異世界転生 剣と魔術の世界

小沢アキラ

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第三部・第四章 人の意思

第十九話

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「が……はっ……」
 荒い呼吸とともに吐き出された大量の血液が、足許に飛び散った。
 地面に突き立てた焔天剣だけを支えに、それでもカズヤは立ち続けた。
 重槍突撃の第三波、第四波をどうにか全て斬り伏せたものの、全身に受けた傷は十を超えた。スカートは無残に引き千切れ、白銀に輝いていた鎧は自分と敵の血によって赤く染まっている。
 ランスの直撃を受けて穴だらけになった体が、いまも動くことが信じられない。実際には、体を動かしている血液が無くなろうが、心臓と同じ働きを為す魔石がある限り、カズヤの体は動き続ける。
 ──絶対に、諦めるものか。
 全身の感覚はもうないに等しい。灼けるような熱だけが神経を駆け巡り、視界を歪ませる。
 カズヤは、薄暗い視界に敵の突撃第五波を捉えると、地面から焔天剣を引き抜いた。
 もう、俊敏な回避動作は取れない。ランスを体で受け止めて、一瞬の隙を突いて反撃するしかない。
 羽のように軽かった剣が、いまはまるで鉛の棒だ。それを両手で構え、上体をかがめてらカズヤは敵を待った。
 地面が震え、二十人の重槍兵が突進を開始する。
 どっ、どっ、どどどど……。
 たちまち加速する足音に。
 
