時にいた場所だ。偶然か必然がここは、任務地に赴くのに最適な場所に位置している。
村の人々には、とある事情でしばらく森に身を置くことになったと説明してある。村の人々は、森ではなく村に住めばいいと言っているが、並々ならぬ事情があると言って断ってしまった。
「……さてと、行きますか」
一瞬の物思いを振り払ってそう声を出すと、カズヤは家の前から車椅子を進ませた。
差し渡し三十メートルほどの円形の草地はほぼ全面が柔らかな下生えに覆われているが、東側の一角、大きく張り出した枝の下には枯れ草が二つ厚く積み上げられている。まるで巨大な生物の巣のよう──実際はそうなのだが、いまは巣の主の姿はない。ちらりとそちらを見やり、今日はどこに遊びに行っているんだろうと考えながら、草地を南北に貫く小道を抜けて森へと入る。
道は、五十メートルほど先で東西に分かれている。西に行けばコドールの村があるが、用もなく訪れる気はない。東の道に入り、地面できらきら揺れる木漏れ日を踏みながら歩き始める。
十月も終わりに近づき、紅葉から落葉の季節へと移ろいつつある森の中を、ゆっくりと進む。
「いい景色ね」
「ああ。そうだな」
「……ねぇ、そんな格好で寒くない? 一応、あなたの分も持ってきてあるけど」
セレナは、いつの間にか持ってきていた外套をこちらに見せると、首を傾げながら答えを促してきた。
「俺は大丈夫だから、それはセレナが使って」
「……そう。あなたがそう言うなら、遠慮なく使わせてもらうけど。寒くなったら、遠慮せずに言ってね」
彼女の気配りに「はいはい」と適当に相槌を打ってから、肩越しに覗き込み、外套の襟元がしっかり閉じているのを確認する。
本当は冬場に制服だけは少し寒い。しかし、俺よりも少し薄着のセレナから厚着を貰うわけにはいかない。
もちろん、炎素を一つ生成すれば容易く暖を取れる。しかし、コドールにはカズヤたちを胡散臭く思っている村人もいるので、魔術を濫用し、空間魔素を無意味に浪費してるという噂を立てられるのは避けたい。
踏み固められた道に新たなわだちを刻みながら十五分ほども歩くと、行く手が明るくなってくる。木立が切れると、前方に小高い丘が姿を現す。道は少しずつ上り坂になるが、カズヤは車椅子を苦もなく押し上げていく。
丘の頂上に辿り着くと、一気に視界が開ける。
すぐ東に、川の水源の水面。その奥には、広大な湿地帯。南にはどこまでも森が続く。
北を見れば、真っ白に雪を被った《分断の壁》がそびえ立っている。かつてあの向こう側で、亜人混合部隊と戦ったのは遠い夢のようだ。
「綺麗。何度見ても、本当に綺麗な景色ね」
微笑みながら発したセレナが、小さく身震いする。やはりもう少し持ってくれば良かったか、と思いながら車椅子の隣に並び立ち、セレナの小さな右手の上に自分の手を重ねる。
「いまは、これで我慢してくれるか?」
「……ありがとう。とっても暖かいわ」
互いに微笑み返し、騎士の名を呼ぶ。
「あなたも見てますか。……カムイさん」
一羽の白い水鳥が、川の水源に点々と波紋を作りながら滑走し、飛び去っていった。
邪教神との戦いから、もう一年も経つ。
俺とセレナは、カムイさん、スコッド、飛竜の遺体を埋葬したのち、フロリダを連れて教会へと帰還した。
教会で事の全てを騎士長に説明したあと、全てを聞き終えると、大きく包み込むような声でひと言発した。
ご苦労だったな、カズヤ、と。
俺が騎士カムイを殺めたことを知りながらも、騎士長は一つの罰も与えずに、俺の労をねぎらってくれた。
その後、邪教神から得た情報──人界に攻め入る時期や死邪についてなどを話した後に、セレナの足の治療を頼もうと創世神の元へ赴いた。
だが、どうゆうわけか、《神の庭園》に通ずる扉は硬く閉ざされていた。
仕方なく騎士長の元へ戻り、セレナの足を治療してほしいと頼んだ。そのお陰で右足は動くようにはなったのだが、別の問題が発生した。
その問題は、セレナ自身にあった。
どうやら本人は、右足を切られたショックが抜けておらず、恐怖で動かせなくなってしまったらしい。最初は悪い冗談でも言っているのかと思ったが、今考えれば無理もない。
騎士以前に、セレナは俺となんら変わらない歳の女の子だ。戦場に身を置いているから、同年代の子よりかは度胸も肝も座っているが、殺される恐怖までは知らない。
ましてや一騎当千の騎士となれば、命が危うくなる状況自体稀だ。当然、初めて味わう恐怖に心が屈してしまうのは仕方がない。事実、俺も同じような体験を過去に何度もしている。
外傷などは適切な処置を施せば、時間と共に消えていくのだが、精神の不調はそう簡単にはいかない。
トラウマを完璧に無くすのは、長い時間落ち着いた環境に身を置き、ゆっくりと心を休めて忘れる以外に治療方法はない。
教会内は大戦に向けて日々騎士団が守備軍の指導に明け暮れているため、とてもじゃないが落ち着いた環境とは言えない。少なくとも、戦いとは無縁の地──辺境の地じゃなければいけない。
そんなセレナを見兼ねてなのか、騎士長は俺に任務を言い渡してきた。
カズヤ。お前と嬢ちゃんに、壁の護衛を任せたい、と。
任務地の場所などの指定はなく、また期限もなかったため、俺は最初困惑した。
しかし、すぐに騎士長の意図を察したカズヤは、教会内での仕事が一段落したあとに、セレナを連れて中都を去った。
任務地は既に決まっていた。
それが、コドールの村付近の森だった。
たとえ記憶を失っていようとも、セレナの生まれ故郷に暮らす人々ならば、彼女を迎え入れてくれるのではないかという一縷の望みを抱いて飛竜の手綱を北へと向けた。
セレナの体をいたわりながら少しずつ飛んだので、村に辿り着くまでに三日間を要した。
村人を脅かしてしまわないように森に降り、そこで荷物を守っているよう飛竜に命じてから、セレナを背負って徒歩で村を目指した。
約二年ぶりに見る懐かしい情景を目に焼きつけながら森を出て、麦畑を抜ける小道に入ると、何人かの村人たちと行き逢った。しかし彼らは驚くような、怪しむような顔をするばかりで、声を掛けてくる者はいなかった。
高台に築かれたコドールの村に到着し、木製の門を潜ろうとしたその時、そばに建つ詰め所から大柄な衛士が飛び出してきた。カズヤの行く手を塞ぐや、
──貴様、この村の者ではないな。よそ者が村に入ることは許さんぞ。
これ見よがしに腰の剣に手を置いた衛士は、カズヤに背負われたセレナを見ると、訝しそうな表情になった。この子は、と呟いてから改めてカズヤを凝視し、やがて眼と口を丸くした。
──きみは……まさか。
その言葉を聞いて、カズヤは少しばかりほっとした。村を旅立った俺のことを覚えていたらしい衛士に、言葉を選びながら告げた。
──二年ぶりですね、衛士さん。失礼ですが、村長を呼んでもらえませんか?
