異世界転生 剣と魔術の世界

小沢アキラ

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第三部・三章 血流大戦(後編)

第十五話

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 与えられた天幕の中で、真珠色のブレストプレートを外しながら、ヒヅキは安堵のため息をついた。
 私と兄の関係と真実を聞いた民は、私に非難の声を上げるとばかり思っていた。
 だが実際は、誰一人私を責めなかった。
 禁書目録などなくても、人界の民は優しかった。それなのに私は、彼らを信じられずに、法で無理やり縛り付けて……
 唇を強く嚙みながら、ヒヅキは己の愚かさを悔い改めた。
 ──これ以上
 誰も死なせない。みんな、私が守る。
 それこそが、私の償いだ。
 強く決心してから、ヒヅキはふとカズヤの姿が頭に浮かんだ。
 一年前よりも凛々しくなった彼は、己の使命を受け入れた決意を宿していた。
 そんなことを考えていると、何故だが胸の奥から込み上げてくるものがあった。
 これは、欲望。最も忌み嫌う、人間の醜い部分。
 いますぐに、彼が休んでいる天幕に飛び込み、抱きしめ、語りかけたい。許されるなら、兄との決戦までそうしていたい。
 ──せめて、この一夜だけでも……。
 そう心を決めたヒヅキは、全ての金属装備を外して軽快なチュニックとスカート姿になると、天幕の出入り口近くまで移動して耳を澄ませた。
 ヒサカゲが用意してくれた小型天幕には、散々辞退したのに、警備の衛士がひとり付けられてしまった。創世神の護衛をするというので張り切った若者は、居眠りする様子もなく、律儀に天幕のそばをひたすら周回している。
 その足音が、ざくざくと下生えを踏みしめながら入り口を通り過ぎ、真後ろに差しかかったあたりで、ヒヅキは素早く天幕を出た。無音の跳躍を三度繰り返し、十メートルほど離れた大木の裏に潜り込む。
 そっと後ろを窺うと、若い衛士はまったく気付いた様子もなく天幕の後ろから現れ、周回を継続した。ごめんね、と内心で謝り、ヒヅキは木立の奥を目指した。
 大規模な戦闘の疲れから人界軍の兵士たちは皆早々に眠り込んだようで、わずかな見張りを除いて、起きている者の気配はない。見張りの意識も森の外に向いていて、ヒヅキは見つかることなく男性陣の天幕が並ぶエリアに忍ぶ込むことができた。
 瞼を閉じ、意識を研ぎ澄ませる。
 空間に干渉できるか故に、特定の人物を探し当てるのは得意だ。
 特異点の居場所はすぐに感じられた。どうやら天幕から少し離れた場所に、一人でいるみたいだ。
 ──見張りでもしているのだろうか。
 一瞬の思慮を巡らせ、彼がいる場所は駆け出す。
 早く、彼と会いたい。話をしたい。
 その一心を胸に疾駆しているうちに、彼の姿を両眼で捉えた。
 天幕が並ぶエリアよりも二段ほど高くに位置する丘で、胡座をかきながら夜空を眺めている。白銀の鎧は脱いでおらず、星の輝きを無数に反射している。
 腰に下げた二本の長剣は外されており、鎧と同じ白銀の剣を膝の上に置き、大切そうに撫でている。
「……カムイさん」
 彼の口から出た名前に、創世神は息を呑み、熱い雫が溢れたのを感じた。
 彼はまだ……大切な人の死を受け入れられていなかった。受け入れられるはずが、なかった。
 カムイとカズヤの関係は、外野の私では想像できないほど濃密だった。まるで、兄弟のようだった。
 カズヤはカムイを兄のように慕い、共に歩むことを強く望んでいた。
 カムイはカズヤを弟のように可愛がり、守りたいと強く願っていた。
 だが運命は、それを認めなかった。
 慕っていた相手を殺めた彼は、自分を一生許さないだろう。多分、邪教神を倒したあと、彼は死ぬつもりだろう。

