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5:好きじゃない(1)
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鏡越しに見えるニコルの視線が痛い。
主人の髪を結いながら微妙な表情でこちらをジッと見つめる侍女に対し、アンリエッタはどう話を切り出せば良いかわからなかった。
別に悪いことをしたつもりは一ミリもないのだが、何故か責められている気分だ。
「……あの、ニコル?」
「はい、何でしょう?」
「あ、あのね?さっきのはね、違うのよ?別に、その……、イ、イチャイチャとかしようとしてた訳じゃなくてね?」
「はい」
「だから、別に彼のことを特別に思っているとか……、す、好きとか……。そういうことじゃないのよ?わかる?」
「はい」
「……」
「……はい」
「…………わかっているのなら、いいわ」
「…………………はい」
先ほどから「はい」しか言わないニコル。彼女はひとつも否定的な言葉を発していないのに、どうしてだろう。やはり責められている気がしてならない。
アンリエッタは、何だか居た堪れなくて顔を伏せた。穴があったら入りたいとはまさにこの事。
「お嬢様……、いえ、奥様。ご朝食はいかがなさいますか?」
ニコルはニコッと微笑み、あえて呼び方を変えた。
結婚した主人のことをいつまでも『お嬢様』と呼んでいる方がおかしいので、彼女の判断は間違いではないのだが、アンリエッタには何か別の意図があるように感じられた。
「……いかが、とは?」
「あの方……、旦那様がよければ一緒にどうかとおっしゃっていたではありませんか」
「そ、そういえば、そうだったわね」
「ご一緒なさいますか?ここのフロアには専用のラウンジがあるそうで、そこから見える庭園はなかなか風情があるそうですよ?」
「うーん……、どうしようかしら」
お腹は空いた。高級な朝食も食べたい。専用ラウンジも気になるし、庭園も見てみたい。
だが今のアンリエッタは、クロードと顔を合わせて平静を保てる自信がない。
(ああ、どうしてこんなことに)
昨夜の酒が残っていたのだろうか。そのせいで頭が回っていなくて、正常な判断が出来なくなっていて。だから、あんなおかしな雰囲気になっただろうか。
今朝のアンリエッタは本当にどうかしていた。どう考えても、高潔で潔癖な彼女らしくなかった。
(あり得ないあり得ないあり得ない!あんなの私じゃないわ!!)
あんな男に身を委ねそうになるなど、あり得ない。おかしい。どうかしている。あれは何かの間違いだ。そうに決まっている。
アンリエッタは頭の中で先ほどの記憶を必死に消去しようとした。
けれど、消そうとすればするほど記憶は美化され、無駄に脚色されていき……、そして、遂にはとある考えが頭をよぎってしまった。
もしあのままニコルが来なければ、キスしていたのだろうか、と。
アンリエッタは無意識に自分の唇をなぞる。
(キス……)
そういえば、誰かに唇を許したのはクロードが初めてだった。
結婚式という特殊な場面で、形式的に交わされたものだったが、彼の唇はアンリエッタが想像していたよりもずっと柔らかかった。
好きでもない男とのキスなんて最悪だと思っていたけれど、存外悪くなかった。
「キス、か……」
「……お声が漏れていますよ」
「へっ!?」
ニコルに指摘され、アンリエッタは両手で口元を押さえた。
顔を真っ赤にして恥ずかしそうにする主人に、ニコルは思わず半眼になる。
「奥様」
「は、はい……」
「どうやら私は勘違いをしていたようですね?」
「な、何が?」
「奥様がいつも旦那様のことを悪くおっしゃっていたものですから、私はてっきり旦那様のことを嫌っていらっしゃるのだとばかり……」
クロードの求婚の場面からずっと彼と主人のやりとりを見守ってきたニコルは、二人は相性が悪いのだと思っていた。
特にアンリエッタは、クロードとデートに行った日の夜は必ずと言っていいほど、ニコルに彼の愚痴をこぼしていたから。
エスコートがなっていないだの、話がつまらないだの。普段はそんなことを言うような人ではないのに、クロードに関してだけは愚痴が止まらなかった。
だからニコルはずっと、二人の仲は最低最悪で、そんなに嫌っている相手と結婚しなければならないアンリエッタを憐れんでいた。
意に沿わぬ結婚を強いられ、いつか心を壊してしまうのではないかとずっと心配していた。
それなのに、蓋を開けてみればこの有様である。ニコルは内心で、昨日の涙を返してほしいと強く思った。
「……私もまだまだですね。精進いたします」
「え、何か勘違いしていない?」
「いいえ。勘違いなどしておりません。むしろ今までの勘違いに気づいたのです」
「ニコル、あのね……」
「とりあえず私は本日より、旦那様には誠心誠意お支えいたしますね。……何せ、奥様の大切なお方ですから」
「ねえ、違うからね?」
「何が違うのでしょうか」
「私、別に好きじゃないからね?」
「はいはい。好きじゃないですね」
「全然好きじゃないから!嘘じゃないから!!」
「はいはい。嘘じゃないですねー」
何を言っても軽くあしらうニコル。アンリエッタの言葉なんて一ミリも信じていないことがよくわかる。
(違うのに!)
