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第二章 マリーナフカの棺とハルの妖精
7:知りたい(3)
しおりを挟むその日の夜。綺麗な三日月が闇夜を照らす中、リズベット・マイヤーは屋敷の地下牢で反省した様子もなく硬いベッドに寝転んでいた。
地下に続く螺旋階段を降りた先の簡易ベッドしかない薄暗い檻の中で、特に後悔や反省をしている様子もなくウトウトとしているあたり、よほど図太い神経の持ち主なのだろう。
様子を見に来たテオドールは見張りに席を外させると、呆れたように彼女の名を呼んだ。
「随分と余裕ですね、リズベット・マイヤー」
「あ!テオじゃん!今朝ぶりー」
「今朝ぶりー、じゃないですよ。貴女は一体何がしたいんです?旦那様はカンカンですよ?」
「えー?どのくらい怒ってる?」
「食事も持って行くなと言うくらいですよっ!」
テオドールはナプキンに包んだパンを一つ、彼女の牢に投げ入れた。
「命令違反じゃん。毒入り?」
「僕の慈悲です。嫌なら食べなくていい」
「あんたの慈悲で死ぬのなら悪くないわね。いただきます」
「信じてないでしょう、それ。……本当に毒でも入れておけばよかった」
今日一日、食事をとっていないせいか腹を空かせていたリズベットは麦パンを豪快に頬張る。テオドールはそんな彼女を見て苦笑した。
本当に何を考えているのかわからない。何故この女はこんなにも余裕なのか。自分がイアンの幼馴染だから罰せられないとでも思っているのだろうか。
「冗談でなく、本当に旦那様は貴女が思っている以上にお怒りですからね」
「知ってる。……あのお嬢様は?」
「あの後すぐに部屋に引きこもってしまわれました。どこかの誰かさんのせいで」
「そう、それは好都合ね。そのまま出てこなければいいのに」
リズベットは麦パンの最後の一欠片を口に放り込むと親指についた粉を舐め、フッと乾いた笑みをこぼした。
「あたしはあのお嬢様をイアンの妻とは認めない」
「……良い人ですよ?根っからの善人って感じの方です」
「でしょうね。それはひと目見てわかったわ。どうせ生温い温室で大事にされて、ずっと綺麗なまま生きてきたんでしょ?血なんて見たら卒倒しそう」
「結構苦労をしていらっしゃるかと思いますが……。まあ、さすがに血を見る機会はなかったでしょうけど。イノシシの死骸を見て気絶してらっしゃいましたし」
「ほらね!どうせお貴族様の苦労なんて、あたしたちに比べれば大したことないのよ。こっちが生きるか死ぬかって時に、豪華なパーティーを開いて楽しめるくらいの余裕があるんだから!」
「貴族にとってのパーティーはある意味で戦場ですけどね。ですが、仮に奥様が温室育ちの苦労知らずだとしても、我々にとってはこれ以上ないくらいに理想的なお方です」
「どこがよ!?」
「わかりませんか?中央にパイプを持ち、脳筋ばかりのアッシュフォードに足りない頭脳面を補ってくれて、且つお貴族様特有の傲慢さもない素直で謙虚な性格。加えて旦那様の心を掴んでいる。奥様がいるだけで旦那様のモチベーションは急上昇!まさに救世主ですね!」
「……脳筋って言葉が引っかかるわね」
「事実でしょう?」
「確かに否定はできないけど!……まあいいわ。でもね、テオ。いくら優秀でも、温室育ちのふわふわした女なんてここの現実を見たら嫌になって、家に帰りたがるに決まってる。そうなった時、皇帝の縁談を無駄にしたとか言って難癖つけられるのは全部イアンでしょ?そんなの許せない。腹が立つわ」
「大丈夫です。ご心配には及びませんよ。奥様には追々、心に負担がない程度に魔族の知識を身につけてもらうつもりですし、必要とあらば護身術も習ってもらいます。まあでも、そもそも冬の間は極力屋敷にいてもらうつもりですから、あなたが心配するようなことにはならないかと」
「随分と過保護ね。というか、逃げられないよう必死で囲おうとしてる?」
「そんなつもりはありませんよ。奥様には他にもやらねばならないことがあるので」
「どうせ屋敷の模様替えとかでしょ?そんなことして何になるって言うのよ」
リズベットは『どうせ誰も来ないのに』と鼻で笑った。
確かに、アイシャが今すぐに誰かを招待することはないだろう。
だが、春が訪れて再び門が開き、結婚式を行うとなれば多くの人がアッシュフォードに来るはずだ。そうなった時、貴族を泊められるような屋敷でなければ恥をかくのは領主夫妻。故に屋敷の改装は最優先事項だ。
平民には無駄に思える屋敷の改装一つとっても、貴族には重要なことなのだとテオドールは諭した。
しかし、リズベットは相変わらず不貞腐れたまま。
テオドールは少し苛立ったのか、軽く舌を鳴らした。
「……あのですね、リズ。そもそもです。強い女が良いなんて言っていたら、アッシュフォードの領主夫人になれる貴族女性は一生現れないでしょう。それでは困るんです」
リズベットが言うような自分の身を自分で守れる貴族女性などほとんど存在しない。
だが、アッシュフォードの発展には中央とのつながりが必要で、そのつながりを持つためには中央の貴族との婚姻が必要だ。
「身の丈に合わない高貴な女性を娶る以上、身の安全の確保は旦那様の義務であり、奥様は守られて当然のお立場なのです。そのくらい貴女も理解していると思っていたのですが?」
