2 / 8
2「淑女は.林檎を齧ってはなりません」
しおりを挟む
「すぐに必要なものを荷造りしなさい。明日のうちに発ちます」
ミランダ命じる母は、保養地をさもいやそうに見回した。
「お前の役目もこれ限りです。お前も荷物をまとめて去りなさい」
これも後で知ったことだが、母が保養地へ行くのを知った父が、保養地の家令にミランダの今後の身の振り方を任せていた。ミランダはそのまま保養地に残り、家政婦長の補佐になった。
母はわたくしを見下ろして告げた。
「あなたはこれから王都の館に戻って、淑女の教育を受けるのです。今日のように林檎を齧るなんてもってのほかです。淑女は林檎を齧ってはなりません。はしたない」
そして続けて言い渡した。
「あなたは王子妃になるために努力なさい。絶対に王子妃になるのです」
その時のわたくしは、乳母のミランダやキャシィや保養地の使用人、なによりもグィードと引き離されることに絶望していた。
そんなわたくしにおかまいなく、荷造りは進み、それを行う使用人が涙ながらに別れを告げる。
それを見咎めた母が、ぐいっとわたくしの髪を掴んだ。
「エランダル侯爵家の正統な娘が、使用人と馴れ馴れしく言葉を交わすとはなにごとですか!恥を知りなさい!」
そして客間へと引きずるように連れていかれた。
「さ、ここで何を学んだか見ましょう」
そして一冊の本を渡した。
「読んでごらんなさい」
それは歴史書で、わたくしとグィートとキャシィの三人で、何度も読んだことがあるものだった。この館にある歴史書や物語の本は読みつくしていた。
わたくしには難しい単語もあったが、執事に聞いて理解していた。
しかしその時のわたくしは、悲しみと当惑でまともに頭が動いていなかった。
時々どうしてもしゃくりあげてしまい、たどたどしい読み方になってしまった。それは母を苛立たせた。
パシっと扇が鳴って、わたくしの手を打ち、本が床に転がった。
「なんて無様な読み方なの?帰ったら家庭教師に厳しく指導してもらいます」
そして扇で落ちた本を指した。
「拾いなさい」
わたくしは少し震えながら本を拾った。
「頭に乗せて」
おとなしく従う。作法の授業でやったことだ。これで歩くのだ。
「歩きなさい」
わたくしはしゃくりあげないように我慢して、部屋の中を指示されるがまま歩いた。上手にできたと思う。
しかし母は満足せず、一定の間隔で肩や腰や背中を扇で叩いた。そのようなことはされたことがないので、驚いた。そして体がぐらついた。その度母は嬉しそうに笑ったのだ。
わたくしは混乱の中に落とされた。
母親とは乳母のミランダのような、優しく慈しみ深い人だと夢見ていた。いつか会える日には、自慢に思ってもらいたいと、作法も勉強もがんばっていたのだ。
なぜわざわざ失敗させて、それを笑うのかわからない。
いつしかわたくしの顔は涙で濡れていた。
「やはり思った通り、野育ちね。厳しく躾けますから、そのつもりでいらっしゃい」
一通りわたくしを嬲った後、母は満足そうに言った。
「お前に付き合ってつかれました。夕食までわたくしは休みます。邪魔をしないように」
わたくしはほっとした。しかし母はドアで振り向いて告げた。
「お前は部屋にいるように。誰とも会ってはなりません。あの汚い子供達とは二度と会ってはなりませんよ」
ああ、ミランダやキャシィ、そしてグィードとも別れの挨拶もできないのか。わたくしは絶望した。
部屋に帰って泣いていると、窓をコツコツと叩く音がした。
窓を見やると、そこにグィードがいた。わたくしは急いで走り寄って窓を開けた。
「グィード、グィード、わたくし、明日王都に行かなくてはならないの。もうあなたと会ってはいけないと言われたの」
泣きながらバルコニーに立つグィードに縋ってしまった。
「リシー」
グィードが抱き返す。
「ほら、林檎を持ってきたよ。君の好きな真っ赤な林檎だよ」
グィードは真っ赤でつやつやの林檎を差し出す。
「わたくし…」
戸惑いながら言う。
「もう林檎を齧ってならないと…」
わたくし達は少しの間黙り込んだ。
「もし僕が大人だったら…」