 気付くと私は、カズヤを後ろから抱きしめていた。
「……えっ!? ヒヅキさん!?」
 私の接近に気付かなかったカズヤは、突然の出来事に驚愕しながら振り返ろうとした。
 だがそれより早く、言った。
「無理しないで……」
 途端、カズヤは硬直したように動きを止めた。
「辛い時は、泣いていいんだよ」
「……なに、言ってるんですか」
 それは、呆れからくる発言ではない。
 長い時間、我慢し続けた涙から来る言葉だった。
「何人もの犠牲を払ってまでここにいる俺が…………今更泣くことなんて、許されるはずが……」
「カズヤくん……」
 涙を必死に堪えてる少年を抱きしめながら、ヒヅキは囁く。
「泣くことは、悪いことじゃないんだよ。……涙を流せるのは、生きてる人の特権なんだよ」
 それが拍車をかけたのか──。
 カズヤは私にしがみつき、嗚咽を押し殺しながら涙を流した。
 ヒヅキは、自分の胸元で泣き噦る少年の背中を、ただ静かにさすることしか出来なかった。

 時間をかけて嗚咽を抑えていき、やがて完璧に落ち着きを取り戻したカズヤは、先ほどまでしがみついていたヒヅキに頭を下げた。
「す、すいません。みっともない姿をお見せしてしまい」
「大丈夫よ。君の可愛い姿が見れたんだからね」
 悪戯な笑みと一緒に放たれた台詞にやや仰け反った。だがすぐに姿勢を戻し、軽く咳払いする。
 何故彼女がここにいるのかは定かではないが、特に咎める理由も必要性もないためスルーし、ずっと気になっていたことを訊ねた。
「その……聞きたいことがあります」
 創世神は小首を傾げながら「なに?」と答えた。
 三百年も生きているとは思えない可愛らしい所動に少しだけ照れながら、質問を口にする。
「ヒヅキさんが使っていた、あの奇妙な武器。あれは一体?」
 不覚にも襲いかかってしまった時、こちらの攻撃を全て防いでいた光の刃。
「あー……。あれは、私専用の武器よ」
「あなた専用……ってことは、神器の類ですか?」
 ヒヅキは不敵に微笑むと、そっとかぶりを振った。
「神器じゃないわ。あれは、この世界の理念から逸脱した武器……あなたの世界で例えるなら、自律型遠隔誘導武器よ」
「自律型遠隔誘導武器……」
 約二年半も聞かなかった元の世界に似た単語を復唱しながら、消えかけた翻訳辞書を必死にめくる。
 だが思い出せるのは誘導までで、他の単語の意味はまるで分からなかった。
「あの武器……銘は《星屑スターダスト》。空間把握能力が高くないと使いこなせない、特異な武器よ」
 確かに……星屑はこちらの斬撃を全て的確な時間、場所で受け止めていた。それ相応の空間把握、認識能力があって成せる芸当だ。
「成る程……しかし、それでもまだ納得できない点があります」
「それはどういう意味、カズヤくん?」
「ヒヅキさんは、どう星屑を操っているんですか。まさか、剣そのものがあなたを守ろうとする意思がある、なんてこと言いませんよね」
 斬撃に意思を宿すヒサカゲでもあるまいし。とまでは口にしなかったが、それが率直な意見だ。
 ヒヅキは笑みを浮かべたまま、ゆっくりと首を横に振った。
「本来、私の近接戦闘能力はあなたに及ぶべくもありません。それはなにより、これまでの鍛錬で培われた身体能力と技術が違うからです。君の攻撃を防ごうと思っても、それを私の肉体は十全に成し得ることができない……」
「……はっ!」
 ヒヅキの言葉に、カズヤはようやく気が付いた。
「そう。自律型遠隔誘導武器《星屑》は肉体を通すことなく、思考だけで操作できる──つまり私が星屑に念じるだけで、剣はコンマ一秒のタイムラグを生まずに動きます」
「……そりゃ、異世界の理念から逸脱してるわけだ。思うだけで動くなんて」
「でも、一度に操作できる数は限られてるわ。それに操る数が増えれば精度も落ちるし、動きも雑になってしまうわ。あまり乱戦向きじゃないのよね」
 肩を落としながら言い捨てる創世神に、カズヤは苦微笑を向けた。
 自分の連撃を防いでいたくせにそう言われると、少しばかし癪に障る。自分がまだ未熟なだけだが……。
 苛立つ心を無理やり奥に押し込め、俺は創世神から視線を外し、腰の二本に向けた。
 先ほど手入れをして気付いたが、焔天剣もかなり消耗している。補給物資にあった砥石で研いではみたが、こちらも激凍剣同様限界が来ている。
 邪教神との戦いまで保つか危ういが、それとは別の感慨が脳裏を横切る。
 異世界に来てから俺を支えてくれた愛剣と別れる時が近づいている。そう思うだけで、胸が締め付けられる苦しさがある。
「ヒヅキさん……あなたの力で、俺の剣を直すことはできますか?」
 俺は、創世神に無理難題を解決してくれと、遠回しに訊ねた。
 消耗した剣は、剣の素材を持って鍛冶屋に頼めば修復される。それ以外で直す方法などない。
 毎日の手入れは、剣の見栄えと耐久を持続させるだけ。刀身そのものを修復する力はない。
 焔天剣の素材は戴天の鉤爪。既に絶滅した竜の素材など調達することは出来ない。
 飛竜として使役している戴天の鉤爪はまだ未熟だから使えない。つまり、焔天剣は修復不可能ということになる。
 だが──。
 世の理から逸脱した神なら、そんな条件など関係なく直せるんじゃないかと、一途の希望──ただの願望を胸にしまっていた。
 ──頼む。俺はまだ……焔天剣と一緒にいたいんだ。
 もうこれ以上、失うのは嫌なんだ。
 切に願い、祈りながら、創世神の言葉を待った。