 ぶんっ。
 
 と、突然空気が唸り、人影が霞むほどの速度で回転した。竜巻のような、猛烈な唸りを響かせて再び降下を開始する。
 その真下に立つ二十人の重槍兵たちも、いつしか脚を止めて空を見上げていた。
 突如、深紅に染まった。
 血だ。竜巻に巻き込まれた歩兵たちが、瞬時にバラバラに分断され、広範囲に鮮血を撒き散らしたのだ。
 放射状にばたばたと倒れた槍兵の中央で、竜巻はゆっくりとその回転を停止し、人の姿に戻った。
 背中を向けて立つ、やや細身の騎士。右手の長剣をまっすぐ横に振り抜き、逆手持ちした小刀は、逆光を受けて煌く。
 ゆっくりと体を起こした人影は、長刀を右肩に担ぎ、ひょいと顔を振り向かせた。
 血の垂れる黒髪の下で、冷徹なまでに無表情の顔が、微かな笑みを浮かべた。
「遅れて悪かったな、カズヤ」
「ジ……ジン……?」
 カズヤは、自分の掠れ声を最後まで聴くことができなかった。
 近くから聞こえてくる、別の振動音。視線を向けると、傷ついた暗黒騎士とデーモン部隊が南から接近してきていた。
 先頭には騎馬に乗るラギルスの姿と、デーモン部隊の長が見て取れる。
「お前ら……どうして」
 掠れ声を絞り出すと、ジンは微笑を浮かべながら発した。
「言っただろ。こいつらを排除するまで、共闘するって」
 まさか……その誓いを果たすためだけに、全軍で来てくれたのか。
 激痛がわずかながら引き、視界が少しだけ良好になる頃には、援軍としてやってきた魔界軍が参道に流れ込んできた。
 おぉぉ! という掛け声と共に、衛士に襲い掛かろうとする赤い兵士に突撃していく。負傷者を重点的に救助していく光景は、もはや魔界や人界といった隔たりを感じさせなかった。
「貴様らには多くの恨みがあるが……」
 長刀をまっすぐ赤い軍勢に向けたジンの言葉が、古代遺跡に響き渡った。
「友軍を痛めつけたことが一番許せないな! 貴様等の身をもって償ってもらう!」
 言い放つや、敵軍にまっすぐ突っ込んでいく。無謀と言うべきか、深傷の痛みを一瞬忘れてカズヤは呆れたが、ジンは愚かな行動は取らないから何か策があるのだろう。
 直後カズヤのすぐ隣に、新たな人影が現れた。
「……ラギルスさん!!」
 掠れた声で、その名を呼ぶ。
 かつての強大な敵は、カズヤを見ると冷徹な双眸に労いの色を灯し、力強く頷いた。
 すぐに振り向き、ジンを追って猛然と走り始める。
 そんな時、三人目と四人目の人族は、カズヤのすぐ目の前に現れた。
「──セレナ!! サヤ!!」
 思わず二人の名を叫ぶ。
 二人には討ち漏らした敵だけに専念してもらうべく、後方で待機するよう言ってあるはず。
 一瞬の安堵で全身から力が抜け、どうにかその場に踏み留まりながら、カズヤは二人に叫び返した。
「なんでここにいるんだ! 早く下がれ!」
 暗黒騎士団が合流してくれたとはいえ、最前線なのは変わらない。死邪に包囲でもされれば、いくら二人でも無事では済まない。
 今すぐ下がってくれ! そう強く念じるも、口から言葉が出てこようとしない。
 セレナはカズヤの右手を、サヤは左手を強く握った。二人の表情が、労いから心配に変化する。
「──こんな無茶して……傷だらけになって……。一人で頑張りすぎよ、カズヤ」
「私達を……仲間を信じなさい。みんな、お前のために来てくれたんだから」
 強い絆で結ばれた仲間に助け起こされただけで、カズヤは全身の傷の痛みが温かく溶け、消えていくのを感じた。
 すぐに、最後から強大な雄叫びが轟いた。振り返ると、一千の人界囮部隊が剣を構えて前方の赤い兵士たちに斬りかかっていく。
「みんな……どうして」
 カズヤは目の前の二人に、そして前線を押し戻していくたくさんの衛士たちに問うた。
「何言ってるのよ、カズヤ」
 サヤの答えは、揺るぎない意志に満ちていた。
「みんな、あんたを助けたいからよ。カズヤを守りたい意思が、みんなを動かしているのよ」
「……そうか…………そうだな…………ありがとう…………」
 囁き声で感謝を伝えながら、カズヤは深く、深く頷いた。
 ──まったく……あなたはどこまでもお見通しなんですね、カムイさん。
 本当に、無駄じゃなかった。今までの旅で培い、この戦場で紡いだ絆は、今この瞬間のためのものだったんだ。
 感慨深い気持ちを一秒でも多く噛みしめたいが、今はそれだけの余裕はない。
 二人から手を離し、前線を押している暗黒騎士と衛士に視線を往復させる。四人一組で各個撃破に当たっており、中には魔界の民と人界の民が陣営を組んでいる。
 その光景を微笑みながら見ていたカズヤは、不意に、確たる予感に打たれた。
 自分は、この光景を、一生忘れないだろう。
 同じ世界でありながら決して交わらなかった人々が、信頼を築き始めた。この瞬間を。ここから長く長く続いていくはずの物語に、悲しみで幕を下ろしてしまうわけにはいかない。
 大きく息を吸い、カズヤは口調を変えてセレナに訊ねた。
「セレナ、援軍の数は?」
「三千を少し超えるくらい。多分、負傷者は置いてきたんだと思うけど……」
「充分すぎる。だが、消耗戦は避けたい。あまり前線を広げないで、治癒術を厚くしよう。サヤとセレナは、支援部隊を作って」
 意識を戦闘に切り替え、カズヤはサヤに口早で指示した。
「サヤ、お前確か緊急用の霊薬持ってたよな。一本くれ、即効性のだ」
「え……あ、はい」
 腰のホルダーから取り出されたガラス瓶を受け取り、栓を抜いて中身の白濁液を流し込む。若干の粘り気と苦味にちょっとだけ不快になりながらも一息で飲み切り、空瓶をポケットに突っ込む。
 痛覚などを一時的に麻痺させ、新陳代謝を促進させる即効性の霊薬はすぐに作用した。十秒ほどで激痛が嘘のように無くなり、一呼吸する度に出血が治まっていくのが解る。
「……それで、カズヤはどうするの?」
 そう訊いてくるセレナに、カズヤは親指を立てて言った。
「もちろん、いちばん前に斬り込むんだよ」

 もう、負ける気はしない。
 最前線に駆けつけ、ジンとラギルスの姿を見出したカズヤは、意を強くしながら彼らと深く頷き交わした。
 彼らは皆、自分たちの役目を終わらせてなお助けにきてくれたのだ。ならば、共闘を請うた自分が最大の危険を冒し、彼らの犠牲を最小に抑えなくてはならない。
 カズヤは戦場を走り抜けながら援軍たちに次々と指示を飛ばし、広がりすぎた前線を縮小して、遺跡参道の入り口を中心とした半円形へと築き直した。
 いかに援軍三千が加わっても、赤い軍勢はまだ一万を超える数が残っている。消耗戦になれば、死亡者が出る恐れがある。
 ──そんなこと、絶対にさせない。
 もう、誰一人として死なせはしない。赤い軍勢を排除できたら、あとは騎士長ヒサカゲが足止めしていてくれるはずの邪教神に追いつき、創世神を奪還するのみ。
 最前線で焔天剣を閃かせながら、カズヤは精一杯の声で叫び続けた。
「大丈夫……勝てるさ! 俺たちなら、絶対に勝てる!」
 
