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娘に嘘をついた日
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一週間が経った。
蒼介は、千紘の手紙を何度も読み返していた。
離婚届は、まだ提出していない。彼女の名前が書かれた欄を見つめるたびに、納得出来ず溜息をついた。
その日の午後、インターホンが鳴った。
「お父さん、開けて! 荷物、重いんだけど!」
娘の美咲の声だった。
蒼介は慌てて玄関へ向かった。ドアを開けると、美咲が大きな紙袋を両手に抱えて立っていた。
「遅くなってごめん! 銀婚式のお祝い、持ってきたよ」
美咲は満面の笑みで玄関に入ってきた。21歳になった娘は、母親似の優しい顔立ちをしている——
いや、そうだろうか?まじまじと見ると、美奈子にも蒼介にも似ていない気がしてくる。
「お母さんは?」
美咲は紙袋をリビングのテーブルに置いた。
デパートのマークが入った紙袋の中には、高級そうなワインにフランスパン。それにチーズやナッツと、花束、それにラッピングされた小さな箱が入っている。
「ペアウォッチなんだ。お母さん、前から腕時計が欲しいって言ってたでしょ?だからお祝いに買っちゃった。お父さんとお揃いにしたの。」
蒼介は、言葉が出なかった。
「買い物にでも行ったの?デパ地下で買ってくるからなんにも作らなくて良いよってあれほど……」
美咲はきょろきょろと家の中を見回した。
「美咲……」
「お父さん、どうかしたの?顔色悪いよ」
美咲は心配そうに蒼介を見つめた。
蒼介は、娘の顔を見た。
(——話すべきだろうか。
母親は母親じゃない。
母親は、事故で死んだ別の女性だった。
25年間、騙され続けていた。
信じないだろうな、そんな話。)
「お父さん?」
蒼介はソファに座ったまま、美咲と目も合わせずに言った。
「ちょっと喧嘩したんだ、母さんと。」
「えっ、喧嘩?」
美咲の目が見開かれ、蒼介は頭を抱えた。
「ちょっと出ていっただけだよ。すぐ帰ってくるさ。」
「出て行った?どこに?」
美咲は信じられないという顔をした。
「たかが喧嘩で?何で?」
嘘を突き通すか、話すか。
心の中で、激しい葛藤が渦巻いた。
(25年間愛してくれた母親が、実は別人だった。母親は、本当の母親を殺した女だ……その事実に、娘は耐えられるだろうか。いや、やっぱり信じないだろう。こんな話、信じるのは俺ぐらいだ。)
蒼介の脳裏に、千紘の言葉が蘇る。
「娘のことは、本当に愛していました。美咲は、私の本当の娘ですから」
蒼介は、娘に嘘をつくことに決めた。
「ちょっとした話のすれ違いだよ。大した事じゃない。」
「……うそでしょ?」
美咲は絶句した。
「お父さんとお母さんが、喧嘩? 今まで喧嘩なんてしたことないのに」
「俺も驚いている。」
蒼介は目を伏せた。
「まぁ、そのうち帰ってくるさ。」
「何が原因だったの?」
「それは……」
蒼介は言葉に詰まらせた。
何を言えばいいのか。嘘を重ねれば重ねるほど、娘を傷つける気がした。
「秘密だよ、秘密。母さんとの間のことだから」
美咲はため息をこぼし、ソファに腰を沈めた。
「で? 連絡は? したの、してないの?」
「したけど、携帯も繋がらないんだから。」
それは、本当だった。蒼介は何度も千紘の携帯に電話をかけたが、電源が切られているのか、呼び出し音すら鳴らなかった。
美咲は、また小さくため息をついた。
「もー、やめてよね。いい年して。」
蒼介は、娘の瞳を見つめた。
疑いの色が、そこにあった。
聡明な娘だ。父親の嘘を、見抜いているのかもしれない。
