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第三章 アッシュフォード男爵夫人
11:ランの杞憂
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案の定、伯爵夫妻は翌日も帰らなかった。
アイシャとイアンが仕事の合間を縫って、夫妻に帰るよう説得しているが、膠着状態が続いている。
二人は話が通じない彼らにうんざりしている様子だ。
普段はゆるゆるな屋敷は本物の貴族の対応でみんなピリピリしているし、そんな張り詰めた空気が漂っている中で食べるご飯は美味しくないし。
明日あたりには子爵夫妻がこちらに着くそうだが、第一皇子もこちらに向かっているかもしれないという話もあるし……。
果たして無事に結婚式を迎えられるのだろうか。ランは不安で仕方がない。
「大丈夫かなぁ」
奇跡的に休憩をもらえたランはアイシャの部屋に花を飾ろうとニックの元へ向かう。
すると、すぐ近くの庭園から甲高い女の笑い声が聞こえた。
それは聞き覚えのある不快な笑い声。まさかと、ランは急いで声の聞こえる方へ走った。
「まあ、素敵な庭園!」
アイシャが時間をかけて作り上げた庭園にいたのは、花と戯れるベアトリーチェだった。
服をあまり持参していないからと、強引にアイシャのドレスに袖を通し、我が物顔で庭園を歩き回るベアトリーチェ。
厚顔無恥。その言葉がよく似合う女なのに。
どうしてだが、色とりどりの可愛らしい花たちが、彼女を歓迎しているかのように咲う。
「なんで……?」
その光景を見て血の気が引いたランは、急いで近くにいたメイド仲間のニーナに駆け寄った。
「ちょ!何をしているんですか!?」
「あら、ラン。休憩?」
「休憩ですけど。ニーナさんこそ、こんなところで何を……」
「妹君が領地を見て回りたいそうなの。でも馬車の用意に手こずってね。用意できるまで、庭園を案内して欲しいと頼まれたのよ」
「ここは奥様の庭園です!」
「大丈夫。奥様の許可は取ってるわ」
ニーナは子どもをあやすように、よしよしとランの頭を撫でた。きっとランがどうしてこんなにも動揺しているのかわからないのだろう。
ランはベアトリーチェを見るニーナの横顔に、伯爵家のメイドの姿を重ねた。
(うそでしょう?)
この短時間で、メイドをたらし込んだのか。それもアイシャと仲の良かったメイドの一人を、こうも容易く。
なんて恐ろしい女なのだろう。ランは寒気がした。
もう春なのに、鳥肌が立つ。震えが止まらない。
「このお花、可愛いわ」
ベアトリーチェはニーナに向かって微笑むと、咲いていた黄色い花を一輪手折った。
そしてパタパタと走り、その花をニーナの髪に刺す。
「ニーナにとてもよく似合うわ。あげる」
自分のものではない花を、平気な顔で他人にあげるその姿にランは顔を歪めた。
だがニーナはその花を嬉しそうに受け取る。
「ありがとうございます、お嬢様」
「どういたしましてっ!」
「でもこれは、お嬢様の方がよくお似合いかと」
そう言ってニーナは髪に刺さった花を取ると、ベアトリーチェの髪に刺した。
「やっぱり、よくお似合いですわ。さすがは奥様の妹君」
変に『奥様の』を強調したニーナに、ベアトリーチェの口元はピクリと動く。だがすぐに、わざとらしく頬を染め、恥ずかしそうに「ありがとう」と返した。
そんな彼女の可愛らしい姿にニーナはクスッと笑みをこぼした。
「お嬢様は可愛らしい人ですね、か弱いお姫様って感じで、なんだか守ってさしあげたくなります」
「まあ!そんなことを言ってくれるなんて嬉しいわ、ニーナ。じゃあ、ニーナはもし私が男爵夫人になったら、私のことを守ってくれる?」
ベアトリーチェは小首を傾げてニーナに尋ねる。
あり得ない質問だ。アイシャの屋敷で、アイシャを主人とするメイドを前にしてこの台詞はない。
ランはいよいよ我慢できなくなり、一歩前に踏み出した。
しかしニーナはそれを諌めるように彼女を腕で静止した。そしてにっこりと笑う。
「ふふっ、お嬢様は冗談がお上手ですね」
「……え?」
「ここはアッシュフォードですよ?守られたいと思っておられるご令嬢が旦那様のお隣に立つことは難しいかと」
「どういう、意味?」
「いやですわ、そのままの意味です。ここは豊かではありませんから、皆が求めているのは物語に出てくる美しくか弱いお姫様ではなく、私たちと共に戦ってくださる強く逞しい奥様なのです」
「じゃ、じゃあお姉さまも適任ではないわね」