 騎竜の背中から飛び降りた時、ヒサカゲの足元にはまだ二百メル近い空間が残っていた。ただ落ちるだけでは、いかに彼でも岩山に激突する衝撃には耐えられない。
 しかし騎士長は、まるで空中に見えない階段でも存在するかのように、螺旋を描きながら空を駆け下りた。
 実際には、一歩ごと足の真裏に風素を生成、炸裂させ、その反動で落下速度を殺したのだ。足で素因を生成するという秘術を、彼は何十年と昔に独学で習得している。
 遥か眼下の、人造の塔にも似た岩山の上に立つ邪教神の視界の外へ、外へと跳躍しながら、最古の騎士は愛剣の柄に手を添えた。
 ──一撃で終わらせる。
 騎士長ヒサカゲが必殺の意思を練るのは、百五十年前に先々代の暗黒騎士長を斬って以来のことだった。それほどの長きにわたって、彼に純粋な殺意を呼び起こさせる敵は出現しなかったのだ。
 弟子との立ち合いに於いて、ヒサカゲは本気になりこそすれ殺気を漲らせたりはしなかった。いや、それを言うならば、長年の好敵手である暗黒騎士団たちに対してさえ、怒りや憎しみのような負の感情を抱いたことはない。
 つまりヒサカゲは、その長い生涯で初めて、愛剣の刃に真なる怒りを込めたことになる。
 彼は怒っていた。心底激怒していた。創世神を拉致されたことのみに対してではない。
 仮にも支配者でありながら、自分がおさめる国の民に、命を捨てさせるような命令を強いたことが。無為に何万もの命を落とさしめて、それらを弔おうとすらしない。それは、二百年以上もこの世界を見守り続けてきたヒサカゲには、どうしても赦せないことだった。
 ──邪教神グーリ、てめぇにどんな事情があるかは知らねぇ。
 だが、神の巫女がみんなてめぇのような悪鬼じゃねぇことは、ヒヅキを見ればわかる。
 つまり、てめぇという人間の本質が、どうしようもなく悪だということだ。
 ならば、その報いを。
 天界の騎士カムイの、テレーゼの、イユの、そして戦場で散った多くの人間たちの、命の重さを。
 この一撃で……とくと知れ!!
「ぜ……あぁッ!!」
 高度十メルで最後の一歩を踏み切り、騎士長ヒサカゲは、あらんかぎりの意思を込めた斬撃を邪教神の無防備な脳天めがけて振り下ろした。
 大気が灼け、白く輝いた。刃が生み出す光のあまりの激しさに、世界が色を失った。

 それは間違いなく、かつて人界で発生した全ての剣技の中で、最大級の威力を内包した一撃だった。
 命中していれば、邪教神とて負の因子を使ったとしても無事では済まなかった。
 命中しさえすれば。

 邪教神は生きてきた中で、死を予感したことなど一度もない。
 自分は絶対的な強者。世界の全てを支配できる神という自尊心が、彼の中にある死という感慨を消している。
 天から降り注ぐ致死の流星に気付いた瞬間も、邪教神の表情はまるで動かなかった。
 せいぜい見上げることしかできないくらいの、超速の剣技だった。
 だが、邪教神は動こうとしなかった。
 避けれないわけではない。似たような状況は、一年前に味わっている。
 あの時の剣技も、見事なものだった。下手すれば片腕は斬り飛ばされていたかもしれないが、今回のはあれ以上に強力だ。
 半端な回避では次撃が襲いかかる。
 ならば、回避しなければいい。

