しばらく

ゆさひろみ

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みつ子の訳【身代わり】

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 左往右返、暗中模索する心より、ふと目を覚ませば、密樹に声々の鳥呼び、目には幽草歩々の花が咲く。
 はて、あれほど火と煙とが逆巻くうちを、大風にふき散らされる落葉のごとく、粉ごなと四方八方へ逃げ惑った夥しきは、一体どこへ。ここにはただ、はるか木隠の音のみ、聞こえる流れの水上、岩をめぐりて、浅く露われる。
 怪しむべきかな、地獄に仆れるべきこの体、万斛の珠、鳴せり谷間の清韻を、楽しむ身の上に見つけたり。
「お目覚めですか。あなたはまあ、よくうなされていましたよ」
 いつ歩めりものか、はらはらと見回すうちに、二千本の梅のこずえ、ところどころ見あぐる釋迦如来。
「ご勘弁くださいまし! ああ、ご勘弁くださいまし!」
 青紺色の目に、細眼にみむかえし、音も無く微笑をたたえる。
「そうおびえなくても、良いのですよ。私は沙門、ご安心なさい。そしてここは、極楽浄土の梅林園。さあおもてを上げて、ご覧なさい。ここには、あなたを苦しめる磨針いっぽん、落ちてはいませんよ」
 如来の後に歩み来れば、路を埋める幾斗の清香、凝りてむすぶ梅の香り。
 すでにかくの如くなれば、怪はいよいよ怪に、あるいは夢に見たりしあとの、なお、着々と活現していくのに、あくまで我を脅さざれば休まざらんと、胸安からずも、歩にまかす。
「そら。あそこの茂みに草枕するのは、罰利生ですよ。ああして一日中、まあちっとも動かないのです。あなたは、罰利生の事を、ご存知ですか」
 おのれの顔を眺められるのを、ひたまばゆがりて、また、ためらう科。
「あの男はあれで、もとは悪木の陰にいるやくざ者でした。ところがある痛手を負ったことで、それ以後、まったく自らの非を改めて、無尽の五戒十善を遂げたのです」
 五六歩、進みゆきし、また、唇を噛む。
「お釈迦さま、私には、さっぱり判りません。盆は破れて、水は覆っております所を、なぜ私奴は、地獄におらず、かくのごとく極楽へ許されているのでございましょう」
 うぐいすの声のたえま、流れの音はむせびてやまず、後光に目のくらむ肩さきに、ちり来る葩を拾い、おのれの唇に代え、しきりにかみ砕く。
「さあ」
 怨む者、たゆたきこと薄氷を踏む想いを抱きつつ、いく日も極楽の野に欵待される。
 地獄の鋼叉より髪をからまれ、手矛で交互に打刺される日々、思えばこそ、まろうどの身、白馬は馬にあらずや、と自らを賎奴に思い、ふと咳入り万口の喀血、斑爛と落とす日々のあらざる平安の浄土に、そと襦袢の袖をまぶたに掩てる。
「うううう。とても番狂なことに、心地は枯木に花の咲くようなもの。誰に問いましても、私奴の罪は、永久に許されるものではないと口を揃えます所を、お釋迦さま、なぜでしょう、なぜ私は極楽にて助けられたのでございましょう」
 身をも搾られるばかり、堪えかねたる万謝の涙。
「確かに、あなたが犯した罪は、決して許されるものではありません。いまも地獄の底で、償い続けなければならないものでしょう」
「ですから、なぜ!」
 幾千にわたり、質疑を受けたるを、くどしと聞き捨てず、されど、真意は秘隠に隠す。
「どうか、それだけは教えて下さいまし」
 青紺色の目、冷ややかなるを、刃の光、ひらめく気配。
「それを知って、あなたはどうしますか?」
「どうって! 感謝を申し上げたいのでございます。万一、どなたかの御情のおかげであるのならば、愛おしきかの御方へ、ああ、渾身の御礼を」
 涙ぐみ、焦心になれるのを見て、金身の鮮麗で、しとやかに小腰を屈め、
「その御方は、御礼など、望まれておりません。さあ、今日の所はもうお帰りなさい」
「いいえ。それでは私の気が済みません。どうとなり、その恩人へ一目でも会わせて下さい」
 その声、静なる陰森凄幽の百合林を動かし、響かんとする。
「あなたは、めまいそのもののような、強情な人ですね。その点でいえば、あの御方も、たいへん御気の強く、二念なく信念を貫く方でした。
 そうですね。私も、あの人のいまが心配になって来たところです。そんなに逢いたければ、私のあとについて、おいでなさい」
