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第6章 国境を越えて
裏解除
しおりを挟む―――――ポタタッ
床に、赤いものが落ちていく。
実は顔面寸前に突きつけられた剣には目もくれず、ヴィードを冷やかに見つめていた。
「ぐっ…」
ヴィードの口から、真紅の血が流れて落ちる。
しかし、実が体の自由を奪っていることで動けない彼は、口元を押さえることもできず、苦しげに顔を歪めるだけだった。
「お疲れ、ユエ。」
実は表情を和らげて、ユエに労いの言葉をかける。
その視線の先で、ユエは肩を大きく上下させていた。
「血の契約には、裏解除があるのを知ってたか?」
自分の身に起こった出来事を理解できない様子のヴィードに、実は冷静に訊ねる。
「血の契約には、双方の同意が必須だ。同意に至るまでの過程はさておき、な。互いの同意の上に成り立つからこそこの契約は強固で、解除もそうそうできるもんじゃない。―――意識レベルの上では。」
ヴィードは、何が言いたいのかと問いたそうな目でこちらを見てくる。
実は静かに続けた。
「でも、危機的状況下において、隷属する人間が主に対し強い反抗心を示した時、その人間の力が主の力を上回っていたならば―――主はその力を制御することができず、契約は強制的に解除される。」
「―――っ!!」
ようやく、ヴィードの顔色が変わった。
ゆっくりと。
ぎこちなく目を動かしたヴィードは、自分の吐き出した血を凝視する。
実には分かった。
ヴィードが何を疑っているのか。
だから、笑みをたたえてその疑念を肯定してやる。
「そうだよ。あんたが吐いた血は、ユエのものだ。」
実はユエに目を向ける。
ユエは未だに呼吸を整えることに成功していない様子。
その理由は分かっているので、こちらとしては疑問に思うことでもない。
「魔法による契約で示される力っていうは、物理的なもんでも地位的なもんでもない。もっと潜在的な、生まれながらに持つ魔力のことだ。」
簡潔に力の定義を述べておき、実は自身の推測を語る。
「多分、ユエの母親はアズバドルの人間だったんじゃないか? ユエの魔力は、かなり強かったよ。だから、ユエがあんたに反抗する強い意志さえ持ってくれれば、契約を切ることは簡単だと思ったんだ。俺の想定以上に強い反抗心だったからか、あんたの契約だけじゃなくて、それ以外の契約も弾き飛ばしたみたいだけどな。」
ユエの疲労が今にも倒れそうなほどに大きいのは、何重にもかかっていた契約を一気に強制解除したから。
契約の数が多い分、魔力も多く消費してしまったのだろう。
そこで、ヴィードの表情が怒りにひきつる。
ようやく事態を正確に把握したといったところか。
「お前…っ」
「残念。計算不足だな。」
実は笑った。
ユエをヴィードに逆らわせるためには、自分があえて危険な状態に陥るのが手っ取り早かった。
自分のことを好いてくれているユエなら、ヴィードが自分を傷つけることを許さない。
そうと自覚していなくとも、絶対に心が嫌がるはずだ。
さすがにヴィードに自分の正体を知られることは予想外だったが、それはむしろこちらに好都合だった。
自分へのユエの想い。
ヴィードの自分に対する欲望。
自分はそれらを計算に入れて、全部を利用した。
悔しそうに歯噛みするヴィードの額に、実は素早く手をかざす。
「種明かしは済んだよ。もう、あんたに用はない。」
そのまま、手に魔力を集める。
目を瞠ったヴィードが気を失うまで、五秒もかからなかった。
「俺からしたら、こんなにも早く終わることなんだよ……」
感情が消えた空虚な声で、実は倒れたヴィードを見下ろす。
その瞳は、遥か遠くを眺めるよう。
胸の中が、やけに涼しい心地がする。
どんなに強い剣豪だろうと、どんなに巧妙な魔法使いだろうと、自分の前では大した脅威にもならない。
自分は、こんなにも一瞬で、こんなにも簡単に終わらせてしまうのだから。
本当に、人並みとは到底言えない力だ。
「………」
思考が嫌な方に向かっていることを自覚し、実は目を閉じる。
それで、何もかもを己の中に封じ込めた。
「ユエ、大丈夫?」
自分とヴィードを完全に思考から切り離した実は、大急ぎでユエに駆け寄った。
呼吸こそ穏やかになってきたものの、ユエの顔には疲労が色濃く残っている。
あれだけの魔力を使ったのだ。
それが初めての経験ならば、こうなっても仕方あるまい。
実はユエの肩を支えると同時に、自分の魔力を彼女に流し込む。
すると、ユエの疲労が少しずつ薄れていった。
「大丈夫?」
もう一度訊ねる。
「うん、大丈夫。」
ぎこちなく、ユエが答える。
ようやくきちんとした返答がきたので、実はほっと胸をなで下ろした。
そして、ユエの頭を労うようになでて―――
「……できすぎてるよな。」
ぽつりと、そう呟いた。
ユエがその身に宿している魔力は、確かにかなり強い。
しかしそれは、身を蝕む血の契約を全て弾き飛ばすほどのものではないはずだ。
当初の予定では、ヴィードとの間にある血の契約を解除した後、他の人間には暗示をかけて契約を解かせるつもりでいた。
自分にとって、ヴィードは他の契約者が誰なのかを吐かせるための情報源でしかなかったのだ。
なのに、ユエはたった一声で全ての契約を破棄させた。
あまりにもできすぎている。
「………」
実は、ユエに目を凝らした。
血の契約が解除されたおかげで、ユエの魂からおかしな歪みは消えた。
しかし、その歪みが消えたことでまた違うものが見えてくる。
「ユエ。ユエの後ろについているのは何?」
「え?」
ユエは、きょとんとして実を見上げる。
室内なのにもかかわらず、ふわりと風が吹き抜けていったのはその時のことだ。
実の瞳が険を帯びる。
その脳裏に浮かぶのは、ユエが魔力を暴走させた時のこと。
本来なら、たかが一人の人間の魔力が暴走したくらいで、あそこまで大規模な現象は起こらない。
精霊の力に影響を及ぼす前に、術者が使える魔力に限界が来てしまうからだ。
以前にフェンの力が暴走した時があったが、あれは元が自分の魔力だったし、起きたことといっても植物が枯れたくらい。
精霊に直接的な影響が及んだわけではなかった。
しかし、ユエの場合は次元が違う。
「………」
実はふと、虚空に視線を滑らせた。
今なら分かる。
ユエには、ユエ以外の力が宿っている。
精霊を無条件に従えてしまうだけの力。
そして、自分がよく見知ったものに酷似している力だ。
「どうせ見てるんだろ? 出てきたらどうだ?」
実の言葉が自分に向けられたものではないことを感じ取って、ユエは不思議そうに首を捻る。
ドラードも一緒になって首を傾げていたが、その直後に吹いてきた風に、彼はびくりと大きく身をすくませた。
「何か来るよ!」
緊張に身を強張らせながら、ドラードは辺りを見回す。
そのすぐ傍で、実は目を細めた。
ユエの後ろでゆっくりと風が渦を作り、その中で濃密な気配が揺れる―――
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