 そして──。

 返ってきたのは、受け入れがたいものだった。

「ごめんなさい……それは、できないの」

 その答えは、すんなりと胸の奥にまで染み渡った。
「私は……完璧な神じゃなく、神に近い力を持った人間なの。いえ、例え神だとしても、失われる命を戻すことはできない」
「そんな……じゃあ、焔天剣はもう……」
 助からない、と考えるのはおかしいと、自分でも分かっている。
 愛剣と別れる時を、考えなかったわけではない。いつかは別れ、一人で歩いていかなければいけないことは分かっていた。
 だが、俺が望む別れは決して、こんなものじゃない。
 邪教神を倒し、剣など不要な世界になるまで、ずっと一緒にいるつもりだった。真の平和が実現された時、自室で大切に保管するのが夢だった。
 カズヤはゆっくりと、しかし着実と留め具から焔天剣を外し、鞘から微かに抜く。
 夜空の明かりを内部で反射し、蓄えている。その中に微かに見える、小さいけれど確実な亀裂が嫌でも目に入る。
「形あるものは、いつかは壊れる。大切なのは、それを忘れないことよ。壊れたからってすぐに忘れないで、いつまでも覚え続けることが、焔天剣への感謝の気持ちだと、私は思うわ」
「……はい」
 短い、だがはっきりとした声で頷き、鞘に納める。
「焔天剣……最後まで、一緒に戦ってくれ」
 愛剣を強く握りながら呟き、顔を夜空へと上げる。月はかなり傾いており、あと六時間ほどで反対側から太陽が昇ろうとしている。
「そろそろ戻って寝ましょう。明日は忙しくなりますから」
「ええ。休めるうちに休まなきゃ……ね」

 

 ──死を予感したことはありますか?
 不意に、耳許でそんな声が響いた気がして、騎士長ヒサカゲは瞼を持ち上げた。
 不吉な色の朝焼けが、薄暗い天幕の中にも忍び込もうとしている。空気は氷のように冷え、深く吸い込むとちくちくと肺を刺す。
 午前四時二十分と、ヒサカゲは感じた。長年生き続けた彼には、現在時刻を大まかに察知するという謎の特技がある。もう十分もしたら、伝令兵に全軍起床の角笛を吹かせねばならない。
 太い両腕を頭の後ろに回すと、年経た剣士は眠りを破った一言を脳裏に甦らせた。
 死を予感したことはある、か。
 そう訊ねた声は、彼の部下、副騎士長ルキウスのものだ。
 いつ頃の記憶なのかはすでに定かではない。百年前か、百五十年前か。長い時間を過ごすと、遠い記憶は時系列どおりに整理できるものではなくなってくる。
 しかし、当時の情景は鮮やかに思い出せた。
 無限に繰り返される日々に──それは自ら望んだものではあるが──ルキウスを誘って、たまに酒の相手をさせた。
 副騎士長は、深紅の長椅子に背を預け、しどけない仕草でワインの杯を傾けながらその問いを口にした。
 チーズをひと囓りしたところだったヒサカゲは、顎を動かしながらはてと首を捻った。
 堅物のルキウスが珍しいことを聞くもんだと考えながら、思いついたことをそのまま口にした。
 ──死の予感、か。まだヒヨッコだった頃、先代だか先先代の暗黒騎士団長に軽く捻られた時は、さすがに肝を冷やしたさ。
 するとルキウスはくすっと笑い、水晶の杯を机に置いてみせた。
 ──ですが、そやつの首はすでに取ってきていたではないですか。確か、遠征任務の帰りに遭遇して、お一人で五十もの暗黒騎士と共に。それ以降は、もうないのですか?
 ──うーむ、ちょいと思い出せんな。しかし、なぜ急にそんなことを聞くんだ?
 問い返すと、副騎士長は、長い脚を組み替えながら再び微笑んだ。
 ──いえ、我らが騎士長は無敵すぎる故、死という言葉と縁があるのか疑問に思っただけですよ。……しかし、よく解りました。騎士長もまた、死と対峙したからこそ、今の強さを得ていることに。
 ──それはそれは。副騎士長にしては面白い冗談なことで。
 
