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第6章 国境を越えて
湧き上がる怒り
しおりを挟む……なんだか、久しぶりという感じがする。
広い部屋を見回しながら、ユエはぼんやりとそう思った。
多分、ここから離れて一ヶ月も経っていないと思う。
しかし、ここの風景が妙に懐かしく感じてしまうのだ。
背後でドアが閉まって、外から鍵がかけられる音が聞こえた。
「………」
内側からは鍵を開けられないドア。
今となっては、これが普通ではないのだと分かる。
その時、立ち尽くしているユエのスカートの裾がもぞもぞと動いた。
「よし、ばれなかったね。」
スカートの中から、ドラードがしたり顔で出てくる。
荷馬車からここまでの間、ドラードはスカートの中に隠れてついてきた。
ドラードの存在がばれないかとかなり心配していたのだが、こんな所にドラードがいるとは、さすがに誰も思わなかったらしい。
「ドラちゃん。あそこに隠れてて。」
ユエは、ベッドの下を指し示した。
「へ?」
ドラードは、不思議そうに首を傾げる。
そんなドラードを見るユエの顔からは、すでに表情と呼べるものが消え失せていた。
「きっと、あの人がすぐに来ちゃう。見つかったら大変だよ。」
ユエに抱き上げられたドラードは、ベッドの下に優しく押し込まれる。
彼女の表情と声から、不穏なものを感じ取ったのだろう。
不安そうな顔でベッドから少しだけ顔を出したドラードに、ユエは暗い微笑みを返すだけだった。
「―――何があっても、出てきちゃだめだよ。」
「え…?」
ドラードが何かを言う前に、ユエはベッドのシーツを下げて立ち上がる。
それから数秒も経たない内に、今度は扉の鍵が開けられる音がした。
入ってきたのは若い男性だ。
艶やかに流れる髪や身に着けた装飾品や肌触りがよさそうな衣服には、男性の育ちのよさが表れている。
そして、切れ長の瞳には自信が満ち満ちているように見えた。
「ふーん、本当に帰ってきたのか。」
投げかけられる言葉は、どこか冷たさを帯びている。
「みんなに迷惑かけたくなかったから…。それに、どうせ嫌だなんて言えないし……」
答えるユエの声に、緊張感に似たような固さが滲む。
男性は鼻で笑った。
「確かにそうだな。お前はオレから逃げられない。でもさぁ―――」
次の瞬間、ユエの頭を衝撃が襲った。
勢いよく倒れたユエの体を押さえつけ、男性はユエの髪の毛をぐっと掴む。
「帰ったらこうなるって、分かってるんだよな?」
髪の毛を引かれる痛みに耐えながら、ユエは小さく頷いた。
「………っ」
シーツと床の隙間で、ドラードが顔を青くしているのが見える。
多分、今すぐにでもあそこから飛び出したいんだと思う。
でも、この人にはドラードの存在を知られたくない。
男性にばれないように、ユエはドラードに向かって首を振った。
出てきてはいけないと、目だけでそう訴える。
声の一つもあげないユエに、男性はつまらなそうに息を吐いた。
「ほんと、お前って妙なところで冷静っていうか…。もうちょい騒いでくれたっていいのにさぁ。」
男性はユエの髪の毛を引き上げる。
「そんなにオレのことを分かってるなら……なんで素直に死んでくれなかったわけ?」
突きつけられた、辛辣な言葉。
それは、ユエの心を冷たい刃で貫いた。
(ああ……やっぱり……)
胸がすっと冷える。
―――やっぱり、自分は捨てられたのだ。
暗くて寒い森の中に捨てられて、本当はそのまま死ぬはずだった。
死ぬことを望まれていた。
「……し…て…」
「ん?」
男性がユエの口元に耳を寄せる。
ユエはもう一度口を開いた。
「じゃあ……どうして、すぐに殺さないの?」
