盾の間違った使い方

KeyBow

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第3話 ボアとミノタウロス

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 幻影の壁を抜け、はっきりとした風の流れを頼りに通路を進む。

 足元は悪いが、湿り気を帯びた風が、俺の乾ききった身体に「この先に水がある」と告げている。
 数分ほど、歩いただろうか、足がもつれ、息が切れた。

「はぁっ、はぁっ、…くそ…」

 喉が焼き付くようだ。心臓が肋骨を内側から叩きつける。3年前に妻が先立ってからというもの、俺の生活は荒れに荒れた。酒量は増え、食事は不規則。気づけばかつて鍛えた身体はみる影もなく、醜い中年太りの典型が出来上がっていた。
 昔取った杵柄か、体力にはまだ年不相応の自信があったつもりだが、水という生命の源を断たれては、その自信も何の役にも立たない。容赦なく、確実に、俺の命は削られていく。
 その時だった。

 暗闇の奥から、微かな、しかし決定的な音が耳に届いた。
 ポチャン……ポチャン……。
 水滴が岩肌を打ち、水面に落ちる音だ。
 幻聴じゃない。
「水だ……!」
 希望に突き動かされ、俺がその音の方へと足を踏み出した、まさにその時だった。
 右手の方から、気配――いや、何かが動く重い音がした。
「……?」
 反射的に横を向く。
 そこには、すでに「死」があった。
「え……?」
 岩陰から現れたのではない。最初から、そこにいたのか。
 鼻先が触れそうなほどの至近距離。
 視界いっぱいに広がる、茶色い剛毛の壁と、血走った巨大な眼球。
 全長3メートルを超える巨大な猪(ボア)が、俺の目の前にいた。
 思考が凍りつく。
 逃げる? 隠れる?
 そんな時間は存在しない。
 ボアの全身の筋肉が収縮し、弾丸のように解き放たれるのが、スローモーションのように見えた。
「う、わぁぁぁッ!?」
 俺にできたのは、悲鳴を上げながら、咄嗟に右側の盾を突き出すことだけだった。
 防御姿勢をとる暇すらない。
 ただ衝撃に備えて、身体を硬直させることしかできなかった。
 ドッゴォォン!!!
 トラックに正面衝突されたような衝撃。
 世界が反転した。
 俺の身体は、ボールのように後方へと弾き飛ばされていた。
「がぁッ!?」
 宙を舞う。
 だが、運が良かった。俺は背中から着地した。
 ズザザザザザザザァァァッ!!
 背負った大盾(タワーシールド)の表面は、鏡のように滑らかで、驚くほど硬かったらしい。
 大盾は地面との摩擦で火花を散らしながら、まるで「ソリ」のように滑走したのだ。
 凄まじい勢いで地面を滑り、そのまま数十メートル後退して、ようやく停止した。
「カハッ……! げほっ、げほっ!」
 肺の中の空気が強制的に排出され、激しく咳き込む。
 右肩が痺れて感覚がない。だが……生きている。
 普通なら全身骨折でミンチになっているところだ。
 この盾……ただの鉄板じゃない。
 だが、安堵する暇はなかった。
 霞む視界の先で、ボアが蹄で地面を蹴っている。
 トドメを刺すつもりだ。
「ヒッ……!」
 恐怖が、理性を焼き切った。
 戦う? 防御? 無理だ。次こそ死ぬ。
 俺は悲鳴を上げながら、無様に立ち上がった。
 両手に握りしめていたバックラー(小盾)が重い。邪魔だ。
「いらねぇ!!」
 俺は両手の盾を放り投げた。
 なりふり構っていられない。
 背中を向け、壁に見える通路から遠ざかるように、闇雲に走った。
「うわああああああ! いやだぁぁぁ!」
 50歳のおっさんが、涙と鼻水を垂れ流し、顔をぐしゃぐしゃにして絶叫する。
 死にたくない。死にたくない!
 妻と娘に会うために生き延びるんじゃなかったのか!?(墓前)
 こんな、豚の餌になるために来たんじゃない!
 だが、人間が野生の獣から逃げ切れるはずもなかった。
 背後から、暴風のような圧力が迫る。
 ドスッ!
 突き飛ばされたような衝撃。
 ボアの鼻先か、あるいは衝撃波か。俺の身体は再び宙を舞い、地面を転がった。
「あ、ぐっ……」
 無様に回転し、壁際へ向かって転がり落ちていく。
 視界がぐるぐると回る。
 受け身も取れず、身体を打ち付け――
 ガッ!
 唐突に、落下が止まった。
 地面に叩きつけられたのではない。
 身体が、宙ぶらりんになっていた。
「……え?」
 足の裏には、地面の感触がある。
 だが、視界は真っ暗だった。
 いや、違う。俺は壁際にあった浅い「溝」に落ちたのだ。
 そして、背負っていた大盾が、溝の縁(ふち)に引っかかり、橋のように俺の身体を支えていた。
