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日下部家の味
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エンジン音が低く唸り、高速道路のランプウェイを滑るように上がっていく。
東の空がわずかに明るみ始め、黒ずんだ雲の向こうから、細い光が滲んでいた。
ラジオをつける気にもなれず、ただタイヤがアスファルトを擦る音だけが耳に残る。
単調な走行音のリズムが、いつしか遠い記憶の底を叩くようだった。
(――最初のデートも、こんな夜明け前だったっけ。)
付き合ったばかりの頃、美奈子を古い軽自動車に乗せて、海までドライブに連れて行った。
助手席で彼女は、眠い目をこすりながらずっとしゃべっていた。
「はやくつかないかな。楽しみで昨日は眠れなかったんだよ。」
その無邪気な言葉が可愛くて、蒼介の口元は緩んでいた。けれど今思えば、あの自由奔放さが、眩しすぎたのかもしれない……そう思った。
付き合って二年が過ぎた頃、2人にすれ違いが増えた。
蒼介は仕事にのめり込み、美奈子は友達と遊び歩く。
約束していたディナーのキャンセルは、どちらが先だったか覚えていない。
彼女の「あなたって、つまらない人ね」という言葉が、耳に焼きついている。
婚約破棄になっても、仕方ないと思い始めていた。
そんなある日、事故の知らせが届いた。
深夜の病院、無機質な白い光の下。
数日後に目を覚ました彼女は、包帯に覆われた顔で、スマホを握りしめたまま遠慮がちに言った。
「……蒼介……さんでしょ?」
その声があまりにも穏やかで、どこか他人のようだった。けれど蒼介は、違和感を“安堵”だと信じた。
退院してからの美奈子は、別人のように落ち着いた。
人を気遣い、蒼介の愚痴にまで耳を傾けた。
その優しさに、蒼介は惚れ直した。
彼女の変化を「成長」と呼び、疑うことをしなかった。
(――あの頃の俺は、何も見えていなかった。今思えば、目を覚ました瞬間の彼女の不安は計り知れないし、自分の身に何が起きているのか調べる術はスマホ一つ。
それも、美奈子が誰かとやりとりしたメールからでしか、美奈子を知ることはできなかったはずだ。不安と恐怖に怯えたことは間違いない。)
スピードメーターの針がゆるやかに上がっていく。
車線を変えるとき、ふとサイドミラーに朝焼けが映った。
ほんの少し、胸の奥が熱くなる。
阿部千紘。
彼女の本当の名を口の中でそっと転がす。
美奈子として生き、俺の隣にいた彼女は、どんな思いで笑っていたのだろう。
事故で自分が“別の人間”になったと気づいたとき、どんな苦しみを抱えていたのか。
俺は、それを見抜けるほどの夫ではなかった。
ただ、与えられた愛情に甘えていただけだった。
ハンドルを握る手に力が入る。
追い越し車線を抜けたトラックが風を切っていく。
窓を少し開けると、冷たい風が頬を打った。
――あの時、彼女が泣いた理由を、ようやく理解した気がした。
「結婚しよう」と言ったとき、美奈子は震える声で「ありがとう」と答えた。
それは、彼女にとって“幸せ”ではなく、“別れの覚悟"だったのかもしれない。
視界の端で、遠くに東京の標識が見える。
胸の奥から熱いものがこみ上げた。
複雑な、名前のつけられない感情だった。
蒼介は、運転席に座ったままタッパーの蓋を開けた。
夜のサービスエリア。
街灯の明かりがぼんやりと車内を照らしている。
ふわりと広がるカレーの香りに、胸の奥がざわついた。
指で唐揚げをひとつつまみ、口に入れる。
噛んだ瞬間、衣の奥から滲み出す甘辛いカレーの風味。
懐かしさが舌の上で弾けて、息が詰まった。
気づけば、涙が頬を伝い落ちていた。
会社の飲み会で食べた唐揚げが美味しかったと話しただけだった。
それを覚えていた美奈子が、台所に立ち、何度も試行錯誤して作ってくれた。
「これでどうかな?」
焦げた衣を見つめて不安そうに笑った顔。
ひと口食べて「うまい」と言ったとき、美奈子の目がふわっと綻んだ。
あの瞬間から、日下部家の唐揚げはカレー味になった。
弁当にも、誕生日にも、疲れて帰った夜にも。
いつでもこの味が、食卓の真ん中にあった。
タッパーの中の唐揚げは、少し油が染みて、衣が柔らかくなっている。
それでも、どんな高級店の味よりも、心に沁みた。
ハンドルの向こうに見える高速のネオンが、滲んで揺れていた。