いらないなら、死んでほしかったなら、すぐに殺せばいいのに。
問いかけるユエの瞳は、全てを悟っているかのように暗い。
その瞳は、男性の癪に障ったらしかった。
―――ダンッ
激情に任せるままに、男性はユエの頭を床に叩きつける。
「それができりゃあ、苦労はしねぇんだよ。」
それを皮切りに、男性が拳を何度も振り下ろしてくる。
ユエは両手で身をかばって、無言でその暴力に耐えた。
どうしてだろう。
暴力を受けるのはいつものこと。
こんなこと、もう慣れたはずの日常だ。
なのに……
(もう、やだ……)
何も感じなくなっていたはずなのに。
平気になっていたはずなのに。
今は、この暴力が苦しくてたまらない。
「まったくさぁ……オレが直接殺せないから、勝手に死んでくれないかって放り投げたのに。」
男性の暴力は止まらない。
ユエは、その暴力を必死にやり過ごす。
男性はぶつぶつと何かを呟きながら、機械のように拳を振り下ろし続けた。
「運が無駄にいいのか知らねぇけど、あんな屋敷に拾われやがって。拾った奴らも馬鹿だよなぁ。身元不明のガキを簡単に屋敷に上げるとか、貴族のくせして何考えてんだか。……ま、おかげで予想外の収穫はあったけどよ。」
「………っ」
そこで、ユエの表情が変わる。
「………っ、……ないっ」
「はあ?」
男性の手が止まる。
ユエは、不可解そうな顔をする男性をキッと睨んだ。
「馬鹿なんかじゃないもん!」
この人にとって、自分は死んだ方がよかったのかもしれない。
それを責めるのはいい。
でも、自分を拾ってくれた実や、自分に優しくしてくれた皆を馬鹿にされたくなかった。
あんなにも温かい人たちを悪く言われるのは、自分が我慢できない。
他人を馬鹿にされて、こんなに怒りを覚えることがあるなんて。
自分は、あの街の人たちがよほど好きだったらしい。
初めて湧き上がった怒りは、意識しないうちに口から零れていく。
「馬鹿じゃないもん! みんな優しかった。怖い人もいなかった。だから、馬鹿なんかじゃ―――」
幼い心の叫びは、最後まで続かない。
ユエの言葉を遮るように、男性がユエの頭を床に打ちつけたからだ。
「ごちゃごちゃとうるせぇよ。」
男性の声に、殺意じみた色が混じる。
ユエの髪の毛に絡んでいた彼の手が、妙にゆっくりと細い首に伸びた。
「………っ!?」
ユエは目を見開く。
息ができなくて苦しい。
これは耐えるだけじゃだめだと、本能的な危機感が全身を突き動かした。
しかし、悶え苦しむユエの様子には全く動じることなく、男性はぎりぎりとその手に力を込めていく。
「どいつもこいつも……なんで思いどおりにいかないんだか。一番オレに従順だったお前まで、この始末かよ。……ったく、イライラする。」
その目の中では、負の感情がどろどろと渦巻いていた。
「くる…し……」
苦しさのあまり、ユエは男性の手に爪を立てる。
しかし、無情にも男性の手はユエの首に容赦なく食い込んでいく。
「やめ……」
「なんでいつも……」
「く……しい…よ…っ」
「オレの何が……」
「や……だ……」
「もうやめてよ!」
とうとう我慢できなくなったのか、ベッドの下からドラードが叫んだ。
「なっ…!?」
気を取られた男性の手から、ほんの少しだけ力が抜ける。
驚く男性をよそに、ドラードは叫び続けた。
「このままじゃ、ユエが殺されちゃう! 早く来てよ……実っ!!」
―――バンッ
ドラードが叫んだのとほぼ同時に、部屋のドアが乱暴に開いた。
「邪魔するよ。」
そう言って部屋に入ってきた人物を見て、ユエは心底ほっとしたのだった。
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