 俺の身体は溝の中にすっぽりと収まり、大盾がその上を「蓋」のように覆っている状態。
 完全な、遮蔽物。
 直後。
 ドッゴォォン!
 頭上の大盾に、鉄槌を振り下ろしたかのような衝撃が走った。
 ボアが、俺(盾)の上を踏み越えていったのだ。
 もしこの溝にはまっていなければ、俺は今頃、ボアの蹄の下で挽肉になっていただろう。
 震えが止まらない。
 だが、恐怖はこれで終わりではなかった。
『グォォオオオオオオオッ!!!』
 頭上の盾越しでも分かる、鼓膜を破るような重低音の咆哮。
 ボアのものではない。
 盾の隙間から、恐る恐る外を覗き見る。
 そこにいたのは、新たな絶望だった。
 牛の頭を持つ、筋骨隆々の巨人。
 ミノタウロス。
 手には丸太のような棍棒を持っている。
 ボアが子犬に見えるほどの巨体だ。
 ミノタウロスは、俺を見失って立ち止まったボアに対し、慈悲のない一撃を振り下ろした。
 ゴシャッ!
 生々しい破砕音。
 あれほど猛威を振るったボアの頭部が、熟したトマトのように潰れ、巨体が地面に沈んだ。
 一撃。たったの一撃だ。
「……ひッ」
 俺は声を押し殺し、溝の底で身を縮めた。
 見つかったら終わりだ。ボアを一撃で屠る怪物が、この「蓋」をめくるのは赤子の手をひねるより容易い。
 バリバリ、グチャッ。
 すぐ近くで、骨を噛み砕き、肉を引き裂く音が響き始めた。
 ミノタウロスは、ボアの死骸を貪り食っている。
 食物連鎖。ここは、俺が知っている「平和な日常」とは切り離された、野生の暴力の世界だ。
 どれほどの時間が経っただろうか。
 永遠にも思える恐怖の時間が過ぎ、やがて満足げなゲップと共に、重い足音が遠ざかっていった。
 足音が完全に聞こえなくなってから、さらに数分。
 俺は、泥と脂汗にまみれた顔で、溝から這い出した。
 大盾を押しのけると、ズシリと重い音がした。こいつが、俺を守ってくれたのか。
 目の前には、食い散らかされたボアの残骸。
 強烈な血の匂いに、胃液がせり上がってくる。
 だが、その時。俺の脳裏に、ある狂った考えが浮かんだ。
『肉だ』
 あれは、食料だ。
 猛獣の食べ残し(ハイエナ)。人としての尊厳を捨てる行為。
 だが、今の俺には「水」も「食料」もない。
 ここで手ぶらで帰れば、待っているのは確実な死だ。
 俺は震える手で、腰のベルトを探った。
 ホームセンターで買った、新品の「電工ナイフ」。
 電気ケーブルの被覆を剥くための、分厚く短い刃。
「……いただきます」
 誰に対する言葉か。ボアか、神か。
 俺はボアの残骸に駆け寄った。
 比較的きれいな胸のあたりの肉を、ナイフで切り取る。獣の皮は硬いが、電工ナイフの鋭い切れ味は、筋肉の繊維を断ち切ってくれた。
 血で手が滑る。匂いで吐き気がする。
 それでも俺は、ふた塊ほどの肉を切り取り、腰袋(ウエストポーチ)に突っ込んだ。
 さらに肉を漁ろうとした時、ナイフの先が「カツン」と硬いものに当たった。
 骨ではない。もっと硬質な感触。
 肉の奥から指で穿り出すと、テニスボールほどの大きさの、赤黒く光る石が出てきた。
「……魔石、か?」
 異世界小説の知識が、それが価値あるものだと告げている。
 理由は分からないが、持っていけるものは何でも持っていく。それが貧乏性な俺の、唯一の生存戦略だ。
『ブモォ……』
 遠くで、再びボアのような鳴き声が聞こえた気がした。
 長居は無用だ。
 俺は魔石と肉を抱え、逃げるようにその場を離れた。
 目指すは、あの幻影の壁。
 来た道を、必死に戻る。
 やはり俺は、パニックになって壁とは逆方向へ逃げてしまっていたらしい。
 数十メートルほど戻ったところで、地面に転がる「鉄塊」を見つけた。
 俺が放り投げた、二枚のバックラーだ。
「……」
 俺は足を止めた。
 少しでも身軽になって逃げようとして、俺はこいつらを捨てた。
 自分の命を守るための道具を、自分の手で投げ捨てたのだ。
 品証部失格どころの話じゃない。生きる資格すら疑われる、浅ましい行為だ。
 だが……。
 俺は膝をつき、泥にまみれたバックラーを拾い上げた。
 ずしりと重い。
 だが、今の俺には、この重さが必要だ。
 こいつらは、俺の命綱だ。
「……二度と、離さねぇ」
 俺はバックラーの泥を払い、震える手で強く握りしめた。
 そして再び走り出す。
 今はただ、あの壁の向こうの、何もない空間に帰りたかった。
 この肉を食べるか、痛む体を横たえ、休むことしか考えられなかった。
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