悔しそうにグィードが言う。
「君をここから連れ出して逃げるのに」
「わたくしもよ。大人だったら逃げ出したわ」
顔を見合わせた。
「逃げよう」
「逃げる…」
わたくしが心を決めたその時、ドアが開いた。
びくりとして振り返ると、そこには母ではなく執事がいた。
「いけません、お嬢様」
執事は母に命じられて見張りについていたのだ。
「お嬢様達がお逃げになってもすぐ捕まります。どうか今は大人しく奥方様に従ってください」
わたくしはかぶりを振った。
「いやよ。林檎も齧れない生活なんて!グィードともう会えないなんて!」
シーと言って執事はわたくしを宥めた。
「今は我慢なさいませ。大人になるまでは。大人になれば道が開けるかもしれません」
それは優しい嘘だった。それでもわたくし達はその嘘に縋りついた。
「大人になったら迎えにいくよ」
グィードがわたくしだけに聞こえるように、小さな声で言った。
「なるべく早く、君の元へ行く。君に会うたびに林檎をあげるよ」
「でも、わたくし」
シーと言って、今度はグィードがわたくしを宥める。
「君の心が僕にあるなら、林檎を受け取って。受け取ってくれるうちは諦めない。そして…」
林檎をわたくしの両手に押し付けて続ける。
「渡した林檎を君がそのまま齧ったら…」
「齧ったら?」
「君を連れていく」
約束は結ばれた。
「その林檎をわたくしが齧ったら…絶対よ?」
「約束だ」
グィードは林檎を残して、バルコニーから去って行った。
執事はわたくしの手の中にある林檎を取り上げた。
「これはそのまま齧らなくても、召し上がることができるように取り計らいましょう」
そう言って去って行った。
一人部屋に残されたわたくしは、涙に濡れたまま夜を迎えた。
ミランダ命じる母は、保養地をさもいやそうに見回した。
「お前の役目もこれ限りです。お前も荷物をまとめて去りなさい」
これも後で知ったことだが、母が保養地へ行くのを知った父が、保養地の家令にミランダの今後の身の振り方を任せていた。ミランダはそのまま保養地に残り、家政婦長の補佐になった。
母はわたくしを見下ろして告げた。
「あなたはこれから王都の館に戻って、淑女の教育を受けるのです。今日のように林檎を齧るなんてもってのほかです。淑女は林檎を齧ってはなりません。はしたない」
そして続けて言い渡した。
「あなたは王子妃になるために努力なさい。絶対に王子妃になるのです」
その時のわたくしは、乳母のミランダやキャシィや保養地の使用人、なによりもグィードと引き離されることに絶望していた。
そんなわたくしにおかまいなく、荷造りは進み、それを行う使用人が涙ながらに別れを告げる。
それを見咎めた母が、ぐいっとわたくしの髪を掴んだ。
「エランダル侯爵家の正統な娘が、使用人と馴れ馴れしく言葉を交わすとはなにごとですか!恥を知りなさい!」
そして客間へと引きずるように連れていかれた。
「さ、ここで何を学んだか見ましょう」
そして一冊の本を渡した。
「読んでごらんなさい」
それは歴史書で、わたくしとグィートとキャシィの三人で、何度も読んだことがあるものだった。この館にある歴史書や物語の本は読みつくしていた。
わたくしには難しい単語もあったが、執事に聞いて理解していた。
しかしその時のわたくしは、悲しみと当惑でまともに頭が動いていなかった。
時々どうしてもしゃくりあげてしまい、たどたどしい読み方になってしまった。それは母を苛立たせた。
パシっと扇が鳴って、わたくしの手を打ち、本が床に転がった。
「なんて無様な読み方なの?帰ったら家庭教師に厳しく指導してもらいます」
そして扇で落ちた本を指した。
「拾いなさい」
わたくしは少し震えながら本を拾った。
「頭に乗せて」
おとなしく従う。作法の授業でやったことだ。これで歩くのだ。
「歩きなさい」
わたくしはしゃくりあげないように我慢して、部屋の中を指示されるがまま歩いた。上手にできたと思う。
しかし母は満足せず、一定の間隔で肩や腰や背中を扇で叩いた。そのようなことはされたことがないので、驚いた。そして体がぐらついた。その度母は嬉しそうに笑ったのだ。