 ズガァァァンッ!! という雷鳴じみた轟音とともに、巨大な岩山全体が震動し、側面から幾つもの塊が剥がれ落ちていった。
 確実に当たった。だが、……?
 瞠目しながら、ヒサカゲは動きを止めなかった。戦闘のさなかに、予想外の展開で思考が滞るような段階はとうに脱している。
 最後にもう一度だけ空気を蹴り、邪教神の側面へと回り込みながら着地。即座に横薙ぎの一撃。全身全霊を込めた大技での手応えに違和感を感じながら、次の攻撃まで半秒とかかっていない。
 その追い打ちすらも、ヒサカゲは手応えを感じなかった。
 当たっている。だが、殺せていない。いや……これは、傷一つつけれていない?
 しかし。
 今度こそ、ヒサカゲは勝利を確信した。
 上空から放った渾身の初撃は、手応えはないにしたが消えたわけではなかった。愛剣の解放術、《意思の刃》──すなわち《意思》を付与した斬撃を放つ力を彼は発動させていたのだ。稽古でカズヤを大いに苦しめた、斬撃に意思を宿らせ敵を追跡、斬り倒すという絶技。
 二撃の手応えを感じかったが、意思を持つ斬撃は敵の首を斬り取るまで決して止まらない。
 邪教神の両腕が、許しを請うかのように高く高く掲げられた。
 黒を纏う長身が縦に裂けるさまを、ヒサカゲは強く予感した。
 ぱん。
 乾いた破裂音。
 その源は、後ろを見もせずに打ち合わせた、邪教神の両の掌だった。
 ──素手で《意思の刃》を挟み止めた、だと。しかも背を向けたまま。
 有り得ない。剣を両手で包み込むように受ける奥技は、人界にも魔界にも存在しない。それ以前に、意思の刃の威力は、素手で止められるようなものではなかったはずだ。
 その思考は、ほんの刹那こものではあったが、しかしヒサカゲの動きはここでついに止まった。
 ゆえに、続いて発生した現象を、彼はただ黙視することしかできなかった。
 蜃気楼のように空中で揺らめく不可視の斬撃が、邪教神の両手に吸い込まれていく。
 同時に、邪教神の双眸が、どす黒い闇に染まり始める。
 その闇の底には、ちかちかと瞬く無数の──あれは、星……?
 違う。
 あれは、意思だ。
 弟子カズヤの報告で聞いてはいる。奴は人の意思を喰らい、囚えると。それで弟子カズヤは、愛する者を失ったとも……。
「……貴様、斬撃の意思を喰ったのか」
 そう呟いたヒサカゲに、《意思の刃》の威力を吸収し尽くした両手を無造作に降ろしながら、邪教神は答えた。
「最古の騎士。……なるほど、濃密な意思だ」
 ひどく寒々しい、生きた人間の気配が完全に抜け落ちた声だった。それを発した薄い唇が、見かけは微笑みに似た形へと動いた。
「下にこびりつく後味……。好きではないが、甘美な意思の前、メインの露払いに味わうのもよかろう」
 青白い右手が動き、腰の長剣の柄を握る。
 ぬるりと鞘から抜き出された細身の刀身は、青紫色の燐光に包まれていた。それを気負いなくぶら下げながら、邪教神はもう一度微笑んだ。
「足掻け……絶望しろ……許しを請え。人の魂は、負の感情に満たされた瞬間、最高の輝きを放つ。我はそれを欲する」
「そうか……なら残念だったな。てめぇが求めるような感情もんは、ずっと昔に、どこかに置いてきちまったんでな」
 ニヤリと笑い──余裕も油断もない笑みを浮かべながら、ヒサカゲは手応えを感じなかった理由を今更ながら気付く。
 土煙で見えなかったが、奴の周囲に薄い膜が張られている。
 鋼素……? だが、神器《斬穿剣》の最大の一撃を凌げるほどの鋼素を生成するのは不可能。目を凝らさなければ見えないほどの薄膜なら余計に。
 ならばあれはなんだ。負のマイナス因子だとしても、斬撃を放つという結果を逆転させられないはず。
 ──まずはあれを破らねば。
 斬穿剣の解放術が効かないのならば、解放術で勝負を決める。

