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第三部・二章 血流大戦(前編)
第五話
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「ほぅ……」
指揮車の手すりから上体を乗り出したデーモン族の長・ボルザックが、さすがに興奮を隠せない声を漏らした。
「待ちに待った大戦の時……心が躍るな、ラギルスよ」
それを聞いた暗黒騎士団団長ラギルスは、彼方の衝撃的な光景に眼を奪われつつも、冷静に指摘した。
「落ち着くのだ、ボルザック殿。我らが戦地に姿を現すのは今ではない。まずは亜人による突撃、我々の陣はその後だ」
大門は、既に半ばまでが無数の瓦礫となって崩れ落ちようとしている。轟音も振動も凄まじいものがあるが、巨大な岩塊は全て、地面に激突する直前に光を発して溶け消えていく。
どうやらあの壁は特殊素材で構築されており、役目を終えると同時に空間魔素へと変換される仕様になっているらしい。
あの様子なら、門の残骸がバリケードとなってしまうことはなさそうだが……。
創世神め、最後まで人界の民へ優位が運ぶように……。
ラギルスは漆黒のマントを翻して指揮者の屋根に据えられた椅子から立ち上がると、隣に立つボルザックが設置した大型の髑髏に歩み寄った。
小テーブルに載っているそれは、音声伝達能力を持つ魔道具だ。この髑髏に向かって話せば、将軍たちに持たせた小髑髏へと声が伝わるということだ。いちいち伝令を走らせるよりは遥かに効率的なものだ。
髑髏のうつろな眼窩を見下ろしながら、ラギルスは《魔界軍司令官補佐》という配役に相応しい冷厳たる声を響かせた。
「魔界の同士たちよ! 我らが待ち望んだ刻が来た! 人界を血と絶望で染め上げ、我々の勝利を飾るのだ!」
陣列のそこかしこから、大門の崩壊音を上回るボリュームで、ウォー、ウォーという鬨の声が沸き起こる。突き上げられた無数の蛮刀や長槍が、夕陽を反射して血の色に輝く。
魔界軍の第一陣は、ゴブリン一万、ジャイアント族三千。まずはこれを突撃させ、敵軍の対応を見る。
掲げた右手を鋭く前方に振り下ろしながら、ラギルスはこの戦場での最初の指令を下した。
「第一陣──突撃開始!!」
五万の侵略軍の第一陣を構成するゴブリン部隊の右翼、一万のゴブリン族を指揮するのは、ソロチという名の新たな長だった。一年前、捕虜として捕まった女性騎士団団長救助の任務で死んだ先代の長ナルガウンの好敵手だ。
ナルガウンは歴代の長のなかで最も残忍で貪欲だと讃えられていた。好敵手であるソロチも負けず劣らずその資質を色濃く持っているが、それだけでなく、ゴブリン族にあるまじき高度な知性を醜貌の下に隠し持っていた。
今年で二十歳になるソロチは、魔界の五種族──すなわち人族、デーモン族、ジャイアント族、オーガ族、そしてゴブリン族の中で、なぜゴブリンが最下層に位置づけられているのかとかれこれ何年も考え続けてきた。
確かにゴブリンは、五族の中で最も矮躯であり力も弱い。しかしかつてはその不利を補うに足る頭数があり、事実《古の大戦》には、人族やデーモン族どもと対等の戦いを繰り広げた。
やがて全種族が疲弊するとともに戦乱は終結し、五族和平条約が結ばれ、ゴブリン族の長も魔界の最高機関である五種族会議に席を得た。
しかし形だけの和平条約の実情は、まったく公平なものではなかった。亜人に与えられた領土は北方の痩せ細った荒れ地で、一族全員の命を保つのに必要なだけの作物や獲物は到底得られず、子供は常に飢え、年寄りはばたばた死んでいった。
つまるところ、他種族の長どもにしてやられたのだ。
ゴブリン族最大の利点である頭数を抑えるために、広いが地力の乏しい土地に押し込めた。ゆえにゴブリン族は、現在に至るまで生き延びることだけに精一杯で、文明を育てられない。
暗黒騎士団のように、整備された養成機関で子供を訓練するどころか、口減らしのために川船で流すような有様だ。他種族の領土に流れ着いた子供たちがどのような扱いを受けるのか、承知の上で。
肥沃な土地と充分な資源さえあれば、いま兵士たちが握っているような粗悪な鉄を鋳造した蛮刀や板金鎧ではなく、鍛え上げられた鋼鉄製の装備を与えることもできる。たっぷりと飯を喰わせて体力を蓄え、剣技と戦術を学ばせられる。いずれは、暗黒騎士やデーモンどもに独占されている高位闇魔術すらも習得できるかもしれない。
そうなれば、もうゴブリンを下等種族だとは誰にも言わせない。
ソロチの親友にして好敵手ナルガウンも、常に人族どもへの怒りや妬み、劣等感に苛まれていたが、そのために何をすればよいのか考える頭がなかった。この大戦で武功を立て、皇帝の覚えをめでたくする程度の知恵しかなかったのだ。
愚かなことを。武功など立てられるものか。全軍の配置を見ればそれが解る。
恐らく、皇帝に入れ知恵したのは新生女性騎士団団長とデーモン族の長だろう。あの二人は、はなからゴブリン族を使い捨てにするつもりで《一番槍の栄誉》という名の捨て駒を押し付けてきたのだ。先陣を切って突撃したゴブリンが、伝説の悪鬼たる人界の天界の騎士どもにばたばた斬り伏せられているところを、安全な後方から闇魔術でまとめて焼き払い、勲功を掻っ攫う肚だ。
──そうはさせるものか。
ゴブリン族に与えられている命令は、実に単純。先陣を切って突撃し、敵軍の殲滅。もしくは、特異点の奪取。
それだけだ。後方からデーモンどもの闇魔術が降り注ぐまで戦線を支えろなどとは言われていない。
