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第一章 輪廻の滝で
26:罪深い(3)
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「それからはより一層淑女教育に精を出しましたし、妹にも以前より優しくできるようになりました。ヴィルヘルムの件も何とかしようと走り回りました。まあ、私にできることはあまりなく、叔父様の雑用を手伝う程度だったので威張れるほどのことはしていませんが……。でも、間違いなくあの日以降の私は変わりました。きっと自信がついたのでしょうね」
窓辺に立ち、遠くを見つめながらそう話すアイシャの横顔はどこか寂しげだった。
それはこの話がこのままハッピーエンドで終わらなかったことを示唆しているようだった。
「……そのあとは、どうなったんだ?」
「それから暫く子爵家で過ごした私は、10歳の時に伯爵家に戻りました。両親と兄と妹と、穏やかで、でもキラキラと輝く日々が待っているのだと期待に胸を膨らませながら、伯爵家の門をくぐりました。……でも、やっぱり現実はそう甘くはありませんでしたね」
アイシャはフッと乾いた笑みをこぼした。
あの日、伯爵邸に戻ったアイシャを出迎えたのは執事のセバスチャンと数名の使用人。通された部屋は長い間掃除すらされていないのだということが良くわかるかつての彼女の私室だった。
屋敷の主人が軽視している人間は使用人にも軽視されるもの。つまり、アイシャの部屋の状況は両親からの愛情が彼女に向けらていないことを表していた。
けれど、アイシャはその現実から目を背けた。
たとえ屋敷に帰ってから両親に会えたのが2日後のことだったとしても、あの日頭を撫でてもらえた、抱きしめてもらえたという事実が彼女の目を曇らせたのだ。
ーーー私は愛されている。愛が平等ではないだけで、私は愛されている。
アイシャは呪文を唱えるように心の中でそう繰り返した。
「そもそも、あれから私が伯爵家に帰るまでの期間、一度も子爵家に訪れていないどころか、手紙すらない時点でおかしいと気づきそうなものですけどね。あの時の私はお兄さんの言葉をお守りみたいに抱きしめて、その言葉だけを頼りに、直向きに両親の理想となるべく努力しました」
伯爵邸ではわがままなど言わず、両親と同じようにベアトリーチェを最優先する生活を送った。
ベアトリーチェが欲しいと言えば自分の大事なものでも全部あげたし、彼女がそばにいて欲しいと言えば、楽しみだったお茶会も欠席した。
あの頃のアイシャは必死に良い子になろうとした。
はじめの頃は両親もそんなアイシャを褒めたし、感謝もしていたが、やがてそれが当たり前になると次第に何も言わなくなった。
当たり前になるというのは怖い。
姉としてベアトリーチェの要望を聞き入れ、たまに悪態をついたりわがままを言うと非情な姉だと叱責される日々。
アイシャの心はまた、すり減り始めた。けれどアイシャはその心の傷を見ないふりをして、『愛されてる』というあの青年の言葉を信じて我慢し続けた。
「ふふっ。まあ、デビュタントでエスコートもしてもらえないとわかった時は流石の私も半分くらいあきらめましたけど」
笑える話ではないのに、アイシャは過去を思い出して笑った。
アイシャが言うには、彼女のデビュタントの日。ベアトリーチェは風邪を拗らせていた。
すると両親は『ベアトリーチェが姉の晴れ舞台をそばで見たい』と駄々をこねたことを理由に、デビューを来年に延期するよう言いつけたらしい。
あり得ないことだ。
もちろん、アイシャは流石に直前での延期はしたくないと言った。父が無理なら兄にエスコートしてもらうと駄々をこねた。
その結果。アイシャはその日、誰にも晴れ姿を見てもらえなかった。
妹のデビューのために騎士学校からの一時帰宅していた兄は屋敷から出ることを許されず、両親はアイシャの支度を気にすることもなく、見送りさえも出てこなかった。
「必ずエスコートするって、ずっと前から約束していたのに……」
「デビュタントは父親がエスコートするのが決まりだと聞いたが……」
「……あっ!えっと、それが慣例ではありますけれど、決まりというわけでもありませんよ!?私の時は叔母様が気を回してくださっていたので、叔母様の弟君にエスコートしていただきました!きっと叔母様には全部わかっていたのね。戦争で忙しいのに、私なんかのことを気にしてくださって。叔母様は本当にお優しいんです!」
暗くなりすぎないようにと気を使ったのか、アイシャは努めて明るく話す。だがそれが逆にイアンの胸を締め付けた。
デビュタントは平民のイアンでさえ重要だと知っているイベントだ。貴族令嬢にとっての晴れ舞台。それを妹のために延期するなど、本人の意志でそうするならまだしも、それを強要することなどあってはならない。
「そんな風にされても、まだ両親を信じていたのか?」