  ***

「どうやら大勢は決したようだな」
 カズヤは、同時に後方の陣地へ戻ってきたジンの言葉に、「そうだな」と応じた。
 幾らか手傷を負った二人を、魔術師たちが治癒術で癒していく。
「ありがとう」
 女性の魔術師に礼を言ってから、隣のジンにも改めて同じ言葉を掛ける。
「お前もありがとう、ジン。何てお礼を言ったらいいか……」
 言葉を詰まらせるカズヤを見て、ジンはふん、と鼻を鳴らした。
「礼には及ばん。決着をつけずに死なれるのは目覚めが悪いだけだ」
「……ふっ、そうだな。お前との決着をつけなきゃ、死んでも死ねきれないけどな」
 好敵手の気遣いに思わず表情が綻びながら、前線を見遣る。
 交代制での戦闘の甲斐あって、人的被害は最低限に抑えられている。四人一組で行動しているから、一人の負傷を三人でカバーできている。
 傷が癒えるや否や、カズヤはもう一度魔術師に礼を言って立ち上がった。
 ジンの言う通り、すでに戦闘の趨勢すうせいは決していると言っていい。赤い軍勢たちの数は共闘軍──魔界軍と人界軍──と同程度にまで減少し、戦意を喪失したかのようにやけっぱちな突撃を繰り返すのみだ。
 しかし、この古代遺跡での戦闘は、前哨戦に過ぎない。
 問題は、邪教神に拉致された《神の巫女》ヒヅキだ。騎士長ヒサカゲがどうにか足止めしてくれているうちに、邪教神に追いついてヒヅキを奪回せねばならない。共闘軍から最精鋭の少数チームを編成し、人界軍の馬を借りて全速力で先行するのだ。
 追いつきさえすれば、たとえ敵が同じ《神の巫女》だろうが、両国から結集した選抜チームに敵うはずがない。そう断言できるほど、彼らの力は圧倒的だ。勇猛に戦う剣士たちの剣や盾や鎧が、陽光を反射して七色に輝く様子を、まさしく北欧神話の不死の軍勢エインヘリアルのようだ……。
 滲みかけた涙を拭い、カズヤは視線を前線から最後方へと向けた。
 遺跡参道の入り口付近では、補給隊の馬車も奥から引き出され、即席の陣地が築かれている。傷ついた暗黒騎士たちが、魔術師たちに術式で癒されている光景は、これも言葉にできないほどとうとく感じられた。
「……大丈夫だ、何もかもうまくいく……きっと」
 独りごちた言葉に、隣のジンが力強い相づちを入れた。
「そうだな。……さて、俺たちももう一頑張りするか」
「ああ」
 頷き、再び最前線へと向き直りかけたカズヤは──。
 視界の端を掠めた何かに注意を引かれ、ぴたりと動きを止めた。
 ──何だろう。何か、黒い……暗い、人形みたいな……。
 しばし視線を彷徨わせたカズヤは、ようやく、それを見つけた。
 遺跡参道の両側に立ち並ぶ、巨大な神像。
 その右側、一番手前の像の頭上に、誰かが立っている。
 逆光のせいでよく見えない。赤い魔界の空に滲むように揺れる黒い影が、二つ。
 訝しみながら眼を凝らすと、片方は肉団子のような体躯をしている。もう片方は、そのシルエットが不気味に揺れている。黒い外套とハーフマントを羽織っているからだと解った。フードを目深に引き下げているので、顔はまったく見えない。
 途端、戦場に横風が吹き荒れた。
 地上に立つ兵士たちにとっては、単なるそよ風。だが高所に立つ者のフードが激しくなびくほどの横風。

 フードが、めくれる。

 カズヤは、頭の芯が氷のように冷えていくのを感じた。
「…………嘘、だ」
 掠れた声で囁くことしかできなかった。
「……? どうした、カズヤ」
 前線に向けて走り出しかけたジンが振り向き、呆然と立ち尽くすカズヤの肩を掴んだ。
「なぁ、ジン……。あれって……」
 震える左手を持ち上げ、神像に立つ二人を指差す。
「ん……? あいつ、あんなところで何してるんだ」
「そうじゃない……俺が聞きたいのは、そうじゃないんだ……」
 震える唇を全く意識せず、発し続けた。
「いや……まさか。ありえない、そんな……。俺は、幻を見てるのか……?」
「ま、幻……? どういうことだ?」
「だ……だってよ、絶対に有り得ないんだ」
 フードの下に隠れていたあの顔を、俺は今日まで忘れたことはない。忘れるわけがない。
 幻だ。いるわけがない。
 消えろ。消えてくれ。
 しかし、陽炎に揺れる黒いシルエットは、カズヤの願いを嘲笑うかのように、ゆるりと右手を持ち上げた。そして、からかうような動きでひょいひょいと左右に振った。
 続く光景は──。
 これまでで最悪の悪夢に他ならなかった。
 黒い外套を羽織ったと似た顔をした者の隣に、滲み出すように新たな人影が現れた。二人、三人。
 そして、神像の背中が接する巨大な遺跡宮殿の屋上に、ごそりと赤い集団が出現した。左側の宮殿屋上にも、ぬっと数十規模の影が湧き出す。
 ────やめろ。もう、やめてくれ。
 カズヤは懸命に祈った。これ以上の絶望には、心が耐えられそうになかった。
 なのに。
 新たな赤い軍勢の湧出は、尽きることなくいつまでも続いた。千、三千、五千人。
 ついに一万を超えたところで、カズヤは数を把握しようとするのをやめた。
 有り得ない。
 幻だ。あれはみんな、術式で作り出された実体なき影なのだ。
 いつしか、元いた赤い軍勢との戦いにほぼ勝利した前線の共闘軍たちも、手を止めて振り返っていた。広大な戦場に、奇妙な静寂がしんと張り詰めた。
 敵は一体、どれだけの戦力を蓄えている。三万の軍勢を退けたというのに、ここに来て一万の援軍なんて……。
 まるで、こうなることが分かっていたような戦術。相手の希望を徹底的に潰す戦法。
 嘘だ。認めないぞ……。絶対に信じないからな。
 その思慮は、敵の戦法に対するものではない。
 最初からいた片方に向けてのものだった。
 魔界では珍しい、雪のように白い肌。赤い空の下でもくっきりと見える、
 今でも現実を受け入れられない。あれは……。