 手をつかね、秋蛇のゆくに似た小道に忍び入る、如来。それを見て、駈け出し竹の清韻を聞きながら、岸の柳を抜け、とある蓮池のふち、葉越より白きおもてが露われる。
 いちめん蓮のうちに、つと、隠れる小腰を屈めつつ、池いっぱいに咲き乱れる玉のごとき真白な花の、金色の蕊より、たえまなくあふれ出した匂い、香がんとするに追いつく。
「さあこちらへお回りなさい。そうです。そうして水のおもてを蔽っている蓮の葉の間から、水底を透き通して、なにが見えますか?」
「これは」
「驚かれたようですね、無理もありません。そうです、この蓮池の下は、ちょうど地獄の底にあたっているのです。ですから、ここから三途の川や針の山の景色が、あたかも物見遊山でもするように、見渡せるのです。
 私はここからあなたの苦しむ姿をのぞいていたのです。くろがねの笞にうち込まれる姿、ちびきの磐石につぶされる姿、毒竜のあぎとに噛まれる姿、それらおぞましい光景を、ここからこうしてのぞかない日はなかったのですよ。
 さあ、よくご覧なさい。今は、何が見えますか? 粉々然と四方八方へ逃げまどう罪人が見えると、あなたは思いましたね。いいえ、もっとよくご覧なさい。さあさあ、もっとです。
 束帯のいかめしい殿上人や、五つ絹のなまめかしい青女房、数珠をかけた念仏僧や、高足駄をはいた侍学生、細長を着た女の童や、みてぐらをかざした陰陽師、あらゆる身分の人間が、十王をはじめ、おそろしい眷属らから逃れようと、上になったり下になったり、ほかの罪人たちといっしょに、蠢いている人垣のうちで、だれ一人として、じっと合掌して猛火に叫ばないものはありますか? 
 そうです。とうとう見つけたようですね。
 牛頭馬頭の獄卒にさいなまれて、その手矛で脇腹を刺し通されても、くちびるをきびしく咬みしめて、じっと耐え忍んでいる娘がありましょう。
 あの娘こそ、百の呵責、千の苦艱よりあなたを救い出した、沙金という娘です」
「!」
「果たしてあなたは、覚えているでしょうか? 山を劗したような罪人たちの、そのうずたかい内から、あなたは身を千切って、うつぶせになって、沙金へすがったではありませんか。
 たまたま、そのすがった先が、私の佛弟子であれば、裾のほつれを引き直すくらいにして、相手にもされませんでしたが、それがあの沙金と来たら、まあどこまでも気のやさしい娘ですから、私の顔を見つけさえすれば、『どうかあの人を救ってあげて下さい』と、喉をつまらせるのです。
 私の説法を待たずして、
『四王天、忉利天、夜摩天、兜率天、樂変化天、他化自在天と、これから六天へ参ろうとする私が、罪人ひとり助けられないで、いったい何の天女でしょう。あの人が私にすがり、救いを求めて来たのも何かの因果に違いありません。ですから是非、あの人を救って下さい』と、玉の発矢と割れるように、急き込むのです。
 私は言いました。罪人の罪はいいかげんには取り消せませんので、あなたがあの人の身代にならなければ、あなたがあの人の身代わりになって地獄へ向かわなければ、どうにもならないと。それを聞いた砂金、さすがに心を痛めたと見えて、露のあしたの草のように、深く悩める姿が見られるようになりました。
 ところが百八日が過ぎた日のこと、私が祇園精舎に参った日のこと、竹や芭蕉の中の道から、一人で沙金が歩いて来るのに出会いました。
 静かに合掌してこちらを見上げますと、石走る水の響のうちで、
『これより私は地獄へ参ります。約束どおり、あの人を救ってあげて下さい』と、しめやかに決意を示したのです。
 沙金は沙門として大変見どころがありましたから、ほかの佛弟子たちにも、『佛法の貴賎をわかたぬ者は、たとえば猛火の大小好悪を焼きつくしてしまうのと変りはない』と、経文に書いて辯じていた程で、そこをたった一人の罪人のために、貴い砂金を失う事は、じつにもったいない事だと、早瀬の流れを前に、ずいぶん多くの事を語り合いました。しかしそこは罰利生の妹に生れているだけあって、筋金入りの強情に違いありません。とうとう砂金は、地獄の底からあなたを救い出しますと、ああやって身代わりに、ほかの罪人らと一緒に、血の池の血にむせびながら、ひたすら御経を唱えているのです」
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