警戒させないように笑顔を浮かべながら頼み込むと、衛士は何度か口をぱくぱくさせてから村の中へと駆け込んでいった。待ってろとは言われなかったので、カズヤは門を潜り、衛士が走っていったほうへと歩を進めた。
昼下がりの村は、たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎになった。さして広くない道の両側を埋めた何十人もの村人たちは、通り過ぎるカズヤとセレナを見るや一様に驚きの声を上げた。
だが、彼らの顔に、帰郷を喜ぶような表情はなかった。それどころか、金属鎧を身につけたセレナと、腰に二刀の剣を携えたカズヤを訝しみ、警戒し、恐れてさえいるようだった。
緩い上りの道は、やがて活気盛んな円形の広場に合流した。
中央には噴水と井戸、北側にはセレナが暮らしていた小さな教会があった。カズヤが広場の入り口で立ち止まると、遠巻きにした村人たちがひそひそと不安顔で言葉を交わした。
数分後、東側の人垣が割れ、その奥から村長が近づいてきた。
村長は、少し離れた場所で立ち止まると、まったく表情を動かさずにセレナとカズヤを順に凝視した。
十秒ほどしてから、低いがよく通る声が発せられた。
──カズヤくん、なのか。
その問いに、カズヤは「はい」とだけ答えた。しかし村長は、歩み寄るでも手を伸ばすでもなく、いっそう厳しい声で問いかけを重ねた。
──君が帰ってきたのは嬉しいが、学園はどうした。そして、なぜセレナがここにいる。彼女の罪は赦されたのか。
今度は、すぐには答えられなかった。セレナが犯した罪が何なのか、それが赦されたのかそうでないのか、俺には解らなかったからだ。
一年前、セレナは村で禁書目録違反を犯した。具体的に何をしたのかまでは知らされていない。
そんなことを考えながら、カズヤは村長の眼を真っ直ぐに見詰め返しながら答えた。
──俺は、学園内で殺人の罪を犯したため、教会に連行されました。そして、そこでセレナと出会った。……今の俺たちの罪が赦されたのか、俺には解りません。ですが、今のセレナには、この村の他に行くべきところがないんです。
それは、カズヤの偽らざる本心だった。
村長は瞼を閉じ、口許と眉間に深い皺を刻んだ。だが、少しして顔を上げた村長が鋭い眼光とともに告げたのは、冷厳たる言葉だった。
──この村に、罪人を置くつもりはない。今すぐ、わしらの目の前から去れ。
どれくらい座っていただろうか。
セレナが用意した軽めの昼食を食べ終え、一年前の記憶を思い出しているうちに、太陽はかなり高いところまで昇っていた。
「冷え込みそうだから、戻りましょうか」
「ああ。……ついでに、村で買い物してこうぜ。食材も減ってきたし」
立ち上がり、そう声を掛けながら車椅子の把手を握った時だった。
さくさくと草を踏みながら丘を登る複数の軽やかな足音に気付き、二人は振り返った。
近づいてくるのは、小さな子供たちと黒い修道衣を着た老婆、一人の青年だった。いまだ幼さが残る可愛らしい顔に輝くような笑みを浮かべながら、勢いよく右手を振っている。
「カズヤ兄ー! セレナー!」
弾むような声が微風に乗って届き、セレナも口許を綻ばせつつ小さく手を振り返した。
最後の十メートルを飛ぶように駆け上ってきた子供たちは、足を止めると数秒かけて息を整え、もう一度明るい声で言った。
「二人とも、こんにちは!」
可愛らしくお辞儀をする子供たちに微笑みながら、セレナはそっと右手を頭に置いた。
「こんにちは。よくここにいると判ったわね」
彼らは、二年前まで私がお世話になっていた教会に住む、身寄りのない子供たちだ。カズヤから彼らやシスターの存在を知らされてから、ひたすらに会える時を待ち焦がれてきた。
しかし、こうして願いが叶ったいま、彼らを愛おしく思えば思うほど、この自分に──教会にいた見習い修道士セレナではない、騎士としての私に、彼らに触れ合う資格があるのだろうかとも考えてしまう。
そんなセレナの絶えざる葛藤に気付いているのかいないのか、子供たちは屈託なく笑いながら言った。
「どうせカズヤ兄のことだから、天気が良いから東の丘に行こうって言ったんでしょ」
「カズヤ兄は単純だから、すぐに判ったもんねー」
あははと笑う子供たちに、セレナも笑顔で言い返した。
「そういうこと言わないの。カズヤだって、たまには難しいことだって考えてるわよ」
「あー、セレナがカズヤ兄のこと庇ってるー。恋人を茶化されて怒ってるんだー」
こら、と額を指先でつつこうとすると、素早くその手を躱した子供は、そのままセレナの胸に飛び込んできた。胸元にぎゅうっと顔を押し当てる子供の背を、優しく引き寄せる。
この瞬間だけは、心にのしかかる重圧から逃れたいと強く願う。
今朝の願い──騎士の責務を放棄し、カズヤとこのまま静かに暮らしたいと願う罪悪感を忘れられたら、どんなにほっとするだろう。しかし同時に、絶対に忘れられるものではないこともセレナには解っている。最愛の子供たちと抱き合っているこの瞬間にも、分断の壁の向こうから、終わりの時が刻一刻と近づいてきているのだから。
子供たちと戯れる様子を眺めながら、付き添いと護衛としてやってきた二人──教会のシスター・マムと村長の息子のペックと向き合った。
「ご足労頂き、申し訳ありませんでした。シスター・マム」
厳格な風貌をした老婆に深々と頭を下げてから、隣に立つペックに顔を向け、こちらにも頭を下げる。
「ペックも、子供たちの護衛ありがとう」
こちらは、照れ臭そうに頬を掻いてから「礼なんていいよ」と言い、肩を軽く叩き顔を上げるよう促してきた。
「気にすんなよ。どうせ暇なんだから」
「ペックさん、あなたは暇ではないでしょう。今日は村長の畑の手伝いをするはずだったのでは?」
「ちょ、マムさん。それは言わない約束でしょう」
焦りながら口止めようとしている光景を微笑みながら傍観する。
二人は、村から離れて生活する俺たちを陰ながら支えてくれている。
撤廃されたとはいえ、禁書目録違反を犯した罪人二人が、かつて村で暮らしていたことを知っている村人の多くは、俺たちのことを快く思っていない。
それでも、シスターとペックは俺たちに力を貸してくれた。
以前の事件で衛士見習いから解雇され、今では村長の畑を手伝っているペックは、週に一度、畑で取れた野菜を届けに来てくれる。
シスターは生活必需品を定価的に届けたり、時折子供たちを連れてセレナに会いに来てくれるなど、感謝してもしきれないほどの助力をしてくれている。
「しかし、今でも信じられませんね。まさかセレナが、記憶喪失なんて」
シスターの放った単語に、一瞬だけ反応する。
非常に申し訳ないが、セレナは禁書目録違反を代償として過去の記憶を失ったという嘘を、村人全員に教えてある。
本当のことを伝えようかと思ったが、それを教えること即ち、騎士という存在が偽りであることを伝えるのと同義になってしまう。
天界の騎士が虚構の存在などと知られれば、村人は一斉にパニックを起こしかねない。来たる大戦を前に、余計な不安は煽りたくない。
「そうですね。俺とした結婚の約束も忘れてそうですし」
「それは元からしてないだろ」
根も葉もない約束を指摘してから、表情を曇らせたシスターが発した。
「カズヤくん。セレナはまだ、昔の記憶を取り戻していないのですか?」
その質問に、わずかながら心が痛んだ。
生活を支えてくれている二人になら、本当のことを伝えてもいいのではないか、と考えた。
だがカズヤは──。
「……すいません。教会での記憶はお伝えしてありますが、それは思い出した記憶ではなく、付け加えた記憶です。……彼女自身はまだ、記憶を取り戻していません」
「そう、ですか……」
残念そうに顔を歪めたが、すぐにいつも通りの声音で言った。
「焦っても仕方ないですね。地道に待たせてもらいます」
「……彼女を信じてあげてください。そうすればきっと、全部思い出してくれます」
胸中から込み上げる罪悪感を必死に押し殺しながら、どうにか平静を装いながら放つ。
……覚悟だけはしておこう。いつか、真実を明かす時の、覚悟を。
「そろそろ戻ろうか、セレナ」
「……ええ」
頷き、抱擁を解いたセレナは、しばらく子供たちを見詰めていたがすぐに明るい笑顔を取り戻した。
「分かれ道まで、私が押してあげます」
シスターがそう宣言するや、セレナが座る車椅子の後ろに立ち、年季の入った両手で把手を摑む。それを見ていた一人の少女が、笑いながらセレナの膝の上に座ってきた。
「じゃあ、私はセレナの膝の上にいるー」
椅子そのものが相当に重い上に、人ひとりと、子供の重量が載ってしまうと、シスターでは荷が重いのではないか。しかも力仕事をしない修道士にはなおさら──とカズヤは考えたが、車椅子は難なく動き始めた。
「下り坂だから、気をつけてね」
膝の上になる少女を抱きしめながら言うと、少女は「ならもっと抱き締めて」と言い、更に密着した。
そんな様子を後ろではらはらしつつ見守っていると、隣を歩くペックの表情の奥にかすかな翳りがあることに気付き、カズヤは首を傾げる。
「どうした、ペック? 悩みでもあるのか?」
訊ねると、しばらく躊躇ってから口を開いた。
「カズヤ……お前だけでも、村に戻ってくる気はないか?」
その台詞の意味はすぐに理解できた。
そして俺は、すぐに答えた。
「ありがたいけど、遠慮しとくよ」
「な、なんでだよ。今の生活は苦しいだろ。村に来て俺と一緒に畑の手伝いをすれば、少なくとも今よりかは楽な生活が出来るんだぞ」
実際、ペックの提案は理に適っている。
現在の財政状況では、わずか一銅貨といえども森に落としたら大変なことになるほど深刻な状況だ。買い物に行く時以外はお金は恐れ多くて持ち歩けない。
村人の手伝いをすることで薄皮一枚が繋がってはいるが、安定しない収入のためかなり不安ではある。ペックの提案通り、村長の畑で働けば今よりも収入は増えるし、運が良ければ農作物を分けて貰えるかもしれない。
魅力的な条件ばかりではあるが、やはり俺は首を縦に動かすことが出来なかった。
まだ納得できないペックを諭すように、カズヤは落ち着いて言った。
「約束したんだよ。毎日、ご飯は一緒に食べるって」
稼いだ資金で一週間分の食材を買い込み、森の小屋へと帰りつく頃には、空はすっかり夕焼けの色に染まっていた。