「……ユリ」

 間違いない。あそこに立っているのは、学園で亡くなったはずのユリだ。
 ユーグの禁忌魔術《孤毒怨蠍》の毒針に犯され、最後の力を振り絞って俺を助けて亡くなった彼女を見間違えるわけがない。
 だからこそ、信じられない。
 何故彼女がここにいるのか。どうして……死邪などと一緒にいるのか。
「なんでだよ…………ユリ」
 縋るように名を呼び、無意識に前へ踏み出す。
 思考がまとまらない。敵の援軍など蚊帳の外だ。今はただ、自分たちを見下ろす彼女に会って話したい。
 一歩踏み出す。今度は、左足を持ち上げ……。
 凄まじい勢いで、右肩を摑まれる。
「カズヤッ!!」
 知らぬうちに背後に立っていたセレナが、息を切らしながら鋭い叱責を飛ばす。
「早く指示を出しなさいッ!!」
 その一言で、朦朧としていた意識が引き締められる。
 そうだ。今の俺は、学園にいたカズヤじゃなく、共闘軍全体の指揮を任せられた指揮官。私情を捨てて、軍全体の生存を優先せねば。
 瞬間の瞠目の末、振り返る。
「全軍! 補給隊! 全速前進──ッ!!」
 カズヤは、東西の遺跡宮殿の屋上を埋め尽くす赤い大軍が動き出す直前に、声を振り絞ってそう叫んだ。
 共闘軍の補給部隊は、遺跡参道の入り口に展開している。宮殿は、その参道の両側に広がっているのだ。つまり、補給部隊のすぐ頭上に、一万の敵がひしめいていることになる。
「物資は捨てて、馬車と魔術師はいますぐ走るんだ!!」
 さらに指示するが、到底間に合いそうにない。新たに参戦してきた援軍たちは、いまにも巨大神像の頭を踏み越えて、補給部隊の真ん中へと飛び降りていきそうだ。
 カズヤは歯を食い縛り、右手の剣を高く掲げた。
 空中に巨大な魔法陣が展開。猛烈な熱波が迸ったかと思うと、その魔法陣を破るようにして巨大な焔の竜が出現した。
「行けッ──咬焔竜フレイムバイト!」
 安直な銘と共に放たれた焔の竜は、石の石像に立つ軍勢目掛けて飛翔していく。
 最前線にいた赤い兵士たちが飛び退き、後ろから押し寄せる味方と衝突して、ドミノ倒しのように転倒していく。その隙に、八台の馬車と二百人ほどの魔術師隊、補給隊が移動を開始する。
 咬焔竜が敵軍を攻撃できたのはほんの三十秒ほどで、それ以上は維持することができず地面に膝を突いてしまったが、共闘軍の後方部隊は辛くも死地を脱出し、遺跡北側の広大な荒野への退避に成功した。暗黒騎士と衛士隊が前進、後方部隊を両側から包み込むように布陣して応戦態勢を取る。
 しかしこの場所には地形らしい地形が存在せず、一万の敵を相手にすれば絶望的な全周防御を強いられてしまう。数で圧倒的に優る赤い軍勢たちを辛くも撃退できたのは、遺跡宮殿の壁を利用して前線を一箇所に限定し、手厚い回復ローテションを組めたからだ。一万の赤い軍勢に取り囲まれれば、前線崩壊は時間の問題だ。
「くっ…………」
 カズヤは残されたわずかな気力を振り絞って立ち上がり、もう一度剣を掲げた。
 ──もう一度、咬焔竜を……みんなを守れる力を、最後にもう一度。
 祈りながら、精神を集中させようとする。
 しかし。
 強烈なスパークに全身を貫かれるような衝撃に襲われ、カズヤは再び地面に倒れ込んでしまった。喉にせり上がってきたものを吐き出すと、それは少量の血だった。
「無理しないで、カズヤ! あとは私に任せてよ!」
 セレナが威勢良く叫び、
「そうだよ、君にばかり無茶はさせられない」
 合流したワタルも応じた。
 カズヤの前に立った二人が、二本の剣を構えた、その直後。
 一時の混乱から脱した赤い軍勢が、今度こそ宮殿の屋上から飛び降り始める。地面までの高さが二十メートルもあるので、うまく着地できずに倒れる者も少なからず出ているようだが、続く兵士たちは怪我人をクッション代わりにして無傷で地面に下りてくる。
 左右に広がりながら押し寄せてくる深紅の軍勢を、真っ先に迎え撃ったのはセレナとワタルだった。
「リベラシオンッ!!」
「降り注げッ!!」
 空気が震えるほどの気合に乗せて、華焔剣の解放術と、ワタルが生み出した複合魔術《鋭槍の氷》が、赤い軍勢へと降り注ぐ。
 巨大な青白い氷の槍と焔素の放射は、何十人もの敵兵が鮮血とともに宙を舞う。
 彼らの左右でも、暗黒騎士団長と副団長や、サヤとキクノが、全力の戦闘を開始した。
 機関銃のように突き抜ける金属音。重く響く単発の爆発音。剣が、斧が、槍が唸り、剣光が炸裂するたびに、赤い兵士たちがばたばたと斬り倒されていく。
 圧縮された空気が軋み、大軍勢の突進が一瞬止まった。
 それは──。
 決壊した堤防から押し寄せてくる濁流を、素手で防ごうとするが如き努力でしかなかった。
 悲鳴と怒号の渦巻く戦場の空に、かすかに響く甲高い哄笑を、地面にうずくまったままカズヤは聞いた。
 霞む眼を動かすと、遺跡宮殿の屋上で、ユリの隣に立つ肉団子のような子供が踊るように身を捩っているのが見えた。
 