轟音とともに、かつて大門だった岩の塊が完全に崩れ落ち、光となって消えた。
眼前にまっすぐ開けた谷の奥に、多くのかがり火と、煌びやかな武器防具の輝きが見えた。
人界の守備部隊だ。
奴らの向こうには、ゴブリン族が光の時代を取り戻すに充分な、豊かな土地と無限の資源、そして労働力がたっぷりと満ちている。
捨て駒になどなってたまるものか。その役は、ジャイアント族どもに担ってもらおう。
大門が完全に崩壊した時、彼は鎧の下に手を入れ、かねて準備していた黒玉を取り出した。今頃、他の隊長たちも同じことをしているはずだ。
ソロチは、左手で球をしっかり握り締め、右手で分厚い山刀を突き上げながら、野太い声で喚いた。
「てめぇら、しっかり俺についてこい!! 突撃ぃぃぃぃッ!!」
「第一部隊、抜剣、戦闘用意! 魔術師隊、治癒術、詠唱準備!」
人界守備軍の副長を務める副騎士長、ルキウスの張りのある声が、宵闇を貫いた。
じゃりぃぃん!! という鞘走りの重唱が谷間に響く。数を抑えられたかがり火が、鋼の刀身を赤く輝かせる。
ついに崩壊した大門の向こう側から、地鳴りのような轟音が迫ってくる。
ゴブリンの小刻みな足音。地面に大槌を叩きつけるようなジャイアントの足音が混じり合い、それらに無数の鬨の声が重なる。かつてどのような人間も聞いたことのない、戦争という名の巨獣の咆哮。
大門から二百メル手前の防衛線に並ぶ三千の衛士たちは、その場に踏み留まるのが精一杯だった。ちょっとしたきっかけで、剣を一合も交えぬうちに隊列が瓦解し、散り散りに逃げ惑っても不思議はなかった。全ての衛士にとって、戦争はおろか、命の懸かった実戦すらもこれが初めての経験なのだ。
彼らを持ち場に踏み留まらせたのは、防衛線の最前列に間隔を空けて立つ、三人の天界の騎士の背中だった。
左翼を受け持つのは、《飛翔鞭》キクノ。
中央には、部隊の指揮官である《新星槍》ルキウス。
そして右翼を、《常闇剣》テレーゼが守る。
闇の底でも美しく煌めく全身鎧をまとった三騎士は、両足でしっかりと地面を踏みしめ、微動だにせず敵軍を待ち受けた。
騎士たちの胸中にも、恐れや怯えは存在した。衛士たちと違って実戦経験があると言っても、そのほとんどが命の危機に瀕する戦闘ではなく、一対一の戦闘でしかないのだ。これほどの大軍勢と戦った経験は、副騎士長のルキウスにも、後方の第二部隊を指揮する騎士長ヒサカゲにすらなかった。
そのうえ、人界の守護神である創世神様もいない。
この地に残る騎士はみな、自分の意思でこの戦地に立っている。
つまり、戦場こそが最後の拠り所。それは皮肉にも、強大すぎる力を持ってしまったが故に課せられた、果たさなければならない使命だった。
そして、失われたたった一つの──。
テレーゼは、敢然と胸を張って敵軍を待ち受けながら、常闇剣を握る左手の薬指に嵌まる古びた指輪を、右手の指先でそっと撫でた。
四番目として召喚された最古の騎士に列せられる彼女は、百年を超える年月を、人界南方の秩序を守ることだけに費やしてきた。
分断の壁を超えようとする魔界の侵入者を退け、任地内に発生した魔獣を駆除し、まれには禁書目録を違反した罪人を連行した。
それらの任務が自分になぜ与えられているのかを考えることは、遠い昔にやめてしまった。自分は天界から召喚された騎士なのだと信じて疑わず、人界に暮らす民たちの営みには一抹の興味も抱くことはなかった。
そんなテレーゼをときおり途惑わせたのは、決まって夜明けの間際に訪れる不思議な夢だった。
自分と同じ薄灰色の髪を三つ編みに結えた、小さな少女。
少女の薬指に嵌まる、古びた指輪──。
幼い顔に浮かぶ、屈託のない笑み。
明るい声が聞こえる。
──お姉ちゃん……あたし、ずっと待ってるからね……いつまでも…………。
テレーゼは、その夢のことを誰にも言わなかった。もし創世神の耳に入れば、術式で消去されてしまうと思ったからだ。彼女はその夢を失いたくなかった。夢に出てくる少女は、私にとって何物にも変えられないほど大切な存在だからだ。
あの夢は、天界での記憶なのだろうか。もしこの人界で騎士としての使命を全うし、天界への帰還が許されれば、再びあの少女と巡り逢えるのだろうか。
テレーゼは長い間、その疑問──あるいは望みを、心の奥底に秘め続けてきたのだ。
しかし半年前、慌ただしい人界が落ち着き始めるさなか。
騎士長が、信じがたいことを口にした。
天界の騎士は、天界から召喚されてなどいない。人界に生まれた民が、記憶と人格を変換された虚像の存在に過ぎない。
至高の善、絶対の秩序、完全なる正義を体現しているはずの創世神様がそのような行いに手を染め、全ての騎士を欺いているなど、到底受け入れられないことだった。
ならば、夢に現れる少女もまた、天界ではなく、人界の民であるということになる。
それが真実なのだと悟った時、テレーゼは騎士となって以降はじめてすることをした。古びた指輪を抱き、両眼から涙を流したのだ。
なぜなら、天界の騎士は無限に等しい生命力を持っているのに対し、人界の民は長くとも七十年ほどで亡くなってしまうから。つまりもう、テレーゼを「お姉ちゃん」と呼んでくれた誰かには、二度と会えないと解ってしまったから。
それでも彼女は、騎士長ヒサカゲの求めに応じ、決戦の地に赴いた。
遥かな過去のことであったにせよ、少女──妹と共に暮らしたこの世界を守るために。
つまり、天界の騎士テレーゼに、魔界の大軍勢を前にしながら一歩も退かぬ力を与えているのは、消し去られたはずの一つの思い出──《記憶》の力だった。
そして彼女のあずかり知らぬことではあったが、同じ場所に立つ副騎士長ルキウス、騎士キクノも、それぞれの大切な記憶と信念のために戦おうとしていた。
テレーゼは指輪から右手を離すと、神器《常闇剣》をゆっくりと鞘走らせる。
キィィ──ンッ、と軽やかな音を立てながら抜かれた黒い刀身を水平に構える。
解放術の詠唱はすでにほぼ完了している。副騎士長たちは温存するようだが、常闇剣の解放術は混戦では力を発揮できない。
騎士は大きく息を吸い、最後の一句を放った。
「リベラシオンッ!」
黒い刀身が漆黒に染め上がると、まるで空気に溶けるように消えていく。刀身が薄い霧状になるまで拡散されるや、柄のみを横薙ぎする。
霧状の刀身も同じく横に散り──
二百メル先にまで近づいた侵略者たちの体に触れる。
次の瞬間──。
侵略者たちの肉体に、無数の孔が穿たれる。
「──私の名は、天界の騎士テレーゼ! 私の前に立つ者は、決して安息死を望めないと知れッ!!」
バタバタと倒れる亜人を見据えながら、彼女は名乗った。分厚い鎧の仮面を外したいま、その声は抑揚豊かに、高らかに響いた。
のちに《血流大戦》と呼ばれることになる戦争の、最初の犠牲者となったのは、谷の右側を突進する平地ゴブリン族の兵士たちだった。
平地ゴブリンの長ダバは、山ゴブリンの親族長ソロチほどの知恵も企みもなく、ただ体格と腕力だけが自慢の若者だった。ゆえに、単騎でも圧倒的な戦闘力を持つ天界のきしに対して一切の策を用意せず、五千人の兵士たちに愚直な突撃を命じただけだった。
テレーゼの解放術は、密集して走る平地ゴブリン軍を正面から撃ち貫き、最大の効果を上げた。その第一撃で四十人ものゴブリン歩兵が倒れていき、その周囲の兵たちも大きく浮き足立った。
しかし彼らの突撃には統制など最初から存在せず、血に飢えた蛮兵たちの大部分は、孔の空いた死体を踏み越え、怯んだ仲間を突き飛ばして無秩序な疾駆を続けた。
迎え撃つテレーゼは、再び常闇剣で突撃を薙ぎ払う。
今度は刀身を分散させず、一点に凝縮させたまま放つ。
濃度を増した霧は、隊列の真ん中に広がり、凄まじい爆発を引き起こした。甲高い悲鳴を振りまきながら、多くの兵たちが次々と絶たれていく。犠牲者の数は五十を超えていたが、しかし平地ゴブリンの突進は止まらない。
止められるはずもないのだ。並進する両ゴブリン族の後ろからは、二千のジャイアント族が追随してきており、立ち止まろうものなら何倍もの体軀を持つ彼らにあっという間に踏み潰されてしまう。
平地ゴブリンたちにも、山ゴブリンの親族長ソロチのように具体的な考えは持てないまでも、最下層種族として蔑まれ、虐げられてきたことへの怒りと恨みがあった。そしてその感情は、いずれ彼らよりも下位の奴隷となるはずの人界の民たちへの憎悪へと転換された。
長ダバは、ゴブリンとしては図抜けて逞しい両腕に握った無骨な戦斧を振り上げ、獰猛な絶叫を放った。
「てめぇら! まずはあの騎士を殺せ! 囲んで刻んで叩き潰せ!!」
「オラララ──!! 殺せ!! 殺せ!! 殺せ!!」
鬨の声が、五千の兵士たちに広がっていく。
テレーゼは、膨大な怒りと殺意を無言で受け止めつつ、三度目の斬撃を放った。またしても五十以上のゴブリンが死体となるも、敵部隊の突進は止まらない。
彼我の距離が五十メルを切ったところで霧の範囲を狭める。猛烈な勢いで剣を振るっては、目標も定めずに乱斬する。一太刀で最低でも二人、または三人のゴブリンが貫かれる。
そのテレーゼの両側に、抜剣した衛士たちがだだっと走り出てきた。
「騎士殿を守れ! 奴等の刃を触れさせるなっ!!」
叫んだのは、まだ二十歳になったばかりの若い衛士長だった。猛訓練で使い込まれた両手用の大剣を体の前で構える。しかしその切っ先は、ごくかすかに震えている。
無理しないで、下がりなさい、とテレーゼは言いたかった。騎士団の厳しい指導を受けたとはいえ、若い衛士たちの心技が血で血を洗う実戦に耐えられるほどの域に達しているという確信は持てなかったからだ。
しかし、彼女はぐっと息を溜めてから、低く叫んだ。
「ごめん、左右はお願い」
「任せてください!!」
衛士長が、ニッと太く笑った。
数秒後。
殺到してきた平地ゴブリン兵の蛮刀と、迎え撃つ衛士隊の長剣が、最初の剣戟を音高く響かせた。
それより数秒前。
峡谷の中央では、副騎士長ルキウスが、伝統流派とは大いに異なる奇妙としか言えない体勢で敵軍を迎え撃とうとしていた。
神器《新星槍》の三つに分かれた刃を天に向けるよう地面に突き立て、両腕を前に組みながら、来たるべき時を待ち続ける。
《新星槍》の解放術は、広範囲に光線を放つ。乱戦時は不向きとされるが、敵軍が固まっている場合は効果抜群の解放術。
殺到する敵軍を限界まで引き付けつつ、もっとも効果的な瞬間を見定める。
魔界の軍勢は、力と恐怖によって統率されている。一般兵たちは指揮官に絶対服従し、どんな状況だろうと命ぜられるまま最後の一兵までが挑みかかってくる。だがそれは、裏を返せば、指揮官が斃れれば瞬時に全体の統率が失われるということだ。
──我々も、かつては同じだった。
ルキウスは、刹那の感慨を抱く。
禁書目録の撤廃、つまり絶対正義の瓦解は騎士団を崩壊させかけた。混乱の極みにあった騎士たちを立て直らせたのは、ヒサカゲの言葉だった。
──オレたちの使命、存在意義は、民に禁書目録を遵守させ、違反させないよう強要することか?
──違う。人界の民を守ることだ。
──如何にオレたちがいない存在だとしても、民を守りたい意思はここにある。それがある限り、オレたちは死ぬまで騎士だ。
現実には、全ての騎士がその言葉を理解し、騎士長に従ったわけではない。この戦場に集った騎士は、わずか十名にも満たなかったのだから。
しかしその全員が、たとえ最後の一人となろうとも戦い抜く意思を持っている。おそらくは、死地に馳せ参じてくれた一万の衛士たちも。そこが魔界の軍勢とは決定的に違うところだ。
ルキウスは、大きく見開いた両眼でしかと敵軍を見据えた。
地響きを立てて突進するゴブリン部隊は、すでに百メルの距離まで肉迫している。右翼では、テレーゼが解放術による攻撃を開始し、薄霧が二度、三度とゴブリンを斃していく。
その、刹那の時に──。
ルキウスは、ついにその瞬間を発見した。
先陣のゴブリン部隊を追い立てるように、後方中心を突き進んでくる巨大な影たち。人間の倍以上もの体格を誇るジャイアント族だ。
ジャイアントの部隊が《新星槍》の解放術範囲に足を踏み入れた途端。
ルキウスは深く息を吸い、溜め、囁いた。
「……リベラシオン」
低く振動するような音を立てて、《新星槍》の刀身が太陽の如き白光に包まれた。
鋭利な切っ先が指し示す直線上──天空を捉え、鋭く叫ぶ。
「降り注げ──天光よ!!」
シャリィィィィ──ンッ!! と空気を震わせ、太陽と地力の力を凝縮した眩い熱線が天へと伸び、光線の雨が降り注ぐ。
《新星槍》は人界の最西端で発掘された水晶を素材に創造された神器。
太陽の光を一番に浴び続けた水晶は、陽光を内側で何重にも反射していき、やがて天へと放出される。
遥か昔、三日三晩降り続けた豪雨に見舞われた辺境の村が、その際に放たれた光線によって雲が晴れ、三日ぶりに晴天空を拝ませたと言われている。
それを聞いた創世神様は、その水晶の一部を発掘させ神器《新星槍》を創造した。
日差しを充分に浴びることで陽光が内部に蓄積されていき、解放構文の詠唱と同時に解き放たれる。その威力は、亜人の粗悪な鎧など難なく焼き断つ。
光線の雨が降り注ぐ地点で、多くの亜人の悲鳴がこだまする。貫通した箇所から一気に血飛沫が飛び散り、光線に触れて一瞬で血煙と化す。
雨が降り止むと、数千体もの亜人の焦げ死体が黒い蒸気を上げている。
ルキウスは、戦地の彼方にまで届きそうなほど凛とした声で発した。
「魔界に住む穢れた魂と肉体を持つ愚かな者たちよ! 裁きの光を受け、身を焼かれる覚悟をしておけ!!」
キクノにとって、大切な記憶など存在しない。
自分が何故騎士として人界に召喚されたのか、一度も考えたことがない。
騎士として召喚されてから常に考えていたのは、人界を守るために己を磨くこと。そして、師であるカムイ殿に認めてもらうことだけだった。
若輩の私を一から指導してくれたカムイに、一度でも本気で剣を交えたかった。
しかし──。
結局、その願いは叶わずに終わった。
デーモン族の不意打ちで再起不能にまで陥り、一時的に騎士団を除名。治癒に専念している間に、師は命を落としていた。
最後のお別れも、鍛錬の感謝も言うこともできずに起きた、突然の別れ。
その真実を耳にし、最初に考えたのは、ある一人の修剣士への復讐。
過程と結果を鑑みても、全ては一人の修剣士の油断が原因。修剣士が油断せねば、師が堕天の神と一戦交えることもなく、また精神を穢されることもなかった。
更に驚愕したのは、騎士長の口から告げられた、修剣士の名。
カズヤ──。
忘れるわけがない。デーモン族の不意打ちから私を守り、共に迎撃した、勇敢なる剣士の名──。
そして、師が嬉しそうに話していた名──。
信じられない。カズヤ自身もカムイ殿を尊敬し、慕っていたではないか。それが何故、自らの手で殺めるような真似を。
いや、憎むべき敵の事情などどうでもいい。今はただ、胸中をかき乱す苛立ちと殺意だけに身を委ねればいい。
カズヤを、大罪人を断罪さえできればいい。その後は、私も命を断つ。
本気で考えた。
しかし、それを実行しなかった。実行できるわけがなかった。
カムイ殿のことは、弟子である私が一番よく知っていると自負している。
彼は最後に選んだのだ。果たさなければならない使命よりも、カズヤを生かすことを。それはきっと、絶望しかない人界に残された希望なのだと信じて。
ならば、私はその選択を信じるだけ。カムイ殿が守った命を最後まで見届けるのが、弟子である私の使命──信念だ。
長い思慮が一瞬で脳内に流れ終える頃には、既に五十メルにまで接近していた。
神器《飛翔鞭》は、己の射程距離を何倍にも引き伸ばす解放術を有している。
一撃で複数体の亜人を薙ぎ払うことが出来るが、乱戦時には味方をも巻き込む恐れがあるためあまり効果的ではない。
もし──。
ここに師がいれば、眼前から突進する亜人の大軍を一瞬で再起不能に出来ただろう。神器《激凍剣》の解放術は、乱戦時と集団戦の時に最も効果を発揮するのだから。
「……師よ、私に力を」
呟き、《飛翔鞭》を打ち鳴らす。鋭い切っ先が地面を穿ち、銀鱗の鞭が亀裂を刻む。
「……リベラシオン」
静かに囁き、神器から銀色の輝きが放たれる。光は徐々に伸びていき、元の長さの三倍ほどにまで伸びると、目視不可の速度で飛翔させる。
しなやかな弧を描き、鞭の先端が大地に触れた瞬間、蛇のように身をくねらせながら引き戻されていく。
大地が大きく抉り出される。滝のような奔流が無数のゴブリンを飲み込んでいき、圧迫死させる。
間髪入れず鞭を地面に叩きつけ、大地を抉り出す。その度に亜人は生き埋めになっていく。
瞬時に鞭を引き戻し、右腕に巻き付けてから、騎士キクノは鋭く叫んだ。
「我、天界の騎士キクノ! 我がここにいる限り、貴様等がこれより先に到達することは出来ないと知れ!」
指揮車の手すりから上体を乗り出したデーモン族の長・ボルザックが、さすがに興奮を隠せない声を漏らした。
「待ちに待った大戦の時……心が躍るな、ラギルスよ」
それを聞いた暗黒騎士団団長ラギルスは、彼方の衝撃的な光景に眼を奪われつつも、冷静に指摘した。
「落ち着くのだ、ボルザック殿。我らが戦地に姿を現すのは今ではない。まずは亜人による突撃、我々の陣はその後だ」
大門は、既に半ばまでが無数の瓦礫となって崩れ落ちようとしている。轟音も振動も凄まじいものがあるが、巨大な岩塊は全て、地面に激突する直前に光を発して溶け消えていく。
どうやらあの壁は特殊素材で構築されており、役目を終えると同時に空間魔素へと変換される仕様になっているらしい。
あの様子なら、門の残骸がバリケードとなってしまうことはなさそうだが……。
創世神め、最後まで人界の民へ優位が運ぶように……。
ラギルスは漆黒のマントを翻して指揮者の屋根に据えられた椅子から立ち上がると、隣に立つボルザックが設置した大型の髑髏に歩み寄った。
小テーブルに載っているそれは、音声伝達能力を持つ魔道具だ。この髑髏に向かって話せば、将軍たちに持たせた小髑髏へと声が伝わるということだ。いちいち伝令を走らせるよりは遥かに効率的なものだ。
髑髏のうつろな眼窩を見下ろしながら、ラギルスは《魔界軍司令官補佐》という配役に相応しい冷厳たる声を響かせた。
「魔界の同士たちよ! 我らが待ち望んだ刻が来た! 人界を血と絶望で染め上げ、我々の勝利を飾るのだ!」
陣列のそこかしこから、大門の崩壊音を上回るボリュームで、ウォー、ウォーという鬨の声が沸き起こる。突き上げられた無数の蛮刀や長槍が、夕陽を反射して血の色に輝く。
魔界軍の第一陣は、ゴブリン一万、ジャイアント族三千。まずはこれを突撃させ、敵軍の対応を見る。
掲げた右手を鋭く前方に振り下ろしながら、ラギルスはこの戦場での最初の指令を下した。
「第一陣──突撃開始!!」
五万の侵略軍の第一陣を構成するゴブリン部隊の右翼、一万のゴブリン族を指揮するのは、ソロチという名の新たな長だった。一年前、捕虜として捕まった女性騎士団団長救助の任務で死んだ先代の長ナルガウンの好敵手だ。
ナルガウンは歴代の長のなかで最も残忍で貪欲だと讃えられていた。好敵手であるソロチも負けず劣らずその資質を色濃く持っているが、それだけでなく、ゴブリン族にあるまじき高度な知性を醜貌の下に隠し持っていた。
今年で二十歳になるソロチは、魔界の五種族──すなわち人族、デーモン族、ジャイアント族、オーガ族、そしてゴブリン族の中で、なぜゴブリンが最下層に位置づけられているのかとかれこれ何年も考え続けてきた。
確かにゴブリンは、五族の中で最も矮躯であり力も弱い。しかしかつてはその不利を補うに足る頭数があり、事実《古の大戦》には、人族やデーモン族どもと対等の戦いを繰り広げた。
やがて全種族が疲弊するとともに戦乱は終結し、五族和平条約が結ばれ、ゴブリン族の長も魔界の最高機関である五種族会議に席を得た。
しかし形だけの和平条約の実情は、まったく公平なものではなかった。亜人に与えられた領土は北方の痩せ細った荒れ地で、一族全員の命を保つのに必要なだけの作物や獲物は到底得られず、子供は常に飢え、年寄りはばたばた死んでいった。
つまるところ、他種族の長どもにしてやられたのだ。
ゴブリン族最大の利点である頭数を抑えるために、広いが地力の乏しい土地に押し込めた。ゆえにゴブリン族は、現在に至るまで生き延びることだけに精一杯で、文明を育てられない。
暗黒騎士団のように、整備された養成機関で子供を訓練するどころか、口減らしのために川船で流すような有様だ。他種族の領土に流れ着いた子供たちがどのような扱いを受けるのか、承知の上で。
肥沃な土地と充分な資源さえあれば、いま兵士たちが握っているような粗悪な鉄を鋳造した蛮刀や板金鎧ではなく、鍛え上げられた鋼鉄製の装備を与えることもできる。たっぷりと飯を喰わせて体力を蓄え、剣技と戦術を学ばせられる。いずれは、暗黒騎士やデーモンどもに独占されている高位闇魔術すらも習得できるかもしれない。
そうなれば、もうゴブリンを下等種族だとは誰にも言わせない。
ソロチの親友にして好敵手ナルガウンも、常に人族どもへの怒りや妬み、劣等感に苛まれていたが、そのために何をすればよいのか考える頭がなかった。この大戦で武功を立て、皇帝の覚えをめでたくする程度の知恵しかなかったのだ。
愚かなことを。武功など立てられるものか。全軍の配置を見ればそれが解る。
恐らく、皇帝に入れ知恵したのは新生女性騎士団団長とデーモン族の長だろう。あの二人は、はなからゴブリン族を使い捨てにするつもりで《一番槍の栄誉》という名の捨て駒を押し付けてきたのだ。先陣を切って突撃したゴブリンが、伝説の悪鬼たる人界の天界の騎士どもにばたばた斬り伏せられているところを、安全な後方から闇魔術でまとめて焼き払い、勲功を掻っ攫う肚だ。
──そうはさせるものか。
ゴブリン族に与えられている命令は、実に単純。先陣を切って突撃し、敵軍の殲滅。もしくは、特異点の奪取。
それだけだ。後方からデーモンどもの闇魔術が降り注ぐまで戦線を支えろなどとは言われていない。
