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第8話 唇の夢
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硬い石の床、微かな炭の匂い、そして身体を包む安物の毛布の感触。
極度の疲労と安堵感から、俺の意識は深い眠りの底へと沈んでいった。
どれくらい眠っただろうか。
意識は、暗く静かな洞窟から、アスファルトと排気ガスの匂いが混じる、懐かしい場所へと引き戻されていた。
これは夢だ。
俺はホームセンターのロゴが入ったビニール袋を片手に、見慣れた道を歩いていた。袋の中には、今日の作業に必要だった、真新しい電工ナイフが入っている。
自宅へと続く唯一の道路が陥没したため、少し離れた臨時駐車場から家まで歩くのがここ最近の日課だった。
ちょうど、道の途中にある大きなマンションの真下を通り過ぎようとした時だった。
ふと、空から影が落ちてくるのに気づいた。
鳥か?
いや、違う。
見上げた先。
そこには、絶望に顔を歪ませ、こちらへ向かって一直線に落ちてくる、地元の進学校の制服に身をつつんだ女子高生の姿があった。
もう遅かった。
逃げることも、受け止めることも、声を発することさえもできない。
落下地点は、紛れもなく俺が立っている、まさにその場所。
あっ!
死を認識した、その瞬間。
来るべき衝撃の代わりに、ふわり、と唇に信じられないほど柔らかな感触が触れた。
時が、止まった。
落下してくる少女が、俺の目の前、数センチのところで、宙に静止している。
俺の唇には、彼女の唇が、そっと重なっていた。
本来なら、この直後に彼女の顔面が俺の顔面に当たり、女性とはいえ、人一人分の落下により加算された運動エネルギーが俺と彼女の全身を砕き、アスファルトに叩きつけられて、即死するはずだった。下手したら顔面は身元が分からなくなるほどになったり、首がもげただろう。
だが、現実は違った。
数秒間、動かないまま俺たちは唇を重ね、ただ見つめ合っていた。
彼女の大きく見開かれた瞳には、恐怖と、驚愕と、そして…何か別の、不思議な色が浮かんでいた。
そして。
まばゆい光につつまれ、気が付いたら俺は、この薄暗く、だだっ広い洞窟の中に、一人で横たわっていた。
ボアとミノタウロスがいた、あの死と隣り合わせのダンジョン。その入り口に。
「……はっ!」
息を呑んで、俺は跳ね起きた。
心臓が、警鐘のように激しく鳴り響いている。
頬を伝うのは、汗か、それとも涙か。
目の前に広がるのは、薄暗い洞窟。燃え尽きた炭。そして、無造作に置かれた水のボトル。
毛布にくるまって眠ったはずの、安全地帯だ。
夢の中の出来事だと、頭ではわかっている。
だが、あの最後の感覚。
死の認識、唇の感触、そして、あの洞窟での目覚め。
あれは、ただの夢じゃない。
俺が、この世界に来る直前の、記憶だ。
「……あの女の子、どうなった…?」
俺は死んだはずだ。
だが、生きている。
あの時、俺と唇を重ねた彼女は、一体どうなったのか。
彼女が、俺をこの世界に?
それとも、彼女もどこかに?
唇の夢は、安息を得たはずの俺の心に、新たな、そしてより根源的な謎を突きつけていた。
悪夢とも、あるいは現実ともつかない記憶の残滓を引きずりながら、俺はゆっくりと身を起こした。洞窟の中は静かで、外の様子をうかがい知ることはできない。少し肌寒いが、着込むほどではなく、むしろ快適な温度だ。
それに養生用とはいえ毛布一枚、あるとないとでは大違いだ。体力の消耗は昨日までとは比べ物にならないほど少ない。
だが、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
あの夢。落下してくる少女。唇の感触。そして、死の確信。
あれが、俺がこの世界に来た原因なのだとしたら…?