 交戦と呼べるものは、わずか七分間しか続かなかった。
 その後状況は、三分間の防戦を経て、一方的な殺戮へと移行した。

「負傷者は後退しろ……! 勝つことじゃなく、生き残ることを最優先にするんだ……!!」
 カズヤは頭の芯で疼き続ける痛みを無視し、最前線で焔天剣を振るいながら声のかぎり叫んだ。
 しかし、声の揃った頼もしい応答はもう聞こえない。
 周囲では、衛士や暗黒騎士たちが一人また一人と、血のように赤い鎧に身を固めた死邪たちに包囲され、剣や槍で滅多刺しにされていく。怒号、悲鳴、そして断末魔の絶叫が次々に響く。
 これに比べれば、最初の重槍突撃作戦のほうがまだしも対処のしようがあった。
 新たに出現した大軍は、連携など一切感じさせない、なりふり構わない殲滅のみを目指している。複数人で目標の脚に摑みかかり、引き倒し、圧し掛かって自由を奪う。このような戦い方をされては、数の差を戦術で覆すことなど到底できない。
 残った二千人が円形に並んだ防御陣が、見る間に侵食され、薄くなっていく。
 カズヤは、尽きることなく押し寄せる兵士たちを焔天剣で懸命に斬り払い、貫きながら、戦場に立ってから初めて心の中で絶望の言葉を呟いた。
 誰か、助けて、と。