小屋のポーチに上がろうとしたところで、ぶうんと低い風切り音が近づいてくるのに気付く。車椅子ごと少し下がり、草地の中央付近で音の源を待ち受ける。
やがて、木々の梢を掠めんばかりの低空から姿を現したのは、巨大な両翼に長い首と尾を持つ二匹の大型獣──飛竜だ。片方はセレナの飛竜で、もう片方は俺の飛竜だ。名前は戴天。
飛竜は、草地の上空を二度旋回してから、ふわりと降り立った。翼を畳むと長い首を伸ばし、まずセレナの胸に鼻先を触れさせてから、カズヤに大きな頭をすり寄せてくる。セレナの飛竜は、俺になど脇目も振らずにセレナは胸に頭をすり寄せている。
首下の、仄かに赤みがかった和毛を掻いてやると、戴天はくるるると低く喉を鳴らした。
「戴天、お前、少し太ったな。また川の魚をたくさん食べただろ」
微笑み混じりにそう叱ると、ばつが悪そうにふうっと鼻から息を吐き、長い体を回して小屋の東側にある寝床へと歩いていく。枯れ草を分厚く敷き詰めたベッドの上で、首に尾を絡めるようにして丸くなる。
去年はまだ肩に乗るほどの幼竜が、一年経つだけで飛竜となんら変わらないサイズにまで成長したのは素直に驚きだが、まだ精神的な面は熟していないのか、あの巨躯でもよく甘えてくる。
自分で草を集めて寝床を作り、日中はセレナの飛竜と一緒に森で遊んだり、川で魚を獲ったりしているようだが、夕暮れには必ず戻ってくる。
誇り高い守護竜の生き残りとはいえ、未だ俺のことを親同然に思ってくれているのは素直に嬉しいのだが、森の上空を飛翔する姿が時折村人に目撃され、俺たちの芳しからぬ評判の一因となっている。
枯れ草の上で低い寝息を立て始めた戴天と飛竜におやすみと言ってから、カズヤは車椅子を押して小屋に入った。
テーブルの上に置かれた新鮮な野菜や、村で買ってきた食材を手に取り、夕食の準備をする。
最初はカズヤと一緒に家事をしていたが、半年も経てばそれなりに上達はする。のだが、料理の腕だけはいかんともしがたい。カズヤが村の雑貨屋で買ってきた包丁は華焔剣に比べて頼りなくて、こわごわ材料を切るだけで二十分や三十分はすぐに経ってしまう。
教会で暮らしていた頃は、大食堂のテーブルに所狭しと並べられた最高級の素材で拵えた料理を気ままにつつくような食事をしていた。だから、家事は愚か、料理などしたことはない。
見習い修道士のセレナは、家事も料理も完璧だったと聞かされた時は、たった一つ道が違うだけでここまでの差が開くなんて、と本気でショックを受けた。
今では時折──ほぼ毎日カズヤと一緒に料理をしている。カズヤは学園に籍を置いてる時、同室の男子生徒と一緒に何度か料理したことがあると言っていた。
カズヤの教えで簡単な料理は作れるようにはなったが、一食作るのに相当の時間を使ってしまう。
夕食には、豆と肉団子のシチューを作った。少しばかり豆が硬く、だんごは大きさが不揃いだったが、味はずいぶんとまともになってきた気がする。もちろん、カズヤは毎回「美味しい」と言うばかりだ。
「ごめんね、待たせちゃった?」
シチューの盛られた皿を片手に居間に入る。
そこでは、真剣な表情で激凍剣を手入れするカズヤの姿があった。
一年前から、彼は夕食前に激凍剣を手入れしている。所有権がカズヤにあるが、使用しない場合は常に鞘に収めていれば手入れをする必要はない。
だが、カズヤはそれでも毎日手入れをしている。それが剣に対する礼儀であり、今は亡き所有者への感謝だから……。
「……カズヤ。ご飯、置いておくわね」
この作業に入ったカズヤは、外部からの音に一切反応しなくなる。必死に語り合っているのか、剣に残された記憶を覗き見ているのかは分からないが、手入れの最中は何があっても剣から目を離さない。
車椅子の車輪に手をかけ台所に戻り、自分の分のシチューを盛ってから居間に戻る頃には、カズヤは何食わぬ顔でシチューを食べていた。
「昼食の時もだけど、大分料理の腕上げたな。今日のも美味しいよ」
先程までの真剣な表情とは打って変わって、まるで幼い子供のようにそう言われると、こちらまで頰が緩んでしまう。
「一年も一緒に生活してて、あなたの口から一度も不味いなんて聞いたことないけどね」
「だって美味しいんだもん」
あっという間にシチューを平らげてからさりげなく呟き、皿を流しへ持って行く。
最初の頃はカズヤの助力があっても料理に失敗して、黒焦げの物体を何個も生成してしまった。
だがカズヤは、それらを全て嫌な顔一つせず完食していた。しかも笑いながら「美味しかったよ」と言ってくれた。
細かい気配りや優しさもまたカズヤらしいと思うが、たまには本当のことを話してもらいたい時はある。
カズヤの元いた世界についてとか、そんな難しい話ではない。せめて、何が好物で何が嫌いなのかを教えてもらえれば、と思うものの、考えてみれば彼と話らしい話をした時間は凄く短い。丸太小屋に住んでから、真剣な話をしたのは初日だけ。それ以外は全部村での話しかしていない。
私が騎士であったことを忘れさせようとする様に、必死に話題を逸らしている気がしてならない。いや、もしかしたら本当に、カズヤは…………。
時間をかけてシチューを食べ終えたセレナを、椅子ごと小型ストーブの傍まで移動させ、流しで食器類を洗って籠に並べている時だった。
不意に、いつもなら夜明け頃またね静かに眠っているはずの戴天が、窓の向こうでルルルッと低く鳴いた。
はっと手を止め、耳を澄ませる。森を渡る夜風に混じって、季節外れの木枯らしのような音が聞こえる。薄く大きな翼が風を切る音。
「…………!」
台所から飛び出し、壁に立て掛けてある焔天剣を手に取る。
「どうしたの?」
ストーブの前で温まっているセレナが、首を傾げながら訊ねてきた。
「誰か来た。俺が出るから、セレナはここで待ってて」
それだけ言い残し、玄関扉を開ける。再び耳をそばだてて、風切り音が近づいていると判断するや、前庭に降り立って夜空を仰ぎ見る。
満天の星空を背景に、螺旋を描いて舞い降りてくる黒い影は、間違いなく飛竜だ。念のために草地の東を見るが、もちろん戴天は寝床にうずくまったまま空を見上げている。
「まさか……」
魔界の暗黒騎士が壁を越えてきたのかと考え、自作した鞘に収まる愛剣を抜刀しようとした時、月明かりを受けて竜の鱗がきらりと金色に輝くのが見えた。わずかに肩の力を抜く。金鱗を持つ飛竜を駆るのは、世界広しといえども教会の騎士だけだ。
しかし、安心するのはまだ早い。いったい誰が、何のためにこんな辺境にまで飛んできたのか。まさか、もう俺たちの力が必要になる事態にまで進展してしまったのか。
カズヤの緊張を感じたのか、戴天も寝床から這い出てくると、首を高く持ち上げてもう一度唸った。しかし、威嚇的な低音はすぐに消え、代わりにきゅうんと甘えるような喉声を響かせる。
その理由は、カズヤには解らなかった。
更に三度旋回してから、草地の南側に着地した飛竜は、セレナの飛竜とよく似た色合いの和毛を首の周りに生やしていた。
しなやかな身のこなしで地面に降り立った、漆黒の鎧兜に身を包む騎士に、カズヤは強く息を呑んでから、硬い声で呼びかけた。
「……まさか、あなたが出向くなんて思いもしませんでしたよ。キクノさん」
脱獄時に一時的な共闘関係を結び、騎士カムイの弟子である天界の騎士は、すぐには声を発さず、右手を胸にあてがってまずは深々と一礼した。
体を起こし、おもむろに兜を外す。艶やかな黒長髪がふわりと夜風にたなびき、都会的な華やかさを持つ美貌が露わになる。高く滑らかな声で──。
「久しぶりね、カズヤくん。初めて会った時は可愛らしかったけど、今は凛々しくなったわね」
カズヤはため息を呑み込みながら、焔天剣を握る手を一切緩めずに答えた。
「傷はすっかり癒えたようで何よりですが、性格は変わっていませんね。キクノさんらしいといえば聞こえはいいですが、言い方を変えてしまえば、全然成長してませんね」
うぐっ、と妙な音を出すキクノに背を向け、小屋へと歩き出す。
「君も、その憎まれ口は変わってないわね」
「変える気がないので。とにかく、重要な話があるから来たのでしょう。話は中で聞きますから上がってください」
新しい同族との出会いに、嬉しそうに首をこすり合わせている戴天と金竜をちらりと見上げてから、カズヤは足早に小屋に戻った。
おとなしく付いてきたキクノは、狭い小屋の中を物珍しげに見回したから、ストーブの傍らにいるセレナに視線を留めた。
「あなたは、キクノ殿。怪我はもう大丈夫なのですか?」
驚愕の声を上げながら呼ぶと、キクノは嬉しそうに手を振って返した。
「久しぶりね、セレナちゃん。私の心配よりも、自分の心配した方がいいも思うけど……」
そう言うとキクノは、セレナの右脚に視線を落とした。現状までは知らないだろうが、流石に察しはつくのか、と考えながらテーブルの奥に滑り込み、キクノが座る椅子を引く。
「あら、意外と紳士的ね」
馬鹿にするような言動をため息で返答し、セレナの椅子をテーブル前に持ってきてから隣の椅子にすとんと腰を降ろす。
「……話は聞いていたけど、まさか本当に二人で暮らしていたのね」
「任務ですから」
素っ気なく答えると、悪戯に頰を緩ませたキクノが、後ろの台所にある鍋を指差しながら言った。
「ところで私、急ぎの旅だったから、夕食をまだ食べてないのよね」
「……携帯食があるはずでは?」
「私、あのパサパサした奴は一生食べないって創世神様に誓ったから。あんなもので腹を満たすくらいなら、民が食すパンを食べた方がましというもの……」
キクノの益体もない返答を最後まで聞かずに、カズヤは椅子を立った。台所に移動すると、かまどに載った鉄鍋からシチューの残りを木皿によそい、テーブルに戻る。
「…………つかぬことを伺わせてもらうけど、これはどっちが作ったのかしら……?」
「セレナです。それがどうかしましたか」
「…………いや。ちょっとだけ意外だなぁ、って思って」
緊張した表情で匙を握り、豆を口に運ぶ。
もぐもぐ口を動かすキクノに、カズヤは改めて問い質した。
「それで、どうやってこの場所を探り当てたんですか? 俺たちを探すために、中都から人界全土を飛び回る余裕なんて、いまの騎士団にはないでしょ」
