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17「沐浴」
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「猗はん。今日は早く上がってええ?」
初めての客を相手してから早数日。
あれ以来夜の客はまったく来ず、天は遊女でありながら、もっぱら昼の花屋【ひととせ】の従業員として働いていた。
冬の寒さが身に染みるようになった師走の風にきゅっと唇を引き締めながら、天は猗に早退を申し出る。
「はいはいもちろん。あ、夜のお客さんですか?」
「まさか、あの日以来とんと来んわ。華屋潰れるんちゃうか」
「禁サンは幽世の大地主ですよ。妓楼のひとつふたつ吹き飛んだって、財産はびくともしない」
「そういうもんかねえ」
天は空返事をしながら季節違いの桃の葉を何枚か千切り、懐に忍ばせる。
ここの花は売り物ではあるが、すべて天の好きにしていいと猗からも禁からも言われている。いつ来るかもしれぬ夜の客のために、天は時折花をもらっては部屋に飾り付けていた。――今のところ、その美しい花を見る妖は現れていないが。
だが今回は様子が違う。天は花ではなく葉に興味があるようで、「イツ禍はんが言うとったけど、こんなんでええんかな」とぶつぶつつぶやいている。それを見て、勘のいい猗は気づいた。
「ああ、そうか。今日はお風呂の日でしたねえ」
そう、今日は週に一度のお風呂の日だった。
***
「妓楼にも風呂はありますのに。大きい風呂が」
「いややわ、夜の店で赤子洗うなんて」
「よいではないかイツ禍。我も人の子の風呂を見てみたい!」
冬の日が落ちきる前の午後三時。天は禁とイツ禍と共に赤子を抱えて風呂屋へ向かっていた。
最近はあまり見かけないが、混浴風呂ならばイツ禍や禁とも共に入れる。
通りの角を曲がると、白く立ちのぼる湯気と、古びた木造の瓦屋根が現れる。煤けた看板には、薄く「湯」の一文字。暖簾は日に焼けて色褪せているが、ゆらゆら揺れる湯気は寒い冬の空気を温めて人を誘う。まんまと暖かな気配につられて天たちは中へと入ろうとした時、ふと声をかけられた。
「お嬢さん方、あそこの風呂屋はやめときな」
声の主は恰幅のいい女性だった。両手で遊びたい盛りの子供を捕まえている様からして、このあたりの主婦なのだろう。
「あたしもよく使ってたんだけどね。ガキども連れてさ」
「あら、覗きでもではるん?」
「それならまだいいさ。とんでもない変態が出るんだよ。ああ、これ以上はとても言えない」
「そりゃ怖ろしい」
主婦はそれだけ言うと、子供を叱りつけながら離れていく。忠告のためだけに声をかけてくれたのか。なんとも親切な女性だ。天は子連れで歩くようになってから、人に親切にされることが増えたなとぼんやりと思った。
「やめておきます?」
「うーん、でも混浴風呂なんてここしかないからなあ」
少し悩むが、このご時世に混浴風呂はなかなかない。他に選択肢はなかった。
入り口で下駄を脱いだら番頭に金を払う。高い銭湯ではないが親子二人ではそれなりの値になる。禁は自分が払うと言ってくるが、要らぬ貸しは作りたくないので固辞した。「家族かい?」なんて番頭の軽口に禁は大層喜んで、「ああ!」と大きな返事をするものだから天は恥ずかしかった。
脱衣所にも、浴槽にも、人の気配はない。が、それ以外はいたって普通の銭湯だった。
「人がおらんわ。貸し切りみたいでええねえ」
「噂は噂、ですかね」
なんにせよ、人がいないのは幸いだ。服を着ていてもやいやい言う者はいないだろう。当然のように全裸で風呂に入った禁を見送りながら、天とイツ禍はそそくさと入浴着に着替えて後を追った。
「ではイツ禍はん。ご教授お願いいたします」
天が赤子を腕に抱きながら、銭湯の隅で所在なさげに座っていた。盥には張ったばかりのぬるま湯に、ささやかに桃の葉が浮かんでいる。「桃の葉はあせもに効きますよ」とイツ禍に言われたためだ。
イツ禍が念入りに湯の温度を調整してあるし、桃も静かにしている。準備は万端だ。
だが、天の手は緊張でわずかに震えている。これまでどんな妖とも命のやり取りをしてきた天でも、生まれて数日のこの命の扱いには慎重にならざるをえなかった。
「はい。お湯の温度は人肌……指を入れて、熱くも冷たくもない程度がよろしいです」
イツ禍はいつもの涼やかな声音でそう答えると、天の隣にしゃがんで盥にそっと手を入れる。
「赤子の肌はとても薄いです。すぐにかぶれたり、冷えたりしますから。お湯は少なめに――それから、手早く、です」
「……死なへん?」
「それはあなた次第」
天の声は震えていた。
身体を張って妖の愛を教える遊女も、母としてはまだ駆け出し。天は桃の頬に手を添えながら、小さく呟く。
「そおっと、そおっと……」
そう言いながら天は赤子の首の後ろを支え、お尻に手を添えて、湯の中へとゆっくり沈める。桃は「ふぇ」と小さく声を出したが、すぐにぬるま湯に安心したように体を任せた。
「ほら、気持ちよさそうですね」
イツ禍の表情がふわりと和らぐ。
普段は冷静なイツ禍の柔らかな笑顔に天は小さく息を呑む。まるで慈母のように優しい横顔は、今までに見たどんな女性よりも美しかったからだ。
(桃も、この人を母やと思うた方がええんちゃうか)
男性のイツ禍相手に莫迦なことを考えていると、「ぼうっとしない」と小さくお叱りを受ける。天は慌てて湯の中の桃に集中した。
「頭からお湯をかけるのではなく、ガーゼで軽く流すように。おへその周りや首のしわは丁寧に拭ってあげてください」
「普段はぎゃあぎゃあうるさいのに。こういう時は静かやね」
「安心しているのだろう」
天たちの様子を見ながら、一番風呂に浸かっている禁が穏やかな瞳でこちらを見ていた。
「人は親元が最も安心すると言うだろう」
「安心、ねえ」
まともに生むこともできなかった子。幽世の湯で体を洗っているなど本人は知りもしないのだろう。
だが湯の中で体の力をすべて預けてくる小さな命に、天は静かに微笑んだ。
初めての客を相手してから早数日。
あれ以来夜の客はまったく来ず、天は遊女でありながら、もっぱら昼の花屋【ひととせ】の従業員として働いていた。
冬の寒さが身に染みるようになった師走の風にきゅっと唇を引き締めながら、天は猗に早退を申し出る。
「はいはいもちろん。あ、夜のお客さんですか?」
「まさか、あの日以来とんと来んわ。華屋潰れるんちゃうか」
「禁サンは幽世の大地主ですよ。妓楼のひとつふたつ吹き飛んだって、財産はびくともしない」
「そういうもんかねえ」
天は空返事をしながら季節違いの桃の葉を何枚か千切り、懐に忍ばせる。
ここの花は売り物ではあるが、すべて天の好きにしていいと猗からも禁からも言われている。いつ来るかもしれぬ夜の客のために、天は時折花をもらっては部屋に飾り付けていた。――今のところ、その美しい花を見る妖は現れていないが。
だが今回は様子が違う。天は花ではなく葉に興味があるようで、「イツ禍はんが言うとったけど、こんなんでええんかな」とぶつぶつつぶやいている。それを見て、勘のいい猗は気づいた。
「ああ、そうか。今日はお風呂の日でしたねえ」
そう、今日は週に一度のお風呂の日だった。
***
「妓楼にも風呂はありますのに。大きい風呂が」
「いややわ、夜の店で赤子洗うなんて」
「よいではないかイツ禍。我も人の子の風呂を見てみたい!」
冬の日が落ちきる前の午後三時。天は禁とイツ禍と共に赤子を抱えて風呂屋へ向かっていた。
最近はあまり見かけないが、混浴風呂ならばイツ禍や禁とも共に入れる。
通りの角を曲がると、白く立ちのぼる湯気と、古びた木造の瓦屋根が現れる。煤けた看板には、薄く「湯」の一文字。暖簾は日に焼けて色褪せているが、ゆらゆら揺れる湯気は寒い冬の空気を温めて人を誘う。まんまと暖かな気配につられて天たちは中へと入ろうとした時、ふと声をかけられた。
「お嬢さん方、あそこの風呂屋はやめときな」
声の主は恰幅のいい女性だった。両手で遊びたい盛りの子供を捕まえている様からして、このあたりの主婦なのだろう。
「あたしもよく使ってたんだけどね。ガキども連れてさ」
「あら、覗きでもではるん?」
「それならまだいいさ。とんでもない変態が出るんだよ。ああ、これ以上はとても言えない」
「そりゃ怖ろしい」
主婦はそれだけ言うと、子供を叱りつけながら離れていく。忠告のためだけに声をかけてくれたのか。なんとも親切な女性だ。天は子連れで歩くようになってから、人に親切にされることが増えたなとぼんやりと思った。
「やめておきます?」
「うーん、でも混浴風呂なんてここしかないからなあ」
少し悩むが、このご時世に混浴風呂はなかなかない。他に選択肢はなかった。
入り口で下駄を脱いだら番頭に金を払う。高い銭湯ではないが親子二人ではそれなりの値になる。禁は自分が払うと言ってくるが、要らぬ貸しは作りたくないので固辞した。「家族かい?」なんて番頭の軽口に禁は大層喜んで、「ああ!」と大きな返事をするものだから天は恥ずかしかった。
脱衣所にも、浴槽にも、人の気配はない。が、それ以外はいたって普通の銭湯だった。
「人がおらんわ。貸し切りみたいでええねえ」
「噂は噂、ですかね」
なんにせよ、人がいないのは幸いだ。服を着ていてもやいやい言う者はいないだろう。当然のように全裸で風呂に入った禁を見送りながら、天とイツ禍はそそくさと入浴着に着替えて後を追った。
「ではイツ禍はん。ご教授お願いいたします」
天が赤子を腕に抱きながら、銭湯の隅で所在なさげに座っていた。盥には張ったばかりのぬるま湯に、ささやかに桃の葉が浮かんでいる。「桃の葉はあせもに効きますよ」とイツ禍に言われたためだ。
イツ禍が念入りに湯の温度を調整してあるし、桃も静かにしている。準備は万端だ。
だが、天の手は緊張でわずかに震えている。これまでどんな妖とも命のやり取りをしてきた天でも、生まれて数日のこの命の扱いには慎重にならざるをえなかった。
「はい。お湯の温度は人肌……指を入れて、熱くも冷たくもない程度がよろしいです」
イツ禍はいつもの涼やかな声音でそう答えると、天の隣にしゃがんで盥にそっと手を入れる。
「赤子の肌はとても薄いです。すぐにかぶれたり、冷えたりしますから。お湯は少なめに――それから、手早く、です」
「……死なへん?」
「それはあなた次第」
天の声は震えていた。
身体を張って妖の愛を教える遊女も、母としてはまだ駆け出し。天は桃の頬に手を添えながら、小さく呟く。
「そおっと、そおっと……」
そう言いながら天は赤子の首の後ろを支え、お尻に手を添えて、湯の中へとゆっくり沈める。桃は「ふぇ」と小さく声を出したが、すぐにぬるま湯に安心したように体を任せた。
「ほら、気持ちよさそうですね」
イツ禍の表情がふわりと和らぐ。
普段は冷静なイツ禍の柔らかな笑顔に天は小さく息を呑む。まるで慈母のように優しい横顔は、今までに見たどんな女性よりも美しかったからだ。
(桃も、この人を母やと思うた方がええんちゃうか)
男性のイツ禍相手に莫迦なことを考えていると、「ぼうっとしない」と小さくお叱りを受ける。天は慌てて湯の中の桃に集中した。
「頭からお湯をかけるのではなく、ガーゼで軽く流すように。おへその周りや首のしわは丁寧に拭ってあげてください」
「普段はぎゃあぎゃあうるさいのに。こういう時は静かやね」
「安心しているのだろう」
天たちの様子を見ながら、一番風呂に浸かっている禁が穏やかな瞳でこちらを見ていた。
「人は親元が最も安心すると言うだろう」
「安心、ねえ」
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