考えても答えは出ない。俺は頭を振って、目の前の現実に意識を戻す。
まだ生き延びる算段が着いていない。
謎解きをするのは今ではない。
そうだ、レベルアップしたはずだ。あの肉を食った時、確かにそんなアナウンスを聞いた。しかし、その後の毒との格闘で意識が朦朧とし、すっかり忘れていた。
「ステータス、オープン」
目の前に、半透明のウィンドウが浮かび上がる。そこに表示された文字を見て、俺は自分の目を疑った。
名前: 佐東 柾(さとう まさき)
年齢: 50
レベル: 10
経験値: 0/1000
ステータス:
筋力: 145 (+45)
賢さ: 80
敏捷: 58 (+18)
体力: 125 (+45)
魔力: 40 (+25)
スキルポイント: 9
ギフト:
異世界ショッピング
スキル:
毒耐性 (小)
「レ、レベル10!?」
思わず声が漏れた。レベル2ではない。一気に9もレベルが上がっている。ステータスの上昇値も尋常じゃない。
そして、ステータスの最後に、見慣れない項目があった。「スキルポイント:9」。レベルが1上がるごとに1ポイント貰える、ということか。
俺が「スキルポイント」の項目を意識すると、目の前のウィンドウが切り替わり、取得可能なスキルの一覧が表示された。
【身体強化(小)】【棍術(初級)】【索敵(初級)】【鑑定(初級)】…
様々なスキル名が並んでいる。まるでゲームだな。
「そうか…あの猪…ブルータルボア」
Bランクの魔物。その肉に秘められていた経験値は、レベル1の俺にとっては破格の量だったのだろう。
俺はゆっくりと立ち上がり、その場で軽く手足を動かしてみる。驚いた。身体が、軽い。全身に力がみなぎり、まるで20歳は若返ったような感覚だ。これが、レベルアップの恩恵か。
だが、その高揚感はすぐに冷水を浴びせられた。
脳裏に、あの光景が焼き付いている。Bランクのブルータルボアを、玩具のように一撃で屠った、あの牛頭の巨人…ミノタウロスの姿が。
「…あいつを倒すには、レベル30…いや、もっと必要か」
直感的にそう感じた。レベル10になったからといって、到底敵う相手ではない。今の俺では、またあの猪のように一撃で沈められるのが関の山だろう。
俺はウィンドウを閉じ、固く拳を握りしめる。
力が、ある。しかし、それはまだ、この世界の底辺からようやく抜け出したに過ぎない力だ。慢心は死に直結する。
そして、もう一つ。スキル欄に表示された「毒耐性(小)」。これは、スキルポイントで取得したものではない。二度も三度も死ぬ思いをして、身体が無理やり適応した結果得られた、特殊なスキル。
「レベルアップ、経験値、スキルポイント…本当に、ゲームの世界だな」
だが、痛みも、苦しみも、死の恐怖も、全てが本物だ。
夢の謎は、まだ解けない。あの少女がどうなったのかもわからない。
だが、もし再会できる可能性があるのだとしたら、こんな場所で無様に死んでいる場合じゃない。元の世界に帰る方法を探すにしても、まずはこの過酷な環境を生き抜くための力が要る。
俺は立ち上がり、毛布と布団を畳んだ。
残りのボアの肉を、ホワイトリカーで処理する。食料はまだある。水もある。ポイントも潤沢だ。そして、何より、俺には力がつき、進むべき道筋が見えた。
「よし」
気合を入れ、両頬をパンと叩く。
まずは、この安全地帯を本格的な「拠点」にする。スキルポイントの使い道は、慎重に考えよう。
そして、準備が整い次第、安全地帯を出てその先を調査する。
俺の異世界サバイバルは、ただの逃避行から、明確な強さを求める挑戦へと変わったのだ。
極度の疲労と安堵感から、俺の意識は深い眠りの底へと沈んでいった。
どれくらい眠っただろうか。
意識は、暗く静かな洞窟から、アスファルトと排気ガスの匂いが混じる、懐かしい場所へと引き戻されていた。
これは夢だ。
俺はホームセンターのロゴが入ったビニール袋を片手に、見慣れた道を歩いていた。袋の中には、今日の作業に必要だった、真新しい電工ナイフが入っている。
自宅へと続く唯一の道路が陥没したため、少し離れた臨時駐車場から家まで歩くのがここ最近の日課だった。
ちょうど、道の途中にある大きなマンションの真下を通り過ぎようとした時だった。
ふと、空から影が落ちてくるのに気づいた。
鳥か?
いや、違う。
見上げた先。
そこには、絶望に顔を歪ませ、こちらへ向かって一直線に落ちてくる、地元の進学校の制服に身をつつんだ女子高生の姿があった。
もう遅かった。
逃げることも、受け止めることも、声を発することさえもできない。
落下地点は、紛れもなく俺が立っている、まさにその場所。
あっ!
死を認識した、その瞬間。
来るべき衝撃の代わりに、ふわり、と唇に信じられないほど柔らかな感触が触れた。
時が、止まった。
落下してくる少女が、俺の目の前、数センチのところで、宙に静止している。
俺の唇には、彼女の唇が、そっと重なっていた。
本来なら、この直後に彼女の顔面が俺の顔面に当たり、女性とはいえ、人一人分の落下により加算された運動エネルギーが俺と彼女の全身を砕き、アスファルトに叩きつけられて、即死するはずだった。下手したら顔面は身元が分からなくなるほどになったり、首がもげただろう。
だが、現実は違った。
数秒間、動かないまま俺たちは唇を重ね、ただ見つめ合っていた。
彼女の大きく見開かれた瞳には、恐怖と、驚愕と、そして…何か別の、不思議な色が浮かんでいた。
そして。
まばゆい光につつまれ、気が付いたら俺は、この薄暗く、だだっ広い洞窟の中に、一人で横たわっていた。
ボアとミノタウロスがいた、あの死と隣り合わせのダンジョン。その入り口に。
「……はっ!」
息を呑んで、俺は跳ね起きた。
心臓が、警鐘のように激しく鳴り響いている。
頬を伝うのは、汗か、それとも涙か。
目の前に広がるのは、薄暗い洞窟。燃え尽きた炭。そして、無造作に置かれた水のボトル。
毛布にくるまって眠ったはずの、安全地帯だ。
夢の中の出来事だと、頭ではわかっている。
だが、あの最後の感覚。
死の認識、唇の感触、そして、あの洞窟での目覚め。
あれは、ただの夢じゃない。
俺が、この世界に来る直前の、記憶だ。
「……あの女の子、どうなった…?」
俺は死んだはずだ。
だが、生きている。
あの時、俺と唇を重ねた彼女は、一体どうなったのか。
彼女が、俺をこの世界に?