クロードを好きとか、あり得ない。あんな無礼な男を好きなんて絶対にない。
今朝は酒が残っていて冷静な判断ができなかっただけだ。
それなのに、こんなとんでもない勘違いをされたままなんて納得がいかない。
「本当の本当だから!!私はクロードなんて、一ミリも好きじゃないからぁー!!!」
ムキになったアンリエッタは、部屋の外にまで響きそうなほどの大声で叫んだ。
扉のすぐ向こう側にクロードがいることも知らずに。
主人の髪を結いながら微妙な表情でこちらをジッと見つめる侍女に対し、アンリエッタはどう話を切り出せば良いかわからなかった。
別に悪いことをしたつもりは一ミリもないのだが、何故か責められている気分だ。
「……あの、ニコル?」
「はい、何でしょう?」
「あ、あのね?さっきのはね、違うのよ?別に、その……、イ、イチャイチャとかしようとしてた訳じゃなくてね?」
「はい」
「だから、別に彼のことを特別に思っているとか……、す、好きとか……。そういうことじゃないのよ?わかる?」
「はい」
「……」
「……はい」
「…………わかっているのなら、いいわ」
「…………………はい」
先ほどから「はい」しか言わないニコル。彼女はひとつも否定的な言葉を発していないのに、どうしてだろう。やはり責められている気がしてならない。
アンリエッタは、何だか居た堪れなくて顔を伏せた。穴があったら入りたいとはまさにこの事。
「お嬢様……、いえ、奥様。ご朝食はいかがなさいますか?」
ニコルはニコッと微笑み、あえて呼び方を変えた。
結婚した主人のことをいつまでも『お嬢様』と呼んでいる方がおかしいので、彼女の判断は間違いではないのだが、アンリエッタには何か別の意図があるように感じられた。
「……いかが、とは?」
「あの方……、旦那様がよければ一緒にどうかとおっしゃっていたではありませんか」
「そ、そういえば、そうだったわね」
「ご一緒なさいますか?ここのフロアには専用のラウンジがあるそうで、そこから見える庭園はなかなか風情があるそうですよ?」
「うーん……、どうしようかしら」
お腹は空いた。高級な朝食も食べたい。専用ラウンジも気になるし、庭園も見てみたい。
だが今のアンリエッタは、クロードと顔を合わせて平静を保てる自信がない。
(ああ、どうしてこんなことに)
昨夜の酒が残っていたのだろうか。そのせいで頭が回っていなくて、正常な判断が出来なくなっていて。だから、あんなおかしな雰囲気になっただろうか。
今朝のアンリエッタは本当にどうかしていた。どう考えても、高潔で潔癖な彼女らしくなかった。
(あり得ないあり得ないあり得ない!あんなの私じゃないわ!!)
あんな男に身を委ねそうになるなど、あり得ない。おかしい。どうかしている。あれは何かの間違いだ。そうに決まっている。
アンリエッタは頭の中で先ほどの記憶を必死に消去しようとした。
けれど、消そうとすればするほど記憶は美化され、無駄に脚色されていき……、そして、遂にはとある考えが頭をよぎってしまった。
もしあのままニコルが来なければ、キスしていたのだろうか、と。
アンリエッタは無意識に自分の唇をなぞる。
(キス……)
そういえば、誰かに唇を許したのはクロードが初めてだった。
結婚式という特殊な場面で、形式的に交わされたものだったが、彼の唇はアンリエッタが想像していたよりもずっと柔らかかった。
好きでもない男とのキスなんて最悪だと思っていたけれど、存外悪くなかった。
「キス、か……」
「……お声が漏れていますよ」
「へっ!?」
ニコルに指摘され、アンリエッタは両手で口元を押さえた。
顔を真っ赤にして恥ずかしそうにする主人に、ニコルは思わず半眼になる。
「奥様」
「は、はい……」
「どうやら私は勘違いをしていたようですね?」
「な、何が?」
「奥様がいつも旦那様のことを悪くおっしゃっていたものですから、私はてっきり旦那様のことを嫌っていらっしゃるのだとばかり……」
クロードの求婚の場面からずっと彼と主人のやりとりを見守ってきたニコルは、二人は相性が悪いのだと思っていた。
特にアンリエッタは、クロードとデートに行った日の夜は必ずと言っていいほど、ニコルに彼の愚痴をこぼしていたから。
エスコートがなっていないだの、話がつまらないだの。普段はそんなことを言うような人ではないのに、クロードに関してだけは愚痴が止まらなかった。
だからニコルはずっと、二人の仲は最低最悪で、そんなに嫌っている相手と結婚しなければならないアンリエッタを憐れんでいた。
意に沿わぬ結婚を強いられ、いつか心を壊してしまうのではないかとずっと心配していた。
それなのに、蓋を開けてみればこの有様である。ニコルは内心で、昨日の涙を返してほしいと強く思った。
「……私もまだまだですね。精進いたします」
「え、何か勘違いしていない?」
「いいえ。勘違いなどしておりません。むしろ今までの勘違いに気づいたのです」
「ニコル、あのね……」
「とりあえず私は本日より、旦那様には誠心誠意お支えいたしますね。……何せ、奥様の大切なお方ですから」
「ねえ、違うからね?」
「何が違うのでしょうか」
「私、別に好きじゃないからね?」
「はいはい。好きじゃないですね」
「全然好きじゃないから!嘘じゃないから!!」
「はいはい。嘘じゃないですねー」
何を言っても軽くあしらうニコル。アンリエッタの言葉なんて一ミリも信じていないことがよくわかる。
(違うのに!)
クロードを好きとか、あり得ない。あんな無礼な男を好きなんて絶対にない。
今朝は酒が残っていて冷静な判断ができなかっただけだ。
それなのに、こんなとんでもない勘違いをされたままなんて納得がいかない。
「本当の本当だから!!私はクロードなんて、一ミリも好きじゃないからぁー!!!」
ムキになったアンリエッタは、部屋の外にまで響きそうなほどの大声で叫んだ。
扉のすぐ向こう側にクロードがいることも知らずに。
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