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第五章 朧月
瀬戸際、迫るコドク
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足を踏み入れた第六実験室、その第一印象は「地獄」の一言に尽きる。あちこちに散乱した透明で硬質な破片に、ツンと鼻を刺す薬品の匂い。床や壁には点々と赤黒いシミまで散っていた。
「うわ……」
思わず顔を顰めてしまう。那津にいたっては言葉を失い、呆然と立ち尽くしている。
「……探し、ましょうか。怪我に気をつけながら」
「……まぁ、そうするしかないよね」
ただならぬ空間に気圧されながらも、とにかく証拠を探すことにした。散乱するガラス片のようなものを踏まないように注意を払いながら、デスクの引き出しを開ける。
「ここは外れみたい。パソコン点けてみる?」
「そうですね。さすがに実験データは保存されているはずですし」
那津がパソコンを起動させた。ファンの動くかすかな音を意識の片隅で捉えながら、わたしは部屋の外で物音がしないか耳をそばだてる。今のところ、何者かが接近しているような気配は感じられない。
起動に必要なパスコードは生駒から預かった端末に記載されていた。那津に画面を見せ、その通りに入力してもらう。……よし、起動完了だ。
「わたしは外を見張ってるね。那津はデータの回収をよろしく」
「わかりました」
短く言葉を交わして役割を分担し、それぞれの行動に移る。わたしは部屋の外に出て、周囲を警戒することにした。
室内の惨状とはまるで異なる、目が痛くなるほど白い廊下。思わず目を眇めてしまう。わずかに狭まった視界でも、誰かが接近している様子がないことは把握できた。
シンと静まりかえった廊下で、わたしは一人息をする。時計がない空間ではどれだけの時間が経過したかを知る術もない。なるべく音を立てないよう、静かに呼吸を繰り返すしかなかった。
部屋を出てから体感で五分ほど。ふと、わたしの耳がかすかな物音を捉える。それを足音だと認識した瞬間、床に落としていた視線を勢いよく上へ向けた。
足音は一つ。しかし、明らかにこちらへ向かってきている。余計な動きをして那津の行動に気づかれるわけにもいかず、わたしはその場に留まりながら「早くどこかへ行ってくれ」と内心で吐き出した。
だんだん大きくなる足音に、小さな嘆息を落とす。……どうやらわたしの祈りは通じなかったらしい。
「誰。……なんて、聞く必要もないか」
どうせ追いかけてきた研究員だろう。むしろそれ以外の人間だったら教えてほしいくらいだ。
案の定、姿を見せたのは白衣姿の二人組だった。不気味な笑みを浮かべる男と、感情の読み取れない女――冴島。わたしの声に反応したのか、男の方が「単刀直入に言おう」と切り出してきた。
「貴様らを拘束する。抵抗しようと無駄だ」
「ここにはわたししかいないけど。あんたには誰が見えてるの?」
「無意味な悪あがきはやめた方が賢明だと思うが? 片割れがその部屋にいることくらい把握している」
「……」
ちょっとした思いつきで放った言葉だったが、にべもなく切り捨てられてしまう。こんな嘘が通じるとも思っていなかったが、少しは動揺してくれてもいいだろうに。
心のどこかでふてくされながらも、頭をフル回転させてこの状況から切り抜ける方法を考える。せめて那津だけは逃がし、証拠を持って帰ってもらわねばならない。
どうにかして廊下のやり取りに気づいてくれないだろうか。部屋の中の那津に届くわけもないことを思いながら、わたしの口は無意識に言葉を紡ぐ。
「それにしても、あんたはさっき不知火に怒られてたよね。反省しないタイプ?」
女の方を見ながら言い放つと、悔しそうに顔を歪めるのが見えた。……やはり、あの女を揺さぶるには「不知火七海」が効果的なのだろう。こいつらから冷静さを奪って、部屋に意識を向けさせない――それがわたしに残された道だ。
「ここで何の実験をしてるかなんて知らないけど、脅されて『はいわかりました』って協力するわけないでしょ」
馬鹿だよね、あんたたち。わざと相手を不快にさせるような言葉を選び、こいつらの意識がわたし一人だけに向くことを願う。
「……ふ、ははは! ここまで来てなおも抵抗しようとする根性だけは気に入った!」
幸か不幸か、高笑いをした男が愉快そうにわたしを見やる。冴島に短く指示を出し、颯爽と歩き始めた。
「っ! 痛いんだけど。遠慮とかできないわけ?」
「逃亡者に遠慮など不要です。これ以上研究所を荒らさぬよう、あなたへ『教育』を施します」
わたしは冴島によって拘束され、常軌を逸した力で連行される。一応文句を吐き出してみるも効果はないようだ。
ずるずると引きずられた先は、何重ものロックがかけられた大扉。重たい音と共に開かれたその向こうへと無理矢理突き飛ばされる。
「痛いって言ってるでしょ」
「知ったことか。貴様には最新鋭の研究を享受する権利をやるのだから、むしろ感謝するべきだろう」
「……は?」