「いいえ?幸いにも私たちの奥様は『守られたい』ではなく、『守りたい』と思ってくださる方ですので。いやぁ、ありがたいことです」
アイシャは自分たちを、この地を守りたいと言ってくれる。だから、アッシュフォード男爵夫人はアイシャ以外にあり得ない。
ニーナはそう宣言した。
「お嬢様にはお嬢様にお似合いの王子様が首都にいらっしゃるのではありませんか?私、お嬢様には白馬に乗った王子様がお似合いだと思います!」
悪気なく無邪気に返すニーナに、ベアトリーチェは顔を引き攣らせた。
きっと同意してもらえると思っていたのだろう。当てが外れたベアトリーチェは「そろそろ馬車の用意はできたかしら」、とわざとらしく話を逸らし、またパタパタと足音を立てて正門の方へと走っていった。
正門の方では、案内役のリズベットが手を振って「妹君ー!」とベアトリーチェを呼んでいる。
そこでランはようやく気がついた。
「ニーナさん、わざとですね?」
「んー?なんのことー?」
半眼で見上げるランに、ニーナはとぼけてみせた。
だがランにはわかる。ニーナの言い方はわざとだ。
ベアトリーチェは今まで無意識にアイシャを下に見ていた。それなのにこんな風に、まるで自分がアイシャの付属品のように言われるのは初めてで、きっと腹が立ったはずだ。
「知ってる?ラン。旦那様はリズさんを妹君の案内役につけたそうよ」
「はい、聞きました。でもどうしてマイヤー卿なんですか?」
「気が利かないから、だって」
「……ああ、なるほど」
「あの手のタイプは察してちゃんだから、きっとイライラするはずよ。見ものだわ」
ウッシッシと歯を見せて笑うニーナ。完全に悪役の顔だ。
「まあ、見てなさい。アッシュフォードの人間はそう簡単には靡かないから」
だから安心して良い。どこまで知っているのかはわからないが、ニーナはそう言って豪快に笑った。
当たり前のように自分の不安を気取られていたことに恥ずかしくなったランは、頭を撫で回すニーナの手を払いのけた。
「私、ニックさんのところに行ってきます」
「のんびりしすぎないようにね」
「はい」
恥ずかしそうに顔を伏せ、ニーナに背を向けるラン。
ニーナはそんな彼女の後ろ姿にエールを送った。
「知ってると思うけど、この屋敷には奥様の味方しかいないから!」
ニーナの言葉を受け取ったランはピタリと足を止め、振り返る。
そして流れそうになる涙を拭い、ひと言返した。
「ありがとう!」
アイシャがゆっくりと、けれど確実に積み上げてきた信頼は本物だ。
きっと、何があっても揺るがない。
アイシャとイアンが仕事の合間を縫って、夫妻に帰るよう説得しているが、膠着状態が続いている。
二人は話が通じない彼らにうんざりしている様子だ。
普段はゆるゆるな屋敷は本物の貴族の対応でみんなピリピリしているし、そんな張り詰めた空気が漂っている中で食べるご飯は美味しくないし。
明日あたりには子爵夫妻がこちらに着くそうだが、第一皇子もこちらに向かっているかもしれないという話もあるし……。
果たして無事に結婚式を迎えられるのだろうか。ランは不安で仕方がない。
「大丈夫かなぁ」
奇跡的に休憩をもらえたランはアイシャの部屋に花を飾ろうとニックの元へ向かう。
すると、すぐ近くの庭園から甲高い女の笑い声が聞こえた。
それは聞き覚えのある不快な笑い声。まさかと、ランは急いで声の聞こえる方へ走った。
「まあ、素敵な庭園!」
アイシャが時間をかけて作り上げた庭園にいたのは、花と戯れるベアトリーチェだった。
服をあまり持参していないからと、強引にアイシャのドレスに袖を通し、我が物顔で庭園を歩き回るベアトリーチェ。
厚顔無恥。その言葉がよく似合う女なのに。
どうしてだが、色とりどりの可愛らしい花たちが、彼女を歓迎しているかのように咲う。
「なんで……?」
その光景を見て血の気が引いたランは、急いで近くにいたメイド仲間のニーナに駆け寄った。
「ちょ!何をしているんですか!?」
「あら、ラン。休憩?」
「休憩ですけど。ニーナさんこそ、こんなところで何を……」
「妹君が領地を見て回りたいそうなの。でも馬車の用意に手こずってね。用意できるまで、庭園を案内して欲しいと頼まれたのよ」
「ここは奥様の庭園です!」
「大丈夫。奥様の許可は取ってるわ」
ニーナは子どもをあやすように、よしよしとランの頭を撫でた。きっとランがどうしてこんなにも動揺しているのかわからないのだろう。
ランはベアトリーチェを見るニーナの横顔に、伯爵家のメイドの姿を重ねた。
(うそでしょう?)
