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第5章 トラウマ
癒せない傷を負った日
しおりを挟む―――久しぶりに、この地を踏んだ。
靴底に感じる芝生の感触を何度も噛み締める。
目の前に広がる草原の向こうには、自分の家が。
拓也は近くの木の幹に手を添えて、小さな家をじっと見つめた。
ようやく、帰ってきたのだ。
しかし、複雑なことにこの状況を手放しでは喜べない。
原因は、自分のすぐ後ろにある。
そこには、一人の男性が。
ここまで自分を送ってきた人間。
そして、帰るまで行動を共にする―――いわば見張りだ。
帰りまで彼が一緒にいることに不満はない。
事前に、エリオスから事情を聞いていたからだ。
あからさまに反抗的な最初の態度のせいで、やはり少なからず、自分は大人たちに警戒されている。
逃げ出す可能性も否めず、魔法で送るついでの見張りをつけることを条件に、今回の帰省が許されたのだそうだ。
一人で移動魔法が使えるようになった後ではさらに警戒され、今よりもっと行動に制限をかけられてしまう。
それこそ、帰省もできないかもしれない。
『本当は、一人で行かせてあげたかったけれど…。ごめんね。』
ここに戻ってくる寸前、エリオスにそう謝られた。
仕方ないと思う。
自分の行動が招いた結果なのだから、文句は言えない。
帰れただけでもまだマシだろう。
拓也は、広い草原を一歩一歩踏み締めるように歩く。
家まであと十数メートルくらいのところで、家の前で白いものが動いた。
ピクリと耳を震わせたそれはこちらの姿を見つけると、弾かれたように立ち上がって駆け出した。
「ベス!!」
飛び込んできたベスを、強く抱き締める。
知恵の園の人間がいる手前、できるだけ平静を装おうと思っていた。
でも、ベスの姿を見た瞬間にその意地は瓦解してしまう。
ベスは、高い声で吠えながら拓也の顔を舐めまくる。
そんなべスとじゃれつきながら、拓也は笑った。
「ベス、久しぶり。お前、ちょっと小さくなった? ……違うか。おれが大きくなったんだな、きっと。」
嬉しそうに頬を寄せるベスの背をなでていると、ベスの吠える声を聞いたのか、家のドアが開いた。
「ベス? 何を騒いで……―――っ!?」
出てきたのは父だった。
こちらを見た父は、驚愕に目を見開く。
「父さん!!」
「ティル!!」
たまらず駆け出した。
涙が出た。
たかだか十数メートルなのに、それが果てしなく長い距離に感じる。
走って走って、両手を広げた父の胸に勢いよく飛び込んだ。
すると、痛いほどに抱き締められる。
「この……馬鹿息子…っ」
「ごめんなさい…っ」
涙の滲む父の声が嬉しくてたまらなくて、その胸にすがりついて思い切り泣いた。
よかった。
ちゃんと生きていた。
その事実を自分の目で確かめられたことが、何よりも嬉しかった。
「父さんたちを助けるために……ごめんね。つらかっただろう?」
「うん…っ」
何度も息子の存在を確かめるように抱き締めてくる父に、拓也もまた何度もその胸に顔をうずめる。
「あ! ねぇみんな、ティルだよ!」
たまたま通りがかった近所の子供が声をあげる。
それで、周辺の家からどんどん人が出てきた。
「なんだって!?」
「ああ、ほんとだ!」
「ティルが帰ってきた!」
小さな村だ。
村人の全員が知り合いといっても過言ではない。
瞬く間に人々に囲まれて、拓也は揉みくちゃにされる。
同年代の友達に、近所のおばさんやおじさん。
みんなが笑顔で自分の帰りを喜んでくれた。
それも一通り落ち着いた頃、拓也は父を見上げる。
「父さん。母さんは?」
何気なく訊いただけだった。
しかし―――その瞬間、父の表情が凍った。
父だけではない。
自分を取り巻いていた全員の表情が、どこか気まずそうに曇ってしまう。
「……会わせてあげなさいよ。」
「そうだよ。奥さんも喜ぶよ。」
父に言ったのは、両親と特に仲が良かったおばさんたちだ。
「え、ええ……そうですね。ティル、おいで。」
父は、自分の手を引いて歩き出す。
「………」
胸の中に、どろりと不安が渦巻いた。
この先に行ってはいけない。
そんな気がして、足が進もうとしなかった。
「父さん……母さん、どうしたの?」
聞きたくないと思いながらも聞かないわけにもいかず、おそるおそる父に訊ねる。
父は一度口ごもったが、一つ息を吐くとその重い口を開いた。
「お母さんは……病気で寝たきりだ。」
「え…?」
「ティルがいなくなった後に倒れて……それ以来、ずっとよくならない。」
父が家のドアを開けた。
家に入ってすぐの台所とリビング。
その向こうの、寝室に繋がるドア。
そのドアを、父は控えめに開ける。
「―――っ」
呼吸を忘れた。
三つ並んで据えられたベッドの一番奥。
そこに、横になって動かない母の姿があった。
昔よりずっとやつれて、青白くなった顔。
その瞼はぴったりと閉じられていて……一瞬、母が生きているのかすら疑った。
父に連れられ、ベッドに近寄る。
「……母さん?」
呼びかけてみるが、母はそれに全く答えない。
すると、父が母の肩に手を置いた。
「お母さん。ティルが帰ってきてくれたよ。少し起きよう?」
優しく肩を揺さぶって、父は静かに語りかけた。
不安げに見つめる拓也の傍で、長い時間をかけた末に、彼女の目がわずかに開く。
「母さん? 母さん?」
毛布の上に出されていた母の手に自分の手を重ねて、何度も呼びかけた。
その声は、情けないほどに震えている。
母の目はしばらく天井を見上げていたが、根気よく声をかけていると、ようやくその目がこちらを向いた。
見開かれる、生気のない瞳。
「……ティル?」
か細い声に、拓也は何度も頷いた。
自分はちゃんとここにいる。
そう訴えるようにぎゅっと手を握ると、母は寝たきりだったと思えないほどの素早い動きで身を起こした。
そして、痩せこけて骨ばった手でこちらの顔や体を触ってくる。
「本当に……ティル?」
涙を浮かべて問う彼女に、拓也は再び頷く。
「ティル…っ」
華奢というにはあまりにも痩せすぎた体で、彼女は拓也を抱き締めた。
力はあまり入っていない。
それでも、確かに感じられる温もりが拓也を安心させた。
「ティル……ああ、ティル…っ」
彼女の涙が拓也の頬に落ちる。
父が母ごと自分を抱き締めて、感極まった様子で目を閉じる。
ようやくまた、家族が全員揃ったのだ。
それはあまりに幸せなことで、嬉しさで胸が潰れそうだった。
長い時間をかけて、皆でこの幸せを噛み締めた。
ふう、と。
彼女が大きく息を吐く。
次の瞬間―――
―――――ぱたり、と。
その体から、力の全てが抜けた。
「………え?」
父と自分の声が見事に重なる。
そんな自分たちの前で、母の体は糸が切れた操り人形の如くベッドに落ちる。
寝室に、凍った沈黙が落ちた。
倒れた母は、一切の動きを止めていた。
本来なら呼吸で上下するはずの胸も―――動いていない。
「母さん!!」
慌ててその体に触れる。
しかし―――
―――母はその後、二度と目を開くことはなかった。
その後、村で唯一の医者が家に来て、母の死亡を確認した。
本当は、いつ死んでもおかしくなかったらしい。
きっと、最期に一目だけでも我が子に会いたくて、ギリギリで生き長らえて拓也が来るのを待っていたのだろう。
そう言って、医者は悲しそうに目を伏せた。
突然の母の死に、村の人々は皆涙を流した。
しかし覚悟はできていたようで、その後の行動は驚くほどに早かった。
ただ一人、何も知らなかった拓也を置いて……
拓也が今日限りしかいられないということで、葬儀はその日のうちに行われた。
棺に納められた母の遺体に、皆が様々なものを供えて別れの言葉を告げる。
最後に拓也が母親の棺に手を置くと、長い葬儀の中で体温をほとんど失った、冷たい体の感触が。
それが、否応なしに母の死を思い知らせた。
村の皆に見送られて母が土の中に埋められていくのを、拓也は感情が抜け落ちた目で眺めるしかなかった。
嵐のように唐突に襲ってきて、過ぎ去っていった母親の死。
それは、拓也に泣くことをも許さなかった……
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