涙を拭う気にもなれず、蒼介はただ黙ってもう一つ、唐揚げを口に運んだ。
東の空がわずかに明るみ始め、黒ずんだ雲の向こうから、細い光が滲んでいた。
ラジオをつける気にもなれず、ただタイヤがアスファルトを擦る音だけが耳に残る。
単調な走行音のリズムが、いつしか遠い記憶の底を叩くようだった。
(――最初のデートも、こんな夜明け前だったっけ。)
付き合ったばかりの頃、美奈子を古い軽自動車に乗せて、海までドライブに連れて行った。
助手席で彼女は、眠い目をこすりながらずっとしゃべっていた。
「はやくつかないかな。楽しみで昨日は眠れなかったんだよ。」
その無邪気な言葉が可愛くて、蒼介の口元は緩んでいた。けれど今思えば、あの自由奔放さが、眩しすぎたのかもしれない……そう思った。
付き合って二年が過ぎた頃、2人にすれ違いが増えた。
蒼介は仕事にのめり込み、美奈子は友達と遊び歩く。
約束していたディナーのキャンセルは、どちらが先だったか覚えていない。
彼女の「あなたって、つまらない人ね」という言葉が、耳に焼きついている。
婚約破棄になっても、仕方ないと思い始めていた。
そんなある日、事故の知らせが届いた。
深夜の病院、無機質な白い光の下。
数日後に目を覚ました彼女は、包帯に覆われた顔で、スマホを握りしめたまま遠慮がちに言った。
「……蒼介……さんでしょ?」
その声があまりにも穏やかで、どこか他人のようだった。けれど蒼介は、違和感を“安堵”だと信じた。
退院してからの美奈子は、別人のように落ち着いた。
人を気遣い、蒼介の愚痴にまで耳を傾けた。
その優しさに、蒼介は惚れ直した。
彼女の変化を「成長」と呼び、疑うことをしなかった。
(――あの頃の俺は、何も見えていなかった。今思えば、目を覚ました瞬間の彼女の不安は計り知れないし、自分の身に何が起きているのか調べる術はスマホ一つ。
それも、美奈子が誰かとやりとりしたメールからでしか、美奈子を知ることはできなかったはずだ。不安と恐怖に怯えたことは間違いない。)
スピードメーターの針がゆるやかに上がっていく。
車線を変えるとき、ふとサイドミラーに朝焼けが映った。
ほんの少し、胸の奥が熱くなる。
阿部千紘。
彼女の本当の名を口の中でそっと転がす。
美奈子として生き、俺の隣にいた彼女は、どんな思いで笑っていたのだろう。
事故で自分が“別の人間”になったと気づいたとき、どんな苦しみを抱えていたのか。
俺は、それを見抜けるほどの夫ではなかった。
ただ、与えられた愛情に甘えていただけだった。
ハンドルを握る手に力が入る。
追い越し車線を抜けたトラックが風を切っていく。
窓を少し開けると、冷たい風が頬を打った。
――あの時、彼女が泣いた理由を、ようやく理解した気がした。
「結婚しよう」と言ったとき、美奈子は震える声で「ありがとう」と答えた。
それは、彼女にとって“幸せ”ではなく、“別れの覚悟"だったのかもしれない。
視界の端で、遠くに東京の標識が見える。
胸の奥から熱いものがこみ上げた。
複雑な、名前のつけられない感情だった。
蒼介は、運転席に座ったままタッパーの蓋を開けた。
夜のサービスエリア。
街灯の明かりがぼんやりと車内を照らしている。
ふわりと広がるカレーの香りに、胸の奥がざわついた。
指で唐揚げをひとつつまみ、口に入れる。
噛んだ瞬間、衣の奥から滲み出す甘辛いカレーの風味。
懐かしさが舌の上で弾けて、息が詰まった。
気づけば、涙が頬を伝い落ちていた。
会社の飲み会で食べた唐揚げが美味しかったと話しただけだった。
それを覚えていた美奈子が、台所に立ち、何度も試行錯誤して作ってくれた。
「これでどうかな?」
焦げた衣を見つめて不安そうに笑った顔。
ひと口食べて「うまい」と言ったとき、美奈子の目がふわっと綻んだ。
あの瞬間から、日下部家の唐揚げはカレー味になった。
弁当にも、誕生日にも、疲れて帰った夜にも。
いつでもこの味が、食卓の真ん中にあった。
タッパーの中の唐揚げは、少し油が染みて、衣が柔らかくなっている。
それでも、どんな高級店の味よりも、心に沁みた。
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涙を拭う気にもなれず、蒼介はただ黙ってもう一つ、唐揚げを口に運んだ。
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