キクノはしばらく答えず、結構美味しいじゃない、などと呟きながら盛んに匙を動かしていたが、やがて綺麗になった皿から顔を上げると、どこからともなく取り出した手巾で口を拭ってから真っ直ぐにカズヤを見た。
「残念だけど、まったくの偶然なのよね」
芝居がかった仕草でさっと右手を広げる。
「壁の護衛に当たる騎士から、最近、コモレヴィの森の洞窟にて亜人がこそこそ動いているという情報が届いたの。人界に通ずる洞窟は全て騎士長の指示で暴落させてはいるけど、そこを性懲りもなく掘り返す気かもしれないということで、私が確認に来たのです」
「……洞窟を……?」
二人は眉をしかめた。
分断の壁を貫く唯一の通路のうち、南、西、そしてコモレヴィの森にある洞窟はごく狭く、魔界の亜人などは時折そこから人界に侵入してくる。だが通れるのは亜人だけで、主力を成すオーガや巨人は通過できない。ゆえに魔界軍は壁に設置された《大門》に集結すると予想されたが、騎士長ヒサカゲは念を入れて、三箇所の洞窟を崩落させるよう命じた。
この地に赴いた当日にその任は実行したのだが、敵が洞窟を掘り返すとなれば状況は変わる。コドールの村は、平和な辺境から一転、真っ先に戦いの火蓋が切られる最前線となってしまう。
「それで……魔界の動きは確認できたんですか」
「丸一日かけて洞窟周辺を飛び回ったけど、亜人一人見かけなかった」
キクノは軽く肩をすくめ、続けた。
「おおかた、獣の群れを見間違えたんでしょう」
「……洞窟内部は確認しましたか?」
「ええ。魔界側から覗いたけど、天井まで岩で埋まってたわ。一切の隙間なく、ね。誰が埋めたか知らないけど、あれを掘り返すには大部隊が必要ね。……それを確かめ、中都へ戻ろうと手綱を引いたところ、時雨が妙に騒いでね。導かれるまま飛んだら、この場所に降りたってわけ。正直、私も驚いたわ。ここの担当者が君なのは知っていたけど、まさか会えるなんて思いもしなかったから」
いつの間にか芝居めいた口調を消したキクノは、剛直な騎士の貌になって続けた。
「いまこの時、再び相見える機会を得たからには言わせてもらいます。カズヤくん、セレナちゃん……騎士団に戻ってきてほしいの! 今の私たちには、あなた達二人の剣を必要としている!」
騎士の強い視線から逃れるように、カズヤは軽く眼を伏せた。
解っているのだ。
人界と魔界を隔てる壁が、もう限界に達しつつあるのは。人々の平穏が音を立てて崩れ落ちようとしていることも。大戦から民を守るために、騎士長と新生人界軍の苦闘も。
騎士長には返し尽くせぬ恩もあるし、俺も人界のために剣を取ると、一年前のあの日から決意している。
しかし、それだけでは戦えないのだ。
俺の肉体は意思力によって左右される。今のように不安定な状態では、あの時──邪教神との戦いのように、絶望的な戦力差を埋めるほどの実力を発揮できない。
「……できません」
かすかな声で、カズヤは答えた。
間髪入れず、キクノの鋭い声が響く。
「なんで」
「それは……お答えできません」
隣で同じように苦悶するセレナを一瞬だけ見てから答えると、高い鼻梁に悔しげな皺を寄せつつも、キクノはゆっくりと肩の力を抜いた。視線をテーブルに落としながら、呟くように独自する。
「……騎士長から聞いてはいるけど、確かに、今のあなたの弱り切った意思では、戦場に立たれても足手まといにしかならない。……迷いの正体も、容易に想像できるほど浅はかなものなのは火を見るよりも明らかです。ならば……」
返事を待たず、鞭のように鋭い視線を、隣に座るセレナに向ける。
「その迷いの源を、すぐにでも私が断って差し上げる。そうすれば、あなたも自分の全力を出せるに決まって……ッ!!」
テーブルの端を握る右手に力を込めるキクノの首元に、カズヤは焔天剣を突きつけた。
「やめろ……」
抑えた声量ではあったが、その一言を聞いた騎士はぴくりと上体を引く。
「騎士団に戻れない理由は、俺個人の問題です。未だ俺の中にある人間味のある感情が、俺の選択を阻害してるだけです。セレナ……騎士セレナは関係ない」
「それが、あなたの答えだって言いたいの? そんな個人的な問題は、何千万もの民の命よりも大切なものなの」
「……そうです」
苦々しい苦悶の表情のまま、首を縦に動かす。
「君は今の状況が解ってるの!! いつ魔界軍が人界への侵攻を開始するか分からない状況の中で、まだそのような迷いに翻弄されてるの!? あなたの剣一つで幾千万もの人々を救えるかもしれないのに、目の前の人間一人を守るために剣を取らないなんて、ふざけるのも大概にしなさい!」
降り積もる重い沈黙を、カズヤは穏やかな声で破った。
「……すいません、キクノさん。やはり今は、あなたと共には行けません。他の人は関係ない……俺自身の剣技が失せてしまった、ただそれだけです。多分、いまあなたと剣を交えれば、瞬殺されるでしょう」
キクノは、はっとしたように両眼を見開いた。誇り高き騎士の顔が、くしゃりと歪んだ。
やがてその顔に、諦念とかすかな悲壮を宿した微笑が浮かんだ。
「……そう。なら、もう何も言わないわ……」
一礼して立ち上がり、マントを大きく翻す。
「それじゃ、これにてお別れね。邪魔してごめんなさい。……あと、私を助けてくれた恩は、この騎士キクノ、生涯忘れないわ」
「待ってください。一つだけ、聞いていいですか?」
「……手短にお願い」
「……カムイさんを殺めた俺を、恨んでますか?」
怯えを隠しながら訊ねると、騎士は一瞬の瞑目の後に、壁に立てかけた激凍剣を見詰めながら答えた。
「我が師カムイ殿が選んだ答えを、弟子の私は信じるだけよ。その結果を招いた君のことは、一切恨んでいない」
「……そう、ですか」
「それじゃ、今度こそ……さようなら」
「……元気で。無事を祈ってます」
どうにかそれだけを口にしたカズヤにゆっくりと頷き返し、騎士はかつかつとブーツを鳴らして歩き去った。その背中は揺るぎない誇りに満ちていて、カズヤは眼を逸らすことしかできなかった。
扉が開き、閉じる。前庭で、時雨がひと声高く鳴き、羽ばたき音がそれに続いた。同族との別れを惜しむ戴天の鼻声が、カズヤの胸をちくりと刺した。
力強い羽音が遠ざかり、やがて消えても、二人は身動ぎひとつせずに座り続けた。
空になった皿を片手に、立ち上がる。流しに置いてから、終始無言で話を聞いていたセレナに声を掛ける。
「もう、寝ようか。さ、ベッドに入ろうか」
「……はい」
弱々しい返事と同時に把手を握り、隣接する寝室まで導く。部屋着を生成りの寝巻きに着替えさせてから、窓際のベッドに横たわらせる。
足許に畳んであった毛布を持ち上げて首元までかける。壁のランプを吹き消すと、室内は薄青い闇に満たされた。セレナの横に腰掛け、毛布からはみ出た右手を握る。
「ねぇ、カズヤ」
いつもならすぐに眠るはずのセレナから、消えそうなほどの声が発せられる。
「キクノ殿の話、あれって……」
「君が気にする必要なんてないんだよ。……さぁ、もう遅い時間だから寝るんだ」
結えた金髪を優しく撫でながら眠るよう促すと、それ以上何も聞かずに、そっと瞼を閉じた。
セレナの寝息が安定するまで待ってから右手から手を離し、ベッドからも離れる。そのまま居間に戻り、激凍剣を見詰め、瞑想する。
歩き去るキクノの背中が瞼の裏に残り、ちくちくと眼を刺激する。
今の俺に、彼女や彼のように、絶対に譲れない強固な意思など持ち合わせていない。
魔界の総攻撃が始まれば、遅かれ早かれ辺境の地であるこの村にも危険が及ぶ。そうなれば、ペックやシスター、教会の子供たちの命も危ない。
その惨劇を回避するには、特異点である俺と騎士セレナの力が必要不可欠になる。でも、今の脆弱に成り下がった俺では、守備軍の戦力にはなれない。
迷いを捨てたと言ったが、やはり俺の中にはまだ、脆弱な人間味のある感情が残っていた。そしてまた俺は、選べずにいる。
壁に立てかけた激凍剣を手に取り、鞘に額をぶつける。
「教えてください、カムイさん……。俺は…………」
問いかけに、答える声はない。
「俺は……どうすればいいんですか…………」
何故そんな中途半端な時間なのかというと──騎士として早朝の修練もあるが──カズヤの起床時刻が六時ちょうどだからだ。十分早く目を覚まし、ベッドに入ったまま、隣で眠る彼を見ているのが好きなのだ。
今朝も目覚めた後、そっと体をうつ伏せにして、両手で頬杖を突きながらカズヤの寝顔を眺めていた。
この小屋に二人で引っ越してきてから、もう一年近く経つ。一応任務ではあるが、カズヤと一年もの間、一つ屋根の下で衣食住を共にしたにも関わらず、まだまだ知らないことが多い。それは寝顔ひとつとっても言えることで、こうして眺めていると、だんだん心安らいでいく。
普通は飄々とした物腰で掴み所がないくせに、深い眠りに落ちている時のカズヤには、無邪気と言っていいほどのあどけなさがある。
ほんと、幸せそうに眠るわね。そう思いながら、セレナはそっと手を伸ばし、眠るカズヤの頬に触れた。
カズヤの強さについては今更疑うことは何もない。騎士に劣らない途方もない経験と、絶え間ない努力と、それらを支える意思力。全てが騎士をも凌駕する彼が傍らにいる限り、不安なんて微塵も感じない。
しかし、寄り添って横たわるカズヤを眺めていると、なぜか彼が傷つきやすいナイーブな弟でもあるかのような気持ちがきゅうっと胸の奥に湧き上がってきて、抑えられなくなる。守ってあげなくちゃ、と思う。
そっと息をつきながら、セレナは身を乗り出し、カズヤの体に腕をまわした。かすかな声で囁きかける。
「このまま、ずっと一緒にいたいです」
その途端、カズヤがわずかに身動きし、ゆっくりと瞼を開けた。二人の視線が至近距離で交錯する。
「わっ!!」
セレナは慌てて飛び退った。ベッドの上にぺたんと正座して、顔を真っ赤に染めながら言う。
「お、おはよう。……いまの……聞いてた……?」
「……? なんか言ってた?」
上体を起こし、欠伸を嚙み殺しながら聞き返すカズヤに向かって、セレナは両手をぶんぶんと振り、適当に話題を逸らした。
「なんでもないから! そうだ、朝食にしましょう」
洗い終えた皿を水切り籠に立て、制服の裾で手を拭きながら、カズヤはふと顔を上げた。
小さな硝子窓の向こうに見える樹々の梢は、ここ数日の冷え込みで、赤や黄に色づいていた葉をかなり散らしてしまった。やはり中都に比べると、冬の訪れが早い。
それでも、久しぶりの青空から降り注ぐ太陽の日差しはぽかぽかと暖かそうだ。正面の樹の太い枝では、ムーンラビットのつがいが身体を寄せ合って、気持ちよさそうに日光浴をしている。
微笑みながらその様子をしばし見入っていると、悲しい思い出が蘇ってくる。それを振り払うように振り向き、言った。
「なぁ、今日はいい天気だから、東の丘まで行ってみようぜ」
丸太小屋の、居間と食堂、台所を兼ねた部屋の真ん中には、飾り気のない白木のテーブルが置かれている。
同じく簡素な椅子の片方に腰掛けるのは、一年前から共に暮らしている女騎士。カズヤの呼びかけに顔を上げ、太陽よりも眩しい笑顔をこちらに向けながら、ゆっくりと頷いた。
「既にお弁当の準備は出来てますよ」
そう言うと椅子を横に動かし、テーブルの上に置かれた籐籠を見せつけてきた。中には、美味しそうな昼食がぎっしりと敷き詰められている。
「さすがセレナ。俺の考えは予測済みってわけか」
調子のいい捨て台詞を放ち、隣の寝室に向かう。セレナの装飾品を適当に見繕ってから居間に戻る。
居間では、出掛ける支度を済ませたセレナが待ち遠しそうにしていた。
長い金髪を後ろでまとめて、綿のスカーフで覆い、小脇に抱えた毛織りの外套を羽織らせる。
「いつもごめんね、カズヤ」
「気にすんなって。あとは……」
そう声をかけ、急いで部屋の片隅へと走る。
そこに置いてあるのは、明るい茶色の木材でこしらえた頑丈な椅子だ。四本の脚の代わりに、大小二組の鉄製の車輪がついている。コモレヴィの森にある大木を切り倒し、試行錯誤して作り上げた車椅子だ。
その車椅子の、背もたれについている握りを持ってごろごろと女騎士の背後まで移動させる。革の座面に座らせて、分厚い膝掛けで両脚を少しキツめに覆ってやる。
「よし! じゃあ、行こうか」
ぽん、と騎士の両肩を叩いてから、握りを摑んで、部屋の南にある扉へと車椅子を転がしかけた時だった。
「あ、ごめん。ちょっと忘れ物した」
一言断ってから、壁の頑丈な金具に掛けられた三本の剣を眺める。
右側に、セレナの所有する白銀の長剣、《華焔剣》。
左側に、常に腰に帯びていた漆黒の長剣、《焔天剣》
そして真ん中には、英雄が所持していた純白の長剣、《激凍剣》。
カズヤはまず、焔天剣を壁から外し、左腕に抱えた。
次に、激凍剣を見詰める。毎日手入れを怠っていないが、いつ見ても惚れ惚れするほどの光り輝いている。
しかし、手入れ以外で鞘から抜き放たれることはないだろう。この剣の所有者であり、カズヤの中で最も尊敬する騎士は、いまはもういない……。
一瞬瞑目してから、焔天剣を持って車椅子のところに戻る。膝に剣をそっと載せると、騎士はその上に左手を置き、楽な姿勢に入った。
「しっかり持っててくれよ」
カズヤはそう声を掛けて、重みを増した車椅子を押し、扉から外に出る。
ポーチから地面までは、階段ではなく分厚い板を渡してある。その方が移動も楽だし、乗ってるセレナに負担が掛からなくて済むから。
そこを通って庭に降りると、ひんやりした微風と、穏やかな日差しが二人を包む。
丸太小屋は、コモレヴィの森の奥にぽっかりと開けた草地に建っている。カズヤが自分で木材を切り出し、皮を剥ぎ、組み上げたものだ。見栄えは良くないが、造りはしっかりしている。
この草地は、カズヤがこの世界で目覚めた時にいた場所だ。偶然か必然がここは、任務地に赴くのに最適な場所に位置している。
村の人々には、とある事情でしばらく森に身を置くことになったと説明してある。村の人々は、森ではなく村に住めばいいと言っているが、並々ならぬ事情があると言って断ってしまった。
「……さてと、行きますか」
一瞬の物思いを振り払ってそう声を出すと、カズヤは家の前から車椅子を進ませた。
差し渡し三十メートルほどの円形の草地はほぼ全面が柔らかな下生えに覆われているが、東側の一角、大きく張り出した枝の下には枯れ草が二つ厚く積み上げられている。まるで巨大な生物の巣のよう──実際はそうなのだが、いまは巣の主の姿はない。ちらりとそちらを見やり、今日はどこに遊びに行っているんだろうと考えながら、草地を南北に貫く小道を抜けて森へと入る。
道は、五十メートルほど先で東西に分かれている。西に行けばコドールの村があるが、用もなく訪れる気はない。東の道に入り、地面できらきら揺れる木漏れ日を踏みながら歩き始める。
十月も終わりに近づき、紅葉から落葉の季節へと移ろいつつある森の中を、ゆっくりと進む。
「いい景色ね」
「ああ。そうだな」
「……ねぇ、そんな格好で寒くない? 一応、あなたの分も持ってきてあるけど」
セレナは、いつの間にか持ってきていた外套をこちらに見せると、首を傾げながら答えを促してきた。
「俺は大丈夫だから、それはセレナが使って」
「……そう。あなたがそう言うなら、遠慮なく使わせてもらうけど。寒くなったら、遠慮せずに言ってね」
彼女の気配りに「はいはい」と適当に相槌を打ってから、肩越しに覗き込み、外套の襟元がしっかり閉じているのを確認する。
本当は冬場に制服だけは少し寒い。しかし、俺よりも少し薄着のセレナから厚着を貰うわけにはいかない。
もちろん、炎素を一つ生成すれば容易く暖を取れる。しかし、コドールにはカズヤたちを胡散臭く思っている村人もいるので、魔術を濫用し、空間魔素を無意味に浪費してるという噂を立てられるのは避けたい。
踏み固められた道に新たなわだちを刻みながら十五分ほども歩くと、行く手が明るくなってくる。木立が切れると、前方に小高い丘が姿を現す。道は少しずつ上り坂になるが、カズヤは車椅子を苦もなく押し上げていく。
丘の頂上に辿り着くと、一気に視界が開ける。
すぐ東に、川の水源の水面。その奥には、広大な湿地帯。南にはどこまでも森が続く。
北を見れば、真っ白に雪を被った《分断の壁》がそびえ立っている。かつてあの向こう側で、亜人混合部隊と戦ったのは遠い夢のようだ。
「綺麗。何度見ても、本当に綺麗な景色ね」
微笑みながら発したセレナが、小さく身震いする。やはりもう少し持ってくれば良かったか、と思いながら車椅子の隣に並び立ち、セレナの小さな右手の上に自分の手を重ねる。
「いまは、これで我慢してくれるか?」
「……ありがとう。とっても暖かいわ」
互いに微笑み返し、騎士の名を呼ぶ。
「あなたも見てますか。……カムイさん」
一羽の白い水鳥が、川の水源に点々と波紋を作りながら滑走し、飛び去っていった。
邪教神との戦いから、もう一年も経つ。
俺とセレナは、カムイさん、スコッド、飛竜の遺体を埋葬したのち、フロリダを連れて教会へと帰還した。
教会で事の全てを騎士長に説明したあと、全てを聞き終えると、大きく包み込むような声でひと言発した。
ご苦労だったな、カズヤ、と。
俺が騎士カムイを殺めたことを知りながらも、騎士長は一つの罰も与えずに、俺の労をねぎらってくれた。
その後、邪教神から得た情報──人界に攻め入る時期や死邪についてなどを話した後に、セレナの足の治療を頼もうと創世神の元へ赴いた。
だが、どうゆうわけか、《神の庭園》に通ずる扉は硬く閉ざされていた。
仕方なく騎士長の元へ戻り、セレナの足を治療してほしいと頼んだ。そのお陰で右足は動くようにはなったのだが、別の問題が発生した。
その問題は、セレナ自身にあった。
どうやら本人は、右足を切られたショックが抜けておらず、恐怖で動かせなくなってしまったらしい。最初は悪い冗談でも言っているのかと思ったが、今考えれば無理もない。
騎士以前に、セレナは俺となんら変わらない歳の女の子だ。戦場に身を置いているから、同年代の子よりかは度胸も肝も座っているが、殺される恐怖までは知らない。
ましてや一騎当千の騎士となれば、命が危うくなる状況自体稀だ。当然、初めて味わう恐怖に心が屈してしまうのは仕方がない。事実、俺も同じような体験を過去に何度もしている。
外傷などは適切な処置を施せば、時間と共に消えていくのだが、精神の不調はそう簡単にはいかない。
トラウマを完璧に無くすのは、長い時間落ち着いた環境に身を置き、ゆっくりと心を休めて忘れる以外に治療方法はない。
教会内は大戦に向けて日々騎士団が守備軍の指導に明け暮れているため、とてもじゃないが落ち着いた環境とは言えない。少なくとも、戦いとは無縁の地──辺境の地じゃなければいけない。
そんなセレナを見兼ねてなのか、騎士長は俺に任務を言い渡してきた。
カズヤ。お前と嬢ちゃんに、壁の護衛を任せたい、と。
任務地の場所などの指定はなく、また期限もなかったため、俺は最初困惑した。
しかし、すぐに騎士長の意図を察したカズヤは、教会内での仕事が一段落したあとに、セレナを連れて中都を去った。
任務地は既に決まっていた。
それが、コドールの村付近の森だった。
たとえ記憶を失っていようとも、セレナの生まれ故郷に暮らす人々ならば、彼女を迎え入れてくれるのではないかという一縷の望みを抱いて飛竜の手綱を北へと向けた。
セレナの体をいたわりながら少しずつ飛んだので、村に辿り着くまでに三日間を要した。
村人を脅かしてしまわないように森に降り、そこで荷物を守っているよう飛竜に命じてから、セレナを背負って徒歩で村を目指した。
約二年ぶりに見る懐かしい情景を目に焼きつけながら森を出て、麦畑を抜ける小道に入ると、何人かの村人たちと行き逢った。しかし彼らは驚くような、怪しむような顔をするばかりで、声を掛けてくる者はいなかった。
高台に築かれたコドールの村に到着し、木製の門を潜ろうとしたその時、そばに建つ詰め所から大柄な衛士が飛び出してきた。カズヤの行く手を塞ぐや、
──貴様、この村の者ではないな。よそ者が村に入ることは許さんぞ。
これ見よがしに腰の剣に手を置いた衛士は、カズヤに背負われたセレナを見ると、訝しそうな表情になった。この子は、と呟いてから改めてカズヤを凝視し、やがて眼と口を丸くした。
──きみは……まさか。
その言葉を聞いて、カズヤは少しばかりほっとした。村を旅立った俺のことを覚えていたらしい衛士に、言葉を選びながら告げた。
──二年ぶりですね、衛士さん。失礼ですが、村長を呼んでもらえませんか?
警戒させないように笑顔を浮かべながら頼み込むと、衛士は何度か口をぱくぱくさせてから村の中へと駆け込んでいった。待ってろとは言われなかったので、カズヤは門を潜り、衛士が走っていったほうへと歩を進めた。
昼下がりの村は、たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎになった。さして広くない道の両側を埋めた何十人もの村人たちは、通り過ぎるカズヤとセレナを見るや一様に驚きの声を上げた。
だが、彼らの顔に、帰郷を喜ぶような表情はなかった。それどころか、金属鎧を身につけたセレナと、腰に二刀の剣を携えたカズヤを訝しみ、警戒し、恐れてさえいるようだった。
緩い上りの道は、やがて活気盛んな円形の広場に合流した。
中央には噴水と井戸、北側にはセレナが暮らしていた小さな教会があった。カズヤが広場の入り口で立ち止まると、遠巻きにした村人たちがひそひそと不安顔で言葉を交わした。
数分後、東側の人垣が割れ、その奥から村長が近づいてきた。
村長は、少し離れた場所で立ち止まると、まったく表情を動かさずにセレナとカズヤを順に凝視した。
十秒ほどしてから、低いがよく通る声が発せられた。
──カズヤくん、なのか。
その問いに、カズヤは「はい」とだけ答えた。しかし村長は、歩み寄るでも手を伸ばすでもなく、いっそう厳しい声で問いかけを重ねた。
──君が帰ってきたのは嬉しいが、学園はどうした。そして、なぜセレナがここにいる。彼女の罪は赦されたのか。
今度は、すぐには答えられなかった。セレナが犯した罪が何なのか、それが赦されたのかそうでないのか、俺には解らなかったからだ。
一年前、セレナは村で禁書目録違反を犯した。具体的に何をしたのかまでは知らされていない。
そんなことを考えながら、カズヤは村長の眼を真っ直ぐに見詰め返しながら答えた。
──俺は、学園内で殺人の罪を犯したため、教会に連行されました。そして、そこでセレナと出会った。……今の俺たちの罪が赦されたのか、俺には解りません。ですが、今のセレナには、この村の他に行くべきところがないんです。
それは、カズヤの偽らざる本心だった。
村長は瞼を閉じ、口許と眉間に深い皺を刻んだ。だが、少しして顔を上げた村長が鋭い眼光とともに告げたのは、冷厳たる言葉だった。
──この村に、罪人を置くつもりはない。今すぐ、わしらの目の前から去れ。
どれくらい座っていただろうか。
セレナが用意した軽めの昼食を食べ終え、一年前の記憶を思い出しているうちに、太陽はかなり高いところまで昇っていた。
「冷え込みそうだから、戻りましょうか」
「ああ。……ついでに、村で買い物してこうぜ。食材も減ってきたし」
立ち上がり、そう声を掛けながら車椅子の把手を握った時だった。
さくさくと草を踏みながら丘を登る複数の軽やかな足音に気付き、二人は振り返った。
近づいてくるのは、小さな子供たちと黒い修道衣を着た老婆、一人の青年だった。いまだ幼さが残る可愛らしい顔に輝くような笑みを浮かべながら、勢いよく右手を振っている。
「カズヤ兄ー! セレナー!」
弾むような声が微風に乗って届き、セレナも口許を綻ばせつつ小さく手を振り返した。
最後の十メートルを飛ぶように駆け上ってきた子供たちは、足を止めると数秒かけて息を整え、もう一度明るい声で言った。
「二人とも、こんにちは!」
可愛らしくお辞儀をする子供たちに微笑みながら、セレナはそっと右手を頭に置いた。
「こんにちは。よくここにいると判ったわね」
彼らは、二年前まで私がお世話になっていた教会に住む、身寄りのない子供たちだ。カズヤから彼らやシスターの存在を知らされてから、ひたすらに会える時を待ち焦がれてきた。
しかし、こうして願いが叶ったいま、彼らを愛おしく思えば思うほど、この自分に──教会にいた見習い修道士セレナではない、騎士としての私に、彼らに触れ合う資格があるのだろうかとも考えてしまう。
そんなセレナの絶えざる葛藤に気付いているのかいないのか、子供たちは屈託なく笑いながら言った。
「どうせカズヤ兄のことだから、天気が良いから東の丘に行こうって言ったんでしょ」
「カズヤ兄は単純だから、すぐに判ったもんねー」
あははと笑う子供たちに、セレナも笑顔で言い返した。
「そういうこと言わないの。カズヤだって、たまには難しいことだって考えてるわよ」
「あー、セレナがカズヤ兄のこと庇ってるー。恋人を茶化されて怒ってるんだー」
こら、と額を指先でつつこうとすると、素早くその手を躱した子供は、そのままセレナの胸に飛び込んできた。胸元にぎゅうっと顔を押し当てる子供の背を、優しく引き寄せる。
この瞬間だけは、心にのしかかる重圧から逃れたいと強く願う。
今朝の願い──騎士の責務を放棄し、カズヤとこのまま静かに暮らしたいと願う罪悪感を忘れられたら、どんなにほっとするだろう。しかし同時に、絶対に忘れられるものではないこともセレナには解っている。最愛の子供たちと抱き合っているこの瞬間にも、分断の壁の向こうから、終わりの時が刻一刻と近づいてきているのだから。
子供たちと戯れる様子を眺めながら、付き添いと護衛としてやってきた二人──教会のシスター・マムと村長の息子のペックと向き合った。
「ご足労頂き、申し訳ありませんでした。シスター・マム」
厳格な風貌をした老婆に深々と頭を下げてから、隣に立つペックに顔を向け、こちらにも頭を下げる。
「ペックも、子供たちの護衛ありがとう」
こちらは、照れ臭そうに頬を掻いてから「礼なんていいよ」と言い、肩を軽く叩き顔を上げるよう促してきた。
「気にすんなよ。どうせ暇なんだから」
「ペックさん、あなたは暇ではないでしょう。今日は村長の畑の手伝いをするはずだったのでは?」
「ちょ、マムさん。それは言わない約束でしょう」
焦りながら口止めようとしている光景を微笑みながら傍観する。
二人は、村から離れて生活する俺たちを陰ながら支えてくれている。
撤廃されたとはいえ、禁書目録違反を犯した罪人二人が、かつて村で暮らしていたことを知っている村人の多くは、俺たちのことを快く思っていない。
それでも、シスターとペックは俺たちに力を貸してくれた。
以前の事件で衛士見習いから解雇され、今では村長の畑を手伝っているペックは、週に一度、畑で取れた野菜を届けに来てくれる。
シスターは生活必需品を定価的に届けたり、時折子供たちを連れてセレナに会いに来てくれるなど、感謝してもしきれないほどの助力をしてくれている。
「しかし、今でも信じられませんね。まさかセレナが、記憶喪失なんて」
シスターの放った単語に、一瞬だけ反応する。
非常に申し訳ないが、セレナは禁書目録違反を代償として過去の記憶を失ったという嘘を、村人全員に教えてある。
本当のことを伝えようかと思ったが、それを教えること即ち、騎士という存在が偽りであることを伝えるのと同義になってしまう。
天界の騎士が虚構の存在などと知られれば、村人は一斉にパニックを起こしかねない。来たる大戦を前に、余計な不安は煽りたくない。
「そうですね。俺とした結婚の約束も忘れてそうですし」
「それは元からしてないだろ」
根も葉もない約束を指摘してから、表情を曇らせたシスターが発した。
「カズヤくん。セレナはまだ、昔の記憶を取り戻していないのですか?」
その質問に、わずかながら心が痛んだ。
生活を支えてくれている二人になら、本当のことを伝えてもいいのではないか、と考えた。
だがカズヤは──。
「……すいません。教会での記憶はお伝えしてありますが、それは思い出した記憶ではなく、付け加えた記憶です。……彼女自身はまだ、記憶を取り戻していません」
「そう、ですか……」
残念そうに顔を歪めたが、すぐにいつも通りの声音で言った。
「焦っても仕方ないですね。地道に待たせてもらいます」
「……彼女を信じてあげてください。そうすればきっと、全部思い出してくれます」
胸中から込み上げる罪悪感を必死に押し殺しながら、どうにか平静を装いながら放つ。
……覚悟だけはしておこう。いつか、真実を明かす時の、覚悟を。
「そろそろ戻ろうか、セレナ」
「……ええ」
頷き、抱擁を解いたセレナは、しばらく子供たちを見詰めていたがすぐに明るい笑顔を取り戻した。
「分かれ道まで、私が押してあげます」
シスターがそう宣言するや、セレナが座る車椅子の後ろに立ち、年季の入った両手で把手を摑む。それを見ていた一人の少女が、笑いながらセレナの膝の上に座ってきた。
「じゃあ、私はセレナの膝の上にいるー」
椅子そのものが相当に重い上に、人ひとりと、子供の重量が載ってしまうと、シスターでは荷が重いのではないか。しかも力仕事をしない修道士にはなおさら──とカズヤは考えたが、車椅子は難なく動き始めた。
「下り坂だから、気をつけてね」
膝の上になる少女を抱きしめながら言うと、少女は「ならもっと抱き締めて」と言い、更に密着した。
そんな様子を後ろではらはらしつつ見守っていると、隣を歩くペックの表情の奥にかすかな翳りがあることに気付き、カズヤは首を傾げる。
「どうした、ペック? 悩みでもあるのか?」
訊ねると、しばらく躊躇ってから口を開いた。
「カズヤ……お前だけでも、村に戻ってくる気はないか?」
その台詞の意味はすぐに理解できた。
そして俺は、すぐに答えた。
「ありがたいけど、遠慮しとくよ」
「な、なんでだよ。今の生活は苦しいだろ。村に来て俺と一緒に畑の手伝いをすれば、少なくとも今よりかは楽な生活が出来るんだぞ」
実際、ペックの提案は理に適っている。
現在の財政状況では、わずか一銅貨といえども森に落としたら大変なことになるほど深刻な状況だ。買い物に行く時以外はお金は恐れ多くて持ち歩けない。
村人の手伝いをすることで薄皮一枚が繋がってはいるが、安定しない収入のためかなり不安ではある。ペックの提案通り、村長の畑で働けば今よりも収入は増えるし、運が良ければ農作物を分けて貰えるかもしれない。
魅力的な条件ばかりではあるが、やはり俺は首を縦に動かすことが出来なかった。
まだ納得できないペックを諭すように、カズヤは落ち着いて言った。
「約束したんだよ。毎日、ご飯は一緒に食べるって」
稼いだ資金で一週間分の食材を買い込み、森の小屋へと帰りつく頃には、空はすっかり夕焼けの色に染まっていた。
小屋のポーチに上がろうとしたところで、ぶうんと低い風切り音が近づいてくるのに気付く。車椅子ごと少し下がり、草地の中央付近で音の源を待ち受ける。
やがて、木々の梢を掠めんばかりの低空から姿を現したのは、巨大な両翼に長い首と尾を持つ二匹の大型獣──飛竜だ。片方はセレナの飛竜で、もう片方は俺の飛竜だ。名前は戴天。
飛竜は、草地の上空を二度旋回してから、ふわりと降り立った。翼を畳むと長い首を伸ばし、まずセレナの胸に鼻先を触れさせてから、カズヤに大きな頭をすり寄せてくる。セレナの飛竜は、俺になど脇目も振らずにセレナは胸に頭をすり寄せている。
首下の、仄かに赤みがかった和毛を掻いてやると、戴天はくるるると低く喉を鳴らした。
「戴天、お前、少し太ったな。また川の魚をたくさん食べただろ」
微笑み混じりにそう叱ると、ばつが悪そうにふうっと鼻から息を吐き、長い体を回して小屋の東側にある寝床へと歩いていく。枯れ草を分厚く敷き詰めたベッドの上で、首に尾を絡めるようにして丸くなる。
去年はまだ肩に乗るほどの幼竜が、一年経つだけで飛竜となんら変わらないサイズにまで成長したのは素直に驚きだが、まだ精神的な面は熟していないのか、あの巨躯でもよく甘えてくる。
自分で草を集めて寝床を作り、日中はセレナの飛竜と一緒に森で遊んだり、川で魚を獲ったりしているようだが、夕暮れには必ず戻ってくる。
誇り高い守護竜の生き残りとはいえ、未だ俺のことを親同然に思ってくれているのは素直に嬉しいのだが、森の上空を飛翔する姿が時折村人に目撃され、俺たちの芳しからぬ評判の一因となっている。
枯れ草の上で低い寝息を立て始めた戴天と飛竜におやすみと言ってから、カズヤは車椅子を押して小屋に入った。
テーブルの上に置かれた新鮮な野菜や、村で買ってきた食材を手に取り、夕食の準備をする。
最初はカズヤと一緒に家事をしていたが、半年も経てばそれなりに上達はする。のだが、料理の腕だけはいかんともしがたい。カズヤが村の雑貨屋で買ってきた包丁は華焔剣に比べて頼りなくて、こわごわ材料を切るだけで二十分や三十分はすぐに経ってしまう。
教会で暮らしていた頃は、大食堂のテーブルに所狭しと並べられた最高級の素材で拵えた料理を気ままにつつくような食事をしていた。だから、家事は愚か、料理などしたことはない。
見習い修道士のセレナは、家事も料理も完璧だったと聞かされた時は、たった一つ道が違うだけでここまでの差が開くなんて、と本気でショックを受けた。
今では時折──ほぼ毎日カズヤと一緒に料理をしている。カズヤは学園に籍を置いてる時、同室の男子生徒と一緒に何度か料理したことがあると言っていた。
カズヤの教えで簡単な料理は作れるようにはなったが、一食作るのに相当の時間を使ってしまう。
夕食には、豆と肉団子のシチューを作った。少しばかり豆が硬く、だんごは大きさが不揃いだったが、味はずいぶんとまともになってきた気がする。もちろん、カズヤは毎回「美味しい」と言うばかりだ。
「ごめんね、待たせちゃった?」
シチューの盛られた皿を片手に居間に入る。
そこでは、真剣な表情で激凍剣を手入れするカズヤの姿があった。
一年前から、彼は夕食前に激凍剣を手入れしている。所有権がカズヤにあるが、使用しない場合は常に鞘に収めていれば手入れをする必要はない。
だが、カズヤはそれでも毎日手入れをしている。それが剣に対する礼儀であり、今は亡き所有者への感謝だから……。
「……カズヤ。ご飯、置いておくわね」
この作業に入ったカズヤは、外部からの音に一切反応しなくなる。必死に語り合っているのか、剣に残された記憶を覗き見ているのかは分からないが、手入れの最中は何があっても剣から目を離さない。
車椅子の車輪に手をかけ台所に戻り、自分の分のシチューを盛ってから居間に戻る頃には、カズヤは何食わぬ顔でシチューを食べていた。
「昼食の時もだけど、大分料理の腕上げたな。今日のも美味しいよ」
先程までの真剣な表情とは打って変わって、まるで幼い子供のようにそう言われると、こちらまで頰が緩んでしまう。
「一年も一緒に生活してて、あなたの口から一度も不味いなんて聞いたことないけどね」
「だって美味しいんだもん」
あっという間にシチューを平らげてからさりげなく呟き、皿を流しへ持って行く。
最初の頃はカズヤの助力があっても料理に失敗して、黒焦げの物体を何個も生成してしまった。
だがカズヤは、それらを全て嫌な顔一つせず完食していた。しかも笑いながら「美味しかったよ」と言ってくれた。
細かい気配りや優しさもまたカズヤらしいと思うが、たまには本当のことを話してもらいたい時はある。
カズヤの元いた世界についてとか、そんな難しい話ではない。せめて、何が好物で何が嫌いなのかを教えてもらえれば、と思うものの、考えてみれば彼と話らしい話をした時間は凄く短い。丸太小屋に住んでから、真剣な話をしたのは初日だけ。それ以外は全部村での話しかしていない。
私が騎士であったことを忘れさせようとする様に、必死に話題を逸らしている気がしてならない。いや、もしかしたら本当に、カズヤは…………。
時間をかけてシチューを食べ終えたセレナを、椅子ごと小型ストーブの傍まで移動させ、流しで食器類を洗って籠に並べている時だった。
不意に、いつもなら夜明け頃またね静かに眠っているはずの戴天が、窓の向こうでルルルッと低く鳴いた。
はっと手を止め、耳を澄ませる。森を渡る夜風に混じって、季節外れの木枯らしのような音が聞こえる。薄く大きな翼が風を切る音。
「…………!」
台所から飛び出し、壁に立て掛けてある焔天剣を手に取る。
「どうしたの?」
ストーブの前で温まっているセレナが、首を傾げながら訊ねてきた。
「誰か来た。俺が出るから、セレナはここで待ってて」
それだけ言い残し、玄関扉を開ける。再び耳をそばだてて、風切り音が近づいていると判断するや、前庭に降り立って夜空を仰ぎ見る。
満天の星空を背景に、螺旋を描いて舞い降りてくる黒い影は、間違いなく飛竜だ。念のために草地の東を見るが、もちろん戴天は寝床にうずくまったまま空を見上げている。
「まさか……」
魔界の暗黒騎士が壁を越えてきたのかと考え、自作した鞘に収まる愛剣を抜刀しようとした時、月明かりを受けて竜の鱗がきらりと金色に輝くのが見えた。わずかに肩の力を抜く。金鱗を持つ飛竜を駆るのは、世界広しといえども教会の騎士だけだ。
しかし、安心するのはまだ早い。いったい誰が、何のためにこんな辺境にまで飛んできたのか。まさか、もう俺たちの力が必要になる事態にまで進展してしまったのか。
カズヤの緊張を感じたのか、戴天も寝床から這い出てくると、首を高く持ち上げてもう一度唸った。しかし、威嚇的な低音はすぐに消え、代わりにきゅうんと甘えるような喉声を響かせる。
その理由は、カズヤには解らなかった。
更に三度旋回してから、草地の南側に着地した飛竜は、セレナの飛竜とよく似た色合いの和毛を首の周りに生やしていた。
しなやかな身のこなしで地面に降り立った、漆黒の鎧兜に身を包む騎士に、カズヤは強く息を呑んでから、硬い声で呼びかけた。
「……まさか、あなたが出向くなんて思いもしませんでしたよ。キクノさん」
脱獄時に一時的な共闘関係を結び、騎士カムイの弟子である天界の騎士は、すぐには声を発さず、右手を胸にあてがってまずは深々と一礼した。
体を起こし、おもむろに兜を外す。艶やかな黒長髪がふわりと夜風にたなびき、都会的な華やかさを持つ美貌が露わになる。高く滑らかな声で──。
「久しぶりね、カズヤくん。初めて会った時は可愛らしかったけど、今は凛々しくなったわね」
カズヤはため息を呑み込みながら、焔天剣を握る手を一切緩めずに答えた。
「傷はすっかり癒えたようで何よりですが、性格は変わっていませんね。キクノさんらしいといえば聞こえはいいですが、言い方を変えてしまえば、全然成長してませんね」
うぐっ、と妙な音を出すキクノに背を向け、小屋へと歩き出す。
「君も、その憎まれ口は変わってないわね」
「変える気がないので。とにかく、重要な話があるから来たのでしょう。話は中で聞きますから上がってください」
新しい同族との出会いに、嬉しそうに首をこすり合わせている戴天と金竜をちらりと見上げてから、カズヤは足早に小屋に戻った。
おとなしく付いてきたキクノは、狭い小屋の中を物珍しげに見回したから、ストーブの傍らにいるセレナに視線を留めた。
「あなたは、キクノ殿。怪我はもう大丈夫なのですか?」
驚愕の声を上げながら呼ぶと、キクノは嬉しそうに手を振って返した。
「久しぶりね、セレナちゃん。私の心配よりも、自分の心配した方がいいも思うけど……」
そう言うとキクノは、セレナの右脚に視線を落とした。現状までは知らないだろうが、流石に察しはつくのか、と考えながらテーブルの奥に滑り込み、キクノが座る椅子を引く。
「あら、意外と紳士的ね」
馬鹿にするような言動をため息で返答し、セレナの椅子をテーブル前に持ってきてから隣の椅子にすとんと腰を降ろす。
「……話は聞いていたけど、まさか本当に二人で暮らしていたのね」
「任務ですから」
素っ気なく答えると、悪戯に頰を緩ませたキクノが、後ろの台所にある鍋を指差しながら言った。
「ところで私、急ぎの旅だったから、夕食をまだ食べてないのよね」
「……携帯食があるはずでは?」
「私、あのパサパサした奴は一生食べないって創世神様に誓ったから。あんなもので腹を満たすくらいなら、民が食すパンを食べた方がましというもの……」
キクノの益体もない返答を最後まで聞かずに、カズヤは椅子を立った。台所に移動すると、かまどに載った鉄鍋からシチューの残りを木皿によそい、テーブルに戻る。
「…………つかぬことを伺わせてもらうけど、これはどっちが作ったのかしら……?」
「セレナです。それがどうかしましたか」
「…………いや。ちょっとだけ意外だなぁ、って思って」
緊張した表情で匙を握り、豆を口に運ぶ。
もぐもぐ口を動かすキクノに、カズヤは改めて問い質した。
「それで、どうやってこの場所を探り当てたんですか? 俺たちを探すために、中都から人界全土を飛び回る余裕なんて、いまの騎士団にはないでしょ」
キクノはしばらく答えず、結構美味しいじゃない、などと呟きながら盛んに匙を動かしていたが、やがて綺麗になった皿から顔を上げると、どこからともなく取り出した手巾で口を拭ってから真っ直ぐにカズヤを見た。
「残念だけど、まったくの偶然なのよね」
芝居がかった仕草でさっと右手を広げる。
「壁の護衛に当たる騎士から、最近、コモレヴィの森の洞窟にて亜人がこそこそ動いているという情報が届いたの。人界に通ずる洞窟は全て騎士長の指示で暴落させてはいるけど、そこを性懲りもなく掘り返す気かもしれないということで、私が確認に来たのです」
「……洞窟を……?」
二人は眉をしかめた。
分断の壁を貫く唯一の通路のうち、南、西、そしてコモレヴィの森にある洞窟はごく狭く、魔界の亜人などは時折そこから人界に侵入してくる。だが通れるのは亜人だけで、主力を成すオーガや巨人は通過できない。ゆえに魔界軍は壁に設置された《大門》に集結すると予想されたが、騎士長ヒサカゲは念を入れて、三箇所の洞窟を崩落させるよう命じた。
この地に赴いた当日にその任は実行したのだが、敵が洞窟を掘り返すとなれば状況は変わる。コドールの村は、平和な辺境から一転、真っ先に戦いの火蓋が切られる最前線となってしまう。
「それで……魔界の動きは確認できたんですか」
「丸一日かけて洞窟周辺を飛び回ったけど、亜人一人見かけなかった」
キクノは軽く肩をすくめ、続けた。
「おおかた、獣の群れを見間違えたんでしょう」
「……洞窟内部は確認しましたか?」
「ええ。魔界側から覗いたけど、天井まで岩で埋まってたわ。一切の隙間なく、ね。誰が埋めたか知らないけど、あれを掘り返すには大部隊が必要ね。……それを確かめ、中都へ戻ろうと手綱を引いたところ、時雨が妙に騒いでね。導かれるまま飛んだら、この場所に降りたってわけ。正直、私も驚いたわ。ここの担当者が君なのは知っていたけど、まさか会えるなんて思いもしなかったから」
いつの間にか芝居めいた口調を消したキクノは、剛直な騎士の貌になって続けた。
「いまこの時、再び相見える機会を得たからには言わせてもらいます。カズヤくん、セレナちゃん……騎士団に戻ってきてほしいの! 今の私たちには、あなた達二人の剣を必要としている!」
騎士の強い視線から逃れるように、カズヤは軽く眼を伏せた。
解っているのだ。
人界と魔界を隔てる壁が、もう限界に達しつつあるのは。人々の平穏が音を立てて崩れ落ちようとしていることも。大戦から民を守るために、騎士長と新生人界軍の苦闘も。
騎士長には返し尽くせぬ恩もあるし、俺も人界のために剣を取ると、一年前のあの日から決意している。
しかし、それだけでは戦えないのだ。
俺の肉体は意思力によって左右される。今のように不安定な状態では、あの時──邪教神との戦いのように、絶望的な戦力差を埋めるほどの実力を発揮できない。
「……できません」
かすかな声で、カズヤは答えた。
間髪入れず、キクノの鋭い声が響く。
「なんで」
「それは……お答えできません」
隣で同じように苦悶するセレナを一瞬だけ見てから答えると、高い鼻梁に悔しげな皺を寄せつつも、キクノはゆっくりと肩の力を抜いた。視線をテーブルに落としながら、呟くように独自する。
「……騎士長から聞いてはいるけど、確かに、今のあなたの弱り切った意思では、戦場に立たれても足手まといにしかならない。……迷いの正体も、容易に想像できるほど浅はかなものなのは火を見るよりも明らかです。ならば……」
返事を待たず、鞭のように鋭い視線を、隣に座るセレナに向ける。
「その迷いの源を、すぐにでも私が断って差し上げる。そうすれば、あなたも自分の全力を出せるに決まって……ッ!!」
テーブルの端を握る右手に力を込めるキクノの首元に、カズヤは焔天剣を突きつけた。
「やめろ……」
抑えた声量ではあったが、その一言を聞いた騎士はぴくりと上体を引く。
「騎士団に戻れない理由は、俺個人の問題です。未だ俺の中にある人間味のある感情が、俺の選択を阻害してるだけです。セレナ……騎士セレナは関係ない」
「それが、あなたの答えだって言いたいの? そんな個人的な問題は、何千万もの民の命よりも大切なものなの」
「……そうです」
苦々しい苦悶の表情のまま、首を縦に動かす。
「君は今の状況が解ってるの!! いつ魔界軍が人界への侵攻を開始するか分からない状況の中で、まだそのような迷いに翻弄されてるの!? あなたの剣一つで幾千万もの人々を救えるかもしれないのに、目の前の人間一人を守るために剣を取らないなんて、ふざけるのも大概にしなさい!」
降り積もる重い沈黙を、カズヤは穏やかな声で破った。
「……すいません、キクノさん。やはり今は、あなたと共には行けません。他の人は関係ない……俺自身の剣技が失せてしまった、ただそれだけです。多分、いまあなたと剣を交えれば、瞬殺されるでしょう」
キクノは、はっとしたように両眼を見開いた。誇り高き騎士の顔が、くしゃりと歪んだ。
やがてその顔に、諦念とかすかな悲壮を宿した微笑が浮かんだ。
「……そう。なら、もう何も言わないわ……」
一礼して立ち上がり、マントを大きく翻す。
「それじゃ、これにてお別れね。邪魔してごめんなさい。……あと、私を助けてくれた恩は、この騎士キクノ、生涯忘れないわ」
「待ってください。一つだけ、聞いていいですか?」
「……手短にお願い」
「……カムイさんを殺めた俺を、恨んでますか?」
怯えを隠しながら訊ねると、騎士は一瞬の瞑目の後に、壁に立てかけた激凍剣を見詰めながら答えた。
「我が師カムイ殿が選んだ答えを、弟子の私は信じるだけよ。その結果を招いた君のことは、一切恨んでいない」
「……そう、ですか」
「それじゃ、今度こそ……さようなら」
「……元気で。無事を祈ってます」
どうにかそれだけを口にしたカズヤにゆっくりと頷き返し、騎士はかつかつとブーツを鳴らして歩き去った。その背中は揺るぎない誇りに満ちていて、カズヤは眼を逸らすことしかできなかった。
扉が開き、閉じる。前庭で、時雨がひと声高く鳴き、羽ばたき音がそれに続いた。同族との別れを惜しむ戴天の鼻声が、カズヤの胸をちくりと刺した。
力強い羽音が遠ざかり、やがて消えても、二人は身動ぎひとつせずに座り続けた。
空になった皿を片手に、立ち上がる。流しに置いてから、終始無言で話を聞いていたセレナに声を掛ける。
「もう、寝ようか。さ、ベッドに入ろうか」
「……はい」
弱々しい返事と同時に把手を握り、隣接する寝室まで導く。部屋着を生成りの寝巻きに着替えさせてから、窓際のベッドに横たわらせる。
足許に畳んであった毛布を持ち上げて首元までかける。壁のランプを吹き消すと、室内は薄青い闇に満たされた。セレナの横に腰掛け、毛布からはみ出た右手を握る。
「ねぇ、カズヤ」
いつもならすぐに眠るはずのセレナから、消えそうなほどの声が発せられる。
「キクノ殿の話、あれって……」
「君が気にする必要なんてないんだよ。……さぁ、もう遅い時間だから寝るんだ」
結えた金髪を優しく撫でながら眠るよう促すと、それ以上何も聞かずに、そっと瞼を閉じた。
セレナの寝息が安定するまで待ってから右手から手を離し、ベッドからも離れる。そのまま居間に戻り、激凍剣を見詰め、瞑想する。
歩き去るキクノの背中が瞼の裏に残り、ちくちくと眼を刺激する。
今の俺に、彼女や彼のように、絶対に譲れない強固な意思など持ち合わせていない。
魔界の総攻撃が始まれば、遅かれ早かれ辺境の地であるこの村にも危険が及ぶ。そうなれば、ペックやシスター、教会の子供たちの命も危ない。
その惨劇を回避するには、特異点である俺と騎士セレナの力が必要不可欠になる。でも、今の脆弱に成り下がった俺では、守備軍の戦力にはなれない。
迷いを捨てたと言ったが、やはり俺の中にはまだ、脆弱な人間味のある感情が残っていた。そしてまた俺は、選べずにいる。
壁に立てかけた激凍剣を手に取り、鞘に額をぶつける。
「教えてください、カムイさん……。俺は…………」
問いかけに、答える声はない。
「俺は……どうすればいいんですか…………」
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