盾の間違った使い方

KeyBow

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第33話 野獣と紳士のメンテナンス

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(Side 佐東)
 ​ 俺は左腕で盾ごとズボンを固定し、背後に縋り付く如月さんの歩調に合わせてゆっくりと歩き出した。
 竜の骨が散らばる広間を抜け、100メートルほどの短い通路を通って拠点へと向かう。
 ​ 拠点の入り口……セーフエリアの境界が見えてきたところで、俺はふと足を止めた。
 ​「如月さん。入る前に、一つ言っておくことがある」
 俺は努めて冷静な、事務的なトーンで告げた。
「中に入ると、牛ほどの大きさの猪に似た魔物が、逆さ吊りにしてある。……俺がさっき仕留めて、今、血抜きをしているところだ。死んでいるから、驚かないでほしい」
 ​ いきなりあの惨状を見せれば、普通の女子高生なら腰を抜かす。最悪、パニックで失禁しかねない。だが、事前に「不適合な情報(グロテスクな光景)」の正体をエビデンスとして定義しておけば、脳はパニックを回避できる。
 ​「……は、はい。わかりました」
 彼女は一瞬、息を呑んだようだったが、俺の落ち着いた声を聞いて小さく頷いた。
 ​ 拠点に到着すると、彼女は案の定、その異様な光景に目を丸くした。
 薄暗い洞窟に鎮座する、真っ白な「冷凍ストッカー」と「冷蔵庫」。スチールラックに整然と並ぶ工具類。そして、予告通り天井から吊るされたボアの死骸。
 文明と野蛮が同居する空間に、彼女の思考(スペック)が追いついていないようだ。
 ​「……まるで、秘密基地みたいですね」
 彼女がぽつりと呟いた。俺は苦笑して、頭を掻いた。
「秘密基地、か。まあ、そんな楽しいもんじゃないがな。……そういえば、マット・デイモン主演の『オデッセイ』って映画、観たことあるか? 火星で一人ぼっちになるやつ」
「え……? あ、はい。見ましたけど……」
「俺は彼のように、ここで一ヶ月、生き延びてきた。あんなイケメンじゃないが……地団駄を踏みながらカイゼンを繰り返す日々だよ」
 ​ 俺はテーブルの上の作業道具をラックに押し込み、軽く拭き上げると、自作の椅子に座るよう勧めた。
「今の俺は髭も髪も伸び放題の不適合品だ。レディーの前に立つ前に、少し時間をくれないか」
 ​ 俺はバケツに水を汲み、石鹸とサバイバルナイフを手にした。
 石鹸を泡立てて顔に塗りたくり、ナイフを喉元に当てる。
 ジョリッ、ジョリッ。
 一週間前に顎を切って以来の「開拓」だ。慎重に、丁寧に、顔の下半分を覆っていた黒い森を削ぎ落としていく。
(……ひっ)
 雫さんが指の隙間からこちらを見ている気配がした。ナイフを顔に当てるなんて、野蛮すぎて引かれたかもしれない。
 ​ 洗浄を終え、血塗れの作業着を脱ぐ。
 露わになる、80kg台から50kg台へと削ぎ落とされた肉体。雫さんが「きゃっ」と声を上げて俯いた。すまない、目を汚してしまったな。
 ​ 新しい作業着に着替え、スチールラックから『革用パンチ』を取り出してベルトに新しい穴を開けた。ギュッと締め直す。これでよし。
 ​「待たせたな」
 俺は冷蔵庫から冷えたペットボトルの水を取り出し、彼女の前に置いた。
「身なりも整えたことだし、きちんと挨拶をさせてくれ。改めて俺は、佐東 柾(さとう まさき)。しがない会社員だ。……年齢は、50歳」
「えっ……?」
 雫さんが、信じられないという顔で俺を見た。
 ​「……君は制服を着ているから学生だと分かる。なのにこちらの年齢を伝えないのは、フェアじゃないと思ってな」
 自分でも何を言っているんだと思ったが、素性は可能な限り明かした方が安心するだろう。
 ​「ご、50歳……? 嘘、ですよね? どう見ても、30代半ばにしか見えません……」
「よいしょされちまったな。中身は本当に50なんだ。正真正銘、くたびれたおっさんだよ」
 ​ 俺は、彼女が俺の「左手の薬指(指輪がないこと)」をじっと見て、独身かどうかを値踏みしていたことなど、これっぽっちも気づいていなかった。