「……」
リズベットは悔しそうに顔を歪める。テオドールはそんな彼女にやれやれと肩をすくめた。
「明日の朝には旦那様が様子を見にくるはずです。その時の態度次第では死刑……までは行かなくても騎士団からの除名は普通にあるかもしれませんよ?」
「……除名は困る。あたしは剣を振るうことしかできないもん」
「ではどうするんですか?」
「テオが考えて」
「僕は奥様に許しを乞うしか道はないかと思います」
「……やだ」
「じゃあ除名ですね。今までお疲れ様でした」
「くぅ……!」
アイシャが寛大な心でリズベットを許せば、イアンも渋々彼女を許すだろう。それ以外に許してもらう方法はない。それなのに、謝るのは嫌だと言うのなら仕方がない。テオドールはめんどくさそうにリズベットを見下ろす。
そしてこちらを見上げる彼女を見て、ふと、ある事を思い出した。
「あ……。もしかして、まだ自分が旦那様と結婚できると思ってます?」
「……は、はあ!?」
「確かに貴女は誰よりも強い女性ですが、しかし……」
「な!?ちがうわよ!そんなこと思ってない!」
「え?でも、貴女は幼い頃から旦那様のお嫁さんになるのが夢だと言っていたのでしょう?」
「誰から聞いたのよ、そんな話!あんたに話したことないでしょ!?」
「ニックから聞きましたが?」
キョトンと首を傾げるテオドールを、リズベットは睨みつけた。
その反応は明らかに図星にしか見えない。テオドールは小馬鹿にしたようにプッと吹き出した。
リズベットを幼い頃から知る者たちは皆、彼女の初恋がイアンであることを知っており、そのことをネタによく彼女をからかっていた。
テオドールは戦争中に仲間に加わった身であるため、彼らの過去をあまり詳しくは知らないが、それでもリズベットの初恋の話はニックから聞かされたので知っている。
だが……。
「可哀想ですけど、旦那様が貴女に振り向くことはありませんよ?」
貴族と平民とか、そういうことを抜きにしてもイアンがリズベットの方を向くことはない。それが分かりきっているのに、未だ初恋を忘れてられずにいるのかと思う哀れなものだ。テオドールは現実を受け入れろとリズベットを宥めた。
するとリズベットは真っ青な顔で牢の柵を両手で掴み、激しく揺らした。ガチャガチャと金属の音が地下牢に響く。
「だから、違うの!そんなんじゃない!可哀想言うな!」
「どう見ても『そんなん』でしょう。顔がそう言っています」
「ちが……!本当違うから!」
「はいはい」
「別にイアンなんてなんとも思ってないから!ただ家族同然に過ごしてきた兄のような人がこれ以上傷つくところを見たくないだけなのよ!お願いだから誤解しないで!」
「わかりました。わかりましたよー。とりあえず、柵を揺らすのはやめてください。うるさい」
「もう!絶対信じてないじゃん!」
テオドールは必死に誤解だと訴えるリズベットの言葉を軽い返事で流した。彼の経験上、片思いを拗らたやつの『そんなんじゃない』は8割『そんなん』であるからだ。
まともに取り合わないテオドールに憤慨したリズベットは、頬を膨らませた。それを見たテオドールはゲンナリした顔をする。
「奥様がやると可愛いですが、貴女がそれをしてもそこまでですよ……」
「「ひっど!?」」
図体のデカさの違いだろうか、と首を傾げるテオドール。すると何故か前方からだけでなく、後方からも非難の声が上がった。
ここには今、自分とリズベットしか居ないはずなのにおかしい。テオドールは後ろを振り返り、キョロキョロと辺りを見渡した。
「今、誰かの声がしませんでしたか?」
「……気のせいじゃない?それかネズミの鳴き声ね」
「ネズミなんていませんよ」
「いるわよ、そこ」
リズベットはテオドールの後ろ、階段下の柱の奥にある木箱を指差した。すると彼女の言う通り、その影からネズミが二匹走って逃げていった。
「近くに巣があるのかしら」
「……今度、ニックに駆除をお願いしておきます」
「ニックは庭師であって便利屋じゃないわよ……」
リズベットは呆れたように笑うと、パンを包んでいたナプキンを丸めてテオドールに投げた。ナプキンはハラハラと舞い、彼の足元に落ちる。
「ありがとう、ご馳走様」
「……奥様をお連れしますか?」
「明日の朝まで考えるわ」
「はあ……。わかりました」
テオドールは落ちたナプキンを拾うと、おやすみなさいと言って踵を返した。
そして二、三歩歩いたところで、何かを思い出したように立ち止まり、振り返った。
「どうか賢明な判断を」
「はいはい。努力しまーす」
「まじめに言ってるんですけど?」
「わかってまーす」
「はあ……。これでも僕は貴女が剣を振るう姿が好きですから、それが見られなくなるのは惜しい」
「……はいはい。そうですか」
そう言って、手のかかる妹を諭す兄のように優しく笑うとテオドールは階段を登り、地下牢を後にした。
残されたリズベットは再び簡易ベッドに寝転び、高い位置にある小さな窓から夜空を眺めた。
「うっせぇ、ばーか」
今が夜でよかったと本当に思う。
この顔を悟られずに済むから。
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