 その会話から百数十年後、人界を遥かに離れた魔界の森の片隅で、ヒサカゲはにやりと不敵に笑った。
 ──オレの死期も、そろそろかな。
 死を予感することは、自ら死の可能性を追い求めることの裏返しだ。
 納得のいく結末を、自分に相応しい死に様を、全力で足掻いても抗えない強力な敵を……オレは今も求め続けている。
 この瞬間、間近に迫る死を、ありありと予感しているこのオレのように……。
 寝床から一息に起き上がると逞しい体に白を基調とした着物を羽織った。帯を締め、履き物を突っかけ、左腰に愛剣を差す。
 出入り口の垂れ布を持ち上げて早朝の冷気の中に踏み出ると、全軍起床の指示を伝えるべく、伝令兵の天幕目指してヒサカゲは歩き始めた。

 ほぼ同時刻。
 二キロ北に離れた魔界軍の野営地から、地平線を微かに染める曙光しょこうを頼りに十頭の飛竜が飛び立った。
 その背に跨る暗黒騎士の腕には、それぞれデーモン族が錬金した一巻きの荒縄が抱えられている。縄の片端は、すでに峡谷の淵に打ち込まれた木杭に固定されている。
 騎乗者の腕から縄を引き出しながら、竜たちは幅百メルの谷を飛び越え、南岸に着地した。飛び降りた騎士たちは、剣の代わりに大きな槌を握ると、慣れない手つきで新たな杭を地面に打ち込み始めた。
 皇帝が新たに下した命令は、以下のようなものだった。
 暗黒騎士団は、峡谷に張られた十本の縄を伝って向こう岸に渡るべし。
 敵の妨害を警戒し、遭遇した場合は綱渡りを中止。その場から撤退せよ。
 落下した者の救援は必要ない。
 糧食その他の物資は運ばない。
 つまるところそれは、多数の犠牲者を織り込み、敵が攻めてくれば向こう岸の仲間を放置して撤退。残された仲間に補給はないという無慈悲極まる決死作戦だった。暗黒騎士団の長ラギルスと、副騎士長のジン、そしてデーモン族の長ザルザードは、やるかたない憤懣ふんまんを覚えて歯を食い縛った。
 しかし、絶対強者たる皇帝に逆らうことは出来ない。
 せめて敵軍が気付かないうちに綱渡りを完了したい、そのためにザルザード殿は決して斬れない縄を用意してくれたし、向こう岸にラギルスと共に降り立った。
 だがその願いも空しく、夜通し魔界軍を警戒していた人界守備軍の偵察兵が、一キロ南の丘を全速力で駆け下り始めた。

 堅焼きパン二枚の間にチーズと干し肉を挟んだ素朴な朝食を食べながら、カズヤは寝ぼけ頭で考えていた。
 ……ワタルは本当にすごいなぁ。
 ちらりと視線を前に向けると、瞼の重そうなワタルが、サンドイッチを口に運んでいる。
 ワタルは昨晩、大門が崩壊したことで人界と魔界の魔素が混ざり合い、両国の特性を残した魔素が誕生したことを証明してみせた。
 その魔素で高位治癒術や自作魔術を詠唱することが可能らしく、いまその方法を必死に模索している。
 そのせいで一睡も出来なかったらしいが、彼の功績は守備軍全体の士気を大いに昂めた。
 自分は戦闘では全く役に立っていないから、せめてみんなが万全に戦えるように精一杯サポートさせてほしいんだ。と、本人は言っていたが、そんなことは全くないことは全員が知っている。
 防衛戦でも、離れから亜人に殺されそうになっていた衛士を援護していたし、神雷の時もサポートしてくれていた。
 ──ワタル。お前は、充分すぎるほど役に立ってるよ。
 ──でも、今回は少し頑張りすぎだ。少しは俺や、キクノさんとかを頼れよ。みんな、お前の力になりたいと思ってるんだから。
 カズヤの意思は、向かいに座るサヤにも伝わったようだった。眠気の抜けたまなざしを向け、ぐっと力強く頷いた。
 敵襲を告げる角笛の、切迫した旋律が野営地に響き渡ったのは、その直後だった。
 