「……そ、そうですね。もう最後の方は意地みたいなものでしたけれど。どうしても愛されていない事を認めたくはなかったのです。期待しては落胆してを繰り返してきました。ほんと、愚かですよね……。ははっ」
誇れるような子どもになりたくて必死に勉強して、アカデミーに通ったりもした。賢い人しか入れない貴族の学校だ。合格するだけでも名誉なことなのに、アイシャはそこで上位の成績を収めた。
けれど、両親から返ってきた言葉は『体が弱くてアカデミーに通えないベアトリーチェを気遣え』という言葉。通いたくても通えないのだから、楽しそうにするなと、そう言われた。
アカデミーでの三年間、成績上位者の親が参加する懇親会にも、卒業パーティーにも両親は来なかった。
「まあ、アカデミーはとても楽しかったので別に良いのですけれどね……。ははは……」
「……もしかして、輪廻の滝で出会った男のせいか?彼の言葉が君を苦しめたのか?」
「え……?」
イアンはギリっと奥歯を噛み締めた。もし、アイシャが親からの愛を諦めきれず、期待しては傷ついてを繰り返してきたのなら、それは自分のせいではないだろうか。そう思ってしまったのだ。
テオドールも言っていた。期待した分だけ裏切られた時の傷は深くなると。
きっと子爵夫妻が『君は両親に愛されている』と言わなかったのも、そうでないことがわかっていたからだ。無駄に期待させないように、何も言わなかったに違いない。
あの時、『そんな親など見限ってしまえ』と言えばよかった。何も知らないくせに『愛されている』なんて無責任な事を言わなければよかった。
そうすればアイシャはきっと、そんなクソみたいな親から逃げ出せていた。こんなにも傷つかずに済んだのだ。
(俺はアイシャに救われたのに、アイシャは俺のせいで……)
そんな事を考えてしまったイアンは気づいたら涙を流していた。
「うっ……ううっ….。ごめん。ごめんな……」
「えぇ!?男爵様!?どうなさったのですか!?」
大の男が突然泣き出すものだから、アイシャは大きな声を出してしまった。
自分の話を聞いて哀れに思って泣いてくれているのだろうか。だとしたら、戦争を経験した男にしてはピュアだ。アイシャはやはり可愛い人だと思った。
「男爵様、泣かないでください。私、困ってしまいますわ」
「ご、ごめん。でも自分では止められないんだ。なんだか情けなくて、申し訳なくて……」
「ふふっ。変な人。どうして男爵様が申し訳なく思うのです?」
「それは……」
「すぐにお茶を用意させますね、待っていてください」
アイシャはイアンにハンカチを渡すと、すぐに部屋を出た。
それと入れ違いに執務室に戻ってきたテオドールは、クスクスと楽しそうに笑いながら部屋を出ていくアイシャに首を傾げつつ、室内を見る。
そしてアイシャのハンカチの匂いを嗅ぎながら号泣する主人を見て、眩暈がした。
「……何事ぉ!?」
窓辺に立ち、遠くを見つめながらそう話すアイシャの横顔はどこか寂しげだった。
それはこの話がこのままハッピーエンドで終わらなかったことを示唆しているようだった。
「……そのあとは、どうなったんだ?」
「それから暫く子爵家で過ごした私は、10歳の時に伯爵家に戻りました。両親と兄と妹と、穏やかで、でもキラキラと輝く日々が待っているのだと期待に胸を膨らませながら、伯爵家の門をくぐりました。……でも、やっぱり現実はそう甘くはありませんでしたね」
アイシャはフッと乾いた笑みをこぼした。
あの日、伯爵邸に戻ったアイシャを出迎えたのは執事のセバスチャンと数名の使用人。通された部屋は長い間掃除すらされていないのだということが良くわかるかつての彼女の私室だった。
屋敷の主人が軽視している人間は使用人にも軽視されるもの。つまり、アイシャの部屋の状況は両親からの愛情が彼女に向けらていないことを表していた。
けれど、アイシャはその現実から目を背けた。
たとえ屋敷に帰ってから両親に会えたのが2日後のことだったとしても、あの日頭を撫でてもらえた、抱きしめてもらえたという事実が彼女の目を曇らせたのだ。
ーーー私は愛されている。愛が平等ではないだけで、私は愛されている。
アイシャは呪文を唱えるように心の中でそう繰り返した。
「そもそも、あれから私が伯爵家に帰るまでの期間、一度も子爵家に訪れていないどころか、手紙すらない時点でおかしいと気づきそうなものですけどね。あの時の私はお兄さんの言葉をお守りみたいに抱きしめて、その言葉だけを頼りに、直向きに両親の理想となるべく努力しました」
伯爵邸ではわがままなど言わず、両親と同じようにベアトリーチェを最優先する生活を送った。
ベアトリーチェが欲しいと言えば自分の大事なものでも全部あげたし、彼女がそばにいて欲しいと言えば、楽しみだったお茶会も欠席した。
あの頃のアイシャは必死に良い子になろうとした。
はじめの頃は両親もそんなアイシャを褒めたし、感謝もしていたが、やがてそれが当たり前になると次第に何も言わなくなった。
当たり前になるというのは怖い。