この短時間で、メイドをたらし込んだのか。それもアイシャと仲の良かったメイドの一人を、こうも容易く。
なんて恐ろしい女なのだろう。ランは寒気がした。
もう春なのに、鳥肌が立つ。震えが止まらない。
「このお花、可愛いわ」
ベアトリーチェはニーナに向かって微笑むと、咲いていた黄色い花を一輪手折った。
そしてパタパタと走り、その花をニーナの髪に刺す。
「ニーナにとてもよく似合うわ。あげる」
自分のものではない花を、平気な顔で他人にあげるその姿にランは顔を歪めた。
だがニーナはその花を嬉しそうに受け取る。
「ありがとうございます、お嬢様」
「どういたしましてっ!」
「でもこれは、お嬢様の方がよくお似合いかと」
そう言ってニーナは髪に刺さった花を取ると、ベアトリーチェの髪に刺した。
「やっぱり、よくお似合いですわ。さすがは奥様の妹君」
変に『奥様の』を強調したニーナに、ベアトリーチェの口元はピクリと動く。だがすぐに、わざとらしく頬を染め、恥ずかしそうに「ありがとう」と返した。
そんな彼女の可愛らしい姿にニーナはクスッと笑みをこぼした。
「お嬢様は可愛らしい人ですね、か弱いお姫様って感じで、なんだか守ってさしあげたくなります」
「まあ!そんなことを言ってくれるなんて嬉しいわ、ニーナ。じゃあ、ニーナはもし私が男爵夫人になったら、私のことを守ってくれる?」
ベアトリーチェは小首を傾げてニーナに尋ねる。
あり得ない質問だ。アイシャの屋敷で、アイシャを主人とするメイドを前にしてこの台詞はない。
ランはいよいよ我慢できなくなり、一歩前に踏み出した。
しかしニーナはそれを諌めるように彼女を腕で静止した。そしてにっこりと笑う。
「ふふっ、お嬢様は冗談がお上手ですね」
「……え?」
「ここはアッシュフォードですよ?守られたいと思っておられるご令嬢が旦那様のお隣に立つことは難しいかと」
「どういう、意味?」
「いやですわ、そのままの意味です。ここは豊かではありませんから、皆が求めているのは物語に出てくる美しくか弱いお姫様ではなく、私たちと共に戦ってくださる強く逞しい奥様なのです」
「じゃ、じゃあお姉さまも適任ではないわね」
「いいえ?幸いにも私たちの奥様は『守られたい』ではなく、『守りたい』と思ってくださる方ですので。いやぁ、ありがたいことです」
アイシャは自分たちを、この地を守りたいと言ってくれる。だから、アッシュフォード男爵夫人はアイシャ以外にあり得ない。
ニーナはそう宣言した。
「お嬢様にはお嬢様にお似合いの王子様が首都にいらっしゃるのではありませんか?私、お嬢様には白馬に乗った王子様がお似合いだと思います!」
悪気なく無邪気に返すニーナに、ベアトリーチェは顔を引き攣らせた。
きっと同意してもらえると思っていたのだろう。当てが外れたベアトリーチェは「そろそろ馬車の用意はできたかしら」、とわざとらしく話を逸らし、またパタパタと足音を立てて正門の方へと走っていった。
正門の方では、案内役のリズベットが手を振って「妹君ー!」とベアトリーチェを呼んでいる。
そこでランはようやく気がついた。
「ニーナさん、わざとですね?」
「んー?なんのことー?」
半眼で見上げるランに、ニーナはとぼけてみせた。
だがランにはわかる。ニーナの言い方はわざとだ。
ベアトリーチェは今まで無意識にアイシャを下に見ていた。それなのにこんな風に、まるで自分がアイシャの付属品のように言われるのは初めてで、きっと腹が立ったはずだ。
「知ってる?ラン。旦那様はリズさんを妹君の案内役につけたそうよ」
「はい、聞きました。でもどうしてマイヤー卿なんですか?」
「気が利かないから、だって」
「……ああ、なるほど」
「あの手のタイプは察してちゃんだから、きっとイライラするはずよ。見ものだわ」
ウッシッシと歯を見せて笑うニーナ。完全に悪役の顔だ。
「まあ、見てなさい。アッシュフォードの人間はそう簡単には靡かないから」
だから安心して良い。どこまで知っているのかはわからないが、ニーナはそう言って豪快に笑った。
当たり前のように自分の不安を気取られていたことに恥ずかしくなったランは、頭を撫で回すニーナの手を払いのけた。
「私、ニックさんのところに行ってきます」
「のんびりしすぎないようにね」
「はい」
恥ずかしそうに顔を伏せ、ニーナに背を向けるラン。
ニーナはそんな彼女の後ろ姿にエールを送った。
「知ってると思うけど、この屋敷には奥様の味方しかいないから!」
ニーナの言葉を受け取ったランはピタリと足を止め、振り返る。
そして流れそうになる涙を拭い、ひと言返した。
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