わたくしは混乱の中に落とされた。
母親とは乳母のミランダのような、優しく慈しみ深い人だと夢見ていた。いつか会える日には、自慢に思ってもらいたいと、作法も勉強もがんばっていたのだ。
なぜわざわざ失敗させて、それを笑うのかわからない。
いつしかわたくしの顔は涙で濡れていた。
「やはり思った通り、野育ちね。厳しく躾けますから、そのつもりでいらっしゃい」
一通りわたくしを嬲った後、母は満足そうに言った。
「お前に付き合ってつかれました。夕食までわたくしは休みます。邪魔をしないように」
わたくしはほっとした。しかし母はドアで振り向いて告げた。
「お前は部屋にいるように。誰とも会ってはなりません。あの汚い子供達とは二度と会ってはなりませんよ」
ああ、ミランダやキャシィ、そしてグィードとも別れの挨拶もできないのか。わたくしは絶望した。
部屋に帰って泣いていると、窓をコツコツと叩く音がした。
窓を見やると、そこにグィードがいた。わたくしは急いで走り寄って窓を開けた。
「グィード、グィード、わたくし、明日王都に行かなくてはならないの。もうあなたと会ってはいけないと言われたの」
泣きながらバルコニーに立つグィードに縋ってしまった。
「リシー」
グィードが抱き返す。
「ほら、林檎を持ってきたよ。君の好きな真っ赤な林檎だよ」
グィードは真っ赤でつやつやの林檎を差し出す。
「わたくし…」
戸惑いながら言う。
「もう林檎を齧ってならないと…」
わたくし達は少しの間黙り込んだ。
「もし僕が大人だったら…」
悔しそうにグィードが言う。
「君をここから連れ出して逃げるのに」
「わたくしもよ。大人だったら逃げ出したわ」
顔を見合わせた。
「逃げよう」
「逃げる…」
わたくしが心を決めたその時、ドアが開いた。
びくりとして振り返ると、そこには母ではなく執事がいた。
「いけません、お嬢様」
執事は母に命じられて見張りについていたのだ。
「お嬢様達がお逃げになってもすぐ捕まります。どうか今は大人しく奥方様に従ってください」
わたくしはかぶりを振った。
「いやよ。林檎も齧れない生活なんて!グィードともう会えないなんて!」
シーと言って執事はわたくしを宥めた。
「今は我慢なさいませ。大人になるまでは。大人になれば道が開けるかもしれません」
それは優しい嘘だった。それでもわたくし達はその嘘に縋りついた。
「大人になったら迎えにいくよ」
グィードがわたくしだけに聞こえるように、小さな声で言った。
「なるべく早く、君の元へ行く。君に会うたびに林檎をあげるよ」
「でも、わたくし」
シーと言って、今度はグィードがわたくしを宥める。
「君の心が僕にあるなら、林檎を受け取って。受け取ってくれるうちは諦めない。そして…」
林檎をわたくしの両手に押し付けて続ける。
「渡した林檎を君がそのまま齧ったら…」
「齧ったら?」
「君を連れていく」
約束は結ばれた。
「その林檎をわたくしが齧ったら…絶対よ?」
「約束だ」
グィードは林檎を残して、バルコニーから去って行った。
執事はわたくしの手の中にある林檎を取り上げた。
「これはそのまま齧らなくても、召し上がることができるように取り計らいましょう」
そう言って去って行った。
一人部屋に残されたわたくしは、涙に濡れたまま夜を迎えた。
5
あなたにおすすめの小説
円満離婚に持ち込むはずが。~『冷酷皇帝の最愛妃』
みこと。
恋愛
「あなたと子を作るつもりはない」
皇帝シュテファンに嫁いだエリザは、初夜に夫から宣言されて首をかしげる。
(これは"愛することのない"の亜種?)
前世を思い出したばかりの彼女は、ここが小説『冷酷皇帝の最愛妃』の中だと気づき、冷静に状況を分析していた。
エリザの役どころは、公爵家が皇帝に押し付けた花嫁で、彼の恋路の邪魔をするモブ皇妃。小説のシュテファンは、最終的には運命の恋人アンネと結ばれる。
それは確かに、子どもが出来たら困るだろう。
速やかな"円満離婚"を前提にシュテファンと契約を結んだエリザだったが、とあるキッカケで彼の子を身ごもることになってしまい──?