(Side 雫)
 ​ 佐東さんと名乗った男性の後ろを、おずおずと歩いていた。
 全身から放たれる雰囲気はどう見てもカタギじゃないけれど、彼は私に武器を預けてくれた。
 ​「中に入ると、牛くらいの大きさの魔物が吊るしてあるから。驚かないでね。血を抜いているだけだから」
 拠点の入り口で、彼は落ち着いた声でそう言った。その言葉があったから、私は耐えられたんだと思う。
 ​ 入った瞬間に目に飛び込んできた、棚に吊るされた巨大な猪の怪物の死体。
 もし何も知らずにこれを見ていたら、私はきっとその場で叫んで腰を抜かしていたかもしれない。
 でも、彼の言葉が私の心に「盾」を作ってくれていた。
(……大丈夫。あれはもう、この人が倒した……お肉なんだ)
 ​ 血の匂いは怖かったけれど、その向こうに見える真っ白な冷蔵庫や、規則正しく並んだ道具たちを見て、私は不思議な安心感を覚えていた。
 ​「マット・デイモン主演の映画を観たことあるか?」
 火星でサバイバルする人の話。少しユーモアがある人なのかな? と思った直後、彼は私の前で髭を剃り始めた。……ナイフで。
 喉元に刃物を当てるなんて。私は指の隙間から、恐る恐るその様子を覗き見ていた。
 ​ そして、タオルで顔を拭った彼が、ふとこちらを振り返った瞬間。
 ドキン。
 私の心臓が、早鐘を打った。
(……え? 嘘……)
 ​ そこにいたのは、さっきまでの「薄汚いおじさん」じゃなかった。
 鋭く引き締まった顎のライン。深みのある涼やかな目元。もっと渋くて、大人の色気が漂う、とんでもない美丈夫(イケメン)。
 「イケメンじゃない」なんて、とんだ詐欺だわ。
 ​ さらに、彼は服を脱いだ。
 鋼のように引き締まった筋肉。背中に刻まれた古傷。生きるために戦い抜いてきた、戦士の肉体。
(……指輪、してない)
 私は無意識に、彼の左手を確認していた。薬指に指輪の跡はない。独身?
 ​「身なりも整えたことだし、きちんと挨拶をさせてくれ。改めて俺は、佐東 柾(さとう まさき)。しがない会社員だ。……年齢は、50歳」
「えっ……?」
 私は耳を疑った。嘘だあ!。こんな会社員がいてたまるかあああああ!
 どう見ても30代半ば。50歳なんて、私のお父さんと変わらない年齢だ。ありえない。
 ​「ご、50歳……? 嘘、ですよね? どう見ても、30代半ばにしか見えません……」
 私の正直な感想に、彼は「よいしょされたな」と苦笑した。
 信じていない。私がお世辞を言っていると思っているんだ。自分の今の姿が、どれだけ魅力的か気づいていないの?
 ​「中身は本当に50なんだ。正真正銘、くたびれたおっさんだ」
 彼は照れくさそうに頬を掻いた。その無自覚な鈍感さが、余計に私の胸をざわつかせた。
 ​ この人は、野獣なのか? 紳士なのか?
 マンションから突き落とされ、たぶん死んだ後に来たこの世界。異世界なんて信じられない状況だけど、少なくともこの人を頼らないと、私は生き延びることはできない。
 ​(……いったい私は、これからどうなるのかしら?)
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