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銀婚式
しおりを挟む「――離婚させてください。」
その言葉は、湯呑の縁から立ちのぼる湯気よりも静かに、しかし確かに、空気を震わせた。
日下部蒼介は、箸を持ったまま動けなくなった。
卓上には、祝いの席にふさわしい料理が並んでいる。……とはいっても、鯛の尾頭付きとか、お赤飯といった通常の祝膳ではない。
焼き鯖寿司に、青さのすまし汁。山菜の天ぷら盛り合わせと、筑前煮。
それはどれも蒼介の好物で、銀婚式を迎えた今夜のために、美奈子が心を込めて作ってくれた食卓だった。
結婚25周年。
出会ってから今日まで数えれば28年間、美奈子を大切にしてきたつもりの蒼介は、美奈子から切り出された離婚話に驚いて声も出なかった。
「銀婚式を迎えたら……って決めていたんです。私に、暇をください。蒼介さん」
美奈子の声は静かで、それがかえって蒼介の胸を締めつけた。
「ど、どうしてだ。」
ようやく絞り出した声は、情けないほど震えていた。
「俺が……何か悪いことをしたのか」
「いいえ」
美奈子は首を横に振った。
「蒼介さんは何も悪くありません。ただ……」
彼女は深く息を吸い込んだ。
「私が、美奈子じゃないからです」
蒼介の思考が停止した。何を言われているのか理解できなかった。
「覚えていますか。婚約して間もない頃、私が交通事故に遭ったこと」
「……ああ」
忘れられるはずがなかった。
あの日の恐怖は、今でも悪夢として蘇ることがある。
婚約してすぐに始めた同棲生活。幸せの真っ只中で起きた突然の事故。
あの日、トラックに跳ねられた美奈子は、頭部を強く打って意識不明に陥った。
「生死を彷徨って、三日目に目が覚めた。覚えていますよね」
「当たり前だ。お前が目を開けた時、俺は……」
今でも鮮明に覚えている。病室のベッドに横たわったままの美奈子が、意識を取り戻した瞬間を。
「でもあの日、目を開けたのは美奈子さんじゃなかった」
彼女は、まっすぐに蒼介を見つめた。
「あの事故で、日下部美奈子は死んだんです。蒼介さんの愛した、本物の奥さんは」
「何を……」
「そして、その体に入ったのは……私。事故を起こした、トラックの運転手だった女です」
蒼介の血の気が引いた。
「あの事故で、私は死んだ。ハンドル操作を誤って、美奈子さんを跳ね、そして……自分も車ごと法面に激突。気がついたら、病院のベッドで目を覚ましていました。でも、そこにいたのは蒼介さんで、鏡に映った顔は私じゃなかった」
彼女の声が震える。
「美奈子さんの記憶なんて、何もなかった。ただ、私が殺してしまった女性の体に、私の魂が入っていた。周りの人たちは奇跡的な回復だと喜んでいたけれど……私は、自分が何をしてしまったのか理解していました」
「じゃあ、今まで……」
「はい。全部、演技でした。」
彼女は自嘲するように笑った。
「蒼介さんとの関係も、思い出も知らない。美奈子さんがどんな人だったかも分からない。ただ、周りの反応を見て、写真を見て、必死に美奈子さんを演じてきた」
蒼介は言葉を失った。
「25年間……ずっと?」
「ええ。毎日、毎日、美奈子さんのふりをして。蒼介さんを騙して。娘を産んで、育てて。全部、私が奪った女性の人生を生きてきた」
彼女の目から、ついに涙があふれた。
「娘が成人した時、思ったんです。もう、罪を重ねるのはやめようって。これ以上、蒼介さんの人生を騙し続けるのは、もうできないって」
「なぜ……なぜ今まで黙っていた」
「言えるわけがありません」
彼女は声を震わせた。
リビングに、重苦しい沈黙が落ち、時計の秒針が時間を刻む音だけが、やけにうるさく響いた。
「蒼介さん」
彼女は立ち上がった。
「離婚してください。私は、あなたの妻じゃない。ただの……殺人者です」
「待ってくれ、美奈子。」
蒼介も立ち上がろうとして、膝が震えて座り込んだ。
「待ってくれ。俺は……俺は……」
何を言えばいいのか分からなかった。
28年間愛してきた妻が、妻を殺した女だったという。
美奈子は頭がおかしくなったのか……それとも、離婚する為の嘘か。
蒼介は、テーブルの上に並ぶごちそうに視線を落とし、ため息をついた。
「考える時間を……」
「もう、25年も考えました」
彼女は静かに言った。
「答えは出ています。どうか、私を解放してください。そして、蒼介さんも……本当の美奈子さんとの思い出だけを、大切にしてください」
彼女は静かに立ち上がると、部屋を出て行った。
残された蒼介は、椅子に座ったまま、動けなかった。
愛した妻の笑顔が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
あの笑顔は、全て嘘だったのか——。
いや、と蒼介は思う。
あの笑顔を浮かべていたのは誰であれ、確かに自分の隣にいてくれた。娘を愛し、家庭を守り、25年間を共に生きてくれた。
そのすべてが、演技だったなんて思えない。
けれど、彼女の表情に嘘は無く、出ていくことを決意しているようだった。
蒼介は顔を覆い、声を震わせて涙を溢れさせた。
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