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みつ子の訳【さくら花】
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「卍にさかまく火炎の熱は、紅蓮大紅蓮の地獄の呵責、剣山刀樹も爛れる業火に、髪はかるものように燃え消え、眼球はとろりと溶け落ち、あなたはよく、文目もわかず、血声を揚げていましたでしょう。
ぼんやりと闇から浮き上がるものがあるとすれば、それは恐ろしい針の山、まるで妖星の光りのように瞬いて、怪しくそびえ、その針山に一度でも放られれば、身の丈ほどの磨錻が、十一里にわたって五体をつらぬくのでしょう。足の裏はもちろんのこと、髄を刺し骨をえぐり、針の届かない所これ人体に一つもなく、あなたはやはり、血声を揚げていましたでしょう」
「ああ! やめさせて下さいまし! あの御方にはなんの罪もございません!」
よろめき蓮池のふちを飛び出し、ちから余って、からだを支えかね、どうと石幽に打ち当たる。
「いいえ。あの人はもはや罪人です。あなたの罪を背負ったあの日から、ほかの数多の罪人たちと変わりません。私は心を鬼にして、あの人の御経を聞いているのです」
「それが、その、まったく違うのでございます」
「はい?」
無慙にくちびるを咬み、おさえ難くも激する。
「かの御方は、なにも、存じていないのでございます。私を………私をどこの馬の骨とも存ぜずに、果てしない艱苦を、我が身のお代わりに。こんな莫迦な話が、六道のどこにありましょうか。まさか、仇の相手を、知らず知らずに………なんとむごい」
「どうかしましたか?」
怨む者、天にも地にも、曝しかねて、伏しも仰ぎも得ないうなじを竦すくめ、尚もやる方無しの目を閉じる。
「じつは………じつは………あの沙金という娘、それを呪い殺したのは、この私奴なのでございます」
人の心地さえ失わんと、身の置きどころなく竦み上がり、ほどなく、静かに見下ろすほほ笑みに見つかる。
「知っていたら、どうだというのですか? 知っていたら、沙金は、あなたを見捨てていましたか?」
「え?」
「いいえ、私が砂金を説得する中で、あなたの罪を、あなたが呪い殺した相手の名前を、はっきりと彼女へ伝えました。そうした後で、沙金は、百八日の懊悩を超えて、しかと顔をあげると、
春雨に
いたくなふりそ さくら花
いまだ見なくに
散らまく 惜しも
こう歌って、私に合掌したのです」
たちまちに瞳をこらせるに、如来の顔を熟視して、やがて眶のうちに浮び、輝くと見れば、うるおい、出ものあり。
「やめさせて下さいまし。やめさせて下さいまし。私が悪いのでございます。貴いかの御方にくらべましたら、私は蟻とも螻とも糞中のうじともいいようのない、小さき存在にございます。ただちに、私は地獄へ戻ります。ですから早く、かの御方をお戻し下さい」
あちこちに打ちひらける蓮、葩は凛として玉のさいたるごとく、濃香芬々と、ほとばしり、葉色に露気、いよいよ緑あざやかに戦ぐ。
「もう、どうにもなりませんよ。こうなっては、あなたの後悔があったとしても、なにも動きません。それこそ、かの閻魔大王ですら、所為なく鬚を撫でるのみ。ただ、あなたの身代わりに、砂金が罪を償うのです」
「やめさせて下さいまし」
すがり来るのをみむかえし、青紺色の目、ねむりてじと思い入り、
「それではあなたは、心より、罪を認め、すべてを後悔したのですか?」
「はい。後悔しております。それはもう、後悔どころの騒ぎではありません。私自身、己が怨めしいばかりにございます」
兢々ふるえてうつむき、ふかく悔悟のひらえ兼ねたるしずく、はたと落ちる。
