冷酷な旦那様が記憶喪失になったら溺愛モードに入りましたが、愛される覚えはありません!

香月文香

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4 様子のおかしい旦那様

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 寝室に呼び出された主治医はグレンに様々な検査を行い、鷹揚に説いた。

「どうやら頭を強く打った影響で、記憶の一部が抜け落ちたようですな。しかし、ご自分のことは覚えておられるし、読み書きなどの一般常識も残っているようです。ゆっくり休めば、失われた記憶もそのうちに戻るでしょう。頭部の怪我もさして重いものでもありません。骨も折れていませんし、打撲も軽い。そう不安にならずとも大丈夫ですよ」

「まあ、そうなのですね。大事に至らなくて本当によかった……」

 リゼルはほっと胸を撫で下ろす。ひとまず、グレンの無事が確認できたのは嬉しい。

 しかし。

「その、では、旦那様の様子が少し……変わったのは、記憶喪失の影響でしょうか……?」

 恐る恐る聞きながら、リゼルは自分の左手に目を落とす。

 先ほどから、逃がすまいとでもいうように、ガッチリとグレンに掴まれている左手に。

 幼い頃から彼を診ているという主治医が、興味深げに顎に手をやる。ふむ、と息を吐くと、白い口髭がふわふわそよいだ。

「そうでしょうな。検査したところ、坊ちゃんが忘れているのは奥様のことだけのようです。それで奥様に対する態度も変化したのでしょうな」

「坊ちゃんはやめてくれ。妻の前で格好がつかないだろう」

 ベッドに半身を起こしたグレンが不機嫌そうに口を挟む。主治医が小さな目を瞬かせ、にっこり笑った。

「おやおや、これは失礼いたしました。コーネスト騎士団長殿」

 軽やかなやり取りに、青ざめるのはリゼルだ。初めて触れるグレンの手は、リゼルの手をすっぽり覆ってしまうほど大きい。騎士として剣を振るっているからだろうか。手のひらの皮は分厚く、指先が硬い。知らない男の感触だった。

「すみません。記憶が戻ったら、旦那様の態度も元に戻るのでしょうか」

 部屋の隅に控えていたネイが片手を上げる。口調こそ淡々としているものの、その目はグレンを苦々しげに睨みつけていた。

「それはわかりませんな。元に戻る可能性はあります。しかし記憶喪失の間のことも覚えているものですから、あるいはそのままかもしれません」

「なるほど」

 ネイが物言いたげに目配せしてくる。しかしその意味を把握する前に、ぐいと手を引かれてリゼルは横を向いた。

 そちらでは、やけに真剣な顔をしたグレンがリゼルを注視していた。彼とここまで至近距離で顔を合わせるのは初夜以来ではないだろうか。

「それより、俺はまだ君の名前を聞いていない。どうか名を聞かせてくれないだろうか」

 騎士叙勲アコレードでもするような重々しい声音にリゼルはたじろぐ。

「な、名前ですか……?」

「ああ、最も重要なことだ」

(し、真剣すぎて怖い!)

 美形は真顔になるとそれだけで凄みが出るものらしい。炯々と底光る翡翠の瞳も、険しく引き結ばれた唇も、間違いなく美しいのにどこか威圧感があって、リゼルは震え上がった。そういえば、と思い出す。巷では、この男を指して氷壁の騎士団長とか呼んでいるらしい。そう呼んで畏れたくなるのはまざまざと理解できる。

 たぶんグレンにはリゼルが妻だということしか説明していないから、ものすごく怪しまれているのだろう。こんな凡庸な女が自分の妻?何かの間違いでは?と文句をつけたくなるのはわかる。

 強い眼差しに気圧されたまま、リゼルはごくりと唾を飲みこんだ。

「……リゼル・コーネストと申します」

「リゼル。良い名だな」

「そ、それほどでも……」

「可憐な君にぴったりだ」

「は、い……?」

 ぴたり、とリゼルの動きが止まる。

 可憐とはどういう意味の単語だっただろう。リゼルが知らないだけで、今からお前を殺すとかこの屋敷から出ていけとか、そういう意味があっただろうか。

 いや、ない。

 自分の耳が信じられず、助けを求めてネイと主治医の方を見る。主治医はニコニコとしているし、ネイはしきりに首を横に振っている。どうやら今のは幻聴ではなかったらしい。そして誰も救いの手は差し伸べてくれないようだ。

 もう一度グレンに顔を戻す。目が合うと、彼は今まで見たことないほど柔らかに微笑んだ。

「どうかしたか? 我が妻」

「ウッ」

 初めて目の当たりにした微笑があまりに麗しく、刺突を受けたかのような呻き声が漏れた。グレンが慌てたようにリゼルの顔を覗きこむ。

「大丈夫か。リゼルはずっと看病してくれていたんだろう。疲れが出たか?」

「そ、そうではなく……」

 疲れているのは旦那様では!?と叫びたいのを堪え、リゼルはよろよろと首をもたげた。おかしい。変だ。この人はこんな風に自分を心配したりしないはず。

 震える片手でぐしゃりと前髪を握りしめ、リゼルは呆然と呟いた。

「……あの、本当に記憶喪失が原因なのですよね? 何か精神に異常を来しているなどではありませんよね?」

 困惑しきったリゼルが問えば、横合いから主治医が補足を入れる。

「医者としては、記憶喪失以外に原因は見当たりませんな」

「そんな……」

「ついでに申せば、特に錯乱している様子も見られません。これはこれで、グレン様の一面でしょうなあ」

「一面……」

 リゼルは言葉をなくし、パタリと手を膝に下ろした。人間には色々な顔があることは知っている。リゼルだってそうだ。でも、まさか、そんなことがあるのか? 多面的すぎる。コインのように裏表くらいにしておいてほしい。

 グレンが腕を伸ばし、混乱の極致にいるリゼルの前髪をそっと整えた。反射的にびくりと身を引くと「驚かせてすまない」と礼儀正しく手が退いていく。

「許せ、リゼルの表情をよく見たかったんだ。ひどく綺麗な目をしているから」

 柔和に告げられた声に、リゼルは息を呑む。仰いだ先、彼はリゼルの両目の奥底を覗くように、真摯な眼差しをこちらに向けていた。

「君の目は、世界に開かれた窓のようだ。おそらく、俺とはまるで違う物を見ているのだろう。羨ましいことだ」

「なっ……」

 リゼルはどきりとして、とっさに目元を手で隠す。それは実家で染みついた癖だった。

(……私の目は、鳥の目。これはあまり良くないもの。マギナ家では歓迎されなかった)

 暗くなった視界の中、脳裏に家族の声が蘇る。父も母も妹も、リゼルの目つきを疎ましがった。気味が悪い、こちらを馬鹿にしている嫌な目だと、吐き捨てて憚らなかった。それで彼女はずっと前髪を長く伸ばし、目を半ば覆っていたのだ。

 それを、グレンは綺麗だという。

 人と違う物を見る目を、厭わない。

 指の隙間から窺えば、彼は不思議そうにこちらを見つめている。リゼルはぐっと唇を噛みしめた。

(旦那様の様子がおかしいのは、私のことを忘れているからだもの。結婚の経緯を説明すれば、きっと元に戻るわ)

 ほんの一瞬だけ、まるで妻として大切にされているかのように錯覚してしまったけれど。

 それはやっぱり誤解にすぎなくて。リゼルはきちんとグレンに説明しなければならない。真実を隠して、甘い夢に浸るなんて罪は許されない。

 それが誠意というものだ。

 目を隠していた手をそろそろと外す。依然としてグレンはリゼルを見ていて、背中にはネイと主治医の気遣わしげな目線を感じた。

 深く息を吸いこむ。馴染みのない寝室の香りに、傷薬の匂いが混ざっていた。

「あの、旦那様。私たちはさほど愛し合う夫婦というわけではなかったのです」

 それからリゼルは言葉を尽くし、結婚の大略を話して聞かせた。祖父の約束で始まったこと、結婚して一年、二人の間には会話すらほとんどないこと。

 話はすぐに終わった。窓の外で雲が流れ、寝室に差す陽が翳る。グレンの翡翠の瞳が、鈍い緑青色に変じて映った。

「――そうだったのか。俺は、君にそのようなことを」

「はい。ですから、別に無理して親切にしていただく必要は……」

「申し訳なかった」

「はい?」

 突然深々とグレンが頭を下げたので、リゼルは呆気に取られる。無防備に晒されたつむじを声もなく見つめていると、グレンが苦しげに言葉を接いだ。

「かつての俺の態度は、妻に取っていいものではなかった。許してくれとは言わないが、せめて謝らせてくれ」

「えっ……と……?」

 思いもよらぬ展開に固まり、リゼルは視線を寝室に這わせる。ネイや主治医と目が合いそうになると、気まずげにそらされた。そうだ、と思い当たる。ここにはリゼル以外の人もいるのだった。それなのに屋敷の主人が謝罪するなんてありえないし、させてはならない事態だ。

 リゼルは慌ててグレンの肩に手を添えた。

「あ、頭を上げてください。私にとっては大したことではございませんでしたから。むしろお屋敷から追い出さないでいただいて感謝しているくらいです」

 勢い込んで告げるリゼルに、ゆっくりと頭を持ち上げたグレンが眉根を寄せる。

「どういう意味だ? 政略結婚とはいえ、一年間も妻を放置するなど許されない所業だろう」

「そうですか……? ええと、とにかく、私は気にしておりませんので」

 夫婦の間で、互いを訝るような視線が交わされる。リゼルは本当に不思議だった。この結婚において、グレンだけはとばっちりを受けたと言っていい。彼がリゼルに心を砕く必要はこれっぽっちもないのだ。

 やがてグレンはそっと目を伏せ、繋いだ手に力を込めた。

「……わかった。だが今後、俺がリゼルを妻として扱うことは許してくれるか」

「ど、どうぞ……?」

 グレンの行動はリゼルが許可を出す事象ではない。こっくりと頷けば、グレンは嬉しげに目を細めた。

 ――この時深く考えずに首肯したことを、リゼルはすぐに後悔することになる。
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