でも——。
「そうだな。」
蒼介は、嘘を突き通すことを決めた。
「些細な行き違いだから、すぐに解決するさ」
美咲は、しばらく父親を見つめていた。
やがて、小さくうなずいた。
「……分かった。まぁ、でも。お父さん」
美咲は蒼介の手を握った。
「初めての喧嘩が離婚に発展……なんて冗談はよしてよね。今頃一人で泣いてるかもしれないんだから早く迎えにいってあげて。」
その言葉が、蒼介の胸に刺さった。
そうだ。千紘は、どこかで一人で泣いている。
25年分の罪を背負って。
「ああ、分かっている」
蒼介は娘の手を握り返した。
「必ず、連れ戻すから。」
美咲は立ち上がり、テーブルの上の紙袋を見た。
「これ……どうしよう」
ペアウォッチの箱が、虚しく置かれている。
「置いていってくれ」
蒼介は言った。
「母さんが帰ってきたら、一緒に開けよう。三人で」
美咲はうなずいた。
「うん、そうだね」
娘は、帰り際に何度も振り返った。
「お父さん、無理しないでね。何かあったら、すぐ連絡して」
「ああ」
ドアが閉まった。
一人残された蒼介は、ソファに沈み込んだ。
テーブルの上には、ペアウォッチの箱。
蒼介はそれを手に取り、開けた。
シンプルなデザインの腕時計が、二つ並んでいる。
「お母さん、前から欲しいって言ってたでしょ?」
美咲の言葉が、蘇る。
千紘は、娘にそんなことを話していたのか。
ペアウォッチが欲しいと。
蒼介は時計を握りしめた。
「千紘……」
もう一度、話をしなければならない。25年間、共に生きてきた意味を。娘を育ててくれたことへの感謝を。
同時に、不安もあった。
蒼介は、自分自身に問いかけた。
妻を殺した女を。
妻になりすました女を。
25年間、騙し続けた女を許せるのか……
答えは、まだ出ない。
でも、少なくとも——。
蒼介は立ち上がった。
探さなければならない。
娘のためにも。
そして、千紘のためにも。
蒼介は、千紘の手紙を何度も読み返していた。
離婚届は、まだ提出していない。彼女の名前が書かれた欄を見つめるたびに、納得出来ず溜息をついた。
その日の午後、インターホンが鳴った。
「お父さん、開けて! 荷物、重いんだけど!」
娘の美咲の声だった。
蒼介は慌てて玄関へ向かった。ドアを開けると、美咲が大きな紙袋を両手に抱えて立っていた。
「遅くなってごめん! 銀婚式のお祝い、持ってきたよ」
美咲は満面の笑みで玄関に入ってきた。21歳になった娘は、母親似の優しい顔立ちをしている——
いや、そうだろうか?まじまじと見ると、美奈子にも蒼介にも似ていない気がしてくる。
「お母さんは?」
美咲は紙袋をリビングのテーブルに置いた。
デパートのマークが入った紙袋の中には、高級そうなワインにフランスパン。それにチーズやナッツと、花束、それにラッピングされた小さな箱が入っている。
「ペアウォッチなんだ。お母さん、前から腕時計が欲しいって言ってたでしょ?だからお祝いに買っちゃった。お父さんとお揃いにしたの。」
蒼介は、言葉が出なかった。
「買い物にでも行ったの?デパ地下で買ってくるからなんにも作らなくて良いよってあれほど……」
美咲はきょろきょろと家の中を見回した。
「美咲……」
「お父さん、どうかしたの?顔色悪いよ」
美咲は心配そうに蒼介を見つめた。
蒼介は、娘の顔を見た。
(——話すべきだろうか。
母親は母親じゃない。
母親は、事故で死んだ別の女性だった。
25年間、騙され続けていた。
信じないだろうな、そんな話。)
「お父さん?」
蒼介はソファに座ったまま、美咲と目も合わせずに言った。
「ちょっと喧嘩したんだ、母さんと。」
「えっ、喧嘩?」
美咲の目が見開かれ、蒼介は頭を抱えた。