その銀の耀き、斑爛と地に落ちれば、粼々あふれる泉水のごとく、踏みどころ是なく、地を這い山を這い、たちまち、鞺鞳とそそぐ早瀬の流れに成って、驚く浪の体を尽し、流れ乱れる文をまき、みまわす蓮池、幾個の怪き大石、丘のごとく、その勢いふせがんとすれど、さわれば払い、あたれば翻り、長波の邁くところ滔々と、破らざるなき奮迅のちから、極楽も為に震い、地獄も為に轟き、身毛もよだち、すがれる枝を放せば、すでにうずまく滝津瀬に生憎! 桜は散りかかるを、とっさの遅れを天にさけび、地になげき、流にもだえ、みずくず、浮木あくたに押され、波間隠れにおし流される。岌々としたその勢い、ほとんど瞬く目にもとまらず、漾える水の文、透とおる底の岩面も、水石の粼々とした弄び、なにも残らない快さに、怨みをも忘れ、ふと微笑む。
※ ※ ※ ※
壺すみれ、山道の運転に、ハンドルをにぎる。その後部座席で、私は古書を閉じて、北方の国々を見渡す。
怨む者の最期は、微笑に終わった。
「あの、おばさん?」
車の窓を少し開けて、ひんやりとした山気に当たる。霧のような小雨。
「ずっと聞いてみたかったのですけど」
声高に壺すみれ、ルームミラーに目が映る。
「なんですか?」
山道のカーブには、何号、何号と、曲がる度に木札が立つ。
「おばさんは、わたしの母の事を、怨んでいたのでしょうか」
隣の席には、チャイルドシートがあった。話によれば、壺すみれは二児の母なのだという。
「そんな簡単に。もう、半世紀も前のこと、一口には言えませんよ」
「怨んでいなかった?」
その声、少し弾んで見えた。
シートに背中をつけて、高い山の峰を目の底に置く。
「あなたが怨んでいなかったと、そう思うのなら、私は姉を怨んでいなかった。しかしあなたが怨んでいたというのなら、私は姉を怨んでいた」
「え?」
言っていて、なんだかこそばゆく、可笑しくなって、
「ときどき、私は思うのです。人を怨んでいる時と、人を愛している時、その二つがやっている事は、ほとんど似たようなものではないかと」
ぼんやりと闇から浮き上がるものがあるとすれば、それは恐ろしい針の山、まるで妖星の光りのように瞬いて、怪しくそびえ、その針山に一度でも放られれば、身の丈ほどの磨錻が、十一里にわたって五体をつらぬくのでしょう。足の裏はもちろんのこと、髄を刺し骨をえぐり、針の届かない所これ人体に一つもなく、あなたはやはり、血声を揚げていましたでしょう」
「ああ! やめさせて下さいまし! あの御方にはなんの罪もございません!」
よろめき蓮池のふちを飛び出し、ちから余って、からだを支えかね、どうと石幽に打ち当たる。
「いいえ。あの人はもはや罪人です。あなたの罪を背負ったあの日から、ほかの数多の罪人たちと変わりません。私は心を鬼にして、あの人の御経を聞いているのです」
「それが、その、まったく違うのでございます」
「はい?」
無慙にくちびるを咬み、おさえ難くも激する。
「かの御方は、なにも、存じていないのでございます。私を………私をどこの馬の骨とも存ぜずに、果てしない艱苦を、我が身のお代わりに。こんな莫迦な話が、六道のどこにありましょうか。まさか、仇の相手を、知らず知らずに………なんとむごい」
「どうかしましたか?」
怨む者、天にも地にも、曝しかねて、伏しも仰ぎも得ないうなじを竦すくめ、尚もやる方無しの目を閉じる。
「じつは………じつは………あの沙金という娘、それを呪い殺したのは、この私奴なのでございます」
人の心地さえ失わんと、身の置きどころなく竦み上がり、ほどなく、静かに見下ろすほほ笑みに見つかる。
「知っていたら、どうだというのですか? 知っていたら、沙金は、あなたを見捨てていましたか?」
「え?」
「いいえ、私が砂金を説得する中で、あなたの罪を、あなたが呪い殺した相手の名前を、はっきりと彼女へ伝えました。そうした後で、沙金は、百八日の懊悩を超えて、しかと顔をあげると、
春雨に
いたくなふりそ さくら花
いまだ見なくに
散らまく 惜しも
こう歌って、私に合掌したのです」
たちまちに瞳をこらせるに、如来の顔を熟視して、やがて眶のうちに浮び、輝くと見れば、うるおい、出ものあり。
「やめさせて下さいまし。やめさせて下さいまし。私が悪いのでございます。貴いかの御方にくらべましたら、私は蟻とも螻とも糞中のうじともいいようのない、小さき存在にございます。ただちに、私は地獄へ戻ります。ですから早く、かの御方をお戻し下さい」
あちこちに打ちひらける蓮、葩は凛として玉のさいたるごとく、濃香芬々と、ほとばしり、葉色に露気、いよいよ緑あざやかに戦ぐ。
「もう、どうにもなりませんよ。こうなっては、あなたの後悔があったとしても、なにも動きません。それこそ、かの閻魔大王ですら、所為なく鬚を撫でるのみ。ただ、あなたの身代わりに、砂金が罪を償うのです」
「やめさせて下さいまし」
すがり来るのをみむかえし、青紺色の目、ねむりてじと思い入り、
「それではあなたは、心より、罪を認め、すべてを後悔したのですか?」
「はい。後悔しております。それはもう、後悔どころの騒ぎではありません。私自身、己が怨めしいばかりにございます」
兢々ふるえてうつむき、ふかく悔悟のひらえ兼ねたるしずく、はたと落ちる。
その銀の耀き、斑爛と地に落ちれば、粼々あふれる泉水のごとく、踏みどころ是なく、地を這い山を這い、たちまち、鞺鞳とそそぐ早瀬の流れに成って、驚く浪の体を尽し、流れ乱れる文をまき、みまわす蓮池、幾個の怪き大石、丘のごとく、その勢いふせがんとすれど、さわれば払い、あたれば翻り、長波の邁くところ滔々と、破らざるなき奮迅のちから、極楽も為に震い、地獄も為に轟き、身毛もよだち、すがれる枝を放せば、すでにうずまく滝津瀬に生憎! 桜は散りかかるを、とっさの遅れを天にさけび、地になげき、流にもだえ、みずくず、浮木あくたに押され、波間隠れにおし流される。岌々としたその勢い、ほとんど瞬く目にもとまらず、漾える水の文、透とおる底の岩面も、水石の粼々とした弄び、なにも残らない快さに、怨みをも忘れ、ふと微笑む。
※ ※ ※ ※
壺すみれ、山道の運転に、ハンドルをにぎる。その後部座席で、私は古書を閉じて、北方の国々を見渡す。
怨む者の最期は、微笑に終わった。
「あの、おばさん?」
車の窓を少し開けて、ひんやりとした山気に当たる。霧のような小雨。
「ずっと聞いてみたかったのですけど」
声高に壺すみれ、ルームミラーに目が映る。
「なんですか?」
山道のカーブには、何号、何号と、曲がる度に木札が立つ。
「おばさんは、わたしの母の事を、怨んでいたのでしょうか」
隣の席には、チャイルドシートがあった。話によれば、壺すみれは二児の母なのだという。
「そんな簡単に。もう、半世紀も前のこと、一口には言えませんよ」
「怨んでいなかった?」
その声、少し弾んで見えた。
シートに背中をつけて、高い山の峰を目の底に置く。
「あなたが怨んでいなかったと、そう思うのなら、私は姉を怨んでいなかった。しかしあなたが怨んでいたというのなら、私は姉を怨んでいた」
「え?」
言っていて、なんだかこそばゆく、可笑しくなって、
「ときどき、私は思うのです。人を怨んでいる時と、人を愛している時、その二つがやっている事は、ほとんど似たようなものではないかと」
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