シュテファンとの契約違反におののき、思わず逃走したエリザに「やっと見つけた」と追いすがる夫。
どうやら彼はエリザ一筋だったらしく。あれ? あなたの恋人アンネはどうしたの?
※小説家になろう様でも掲載しています
※表紙イラスト:あさぎかな先生にコラージュアートをいただきました
※毎朝7時に更新していく予定です
さようなら、私の初恋
しょくぱん
恋愛
「さよなら、私の初恋。……もう、全部お返しします」
物心ついた時から、彼だけが世界のすべてだった。 幼馴染の騎士団長・レオンに捧げた、十数年の純粋な初恋。 彼が「無敵」でいられたのは、アリアが無自覚に与え続けた『治癒の加護』があったから。
だが婚約直前、アリアは知ってしまう。 彼にとって自分は、仲間内で競い合う「賭けの対象」でしかなかったことを。
「あんな女、落とすまでのゲームだよ」
偽りの愛の終焉〜サレ妻アイナの冷徹な断罪〜
紅葉山参
恋愛
貧しいけれど、愛と笑顔に満ちた生活。それが、私(アイナ)が夫と築き上げた全てだと思っていた。築40年のボロアパートの一室。安いスーパーの食材。それでも、あの人の「愛してる」の言葉一つで、アイナは満たされていた。
しかし、些細な変化が、穏やかな日々にヒビを入れる。
私の配偶者の帰宅時間が遅くなった。仕事のメールだと誤魔化す、頻繁に確認されるスマートフォン。その違和感の正体が、アイナのすぐそばにいた。
近所に住むシンママのユリエ。彼女の愛らしい笑顔の裏に、私の全てを奪う魔女の顔が隠されていた。夫とユリエの、不貞の証拠を握ったアイナの心は、凍てつく怒りに支配される。
泣き崩れるだけの弱々しい妻は、もういない。
私は、彼と彼女が築いた「偽りの愛」を、社会的な地獄へと突き落とす、冷徹な復讐を誓う。一歩ずつ、緻密に、二人からすべてを奪い尽くす、断罪の物語。
ショートざまぁ短編集
福嶋莉佳
恋愛
愛されない正妻。
名ばかりの婚約者。
そして、当然のように告げられる婚約破棄。
けれど――
彼女たちは、何も失っていなかった。
白い結婚、冷遇、誤解、切り捨て。
不当な扱いの先で、“正しく評価される側”に回った令嬢たちの逆転譚を集めた短編集。
【完結】私が愛されるのを見ていなさい
芹澤紗凪
恋愛
虐げられた少女の、最も残酷で最も華麗な復讐劇。(全6話の予定)
公爵家で、天使の仮面を被った義理の妹、ララフィーナに全てを奪われたディディアラ。
絶望の淵で、彼女は一族に伝わる「血縁者の姿と入れ替わる」という特殊能力に目覚める。
ディディアラは、憎き義妹と入れ替わることを決意。
完璧な令嬢として振る舞いながら、自分を陥れた者たちを内側から崩壊させていく。
立場と顔が入れ替わった二人の少女が織りなす、壮絶なダークファンタジー。
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
《完結》金貨5000枚で売られた王太子妃
ぜらちん黒糖
恋愛
「愛している。必ず迎えに行くから待っていてくれ」
甘い言葉を信じて、隣国へ「人質」となった王太子妃イザベラ。
旅立ちの前の晩、二人は愛し合い、イザベラのお腹には新しい命が宿った。すぐに夫に知らせた イザベラだったが、夫から届いた返信は、信じられない内容だった。
「それは本当に私の子供なのか?」
愛しの第一王子殿下
みつまめ つぼみ
恋愛
公爵令嬢アリシアは15歳。三年前に魔王討伐に出かけたゴルテンファル王国の第一王子クラウス一行の帰りを待ちわびていた。
そして帰ってきたクラウス王子は、仲間の訃報を口にし、それと同時に同行していた聖女との婚姻を告げる。
クラウスとの婚約を破棄されたアリシアは、言い寄ってくる第二王子マティアスの手から逃れようと、国外脱出を図るのだった。
そんなアリシアを手助けするフードを目深に被った旅の戦士エドガー。彼とアリシアの逃避行が、今始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる