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6「朝餉」
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「旦那様。天殿。朝でございます」
天の目を覚ましたのは、朝の強い陽光と共に現れた涼やかなイツ禍の声だった。
知らぬ間に寝ていたらしい。艶めかしく輝く赤い絹布団から体を起こすと、「ん」と小さな声がして禁も目を覚ます。
「お子はまだ不安定なため、私の血を混ぜた湯を飲ませて寝かせております。乳が張るでしょうが、しばし辛抱を」
「人前で言わんといて、恥ずかしい」
「私は医者ですから、すべて誠実にお伝えします。こぼれてしまう乳はこの布でお拭きくださいね」
「やっぱりアンタは鬼や」
「はっはっは」と禁が楽しそうに笑っている。気づけば禁は身なりを整えており、乱れた着物を着ているのは天だけだった。
「お着物は此方に」
そう手渡された着物は薄い桃色の単衣。出産翌日の体を締め付けないようにとのイツ禍の配慮だ。口調に遠慮はないが、楼主の補佐を務めるだけあってどこまでもきめ細やかな対応に天は舌を巻く。
(私が愛人だった頃、こんなんできへんかったな)
誉の愛人だった頃を思い出すとじくりと胸が痛む。これは産後の胸の張りだと自分に言い聞かせて、天もそそくさと着物に着替えた。本来なら男の前で着替えるなどありえないが、妖共に性の知識がないことを知っているので、警戒も緩んでいた。
「朝餉のご用意ができております」
「おお、良いな。今朝は何だ?」
「お望みの鯛の潮汁にございます」
事実、禁もイツ禍も肌を晒す点に何の反応も示さない。
呑気に朝餉の話をしている横で身なりを正すと、妖共に誘われるまま広間へと足を運んだ。
「う……」
胸が張る。痛む。
だが、イツ禍が言ったとおりだ。あと数刻もすれば乳は下がるだろう。
うめき声をあげると禁が心配そうに天を覗く。
「歩けるか?」
「……まあ、なんとか」
禁の大きな手を借りて立ち上がると、薄桃色の単衣が音を立てて揺れた。
天はまだ産後の痛みに足を震わせながらも、なんとか廊下を歩く。
華屋の朝は、夜とはまた違う。
深紅の灯りは褪せ、代わりに薄金の光が硝子戸を透かして床に落ちている。
海のような青い影がところどころに差し、幽世らしいひそやかな色が漂った。
「こちらへ」
イツ禍が案内した先には、朝の膳が整然と並んでいた。その奥には小さな花瓶。飾られている撫子は、この場の主役は食事だと言わんばかりに静かに咲いていた。
「今日は撫子か、良い趣味だ。この花は猗が?」
「ええ。今は表の花屋の準備で来られぬとのことですが。天殿のためにあつらえてくれました」
猗というのは誰だろう? 気にはなったが、ぐうと大きな腹の音が鳴って思考が遮られる。
禁がそれに気づくと、くつくつと笑って席に誘った。
「食べると良い。今日も明日もその先も、お主が望むならいつまでも」
「私は子供一人産んだだけやで。そんな大層にもてなさんでも……」
「その”それだけ”が我らにはできぬ。産むことは大業だぞ、天」
禁の言葉に、なぜか胸が熱くなる。
イツ禍がそっと天の前に膳を寄せた。
「まずは潮汁を。塩気がきつくないようにしております」
白い湯の中に、小さな鯛の身が浮かんでいる。
ひと口すすれば、海の香りがゆっくり広がる。
「……美味しい……」
産後の痛みも、昨夜の恐怖も、胸の奥の複雑な気持ちも、すべて溶けていくようだった。
「それはよかった。料理は犲というものが担当しております。彼も喜ぶ」
また新たな妖が……。しかし紹介されるまでは思いを馳せるだけ無駄だろう。
天は疲れ切った体に体力を補充するように、出された食事に手を付けていく。
ほかの料理も、ひとつずつ胸に染みていく。
蒸し蕪のやわらかさ。
甘い玉子焼き。
光沢を帯びた白米の、ほろりとほどける柔らかさ。
薄荷を垂らした白湯の清い匂い。
雨の中を走り抜けた昨夜の記憶が嘘のような暖かさに、あの夜を超えてよかったと心から思った。
***
「「ご馳走様」」
天と禁が箸を置いたのは同じ時だった。声が重なって互いに笑みがこぼれる。怖ろしい夜を超えて、二人の仲は退魔師と妖とは思えぬほど縮まっていた。
そんな様子を穏やかに見つめていたイツ禍が、気を利かせて天に声をかける。
「昼の間は赤子とお休みください。夜までは――」
「植物の花屋は知り合いなん?」
しかし、イツ禍が言い切る前に天の声が重なる。天はわざとイツ禍の言葉を遮って、禁に話しかけた。
「ああ。現世に残った妖が花屋をやっていて、幽世の花を卸した縁があってな。花屋に興味があるか?」
天の不自然な行動に禁も気づいていたが、なにか言いたそうなイツ禍を制止して穏やかに話を続ける。天は気を使わせているとわかっていながらも、ぺらぺらと回る口を止められなかった。
「店番でも裏方でも、手伝わしてや。遊女の稼ぎだけやったらこの先不安やわ」
「しかし昼と夜の仕事では体がもたぬだろう」
「退魔師の体力舐めたらあかんよ」
禁は決して「子の面倒を見ろ」とは言わなかった。静かに頷くと、イツ禍に「子を頼む」と言って天の頼みを承諾する。
「まずは花屋の仕事を見せてやろう」
禁もイツ禍もわかっていた。天が子に会いたくないということを――
天の目を覚ましたのは、朝の強い陽光と共に現れた涼やかなイツ禍の声だった。
知らぬ間に寝ていたらしい。艶めかしく輝く赤い絹布団から体を起こすと、「ん」と小さな声がして禁も目を覚ます。
「お子はまだ不安定なため、私の血を混ぜた湯を飲ませて寝かせております。乳が張るでしょうが、しばし辛抱を」
「人前で言わんといて、恥ずかしい」
「私は医者ですから、すべて誠実にお伝えします。こぼれてしまう乳はこの布でお拭きくださいね」
「やっぱりアンタは鬼や」
「はっはっは」と禁が楽しそうに笑っている。気づけば禁は身なりを整えており、乱れた着物を着ているのは天だけだった。
「お着物は此方に」
そう手渡された着物は薄い桃色の単衣。出産翌日の体を締め付けないようにとのイツ禍の配慮だ。口調に遠慮はないが、楼主の補佐を務めるだけあってどこまでもきめ細やかな対応に天は舌を巻く。
(私が愛人だった頃、こんなんできへんかったな)
誉の愛人だった頃を思い出すとじくりと胸が痛む。これは産後の胸の張りだと自分に言い聞かせて、天もそそくさと着物に着替えた。本来なら男の前で着替えるなどありえないが、妖共に性の知識がないことを知っているので、警戒も緩んでいた。
「朝餉のご用意ができております」
「おお、良いな。今朝は何だ?」
「お望みの鯛の潮汁にございます」
事実、禁もイツ禍も肌を晒す点に何の反応も示さない。
呑気に朝餉の話をしている横で身なりを正すと、妖共に誘われるまま広間へと足を運んだ。
「う……」
胸が張る。痛む。
だが、イツ禍が言ったとおりだ。あと数刻もすれば乳は下がるだろう。
うめき声をあげると禁が心配そうに天を覗く。
「歩けるか?」
「……まあ、なんとか」
禁の大きな手を借りて立ち上がると、薄桃色の単衣が音を立てて揺れた。
天はまだ産後の痛みに足を震わせながらも、なんとか廊下を歩く。
華屋の朝は、夜とはまた違う。
深紅の灯りは褪せ、代わりに薄金の光が硝子戸を透かして床に落ちている。
海のような青い影がところどころに差し、幽世らしいひそやかな色が漂った。
「こちらへ」
イツ禍が案内した先には、朝の膳が整然と並んでいた。その奥には小さな花瓶。飾られている撫子は、この場の主役は食事だと言わんばかりに静かに咲いていた。
「今日は撫子か、良い趣味だ。この花は猗が?」
「ええ。今は表の花屋の準備で来られぬとのことですが。天殿のためにあつらえてくれました」
猗というのは誰だろう? 気にはなったが、ぐうと大きな腹の音が鳴って思考が遮られる。
禁がそれに気づくと、くつくつと笑って席に誘った。
「食べると良い。今日も明日もその先も、お主が望むならいつまでも」
「私は子供一人産んだだけやで。そんな大層にもてなさんでも……」
「その”それだけ”が我らにはできぬ。産むことは大業だぞ、天」
禁の言葉に、なぜか胸が熱くなる。
イツ禍がそっと天の前に膳を寄せた。
「まずは潮汁を。塩気がきつくないようにしております」
白い湯の中に、小さな鯛の身が浮かんでいる。
ひと口すすれば、海の香りがゆっくり広がる。
「……美味しい……」
産後の痛みも、昨夜の恐怖も、胸の奥の複雑な気持ちも、すべて溶けていくようだった。
「それはよかった。料理は犲というものが担当しております。彼も喜ぶ」
また新たな妖が……。しかし紹介されるまでは思いを馳せるだけ無駄だろう。
天は疲れ切った体に体力を補充するように、出された食事に手を付けていく。
ほかの料理も、ひとつずつ胸に染みていく。
蒸し蕪のやわらかさ。
甘い玉子焼き。
光沢を帯びた白米の、ほろりとほどける柔らかさ。
薄荷を垂らした白湯の清い匂い。
雨の中を走り抜けた昨夜の記憶が嘘のような暖かさに、あの夜を超えてよかったと心から思った。
***
「「ご馳走様」」
天と禁が箸を置いたのは同じ時だった。声が重なって互いに笑みがこぼれる。怖ろしい夜を超えて、二人の仲は退魔師と妖とは思えぬほど縮まっていた。
そんな様子を穏やかに見つめていたイツ禍が、気を利かせて天に声をかける。
「昼の間は赤子とお休みください。夜までは――」
「植物の花屋は知り合いなん?」
しかし、イツ禍が言い切る前に天の声が重なる。天はわざとイツ禍の言葉を遮って、禁に話しかけた。
「ああ。現世に残った妖が花屋をやっていて、幽世の花を卸した縁があってな。花屋に興味があるか?」
天の不自然な行動に禁も気づいていたが、なにか言いたそうなイツ禍を制止して穏やかに話を続ける。天は気を使わせているとわかっていながらも、ぺらぺらと回る口を止められなかった。
「店番でも裏方でも、手伝わしてや。遊女の稼ぎだけやったらこの先不安やわ」
「しかし昼と夜の仕事では体がもたぬだろう」
「退魔師の体力舐めたらあかんよ」
禁は決して「子の面倒を見ろ」とは言わなかった。静かに頷くと、イツ禍に「子を頼む」と言って天の頼みを承諾する。
「まずは花屋の仕事を見せてやろう」
禁もイツ禍もわかっていた。天が子に会いたくないということを――
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