「ちょっと出ていっただけだよ。すぐ帰ってくるさ。」
「出て行った?どこに?」
美咲は信じられないという顔をした。
「たかが喧嘩で?何で?」
嘘を突き通すか、話すか。
心の中で、激しい葛藤が渦巻いた。
(25年間愛してくれた母親が、実は別人だった。母親は、本当の母親を殺した女だ……その事実に、娘は耐えられるだろうか。いや、やっぱり信じないだろう。こんな話、信じるのは俺ぐらいだ。)
蒼介の脳裏に、千紘の言葉が蘇る。
「娘のことは、本当に愛していました。美咲は、私の本当の娘ですから」
蒼介は、娘に嘘をつくことに決めた。
「ちょっとした話のすれ違いだよ。大した事じゃない。」
「……うそでしょ?」
美咲は絶句した。
「お父さんとお母さんが、喧嘩? 今まで喧嘩なんてしたことないのに」
「俺も驚いている。」
蒼介は目を伏せた。
「まぁ、そのうち帰ってくるさ。」
「何が原因だったの?」
「それは……」
蒼介は言葉に詰まらせた。
何を言えばいいのか。嘘を重ねれば重ねるほど、娘を傷つける気がした。
「秘密だよ、秘密。母さんとの間のことだから」
美咲はため息をこぼし、ソファに腰を沈めた。
「で? 連絡は? したの、してないの?」
「したけど、携帯も繋がらないんだから。」
それは、本当だった。蒼介は何度も千紘の携帯に電話をかけたが、電源が切られているのか、呼び出し音すら鳴らなかった。
美咲は、また小さくため息をついた。
「もー、やめてよね。いい年して。」
蒼介は、娘の瞳を見つめた。
疑いの色が、そこにあった。
聡明な娘だ。父親の嘘を、見抜いているのかもしれない。
でも——。
「そうだな。」
蒼介は、嘘を突き通すことを決めた。
「些細な行き違いだから、すぐに解決するさ」
美咲は、しばらく父親を見つめていた。
やがて、小さくうなずいた。
「……分かった。まぁ、でも。お父さん」
美咲は蒼介の手を握った。
「初めての喧嘩が離婚に発展……なんて冗談はよしてよね。今頃一人で泣いてるかもしれないんだから早く迎えにいってあげて。」
その言葉が、蒼介の胸に刺さった。
そうだ。千紘は、どこかで一人で泣いている。
25年分の罪を背負って。
「ああ、分かっている」
蒼介は娘の手を握り返した。
「必ず、連れ戻すから。」
美咲は立ち上がり、テーブルの上の紙袋を見た。
「これ……どうしよう」
ペアウォッチの箱が、虚しく置かれている。
「置いていってくれ」
蒼介は言った。
「母さんが帰ってきたら、一緒に開けよう。三人で」
美咲はうなずいた。
「うん、そうだね」
娘は、帰り際に何度も振り返った。
「お父さん、無理しないでね。何かあったら、すぐ連絡して」
「ああ」
ドアが閉まった。
一人残された蒼介は、ソファに沈み込んだ。
テーブルの上には、ペアウォッチの箱。
蒼介はそれを手に取り、開けた。
シンプルなデザインの腕時計が、二つ並んでいる。
「お母さん、前から欲しいって言ってたでしょ?」
美咲の言葉が、蘇る。
千紘は、娘にそんなことを話していたのか。
ペアウォッチが欲しいと。
蒼介は時計を握りしめた。
「千紘……」
もう一度、話をしなければならない。25年間、共に生きてきた意味を。娘を育ててくれたことへの感謝を。
同時に、不安もあった。
蒼介は、自分自身に問いかけた。
妻を殺した女を。
妻になりすました女を。
25年間、騙し続けた女を許せるのか……
答えは、まだ出ない。
でも、少なくとも——。
蒼介は立ち上がった。
探さなければならない。
娘のためにも。
そして、千紘のためにも。
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