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第三章 望月
望月、憩いへの誘い
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月子と別れ、わたしは寮への道を進む。日没の時間なのか、橙色と深い青色が綺麗なグラデーションを作っていた。
「……あ、満月」
欠けた部分のない円形の月が人々を照らす。周囲のビルや街灯で輝く電球には劣るが、柔らかく、優しい光だ。
ここは観月――人々が「月光の国」と呼ぶ地。月の形は無数にあるが、どれも同じ「月」なのだ。あの月が、この国の人々にとっての希望ならいいのに。とりとめなくそんなことを考えた。
「これ、落としましたよ」
不意に、背後から声をかけられる。よく言えば落ち着いた、悪く言えばぼそぼそとした男性の声。
「すみません、ありがとうございま――」
振り向きながら告げていた感謝の言葉が途中で途切れる。玲と同じくらい長身の、やけにきっちりした服装の男。異質なのは右目につけた眼帯と、顔の右半分を覆うように伸ばされた前髪だ。前髪に関してはわたしの言えたことではないが。
硬直したわたしが不審だったのか、彼は訝しげな顔をする。どうしましたか、そんな言葉も聞き取りづらい。
「……いえ」
曖昧に誤魔化しつつ、落としたらしき物を拾い上げる。しかし、それは見覚えのない名刺だった。
「……これ、わたしのじゃない」
ぼそりと呟いた声は男の耳には届かなかったのか、きょとんと目を瞬かせている。わたしは改めて「自分のものではない」と告げた。
「はい、存じております」
「は?」
悪びれもせず宣う男に、思わず低い声が漏れる。全くもって意味がわからない。もしや新手の詐欺なのか?
不審な目を向けると、男は小さく笑ってわたしの手から名刺を取り上げた。自分のものではないが、つい手を伸ばしてしまう。
「ちょっと……!」
「こちらは私の名刺です。お渡ししたかったので――音島律月さん、あなたに」
地面に落ちた名刺を懐にしまった男は、ケースから新たな名刺を取り出す。そして、それをわたしに差し出した。
「いらない。何かの営業や勧誘ならよそでやって」
「そうおっしゃらずに。……きっと、後々必要になりますから」
拒んでも押しつけてくる男に苛立つ。いっそ受け取った場で破り捨ててやろうか。不快感を悪意に変換し、わたしは名刺をひったくった。
「はい、受け取った。これでいいんでしょ」
「感謝いたします。私は篠条昭人、喫茶店〈オアシス〉の店長をしております」
男――篠条の自己紹介を右から左へ聞き流していた耳が、覚えのある単語を拾う。喫茶店〈オアシス〉といえば、先ほど月子に偵察を命じられたばかりの場所ではなかったか。
偵察に向かう店の人間がこのタイミングで現れるなんて、何か作為のようなものを感じてならない。……例えば、月子との会話を千秋に聞かれていて、この男にわたしと接触するよう指示を出した、とか。
「……そう。喫茶店の店長とやらが、わたしに何の用?」
敵意は感じないが、警戒を緩められるはずもない。眉間に皺を寄せて問いかけると、男は「説明させていただきます」と微笑んだ。
「その前に、場所を移しても構いませんか? こんなところで立ち話というのも迷惑になるでしょうし」
「わたしへの迷惑は考えないんだ」
「それはそれ、これはこれです」
どうぞこちらへ。男が颯爽と歩き始める。しかし、数メートル歩いた先で誰かとぶつかっていた。眼帯のせいで半分見えていないからだろう。
ぶつかった相手に頭を下げた男は、頭を上げた直後にうずくまった。尋常ではない様子に、わたしは急いで駆け寄る。不審な奴であろうと、具合が悪そうであれば手を差し伸べなくては。――わたしが、大崎兄妹に助けられたように。
「あんた、体調悪いの?」
手を伸ばして尋ねると、男は首を振る。立ちくらみです、と呟く声は諦めのような色を纏っていた。本当だろうか。
「……すみません。もう回復しましたので、ご案内いたしますね」
やや顔色が怪しい男に連れられて、到着したのはファミレスだ。やや高級志向――詩音曰く――のその店に入ると、男が「さっそくですが」と切り出してきた。
「音島さん、あなたに私たちの店へ来ていただきたいのです。疑わしく思う気持ちも理解できますが、私はあなたの味方になりたい」
わたしの返事を待たず、男はぼそぼそと事情を語り出す。――異端の術者と、畏怖される異能者が店員として集う店の話を。
「あなたのことは三雲さんから伺いました。特殊な異能を持ち、〈九十九月〉では微妙な立場にいる……と」
なので。言葉を続ける男は、赤みの少ない顔に微笑みを浮かべてわたしに手を伸ばした。
「私たちの店で働きませんか? あなたが何も知らぬまま他者に利用され、争いの矢面に立たされるなどあってはなりませんから」
「……わたしを利用しようとしてるのが、もし千秋だったら? そのときあんたは――」
「彼と対立するでしょうね。当然、彼もそのつもりだと思いますよ」
即答だ。事前に用意された答えなのか、違うのか。わたしに判断する術はない。……月子の指示もあるし、これは「乗りかかった舟」だろう。
「わかった。あんたの店に行かせてよ、葵と知り合いなら悪い奴じゃないでしょ」
「恐らく、悪人ではないはずですよ。よろしくお願いいたします」
この決断がどう転がるのかもわからない。だが、今までだって行き当たりばったりだったのだ。今更考えるだけ無駄だろう。
わたしは手を差し出し、男――昭人と握手を交わした。
「……あ、満月」
欠けた部分のない円形の月が人々を照らす。周囲のビルや街灯で輝く電球には劣るが、柔らかく、優しい光だ。
ここは観月――人々が「月光の国」と呼ぶ地。月の形は無数にあるが、どれも同じ「月」なのだ。あの月が、この国の人々にとっての希望ならいいのに。とりとめなくそんなことを考えた。
「これ、落としましたよ」
不意に、背後から声をかけられる。よく言えば落ち着いた、悪く言えばぼそぼそとした男性の声。
「すみません、ありがとうございま――」
振り向きながら告げていた感謝の言葉が途中で途切れる。玲と同じくらい長身の、やけにきっちりした服装の男。異質なのは右目につけた眼帯と、顔の右半分を覆うように伸ばされた前髪だ。前髪に関してはわたしの言えたことではないが。
硬直したわたしが不審だったのか、彼は訝しげな顔をする。どうしましたか、そんな言葉も聞き取りづらい。
「……いえ」
曖昧に誤魔化しつつ、落としたらしき物を拾い上げる。しかし、それは見覚えのない名刺だった。
「……これ、わたしのじゃない」
ぼそりと呟いた声は男の耳には届かなかったのか、きょとんと目を瞬かせている。わたしは改めて「自分のものではない」と告げた。
「はい、存じております」
「は?」
悪びれもせず宣う男に、思わず低い声が漏れる。全くもって意味がわからない。もしや新手の詐欺なのか?