人を人とも思わない組織の「研究」なんて、ろくでもないものに違いない。冷や汗が伝い、喉がカラカラに渇く。脳裏をよぎったとある言葉が、男の口から告げられた。
「始めようか、第三次異能強度研究――通称『蠱毒』を」
「うわ……」
思わず顔を顰めてしまう。那津にいたっては言葉を失い、呆然と立ち尽くしている。
「……探し、ましょうか。怪我に気をつけながら」
「……まぁ、そうするしかないよね」
ただならぬ空間に気圧されながらも、とにかく証拠を探すことにした。散乱するガラス片のようなものを踏まないように注意を払いながら、デスクの引き出しを開ける。
「ここは外れみたい。パソコン点けてみる?」
「そうですね。さすがに実験データは保存されているはずですし」
那津がパソコンを起動させた。ファンの動くかすかな音を意識の片隅で捉えながら、わたしは部屋の外で物音がしないか耳をそばだてる。今のところ、何者かが接近しているような気配は感じられない。
起動に必要なパスコードは生駒から預かった端末に記載されていた。那津に画面を見せ、その通りに入力してもらう。……よし、起動完了だ。
「わたしは外を見張ってるね。那津はデータの回収をよろしく」
「わかりました」
短く言葉を交わして役割を分担し、それぞれの行動に移る。わたしは部屋の外に出て、周囲を警戒することにした。
室内の惨状とはまるで異なる、目が痛くなるほど白い廊下。思わず目を眇めてしまう。わずかに狭まった視界でも、誰かが接近している様子がないことは把握できた。
シンと静まりかえった廊下で、わたしは一人息をする。時計がない空間ではどれだけの時間が経過したかを知る術もない。なるべく音を立てないよう、静かに呼吸を繰り返すしかなかった。
部屋を出てから体感で五分ほど。ふと、わたしの耳がかすかな物音を捉える。それを足音だと認識した瞬間、床に落としていた視線を勢いよく上へ向けた。
足音は一つ。しかし、明らかにこちらへ向かってきている。余計な動きをして那津の行動に気づかれるわけにもいかず、わたしはその場に留まりながら「早くどこかへ行ってくれ」と内心で吐き出した。
だんだん大きくなる足音に、小さな嘆息を落とす。……どうやらわたしの祈りは通じなかったらしい。
「誰。……なんて、聞く必要もないか」
どうせ追いかけてきた研究員だろう。むしろそれ以外の人間だったら教えてほしいくらいだ。
案の定、姿を見せたのは白衣姿の二人組だった。不気味な笑みを浮かべる男と、感情の読み取れない女――冴島。わたしの声に反応したのか、男の方が「単刀直入に言おう」と切り出してきた。
「貴様らを拘束する。抵抗しようと無駄だ」
「ここにはわたししかいないけど。あんたには誰が見えてるの?」
「無意味な悪あがきはやめた方が賢明だと思うが? 片割れがその部屋にいることくらい把握している」
「……」
ちょっとした思いつきで放った言葉だったが、にべもなく切り捨てられてしまう。こんな嘘が通じるとも思っていなかったが、少しは動揺してくれてもいいだろうに。
心のどこかでふてくされながらも、頭をフル回転させてこの状況から切り抜ける方法を考える。せめて那津だけは逃がし、証拠を持って帰ってもらわねばならない。
どうにかして廊下のやり取りに気づいてくれないだろうか。部屋の中の那津に届くわけもないことを思いながら、わたしの口は無意識に言葉を紡ぐ。
「それにしても、あんたはさっき不知火に怒られてたよね。反省しないタイプ?」
女の方を見ながら言い放つと、悔しそうに顔を歪めるのが見えた。……やはり、あの女を揺さぶるには「不知火七海」が効果的なのだろう。こいつらから冷静さを奪って、部屋に意識を向けさせない――それがわたしに残された道だ。
「ここで何の実験をしてるかなんて知らないけど、脅されて『はいわかりました』って協力するわけないでしょ」
馬鹿だよね、あんたたち。わざと相手を不快にさせるような言葉を選び、こいつらの意識がわたし一人だけに向くことを願う。
「……ふ、ははは! ここまで来てなおも抵抗しようとする根性だけは気に入った!」
幸か不幸か、高笑いをした男が愉快そうにわたしを見やる。冴島に短く指示を出し、颯爽と歩き始めた。
「っ! 痛いんだけど。遠慮とかできないわけ?」
「逃亡者に遠慮など不要です。これ以上研究所を荒らさぬよう、あなたへ『教育』を施します」
わたしは冴島によって拘束され、常軌を逸した力で連行される。一応文句を吐き出してみるも効果はないようだ。
ずるずると引きずられた先は、何重ものロックがかけられた大扉。重たい音と共に開かれたその向こうへと無理矢理突き飛ばされる。
「痛いって言ってるでしょ」
「知ったことか。貴様には最新鋭の研究を享受する権利をやるのだから、むしろ感謝するべきだろう」
「……は?」
人を人とも思わない組織の「研究」なんて、ろくでもないものに違いない。冷や汗が伝い、喉がカラカラに渇く。脳裏をよぎったとある言葉が、男の口から告げられた。
「始めようか、第三次異能強度研究――通称『蠱毒』を」
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