盾の間違った使い方

KeyBow

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第49話 結界と解凍された悪夢

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 ボス部屋の手前にあるのは安全地帯(拠点)。
 俺たちはようやく、安全地帯との境界線までたどり着いた。
 俺が一歩足を踏み入れると、いつものように空気が少し重くなり、魔物を拒絶する波動が身体を通り抜ける。
 続いて、雫ちゃんもその境界を越えた。
「……ふぅ。やっぱり、ここに入ると安心しますね」
 彼女はホッとした表情で振り返り、境界線の向こう側――もう見えない暗い通路を見つめた。
「前から思ってたんですけど、これって『結界』みたいな感じですよね。魔物は絶対に入ってこれない、聖域みたいな」
「結界か」
 俺はずっと「見えない壁」と呼んでいたが、言われてみればその通りだ。
 それに「見えない壁」と呼ぶより短くて呼びやすいし、ファンタジーっぽくて雰囲気も出る。
「なるほど、いい呼び名だ。よし、今日からこれを『結界』と呼ぼう」
「はい! 採用ですね」
 そんな軽い会話で緊張をほぐしつつ、俺たちは結界内部のスペースに陣取った。
 さて、ここからは現実的な「処理」の時間だ。
「まずは荷解きだ。……一番デカいゴブリン・ジェネラルを出してくれ。魔石を抜いて、解体できるか確認する」
「はい。……いきますよ?」
 雫ちゃんが空間に手をかざす。
 ズンッ、と空気が震え、何もない空間から巨大な氷の塊が吐き出された。
 ゴロン。
 コンクリートのような床に予め準備しておいた、ブルーシートの上に転がる、身長170センチ超の緑色の巨体。
 胸には、雫ちゃんの魔法で作り出した巨大な『氷の槍(アイスランス)』が深々と突き刺さり、その冷気で全身が白く凍りついている。
「うわぁ……カチコチですね」
「ああ、これなら血も出ないし、今のところ臭いもしない。今のうちに解体の準備をしよう」
 凍っているおかげで、懸念していた悪臭は感じられなかった。
 俺は安心して背を向け、ナイフやトレイ、魔石を入れる袋などの準備を始めた。雫ちゃんも手伝って、手際よく作業場を整えていく。
 だが、その準備をしていた、わずか数分の間のことだった。
 魔法の効果時間が切れたのか、胸に刺さっていた巨大な氷の槍が、フッ……と光の粒子となって消滅したのだ。
「あ、ランスが消えました」
「魔法の氷だからな、永続じゃないんだろう。……まあ、まだ本体は凍ってるし、大丈夫だろ」
 俺はそう高をくくっていた。
 だが、それは甘かった。
 冷却源(ランス)を失った瞬間、ジェネラルの体内でくすぶっていた「深部体温」という名の熱エネルギーが、猛烈な勢いで逆襲を始めたのだ。
 ジュワ……ッ。
 奇妙な音がした。
 白く凍っていた皮膚の表面が、内側からの熱で一気に解かされ、ドロドロとした粘液混じりの汗を吹き出し始めたのだ。
「……ん?」
 最初に異変に気づいたのは雫ちゃんだった。
 彼女が鼻をひくつかせ、怪訝な顔をする。
「なんか……変な臭いが……」
「え?」
 俺が振り返った、その時だ。
 モワァァァッ……!!
 一気に解凍されたジェネラルの体から、蒸気のような陽炎が立ち上った。
 それは、封じ込められていた「腐敗臭」と「獣臭」、そして内臓のガスが、熱膨張によって爆発的に放出された瞬間だった。
「――ぶっ!?」
「うぐっ……!?」
 俺たちは同時に口元を押さえた。
 臭い。臭いなんて言葉じゃ生ぬるい。
 何年も洗っていない雑巾と、腐った脂身を煮詰めたような、暴力的でねっとりとした悪臭が、結界内の空気を完全に支配した。
「な、なんですかこれぇ……! く、臭い、目が痛いです……!」
「げほっ、ごほっ……! しまった……! 表面しか凍ってなかったのか……! 中身は熱々のままだから、一気に解けやがった……!」
 俺は涙目になりながら、ヌルヌルと光り始めたジェネラルの皮膚を見た。
 傷口からは、熱を帯びたドス黒い汁がドクドクと流れ出ている。
 俺の「品質管理(QC)」の勘が、けたたましく警報を鳴らしていた。
「……だめだ。これは食えない」
 俺はハンカチで鼻と口を強く押さえ、即断した。