不審な目を向けると、男は小さく笑ってわたしの手から名刺を取り上げた。自分のものではないが、つい手を伸ばしてしまう。
「ちょっと……!」
「こちらは私の名刺です。お渡ししたかったので――音島律月さん、あなたに」
地面に落ちた名刺を懐にしまった男は、ケースから新たな名刺を取り出す。そして、それをわたしに差し出した。
「いらない。何かの営業や勧誘ならよそでやって」
「そうおっしゃらずに。……きっと、後々必要になりますから」
拒んでも押しつけてくる男に苛立つ。いっそ受け取った場で破り捨ててやろうか。不快感を悪意に変換し、わたしは名刺をひったくった。
「はい、受け取った。これでいいんでしょ」
「感謝いたします。私は篠条昭人、喫茶店〈オアシス〉の店長をしております」
男――篠条の自己紹介を右から左へ聞き流していた耳が、覚えのある単語を拾う。喫茶店〈オアシス〉といえば、先ほど月子に偵察を命じられたばかりの場所ではなかったか。
偵察に向かう店の人間がこのタイミングで現れるなんて、何か作為のようなものを感じてならない。……例えば、月子との会話を千秋に聞かれていて、この男にわたしと接触するよう指示を出した、とか。
「……そう。喫茶店の店長とやらが、わたしに何の用?」
敵意は感じないが、警戒を緩められるはずもない。眉間に皺を寄せて問いかけると、男は「説明させていただきます」と微笑んだ。
「その前に、場所を移しても構いませんか? こんなところで立ち話というのも迷惑になるでしょうし」
「わたしへの迷惑は考えないんだ」
「それはそれ、これはこれです」
どうぞこちらへ。男が颯爽と歩き始める。しかし、数メートル歩いた先で誰かとぶつかっていた。眼帯のせいで半分見えていないからだろう。
ぶつかった相手に頭を下げた男は、頭を上げた直後にうずくまった。尋常ではない様子に、わたしは急いで駆け寄る。不審な奴であろうと、具合が悪そうであれば手を差し伸べなくては。――わたしが、大崎兄妹に助けられたように。
「あんた、体調悪いの?」
手を伸ばして尋ねると、男は首を振る。立ちくらみです、と呟く声は諦めのような色を纏っていた。本当だろうか。
「……すみません。もう回復しましたので、ご案内いたしますね」
やや顔色が怪しい男に連れられて、到着したのはファミレスだ。やや高級志向――詩音曰く――のその店に入ると、男が「さっそくですが」と切り出してきた。
「音島さん、あなたに私たちの店へ来ていただきたいのです。疑わしく思う気持ちも理解できますが、私はあなたの味方になりたい」
わたしの返事を待たず、男はぼそぼそと事情を語り出す。――異端の術者と、畏怖される異能者が店員として集う店の話を。
「あなたのことは三雲さんから伺いました。特殊な異能を持ち、〈九十九月〉では微妙な立場にいる……と」
なので。言葉を続ける男は、赤みの少ない顔に微笑みを浮かべてわたしに手を伸ばした。
「私たちの店で働きませんか? あなたが何も知らぬまま他者に利用され、争いの矢面に立たされるなどあってはなりませんから」
「……わたしを利用しようとしてるのが、もし千秋だったら? そのときあんたは――」
「彼と対立するでしょうね。当然、彼もそのつもりだと思いますよ」
即答だ。事前に用意された答えなのか、違うのか。わたしに判断する術はない。……月子の指示もあるし、これは「乗りかかった舟」だろう。
「わかった。あんたの店に行かせてよ、葵と知り合いなら悪い奴じゃないでしょ」
「恐らく、悪人ではないはずですよ。よろしくお願いいたします」
この決断がどう転がるのかもわからない。だが、今までだって行き当たりばったりだったのだ。今更考えるだけ無駄だろう。
わたしは手を差し出し、男――昭人と握手を交わした。
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