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第四章 星月夜
一ノ瀬牡丹の苦難
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聞いてくれますか。弱々しく落とされた言葉に肯定を返す。わたしでよければ、そんな言葉を付け加えて。
「ありがとうございます。長く、つまらない話ですが――」
小さく頭を下げ、牡丹が言葉を紡ぐ。彼女曰く「長く、つまらない話」は、強い感情を纏うことなく音として部屋に落とされる。
牡丹と蒼は、姉弟だった。ただし、血縁関係のない――いわゆる「義理」の――姉弟という注釈がつくが。牡丹の父が幼少期の蒼を引き取り、一ノ瀬家の人間として育ててきたらしい。
「それだけであれば、わたしも彼を『弟』として認識したでしょう。庇護する対象だと、姉弟としての慈愛を与えたかもしれません」
「……わざわざそう言うってことは、そうはならなかったんだね」
「はい。……父は、わたしではなく彼を後継者として指名したのです」
一ノ瀬家は、代々文化振興を担ってきた名家。その役割を蒼に与え、実子である牡丹には婚約者を決めさせた。高校卒業と同時に結婚しろ、と圧力までかけて。
「それって……」
厄介払い、喉元まで出かかった言葉は飲み込んだ。たとえ事実だとしても、その言葉は牡丹を傷つけてしまうだろう。
しかし、彼女は表情を変えずに「体のいい厄介払いですね」と頷いた。悲しみはなく、ただ湿度のない諦めだけが見える。
「婚約者候補として紹介された方たちは、揃って名家の人間でした。……邪魔なわたしを追い出し、同時に名家との結びつきを強める。父にとってはこれ以上ない良案だったのでしょう」
「……でも、牡丹の意思は無視してるよね」
「父にとって、わたしは道具でしかありません。命令を素直に聞く『人形』であれば、後継者など誰でも構わない。あの人はそう思っているはずです」
話を戻します。先ほどと変わらず感情の乗らない声が、名家の薄闇を暴き出していく。牡丹の父――一ノ瀬家の当主は、蒼を「人形」として扱うことを目論んだらしい。
「しかし、悪事は暴かれるもの。父の魂胆に気づいた義弟は、あらゆる手を使って父……一ノ瀬家を糾弾しました。彼の取った手段の一つが、異能を利用することです」
「異能でどうにかなる問題なの?」
思わず口を挟んでしまった。しかし牡丹は嫌な顔をすることなく「音島さんの疑問も理解できます」と返してくれる。
「巷で耳にする機会の多い異能であれば、どうにもならなかったかもしれません。ですが、彼は特殊な異能を持っているのです」
牡丹はその異能の名を明かした。――精神操作。千秋と同じ異能だ。
「彼は異能を用いて父に罪を自白させました。そして、その力を制御しきれずに暴走させてしまった。……そして、珍しい異能を求める組織に狙われ始めました」
話は続く。蒼が悪事を暴いたことで、牡丹自身も狙われることになったらしい。当主が悪事を働いていたとしても、一ノ瀬家が代々受け継がれてきた知恵を手に入れたいと画策する者は多いのだ――彼女はそう呟く。まるで「自分そのものに価値はない」とでも言いたげな顔をして。
「誰も彼も信用ならない中、七彩さん……婚約者の妹さんが手を差し伸べてくれたのです」
「え、七彩? 牡丹と七彩って知り合いだったんだ……」
聞き馴染みのある名前に反応する。まさか、ここで七彩が話に絡んでくるとは思わなかった。しかも「手を差し伸べてくれた」とは、一体。
わたしが発した疑問の声に、牡丹は目を丸くした。知り合いだったのですね、その呟きには驚きが見て取れる。
「七彩さんは高校の後輩でもあり、何かとわたしを気にかけてくれていました。わたしと義弟を取り巻く状況を知って、このお店を紹介してくれたのです」
「……そうだったんだ」
「義弟はこの店で『倉橋蒼』を名乗っていますが、戸籍上の名前は未だ『一ノ瀬蒼』となっています。意外と不器用な彼は『義理の姉ではない』わたしをどう扱っていいか決めかねているのでしょう」
牡丹はそう話を締めくくった。これ以上説明することはないと言いたげに口を閉ざす彼女へ、話してくれた感謝を述べる。――きっと、牡丹は思いもしないだろう。わたしを信用し話してくれたことが、小さな救いになっていることなんて。
何を信じていいのかわからないのは、今のわたしも同じだ。自分自身すら信じられないわたしを、少なくとも牡丹は信用してくれて、過去を打ち明けてくれた。ならば、その信用を裏切りたくはない。
わたしが信じるべきは、聞こえのいい情報だけを与える相手ではなく――わたしを信じてくれる人たちだ。頭では理解していたはずの事実が、質量を持って「納得」に変わる。
「……ありがとう、牡丹」
改めて感謝を伝えると、牡丹は怪訝な顔をした。感謝される理由がわからない、とでも言いたげな顔だ。わからないならそれでも構わない。ただ、わたしが彼女にお礼を言いたかっただけだから。
怪訝な顔のままでいる牡丹を「何でもないよ」と煙に巻き、わたしは立ち上がる。少し早いが、そろそろ仕事に戻ろう。