 パンの切れ端を咥えたまま自分の天幕に駆け戻ったカズヤは、手早く鎧を身につけ、焔天剣と激凍剣を摑んで外に飛び出した。
 同じように武装を終えたセレナと合流し、野営地の北を目指す。
 黒い森が切れるあたりには、すでに帯剣したヒサカゲの姿があった。
 偵察兵から報告を受けていた騎士長は、駆けつけたカズヤ、セレナと、数秒遅れて到着したキクノとヒヅキの姿を確認するや、厳しい表情で唸った。
「なるほど、敵の大将の遣り口は相当なモンだな。邪教神が、思い切った手に出たようだ」
 続いた言葉に、カズヤも思わず唇を嚙んだ。
 敵軍は、十本の荒縄を橋代わりに、幅百メートルの峡谷の横断を強行しているらしい。落下すれば、もちろん命はない。強靭な体力と精神力がなければ、とてもできない芸当だ。そのような作戦を兵に強いるとは、邪教神も余裕を失っているのか──あるいは、兵の命に興味を持っていないのか。
 とは言え、仮に三分の一が谷底に落ちたとしても、敵の主力はまだ七千近くも残る。一千の人界軍で正面から当たっても勝ち目はない。
 当初の作戦である、森に潜伏しての攻撃も、こう明るくなっては不可能だ。ならば更に南進し、再度不意打ちの機を待つべきか。
 カズヤの迷いを断ち切ったのは、騎士長ヒサカゲのひと言だった。
「これは戦争だ」
 ぼそりとそう言い放った古の豪傑は、薄青い両眼に苛烈な光を浮かべながら続けた。
「創世神殿と少年はともかく、オレたちが魔界の将軍に情けをかけてる場合じゃねぇ。この機は……活かさねばならん」
「機……と?」
 意表をつかれ、鸚鵡返おうむがえしに問うたセレナに、ヒサカゲは鋭い眼光で応じた。
「そうだとも。……騎士キクノよ」
 突然名前を呼ばれ、新米騎士はさっと背筋を伸ばす。
「ワタル少年を連れてきてくれ」
「は……はいっ!」
 すぐにきびつを返し森へ戻ったキクノは、すぐにワタルを連れて戻ってきた。
 ワタルは緊張で背筋を伸ばしながら、騎士長の言葉を待った。
「魔素についてはどれほど解明した?」
「はい、高位魔術までは至りませんが、治癒術と自作魔術が詠唱できる状態ではあります」
「それじゃ聞くが、鋼素で投刃は作れそうか?」
 突然すぎる難題に、ワタルは毅然とした態度で答えた。
「時間を頂けるなら可能です」
「よし。では……これから我ら三騎士とワタル、創世神殿で、渡溝中の敵を攻撃する。オレとセレナ、キクノはワタルの護衛に専念。ワタルは、投刃で敵軍の渡る縄を片っ端から切れ。創世神殿はワタルのサポートを」
 カズヤは小さく息を呑んだ。
 敵も横断用の縄は必死で守るだろうが、仮にその根本に人垣を築かれたとしても、曲線軌道で飛翔する投刃ならば敵頭上を超えて縄への直接攻撃が可能だ。言葉どおりに、容赦の欠片もない対応策。
 大量殺人の業を犯す決断を、十九歳の魔術師は、まだ幼い顔に固い決意を漲らせ、右拳を左胸に当てた。
「了解しました!」
 隣で、騎士キクノも低く呟く。
「大丈夫。私が、絶対に守るから」
 そして、ヒサカゲの指示には含まれていなかったカズヤまでもが一歩前に出た。
「俺も行きます。護衛は多い方がいいでしょう」
 ヒサカゲは一瞬だけ躊躇したが、すぐに頷いた。
 カズヤも一瞬瞑目し、胸中で呟いた。
 今更この俺に──何万もの亜人たちを殺めた自分に、高潔な戦いや命を語る資格などあるはずがない。
 いまはただ、邪教神を倒すために戦うのみ。
「──急ぐぞ」
 四人に頷きかけ、ヒサカゲは視線を北の丘へと向けた。血のように赤い曙光が、すでに稜線を黒々と浮き上がらせていた。
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