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第三章 アッシュフォード男爵夫人
21:血の呪い
しおりを挟む縄張りを荒らされた獣のような目。
その黄金に輝く瞳は、今すぐにでもダニエルの喉元を噛みちぎらんとしている。
「どうやら、私は間違えていたようだ」
ダニエルはようやく自分の認識の甘さを実感した。
あの地獄のような戦場を生き抜いた男は、ダニエルの陳腐な想像よりも遥かに荒々しく、獰猛だった。
この状況はあまりよろしくない。危険が伴う。
彼に自ら身を引く選択をさせてあげようと、変に優しさを見せたのが間違いだった。
ダニエルはフッと口角を上げた。
「本当ならこれはあまり出したくなかったのだが、君がそういう態度を取るのなら致し方ない」
アイシャの方から彼を元を去ってもらうこととしよう。傷ついた彼女は自分が優しく慰めてやればいい。
ダニエルはもう一度ソファに腰掛けると、背もたれに体を預け、従者を呼ぶ。
従者は手荷物の中から数枚の報告書を机に並べた。
「これは?」
「まあいいから、見たまえ」
ダニエルは顎を突き出し、報告書を手に取るよう促した。
何を企んでいるのだろう。何を言われても揺るぐ気などサラサラないが、嫌な予感がする。
イアンは怪訝な顔をしつつも、促されるままにゆっくりと手を伸ばした。
「男爵。君は12の時にお父上を亡くしているな?」
「それが何か?」
「確か、馬車に轢き殺されたとか」
「ええ、そうです」
「犯人は捕まってはいないのだろう?」
「………はい」
「父を轢き殺した男を知りたくはないか?」
「……っ!」
一瞬、イアンの息が止まった。
彼は伸ばした手を引っ込め、強く拳を握りしめる。
「イアン様?」
アイシャは不思議そうにイアンを見上げた。彼の瞳は、先ほどよりも強い殺気を放っているように見える。
アイシャはたまらず、彼の手を握った。けれど、反応がない。
「どうした?知りたくないのか?」
「もう過去の話ですから。犯人がわかったとしても、今更罰することなどできませんし」
「私ならそいつを罰してやることができるぞ?」
「平民を一人轢き殺したところで、何の罪になると言うのでしょう」
「確かに大した罪にはなり得ないだろう。だが君はもう英雄であり貴族だ。どうとでもできる」
「……」
「確認したまえ」
「結構です。今更そんなこと望んでいません」
「そうか、ならば仕方がないな」
ダニエルはふうっと息を吐くと、アイシャの方を見た。
「アイシャ。君が代わりに確認してやりなさい」
「……え?」
「見なくていい」
「男爵は自分で確認するのが怖いようだ」
「アイシャ。見るな」
「えっと……、本当に見なくていいのですか?」
アイシャは戸惑う。すでに乗り越えたことを今更掘り返されて怒るのは理解できるが、それにしてもイアンの様子は少しおかしい。
しかし従者はそんな彼女の困惑などお構いなしに、彼女の前に報告書を差し出した。
アイシャは仕方なく、それを受け取ろうと手を伸ばす。
だが、その瞬間。イアンは従者の手を乱暴に払い除け、それを阻止した。
書類は宙に舞い、ハラハラと床に落ちる。
「見ないで、頼むから」
「……イアン、様?」
「殿下、この話をするのならアイシャには席を外してもらいましょう」
「何故だ?」
「彼女には関係のない話だからです」
「私はそうは思わないが?」
ダニエルはニヤニヤと下卑た笑みを浮かべた。
口元を隠しているが隠しきれていない。
愉快そうに細めた翡翠の瞳がイアンを嘲笑っている。この状況を楽しんでいる。
「いやはや、これは予想外だ。まさか君は知っていたのか」
「殿下、おやめください」
「泣けるよなぁ。どんな悲恋の演劇よりもずっとドラマチックな展開だよなぁ?」
「もう、黙ってください」
「こんなのもはや運命でしかない。私は涙が止まらないよ」
「黙れ」
「まさか君のお父上を轢き殺した男が、」
「黙れっつってんだよ!」
イアンはダニエルの言葉を遮るように、ダンッと大きな音を立てて二人を隔てていたテーブルを踏みつけた。そしてそのまま彼の上に跨ると胸ぐらを掴み、骨を折る勢いで首を締め上げる。
ダニエルの護衛オリバーはすぐに一歩踏み込み、イアンの首を狙い剣を振るった。
だがそんなオリバーの首をリズベットが背後から狙う。
誰が動いても全員が死ぬという一触即発の空気の中、アイシャはふらりと立ち上がり、床に落ちた報告書を拾った。
微かに聞こえた名を、確認せねばならない。
まさか、そんなはずはないと思いたい。聞き間違いだと信じたい。
けれど溢れた紅茶で汚れたその紙には、断ち切ったはずの縁があった。
「…………え?」
アイシャは言葉を詰まらせる。
もう断ち切ったと思ったのに。
解放されたと思ったのに。
まだ繋がっていた。
「アッシュフォード男爵様のお父上を轢き殺したのはブランチェット伯爵様です」
ダニエルの従者の声が、無駄に響いた。
鈍器で頭を殴られたように、脳が揺れる。
アイシャの口元には無意識に笑みが浮かんだ。
「はは……、何それ……」
やはり、血は呪いだ。どう足掻いても逃れられない。
……ならば。
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