  ***

 邪教神の剣技は、ヒサカゲが知り得るものではなかった。
 最小限の動きによる、最大限に効率的な剣。
 足も動かなければ、予備動作もない。剣がぬるりと最短距離を飛んでくるため、動きの予測が不可能に近い。
 決して素早くも力強くもない攻撃だが、百戦錬磨のヒサカゲに、実に五回も反撃を許さなかったのだ。
 しかし、五回で充分だった。
 膨大な戦闘経験から、邪教神の剣技の呼吸さえもおよそ摑んだヒサカゲは、六回目で初の反撃に転じた。
「シッ!」
 こちらも最低限の気合を放ちつつ、邪教神の上段斬りの先を取って、同じく上段斬りを繰り出す。
 激しい金属音を、青白い火花が彩った。
 二本の剣が空中で交差する。ここからは力勝負だ。さしたる抵抗もなく、敵の剣が沈んでいく。圧力に耐えかねたかのように、長身の邪教神が膝を曲げる。
 ──勝機!!
 ヒサカゲは、練り上げた意思を愛剣に注ぎ込んだ。使い込まれた鋼の刀身が、銀色の燐光を帯びる。邪教神の黒い長剣をじわじわと押し上げた斬穿剣の切っ先が、敵の肩に触れ、鎧の表面に食い込み──。
 瞬間、邪教神の剣が怪しく輝いた。
 青紫色の燐光が蛇のように蠢き、斬穿剣に絡みつく。同時に、力強く漲っていた白銀の輝きが、萎れるように消えていく。
 ──なんだ、これは。
 いや……。
 そもそも、オレは、何を……しようと……。
 ビシッ、という鋭い音とともに左肩に凍るような冷たさを感じ、ヒサカゲはハッと両眼を見開いた。大きく飛び退き、大きく呼吸し、一瞬遠ざかりかけた意識を立て直す。
 ──いまのは、いったい。
 このオレが、戦いの最中に惚けた……だと!?
 愕然と自問してから、そんな生易しいものではなかったとかぶりを振る。
 これも報告で聞いている。負のマイナス因子が人体に接触すれば、その人間の意思を吸い取られる、と。
 体験してみて分かった。これは、一瞬の油断は愚か、敵の行動を予想しながら戦わねば勝てない。
 舌打ちして、左肩を一瞥する。かすり傷と言うにはやや深い。
「フン……頭と体を同時に動かさなきゃいけねぇなんて、楽しませてくれるじゃないか」
 にやりと笑い返しながらヒサカゲが嘯くと、邪教神は逆に笑みを消し、呟いた。
「……似たようなことを、特異点も言っていたな」
「そりゃそうだろうな。なんたって、カズヤはオレの弟子だからな。やはり師に似るものなんだな」
「ほう……。貴様、特異点の師だったか。ならばちょうど良い」
 直後、右手の長剣を、無造作に突き出してくる。
「貴様の死は、奴への絶望を駆り立てるだろう」
 空中で止まった切っ先から、青黒い光が煌めく。
 ……なにか、マズい!?
 という思考が閃いたのと、胸の凍るような感覚は同時だった。
 視線を下ろすと、左胸に小さいが、後ろの景色が見えるほどくっきりとした孔が穿たれていた。
「ぐっ……!」
 再び大きく跳んで距離を取る。
 左胸に空いた孔から零れた血が、白っぽい岩に深紅の斑点を描いた。
 ──なんてことだ。
 青白い光を、ルキウスの解放術のように放射できるなんて。しかも、とてつもない威力だ。
 これでは近づかなければ消耗戦になる。恐らくあれは負のマイナス因子を飛ばしているのだから、ほぼ無限に発射される。
 だが近づけば、奴に意思を吸われる。それ以前に、防御膜を破る術すら見つかっていない。
 ──どう対抗する。
 ヒサカゲは、額から流れてきた汗を、瞬きで振り払った。
 そして、不意に気付いた。
 自分が必死になってることに。
 ──いつのまにか、一欠片の余裕もなくなってるじゃねぇか。
 つまり、いや、この場所こそが死地だ。生死の瀬戸際の際だ。
「……へっ」
 騎士長ヒサカゲは、絶対絶命の状況を正確に認識してなお、太い笑みを浮かべた。
 視線を、ゆるゆると近づいてくる邪教神から、戦場の片隅に横たわる創世神・ヒヅキへと動かす。
 ──創世神殿。
 オレは最後まで、あんたに迷惑ばっかりかけてたな。長い付き合いだからとはいえ、勝手な真似ばかりして悪かったよ。
 でも、これだけは言わせてもらうぜ。
 あんたを守るのは、騎士長であるオレの務めだ。
「天界の騎士長ヒサカゲ……参る!!」
 叫び、ヒサカゲは地を蹴った。
 策も何もなく、ただ己の全てを愛剣に込めて、最古の騎士はまっすぐに走った。
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