25年目の真実

yuzu

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日下部家の味

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 エンジン音が低く唸り、高速道路のランプウェイを滑るように上がっていく。

 東の空がわずかに明るみ始め、黒ずんだ雲の向こうから、細い光が滲んでいた。 

 ラジオをつける気にもなれず、ただタイヤがアスファルトを擦る音だけが耳に残る。

 単調な走行音のリズムが、いつしか遠い記憶の底を叩くようだった。

 (――最初のデートも、こんな夜明け前だったっけ。)

 付き合ったばかりの頃、美奈子を古い軽自動車に乗せて、海までドライブに連れて行った。

 助手席で彼女は、眠い目をこすりながらずっとしゃべっていた。

 「はやくつかないかな。楽しみで昨日は眠れなかったんだよ。」

 その無邪気な言葉が可愛くて、蒼介の口元は緩んでいた。けれど今思えば、あの自由奔放さが、眩しすぎたのかもしれない……そう思った。

 付き合って二年が過ぎた頃、2人にすれ違いが増えた。
 
 蒼介は仕事にのめり込み、美奈子は友達と遊び歩く。
 約束していたディナーのキャンセルは、どちらが先だったか覚えていない。
 
 彼女の「あなたって、つまらない人ね」という言葉が、耳に焼きついている。

 婚約破棄になっても、仕方ないと思い始めていた。

 そんなある日、事故の知らせが届いた。
 深夜の病院、無機質な白い光の下。
 数日後に目を覚ました彼女は、包帯に覆われた顔で、スマホを握りしめたまま遠慮がちに言った。

 「……蒼介……さんでしょ?」

 その声があまりにも穏やかで、どこか他人のようだった。けれど蒼介は、違和感を“安堵”だと信じた。

 退院してからの美奈子は、別人のように落ち着いた。
 人を気遣い、蒼介の愚痴にまで耳を傾けた。
 その優しさに、蒼介は惚れ直した。
 彼女の変化を「成長」と呼び、疑うことをしなかった。

 (――あの頃の俺は、何も見えていなかった。今思えば、目を覚ました瞬間の彼女の不安は計り知れないし、自分の身に何が起きているのか調べる術はスマホ一つ。

 それも、美奈子が誰かとやりとりしたメールからでしか、美奈子を知ることはできなかったはずだ。不安と恐怖に怯えたことは間違いない。)

 スピードメーターの針がゆるやかに上がっていく。
 車線を変えるとき、ふとサイドミラーに朝焼けが映った。
 ほんの少し、胸の奥が熱くなる。

 阿部千紘。

 彼女の本当の名を口の中でそっと転がす。

 美奈子として生き、俺の隣にいた彼女は、どんな思いで笑っていたのだろう。

 事故で自分が“別の人間”になったと気づいたとき、どんな苦しみを抱えていたのか。

 俺は、それを見抜けるほどの夫ではなかった。

 ただ、与えられた愛情に甘えていただけだった。

 ハンドルを握る手に力が入る。
 追い越し車線を抜けたトラックが風を切っていく。
 窓を少し開けると、冷たい風が頬を打った。

 ――あの時、彼女が泣いた理由を、ようやく理解した気がした。
 
「結婚しよう」と言ったとき、美奈子は震える声で「ありがとう」と答えた。
 それは、彼女にとって“幸せ”ではなく、“別れの覚悟"だったのかもしれない。

 視界の端で、遠くに東京の標識が見える。

 胸の奥から熱いものがこみ上げた。
 複雑な、名前のつけられない感情だった。

 蒼介は、運転席に座ったままタッパーの蓋を開けた。

 夜のサービスエリア。

 街灯の明かりがぼんやりと車内を照らしている。

 ふわりと広がるカレーの香りに、胸の奥がざわついた。

 指で唐揚げをひとつつまみ、口に入れる。
 噛んだ瞬間、衣の奥から滲み出す甘辛いカレーの風味。

 懐かしさが舌の上で弾けて、息が詰まった。
 気づけば、涙が頬を伝い落ちていた。

 会社の飲み会で食べた唐揚げが美味しかったと話しただけだった。
 それを覚えていた美奈子が、台所に立ち、何度も試行錯誤して作ってくれた。

 「これでどうかな?」

 焦げた衣を見つめて不安そうに笑った顔。
 ひと口食べて「うまい」と言ったとき、美奈子の目がふわっと綻んだ。

 あの瞬間から、日下部家の唐揚げはカレー味になった。

 弁当にも、誕生日にも、疲れて帰った夜にも。
 いつでもこの味が、食卓の真ん中にあった。

 タッパーの中の唐揚げは、少し油が染みて、衣が柔らかくなっている。
 それでも、どんな高級店の味よりも、心に沁みた。

 ハンドルの向こうに見える高速のネオンが、滲んで揺れていた。
 涙を拭う気にもなれず、蒼介はただ黙ってもう一つ、唐揚げを口に運んだ。
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