姉としてベアトリーチェの要望を聞き入れ、たまに悪態をついたりわがままを言うと非情な姉だと叱責される日々。
アイシャの心はまた、すり減り始めた。けれどアイシャはその心の傷を見ないふりをして、『愛されてる』というあの青年の言葉を信じて我慢し続けた。
「ふふっ。まあ、デビュタントでエスコートもしてもらえないとわかった時は流石の私も半分くらいあきらめましたけど」
笑える話ではないのに、アイシャは過去を思い出して笑った。
アイシャが言うには、彼女のデビュタントの日。ベアトリーチェは風邪を拗らせていた。
すると両親は『ベアトリーチェが姉の晴れ舞台をそばで見たい』と駄々をこねたことを理由に、デビューを来年に延期するよう言いつけたらしい。
あり得ないことだ。
もちろん、アイシャは流石に直前での延期はしたくないと言った。父が無理なら兄にエスコートしてもらうと駄々をこねた。
その結果。アイシャはその日、誰にも晴れ姿を見てもらえなかった。
妹のデビューのために騎士学校からの一時帰宅していた兄は屋敷から出ることを許されず、両親はアイシャの支度を気にすることもなく、見送りさえも出てこなかった。
「必ずエスコートするって、ずっと前から約束していたのに……」
「デビュタントは父親がエスコートするのが決まりだと聞いたが……」
「……あっ!えっと、それが慣例ではありますけれど、決まりというわけでもありませんよ!?私の時は叔母様が気を回してくださっていたので、叔母様の弟君にエスコートしていただきました!きっと叔母様には全部わかっていたのね。戦争で忙しいのに、私なんかのことを気にしてくださって。叔母様は本当にお優しいんです!」
暗くなりすぎないようにと気を使ったのか、アイシャは努めて明るく話す。だがそれが逆にイアンの胸を締め付けた。
デビュタントは平民のイアンでさえ重要だと知っているイベントだ。貴族令嬢にとっての晴れ舞台。それを妹のために延期するなど、本人の意志でそうするならまだしも、それを強要することなどあってはならない。
「そんな風にされても、まだ両親を信じていたのか?」
「……そ、そうですね。もう最後の方は意地みたいなものでしたけれど。どうしても愛されていない事を認めたくはなかったのです。期待しては落胆してを繰り返してきました。ほんと、愚かですよね……。ははっ」
誇れるような子どもになりたくて必死に勉強して、アカデミーに通ったりもした。賢い人しか入れない貴族の学校だ。合格するだけでも名誉なことなのに、アイシャはそこで上位の成績を収めた。
けれど、両親から返ってきた言葉は『体が弱くてアカデミーに通えないベアトリーチェを気遣え』という言葉。通いたくても通えないのだから、楽しそうにするなと、そう言われた。
アカデミーでの三年間、成績上位者の親が参加する懇親会にも、卒業パーティーにも両親は来なかった。
「まあ、アカデミーはとても楽しかったので別に良いのですけれどね……。ははは……」
「……もしかして、輪廻の滝で出会った男のせいか?彼の言葉が君を苦しめたのか?」
「え……?」
イアンはギリっと奥歯を噛み締めた。もし、アイシャが親からの愛を諦めきれず、期待しては傷ついてを繰り返してきたのなら、それは自分のせいではないだろうか。そう思ってしまったのだ。
テオドールも言っていた。期待した分だけ裏切られた時の傷は深くなると。
きっと子爵夫妻が『君は両親に愛されている』と言わなかったのも、そうでないことがわかっていたからだ。無駄に期待させないように、何も言わなかったに違いない。
あの時、『そんな親など見限ってしまえ』と言えばよかった。何も知らないくせに『愛されている』なんて無責任な事を言わなければよかった。
そうすればアイシャはきっと、そんなクソみたいな親から逃げ出せていた。こんなにも傷つかずに済んだのだ。
(俺はアイシャに救われたのに、アイシャは俺のせいで……)
そんな事を考えてしまったイアンは気づいたら涙を流していた。
「うっ……ううっ….。ごめん。ごめんな……」
「えぇ!?男爵様!?どうなさったのですか!?」
大の男が突然泣き出すものだから、アイシャは大きな声を出してしまった。
自分の話を聞いて哀れに思って泣いてくれているのだろうか。だとしたら、戦争を経験した男にしてはピュアだ。アイシャはやはり可愛い人だと思った。
「男爵様、泣かないでください。私、困ってしまいますわ」
「ご、ごめん。でも自分では止められないんだ。なんだか情けなくて、申し訳なくて……」
「ふふっ。変な人。どうして男爵様が申し訳なく思うのです?」
「それは……」
「すぐにお茶を用意させますね、待っていてください」
アイシャはイアンにハンカチを渡すと、すぐに部屋を出た。
それと入れ違いに執務室に戻ってきたテオドールは、クスクスと楽しそうに笑いながら部屋を出ていくアイシャに首を傾げつつ、室内を見る。
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