轟音とともに、かつて大門だった岩の塊が完全に崩れ落ち、光となって消えた。
眼前にまっすぐ開けた谷の奥に、多くのかがり火と、煌びやかな武器防具の輝きが見えた。
人界の守備部隊だ。
奴らの向こうには、ゴブリン族が光の時代を取り戻すに充分な、豊かな土地と無限の資源、そして労働力がたっぷりと満ちている。
捨て駒になどなってたまるものか。その役は、ジャイアント族どもに担ってもらおう。
大門が完全に崩壊した時、彼は鎧の下に手を入れ、かねて準備していた黒玉を取り出した。今頃、他の隊長たちも同じことをしているはずだ。
ソロチは、左手で球をしっかり握り締め、右手で分厚い山刀を突き上げながら、野太い声で喚いた。
「てめぇら、しっかり俺についてこい!! 突撃ぃぃぃぃッ!!」
「第一部隊、抜剣、戦闘用意! 魔術師隊、治癒術、詠唱準備!」
人界守備軍の副長を務める副騎士長、ルキウスの張りのある声が、宵闇を貫いた。
じゃりぃぃん!! という鞘走りの重唱が谷間に響く。数を抑えられたかがり火が、鋼の刀身を赤く輝かせる。
ついに崩壊した大門の向こう側から、地鳴りのような轟音が迫ってくる。
ゴブリンの小刻みな足音。地面に大槌を叩きつけるようなジャイアントの足音が混じり合い、それらに無数の鬨の声が重なる。かつてどのような人間も聞いたことのない、戦争という名の巨獣の咆哮。
大門から二百メル手前の防衛線に並ぶ三千の衛士たちは、その場に踏み留まるのが精一杯だった。ちょっとしたきっかけで、剣を一合も交えぬうちに隊列が瓦解し、散り散りに逃げ惑っても不思議はなかった。全ての衛士にとって、戦争はおろか、命の懸かった実戦すらもこれが初めての経験なのだ。
彼らを持ち場に踏み留まらせたのは、防衛線の最前列に間隔を空けて立つ、三人の天界の騎士の背中だった。
左翼を受け持つのは、《飛翔鞭》キクノ。
中央には、部隊の指揮官である《新星槍》ルキウス。
そして右翼を、《常闇剣》テレーゼが守る。
闇の底でも美しく煌めく全身鎧をまとった三騎士は、両足でしっかりと地面を踏みしめ、微動だにせず敵軍を待ち受けた。
騎士たちの胸中にも、恐れや怯えは存在した。衛士たちと違って実戦経験があると言っても、そのほとんどが命の危機に瀕する戦闘ではなく、一対一の戦闘でしかないのだ。これほどの大軍勢と戦った経験は、副騎士長のルキウスにも、後方の第二部隊を指揮する騎士長ヒサカゲにすらなかった。
そのうえ、人界の守護神である創世神様もいない。
この地に残る騎士はみな、自分の意思でこの戦地に立っている。
つまり、戦場こそが最後の拠り所。それは皮肉にも、強大すぎる力を持ってしまったが故に課せられた、果たさなければならない使命だった。
そして、失われたたった一つの──。
テレーゼは、敢然と胸を張って敵軍を待ち受けながら、常闇剣を握る左手の薬指に嵌まる古びた指輪を、右手の指先でそっと撫でた。
四番目として召喚された最古の騎士に列せられる彼女は、百年を超える年月を、人界南方の秩序を守ることだけに費やしてきた。
分断の壁を超えようとする魔界の侵入者を退け、任地内に発生した魔獣を駆除し、まれには禁書目録を違反した罪人を連行した。
それらの任務が自分になぜ与えられているのかを考えることは、遠い昔にやめてしまった。自分は天界から召喚された騎士なのだと信じて疑わず、人界に暮らす民たちの営みには一抹の興味も抱くことはなかった。
そんなテレーゼをときおり途惑わせたのは、決まって夜明けの間際に訪れる不思議な夢だった。
自分と同じ薄灰色の髪を三つ編みに結えた、小さな少女。
少女の薬指に嵌まる、古びた指輪──。
幼い顔に浮かぶ、屈託のない笑み。
明るい声が聞こえる。
──お姉ちゃん……あたし、ずっと待ってるからね……いつまでも…………。
テレーゼは、その夢のことを誰にも言わなかった。もし創世神の耳に入れば、術式で消去されてしまうと思ったからだ。彼女はその夢を失いたくなかった。夢に出てくる少女は、私にとって何物にも変えられないほど大切な存在だからだ。
あの夢は、天界での記憶なのだろうか。もしこの人界で騎士としての使命を全うし、天界への帰還が許されれば、再びあの少女と巡り逢えるのだろうか。
テレーゼは長い間、その疑問──あるいは望みを、心の奥底に秘め続けてきたのだ。
しかし半年前、慌ただしい人界が落ち着き始めるさなか。
騎士長が、信じがたいことを口にした。
天界の騎士は、天界から召喚されてなどいない。人界に生まれた民が、記憶と人格を変換された虚像の存在に過ぎない。
至高の善、絶対の秩序、完全なる正義を体現しているはずの創世神様がそのような行いに手を染め、全ての騎士を欺いているなど、到底受け入れられないことだった。
ならば、夢に現れる少女もまた、天界ではなく、人界の民であるということになる。
それが真実なのだと悟った時、テレーゼは騎士となって以降はじめてすることをした。古びた指輪を抱き、両眼から涙を流したのだ。
なぜなら、天界の騎士は無限に等しい生命力を持っているのに対し、人界の民は長くとも七十年ほどで亡くなってしまうから。つまりもう、テレーゼを「お姉ちゃん」と呼んでくれた誰かには、二度と会えないと解ってしまったから。
それでも彼女は、騎士長ヒサカゲの求めに応じ、決戦の地に赴いた。
遥かな過去のことであったにせよ、少女──妹と共に暮らしたこの世界を守るために。
つまり、天界の騎士テレーゼに、魔界の大軍勢を前にしながら一歩も退かぬ力を与えているのは、消し去られたはずの一つの思い出──《記憶》の力だった。
そして彼女のあずかり知らぬことではあったが、同じ場所に立つ副騎士長ルキウス、騎士キクノも、それぞれの大切な記憶と信念のために戦おうとしていた。
テレーゼは指輪から右手を離すと、神器《常闇剣》をゆっくりと鞘走らせる。
キィィ──ンッ、と軽やかな音を立てながら抜かれた黒い刀身を水平に構える。
解放術の詠唱はすでにほぼ完了している。副騎士長たちは温存するようだが、常闇剣の解放術は混戦では力を発揮できない。
騎士は大きく息を吸い、最後の一句を放った。
「リベラシオンッ!」
黒い刀身が漆黒に染め上がると、まるで空気に溶けるように消えていく。刀身が薄い霧状になるまで拡散されるや、柄のみを横薙ぎする。
霧状の刀身も同じく横に散り──
二百メル先にまで近づいた侵略者たちの体に触れる。
次の瞬間──。
侵略者たちの肉体に、無数の孔が穿たれる。
「──私の名は、天界の騎士テレーゼ! 私の前に立つ者は、決して安息死を望めないと知れッ!!」
バタバタと倒れる亜人を見据えながら、彼女は名乗った。分厚い鎧の仮面を外したいま、その声は抑揚豊かに、高らかに響いた。
のちに《血流大戦》と呼ばれることになる戦争の、最初の犠牲者となったのは、谷の右側を突進する平地ゴブリン族の兵士たちだった。
平地ゴブリンの長ダバは、山ゴブリンの親族長ソロチほどの知恵も企みもなく、ただ体格と腕力だけが自慢の若者だった。ゆえに、単騎でも圧倒的な戦闘力を持つ天界のきしに対して一切の策を用意せず、五千人の兵士たちに愚直な突撃を命じただけだった。
テレーゼの解放術は、密集して走る平地ゴブリン軍を正面から撃ち貫き、最大の効果を上げた。その第一撃で四十人ものゴブリン歩兵が倒れていき、その周囲の兵たちも大きく浮き足立った。
しかし彼らの突撃には統制など最初から存在せず、血に飢えた蛮兵たちの大部分は、孔の空いた死体を踏み越え、怯んだ仲間を突き飛ばして無秩序な疾駆を続けた。
迎え撃つテレーゼは、再び常闇剣で突撃を薙ぎ払う。
今度は刀身を分散させず、一点に凝縮させたまま放つ。
濃度を増した霧は、隊列の真ん中に広がり、凄まじい爆発を引き起こした。甲高い悲鳴を振りまきながら、多くの兵たちが次々と絶たれていく。犠牲者の数は五十を超えていたが、しかし平地ゴブリンの突進は止まらない。
止められるはずもないのだ。並進する両ゴブリン族の後ろからは、二千のジャイアント族が追随してきており、立ち止まろうものなら何倍もの体軀を持つ彼らにあっという間に踏み潰されてしまう。
平地ゴブリンたちにも、山ゴブリンの親族長ソロチのように具体的な考えは持てないまでも、最下層種族として蔑まれ、虐げられてきたことへの怒りと恨みがあった。そしてその感情は、いずれ彼らよりも下位の奴隷となるはずの人界の民たちへの憎悪へと転換された。
長ダバは、ゴブリンとしては図抜けて逞しい両腕に握った無骨な戦斧を振り上げ、獰猛な絶叫を放った。
「てめぇら! まずはあの騎士を殺せ! 囲んで刻んで叩き潰せ!!」
「オラララ──!! 殺せ!! 殺せ!! 殺せ!!」
鬨の声が、五千の兵士たちに広がっていく。
テレーゼは、膨大な怒りと殺意を無言で受け止めつつ、三度目の斬撃を放った。またしても五十以上のゴブリンが死体となるも、敵部隊の突進は止まらない。
彼我の距離が五十メルを切ったところで霧の範囲を狭める。猛烈な勢いで剣を振るっては、目標も定めずに乱斬する。一太刀で最低でも二人、または三人のゴブリンが貫かれる。
そのテレーゼの両側に、抜剣した衛士たちがだだっと走り出てきた。
「騎士殿を守れ! 奴等の刃を触れさせるなっ!!」
叫んだのは、まだ二十歳になったばかりの若い衛士長だった。猛訓練で使い込まれた両手用の大剣を体の前で構える。しかしその切っ先は、ごくかすかに震えている。
無理しないで、下がりなさい、とテレーゼは言いたかった。騎士団の厳しい指導を受けたとはいえ、若い衛士たちの心技が血で血を洗う実戦に耐えられるほどの域に達しているという確信は持てなかったからだ。
しかし、彼女はぐっと息を溜めてから、低く叫んだ。
「ごめん、左右はお願い」
「任せてください!!」
衛士長が、ニッと太く笑った。
数秒後。
殺到してきた平地ゴブリン兵の蛮刀と、迎え撃つ衛士隊の長剣が、最初の剣戟を音高く響かせた。
それより数秒前。
峡谷の中央では、副騎士長ルキウスが、伝統流派とは大いに異なる奇妙としか言えない体勢で敵軍を迎え撃とうとしていた。
神器《新星槍》の三つに分かれた刃を天に向けるよう地面に突き立て、両腕を前に組みながら、来たるべき時を待ち続ける。
《新星槍》の解放術は、広範囲に光線を放つ。乱戦時は不向きとされるが、敵軍が固まっている場合は効果抜群の解放術。
殺到する敵軍を限界まで引き付けつつ、もっとも効果的な瞬間を見定める。
魔界の軍勢は、力と恐怖によって統率されている。一般兵たちは指揮官に絶対服従し、どんな状況だろうと命ぜられるまま最後の一兵までが挑みかかってくる。だがそれは、裏を返せば、指揮官が斃れれば瞬時に全体の統率が失われるということだ。
──我々も、かつては同じだった。
ルキウスは、刹那の感慨を抱く。
禁書目録の撤廃、つまり絶対正義の瓦解は騎士団を崩壊させかけた。混乱の極みにあった騎士たちを立て直らせたのは、ヒサカゲの言葉だった。
──オレたちの使命、存在意義は、民に禁書目録を遵守させ、違反させないよう強要することか?
──違う。人界の民を守ることだ。
──如何にオレたちがいない存在だとしても、民を守りたい意思はここにある。それがある限り、オレたちは死ぬまで騎士だ。
現実には、全ての騎士がその言葉を理解し、騎士長に従ったわけではない。この戦場に集った騎士は、わずか十名にも満たなかったのだから。
しかしその全員が、たとえ最後の一人となろうとも戦い抜く意思を持っている。おそらくは、死地に馳せ参じてくれた一万の衛士たちも。そこが魔界の軍勢とは決定的に違うところだ。
ルキウスは、大きく見開いた両眼でしかと敵軍を見据えた。
地響きを立てて突進するゴブリン部隊は、すでに百メルの距離まで肉迫している。右翼では、テレーゼが解放術による攻撃を開始し、薄霧が二度、三度とゴブリンを斃していく。
その、刹那の時に──。
ルキウスは、ついにその瞬間を発見した。
先陣のゴブリン部隊を追い立てるように、後方中心を突き進んでくる巨大な影たち。人間の倍以上もの体格を誇るジャイアント族だ。
ジャイアントの部隊が《新星槍》の解放術範囲に足を踏み入れた途端。
ルキウスは深く息を吸い、溜め、囁いた。
「……リベラシオン」
低く振動するような音を立てて、《新星槍》の刀身が太陽の如き白光に包まれた。
鋭利な切っ先が指し示す直線上──天空を捉え、鋭く叫ぶ。
「降り注げ──天光よ!!」
シャリィィィィ──ンッ!! と空気を震わせ、太陽と地力の力を凝縮した眩い熱線が天へと伸び、光線の雨が降り注ぐ。
《新星槍》は人界の最西端で発掘された水晶を素材に創造された神器。
太陽の光を一番に浴び続けた水晶は、陽光を内側で何重にも反射していき、やがて天へと放出される。
遥か昔、三日三晩降り続けた豪雨に見舞われた辺境の村が、その際に放たれた光線によって雲が晴れ、三日ぶりに晴天空を拝ませたと言われている。
それを聞いた創世神様は、その水晶の一部を発掘させ神器《新星槍》を創造した。
日差しを充分に浴びることで陽光が内部に蓄積されていき、解放構文の詠唱と同時に解き放たれる。その威力は、亜人の粗悪な鎧など難なく焼き断つ。
光線の雨が降り注ぐ地点で、多くの亜人の悲鳴がこだまする。貫通した箇所から一気に血飛沫が飛び散り、光線に触れて一瞬で血煙と化す。
雨が降り止むと、数千体もの亜人の焦げ死体が黒い蒸気を上げている。
ルキウスは、戦地の彼方にまで届きそうなほど凛とした声で発した。
「魔界に住む穢れた魂と肉体を持つ愚かな者たちよ! 裁きの光を受け、身を焼かれる覚悟をしておけ!!」
キクノにとって、大切な記憶など存在しない。
自分が何故騎士として人界に召喚されたのか、一度も考えたことがない。
騎士として召喚されてから常に考えていたのは、人界を守るために己を磨くこと。そして、師であるカムイ殿に認めてもらうことだけだった。
若輩の私を一から指導してくれたカムイに、一度でも本気で剣を交えたかった。
しかし──。
結局、その願いは叶わずに終わった。
デーモン族の不意打ちで再起不能にまで陥り、一時的に騎士団を除名。治癒に専念している間に、師は命を落としていた。
最後のお別れも、鍛錬の感謝も言うこともできずに起きた、突然の別れ。
その真実を耳にし、最初に考えたのは、ある一人の修剣士への復讐。
過程と結果を鑑みても、全ては一人の修剣士の油断が原因。修剣士が油断せねば、師が堕天の神と一戦交えることもなく、また精神を穢されることもなかった。
更に驚愕したのは、騎士長の口から告げられた、修剣士の名。
カズヤ──。
忘れるわけがない。デーモン族の不意打ちから私を守り、共に迎撃した、勇敢なる剣士の名──。
そして、師が嬉しそうに話していた名──。
信じられない。カズヤ自身もカムイ殿を尊敬し、慕っていたではないか。それが何故、自らの手で殺めるような真似を。
いや、憎むべき敵の事情などどうでもいい。今はただ、胸中をかき乱す苛立ちと殺意だけに身を委ねればいい。
カズヤを、大罪人を断罪さえできればいい。その後は、私も命を断つ。
本気で考えた。
しかし、それを実行しなかった。実行できるわけがなかった。
カムイ殿のことは、弟子である私が一番よく知っていると自負している。
彼は最後に選んだのだ。果たさなければならない使命よりも、カズヤを生かすことを。それはきっと、絶望しかない人界に残された希望なのだと信じて。
ならば、私はその選択を信じるだけ。カムイ殿が守った命を最後まで見届けるのが、弟子である私の使命──信念だ。
長い思慮が一瞬で脳内に流れ終える頃には、既に五十メルにまで接近していた。
神器《飛翔鞭》は、己の射程距離を何倍にも引き伸ばす解放術を有している。
一撃で複数体の亜人を薙ぎ払うことが出来るが、乱戦時には味方をも巻き込む恐れがあるためあまり効果的ではない。
もし──。
ここに師がいれば、眼前から突進する亜人の大軍を一瞬で再起不能に出来ただろう。神器《激凍剣》の解放術は、乱戦時と集団戦の時に最も効果を発揮するのだから。
「……師よ、私に力を」
呟き、《飛翔鞭》を打ち鳴らす。鋭い切っ先が地面を穿ち、銀鱗の鞭が亀裂を刻む。
「……リベラシオン」
静かに囁き、神器から銀色の輝きが放たれる。光は徐々に伸びていき、元の長さの三倍ほどにまで伸びると、目視不可の速度で飛翔させる。
しなやかな弧を描き、鞭の先端が大地に触れた瞬間、蛇のように身をくねらせながら引き戻されていく。
大地が大きく抉り出される。滝のような奔流が無数のゴブリンを飲み込んでいき、圧迫死させる。
間髪入れず鞭を地面に叩きつけ、大地を抉り出す。その度に亜人は生き埋めになっていく。
瞬時に鞭を引き戻し、右腕に巻き付けてから、騎士キクノは鋭く叫んだ。
「我、天界の騎士キクノ! 我がここにいる限り、貴様等がこれより先に到達することは出来ないと知れ!」
0
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