「じゃあ、先に戻ってるね。牡丹はまだ休憩時間で――」
突如――わたしの言葉を切り裂くように、ホールからガラスが割れる音が聞こえた。
「ありがとうございます。長く、つまらない話ですが――」
小さく頭を下げ、牡丹が言葉を紡ぐ。彼女曰く「長く、つまらない話」は、強い感情を纏うことなく音として部屋に落とされる。
牡丹と蒼は、姉弟だった。ただし、血縁関係のない――いわゆる「義理」の――姉弟という注釈がつくが。牡丹の父が幼少期の蒼を引き取り、一ノ瀬家の人間として育ててきたらしい。
「それだけであれば、わたしも彼を『弟』として認識したでしょう。庇護する対象だと、姉弟としての慈愛を与えたかもしれません」
「……わざわざそう言うってことは、そうはならなかったんだね」
「はい。……父は、わたしではなく彼を後継者として指名したのです」
一ノ瀬家は、代々文化振興を担ってきた名家。その役割を蒼に与え、実子である牡丹には婚約者を決めさせた。高校卒業と同時に結婚しろ、と圧力までかけて。
「それって……」
厄介払い、喉元まで出かかった言葉は飲み込んだ。たとえ事実だとしても、その言葉は牡丹を傷つけてしまうだろう。
しかし、彼女は表情を変えずに「体のいい厄介払いですね」と頷いた。悲しみはなく、ただ湿度のない諦めだけが見える。
「婚約者候補として紹介された方たちは、揃って名家の人間でした。……邪魔なわたしを追い出し、同時に名家との結びつきを強める。父にとってはこれ以上ない良案だったのでしょう」
「……でも、牡丹の意思は無視してるよね」
「父にとって、わたしは道具でしかありません。命令を素直に聞く『人形』であれば、後継者など誰でも構わない。あの人はそう思っているはずです」
話を戻します。先ほどと変わらず感情の乗らない声が、名家の薄闇を暴き出していく。牡丹の父――一ノ瀬家の当主は、蒼を「人形」として扱うことを目論んだらしい。
「しかし、悪事は暴かれるもの。父の魂胆に気づいた義弟は、あらゆる手を使って父……一ノ瀬家を糾弾しました。彼の取った手段の一つが、異能を利用することです」
「異能でどうにかなる問題なの?」
思わず口を挟んでしまった。しかし牡丹は嫌な顔をすることなく「音島さんの疑問も理解できます」と返してくれる。
「巷で耳にする機会の多い異能であれば、どうにもならなかったかもしれません。ですが、彼は特殊な異能を持っているのです」
牡丹はその異能の名を明かした。――精神操作。千秋と同じ異能だ。
「彼は異能を用いて父に罪を自白させました。そして、その力を制御しきれずに暴走させてしまった。……そして、珍しい異能を求める組織に狙われ始めました」
話は続く。蒼が悪事を暴いたことで、牡丹自身も狙われることになったらしい。当主が悪事を働いていたとしても、一ノ瀬家が代々受け継がれてきた知恵を手に入れたいと画策する者は多いのだ――彼女はそう呟く。まるで「自分そのものに価値はない」とでも言いたげな顔をして。
「誰も彼も信用ならない中、七彩さん……婚約者の妹さんが手を差し伸べてくれたのです」
「え、七彩? 牡丹と七彩って知り合いだったんだ……」
聞き馴染みのある名前に反応する。まさか、ここで七彩が話に絡んでくるとは思わなかった。しかも「手を差し伸べてくれた」とは、一体。
わたしが発した疑問の声に、牡丹は目を丸くした。知り合いだったのですね、その呟きには驚きが見て取れる。
「七彩さんは高校の後輩でもあり、何かとわたしを気にかけてくれていました。わたしと義弟を取り巻く状況を知って、このお店を紹介してくれたのです」
「……そうだったんだ」
「義弟はこの店で『倉橋蒼』を名乗っていますが、戸籍上の名前は未だ『一ノ瀬蒼』となっています。意外と不器用な彼は『義理の姉ではない』わたしをどう扱っていいか決めかねているのでしょう」
牡丹はそう話を締めくくった。これ以上説明することはないと言いたげに口を閉ざす彼女へ、話してくれた感謝を述べる。――きっと、牡丹は思いもしないだろう。わたしを信用し話してくれたことが、小さな救いになっていることなんて。
何を信じていいのかわからないのは、今のわたしも同じだ。自分自身すら信じられないわたしを、少なくとも牡丹は信用してくれて、過去を打ち明けてくれた。ならば、その信用を裏切りたくはない。
わたしが信じるべきは、聞こえのいい情報だけを与える相手ではなく――わたしを信じてくれる人たちだ。頭では理解していたはずの事実が、質量を持って「納得」に変わる。
「……ありがとう、牡丹」
改めて感謝を伝えると、牡丹は怪訝な顔をした。感謝される理由がわからない、とでも言いたげな顔だ。わからないならそれでも構わない。ただ、わたしが彼女にお礼を言いたかっただけだから。
怪訝な顔のままでいる牡丹を「何でもないよ」と煙に巻き、わたしは立ち上がる。少し早いが、そろそろ仕事に戻ろう。
「じゃあ、先に戻ってるね。牡丹はまだ休憩時間で――」
突如――わたしの言葉を切り裂くように、ホールからガラスが割れる音が聞こえた。
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