それとも、彼女もどこかに?
唇の夢は、安息を得たはずの俺の心に、新たな、そしてより根源的な謎を突きつけていた。
悪夢とも、あるいは現実ともつかない記憶の残滓を引きずりながら、俺はゆっくりと身を起こした。洞窟の中は静かで、外の様子をうかがい知ることはできない。少し肌寒いが、着込むほどではなく、むしろ快適な温度だ。
それに養生用とはいえ毛布一枚、あるとないとでは大違いだ。体力の消耗は昨日までとは比べ物にならないほど少ない。
だが、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
あの夢。落下してくる少女。唇の感触。そして、死の確信。
あれが、俺がこの世界に来た原因なのだとしたら…?
考えても答えは出ない。俺は頭を振って、目の前の現実に意識を戻す。
まだ生き延びる算段が着いていない。
謎解きをするのは今ではない。
そうだ、レベルアップしたはずだ。あの肉を食った時、確かにそんなアナウンスを聞いた。しかし、その後の毒との格闘で意識が朦朧とし、すっかり忘れていた。
「ステータス、オープン」
目の前に、半透明のウィンドウが浮かび上がる。そこに表示された文字を見て、俺は自分の目を疑った。
名前: 佐東 柾(さとう まさき)
年齢: 50
レベル: 10
経験値: 0/1000
ステータス:
筋力: 145 (+45)
賢さ: 80
敏捷: 58 (+18)
体力: 125 (+45)
魔力: 40 (+25)
スキルポイント: 9
ギフト:
異世界ショッピング
スキル:
毒耐性 (小)
「レ、レベル10!?」
思わず声が漏れた。レベル2ではない。一気に9もレベルが上がっている。ステータスの上昇値も尋常じゃない。
そして、ステータスの最後に、見慣れない項目があった。「スキルポイント:9」。レベルが1上がるごとに1ポイント貰える、ということか。
俺が「スキルポイント」の項目を意識すると、目の前のウィンドウが切り替わり、取得可能なスキルの一覧が表示された。
【身体強化(小)】【棍術(初級)】【索敵(初級)】【鑑定(初級)】…
様々なスキル名が並んでいる。まるでゲームだな。
「そうか…あの猪…ブルータルボア」
Bランクの魔物。その肉に秘められていた経験値は、レベル1の俺にとっては破格の量だったのだろう。
俺はゆっくりと立ち上がり、その場で軽く手足を動かしてみる。驚いた。身体が、軽い。全身に力がみなぎり、まるで20歳は若返ったような感覚だ。これが、レベルアップの恩恵か。
だが、その高揚感はすぐに冷水を浴びせられた。
脳裏に、あの光景が焼き付いている。Bランクのブルータルボアを、玩具のように一撃で屠った、あの牛頭の巨人…ミノタウロスの姿が。
「…あいつを倒すには、レベル30…いや、もっと必要か」
直感的にそう感じた。レベル10になったからといって、到底敵う相手ではない。今の俺では、またあの猪のように一撃で沈められるのが関の山だろう。
俺はウィンドウを閉じ、固く拳を握りしめる。
力が、ある。しかし、それはまだ、この世界の底辺からようやく抜け出したに過ぎない力だ。慢心は死に直結する。
そして、もう一つ。スキル欄に表示された「毒耐性(小)」。これは、スキルポイントで取得したものではない。二度も三度も死ぬ思いをして、身体が無理やり適応した結果得られた、特殊なスキル。
「レベルアップ、経験値、スキルポイント…本当に、ゲームの世界だな」
だが、痛みも、苦しみも、死の恐怖も、全てが本物だ。
夢の謎は、まだ解けない。あの少女がどうなったのかもわからない。
だが、もし再会できる可能性があるのだとしたら、こんな場所で無様に死んでいる場合じゃない。元の世界に帰る方法を探すにしても、まずはこの過酷な環境を生き抜くための力が要る。
俺は立ち上がり、毛布と布団を畳んだ。
残りのボアの肉を、ホワイトリカーで処理する。食料はまだある。水もある。ポイントも潤沢だ。そして、何より、俺には力がつき、進むべき道筋が見えた。
「よし」
気合を入れ、両頬をパンと叩く。
まずは、この安全地帯を本格的な「拠点」にする。スキルポイントの使い道は、慎重に考えよう。
そして、準備が整い次第、安全地帯を出てその先を調査する。
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