「この臭いだぞ。焼いても煮ても、絶対に消えない。こんなものを食ったら、腹を壊す前に心が壊れる」
「は、廃棄ですか……?」
「……いや、魔石だけは抜く。あと、経験値のための『サプリメント』として、少しだけ肉片を取る。……それ以外は全部廃棄だ!!」
 俺は息を止め、覚悟を決めてナイフを握った。
 雫ちゃんが涙目でむせ返る中、俺は悪臭の蒸気の中に飛び込み、作業を開始した。
 鼻が曲がりそうな臭気に耐え、胸を開き、魔石を引き抜く。
 そして、比較的マシそうな腕の赤身部分を、1センチ角だけ切り取った。
「くっ、これだ……! これを薬だと思って飲む……!」
 俺は切り取った肉片をチャック付き袋にねじ込み、厳重に封をした。
 残った巨大な肉塊は、ただの産業廃棄物だ。
「捨てるぞ! 雫ちゃん、もう一度『収納』してくれ!」
「えぇっ!? こ、これをまた入れるんですか!?」
 雫ちゃんが悲鳴を上げる。
 先ほどまではカチコチだったが、今はヌルヌルのグチャグチャだ。触りたくない気持ちは痛いほど分かる。
「引きずって歩いたら、床に臭いが染み付く! 頼む、入れて運んでくれ!」
「ううぅ……分かりましたぁ……」
 雫ちゃんは涙目で息を止め、震える手でジェネラルの死体を包んだブルーシートに触れた。ブルーシート越しとはいえ、女子高生にはきつかっただろう。ブルーシートを、引きずってもよいが、破れたら意味がない。
 シュンッ。
 死体が亜空間に消える。
「よし、外に捨てに行くぞ。……俺の側を離れるなよ」
「は、はい!」
 俺は両手の盾を構え直し、雫ちゃんを庇うようにして結界の外へ踏み出した。
 たとえ拠点の目の前でも、油断はできない。
「『索敵(サーチ)』……」
 俺は神経を研ぎ澄ませ、周囲の気配を探った。
 ……反応なし。近くに魔物はいない。
「よし、安全だ。出してくれ!」
 俺の合図で、雫ちゃんが通路の窪みに向けて手をかざす。
 ドサァッ!!
 巨大な死体が闇の中に転がり落ちた。
「はぁ……はぁ……、捨てました……」
「ああ。だが、まだだ。……中に入る前に、身体を洗うぞ」
 俺は彼女の顔を見た。
 俺は解凍時のガスや体液の飛沫を浴びて、酷い臭いが染み付いている。このまま結界内(生活空間)に戻るわけにはいかない。彼女も手を洗いたいだろう。
「ここでバケツを出してくれ。聖水で洗浄だ」
「は、はい!」
 雫ちゃんが『アイテムボックス』から青いポリバケツを取り出し、聖水をなみなみと満たす。
 通路の暗がりの中、聖水だけが淡く光っている。
「まずは手だ! 爪の間まで洗え!」
「はいっ!」
 俺たちは必死になってバケツの水で手をこすり合わせた。
 聖水の浄化作用のおかげか、手に染み付いた脂ぎった悪臭がスッと消えていく。
「お、落ちます! すごい、臭いが消えます!」
「よし……。雫ちゃん、すまないが、俺にかけてくれ」
「え?」
「頭から足まで、ドバドバかけてくれ。服ごと洗い流さないと、中に入れない」
 俺はその場にしゃがみ込んだ。
「い、いきますよ……?」
「頼む! 一思いにやってくれ!」
 雫ちゃんはバケツを持ち上げ、俺の頭上から聖水を一気にぶちまけた。
 バシャァァァッ!!
「ひぃっ……! つ、冷めてぇぇぇ……!!」
 全身を冷水が叩く。
 ダンジョンの気温は決して高くない。身体がガタガタと震える。
 だが、その冷たさと引き換えに、体にまとわりついていた不浄な空気が洗い流されていくのが分かった。
「さ、佐東さん、大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫だ……! さあ、中へ戻ろう……!」
 俺たちは震えながら、再び結界の内側――安全地帯へと駆け込んだ。
 死体も捨てた。体も洗った。これでようやく一息つける。
「……ふぅ。雫ちゃん、すまんが後ろを向いててくれ」
「あ、はい……」
 彼女が背を向けるのを確認してから、俺はびしょ濡れになった服を脱ぎ捨てると、バケツの聖水を頭から被り、副をバケツに突っ込む。
 寒さで鳥肌が立っている体をタオルで乱暴に拭き、乾いた服へと着替える。
 アイテムボックスの中に残っているリザードマンのことなど、もう頭になかった。
 今はただ、この清潔な服の温かさだけが救いだった。
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