呪われ公爵様は偏執的に花嫁を溺愛する

香月文香

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初夜・実践編

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「……シャ、イリーシャ!」

 遠く名を呼ばれている。ついで肩を揺さぶられて、イリーシャの意識は浮上した。目の前で、ユージンが気遣わしげに彼女を見下ろしていた。

 昔のことを思い出すうちに、どうやら眠ってしまっていたらしい。まだ夢の世界に半分片足を突っ込んだまま、イリーシャは柔らかく微笑んだ。

「……腕の傷は、手当てしましたか……?」
「腕?」

 ユージンが不思議そうに眉を寄せる。その仕草に、イリーシャの意識が急速に覚醒した。そうだ、今の自分は成長期をすっかり終え、この男はロビンを殺した。そして今から初夜だ。

 イリーシャはガバリと身を起こした。ベッドの脇に立つユージンを見上げる。彼も寝支度を整え終えたらしく、ゆったりとした寝衣姿だった。

 イリーシャの背中に冷たい汗が流れる。何の心構えもできていない。肋骨の内側で、心臓がバクバクと暴れ回っていた。

 ユージンは何も言わず、イリーシャを見つめている。イリーシャも彼を強く見据えた。胸元のリボンをぎゅっと握りしめる。

 火花が散るような息詰まる睨み合いの中、先に動いたのはユージンだった。床に跪き、イリーシャと目を合わせる。それで、視線の高さが合った。

 ユージンは切なげに、熱に浮かされたように問いかけた。

「今夜が何か、分かっているか……?」

 イリーシャの肩が揺れる。それを悟られたくなくて、両腕でひしと自分の体を抱きすくめた。乾いた唇を舌で湿し、震えそうな声をできる限り抑えて返答する。

「ええ、初夜でしょう。何をするおつもりですか」
「何もしない」
「は……?」

 思いもよらぬ返事に、素っ頓狂な声が出る。ユージンは腕を伸ばし、イリーシャの左手を恭しく取った。おとぎ話の騎士様が、姫君に何かを誓うように。
 真っ直ぐな瞳が、イリーシャを射抜く。それで、彼女は身動き一つできなくなった。

「きみが、俺を心から愛してくれるまでは、抱かない」
「え……?」
「俺はいつまでも待てる。イルが俺に抱かれてもいいと思ったら、教えてくれ」

 イリーシャの頭にカッと血が上った。乱暴に左手を振り払い、顔を背ける。吐き捨てるように言葉をぶつけた。

「そんな日は、永遠に来ません」
「それならそれで構わない」

 イリーシャは顔を歪め、ユージンを睨みつけた。彼は嬉しそうに、薄い笑みを唇に浮かべた。イリーシャは歯噛みする。視線が矢になって、この男を貫けばいいのに。そうすれば、彼はもっと苦しんで、私はその様を笑ってやれるのに。

 イリーシャの考えていることを読み取ったかのように、ユージンは言葉を継いだ。

「俺を嫌悪しても、憎んでも構わない。イルが他の人間を愛さなければそれでいい。誰かにつまらない恋なんてして救われようとするな。俺を愛さないなら、誰にも心を開かず、ずっと孤独でいてくれ」

 イリーシャは憤然と立ち上がった。素足で床に降り、激情のままにユージンの胸ぐらを掴みあげる。彼は抵抗せず、仔猫がじゃれつくのを眺めるように首を傾けた。

 イリーシャは呼吸を荒げ、食いしばった歯の隙間から、声を振り絞った。

「それが目的ですか? 愛しているだのなんだの言っておいて、結局、私を孤独にしたいだけだと? そのためにロビンを奪ったと?」
「違う、ちゃんと聞いてくれ」

 イリーシャの手を優しく握り、ユージンはこつんと額を合わせた。切れ長の瞳が、秘めやかに細められる。ユージンの唇が笑みを作り、空気がかすかに震えた。

「愛しているよ、イル。この上なく」
「それは、私の知っているものとは違います」

 ユージンの顔から、表情が抜け落ちた。

「ほう? イルはどんな愛を知っているんだ? 誰をどんなふうに愛したのか言え」

 ユージンの指に力がこもり、強く手を掴まれる。彼の指の関節が白く浮き上がった。痛みに顔をしかめながら、イリーシャはまっすぐ彼を見つめ返した。

「……少なくとも私は、あの夜以前のジーンのことは、好きでしたよ」

 ユージンが瞠目する。イリーシャは必死に言い募った。

「あなたはずっと優しかった。私もロビンも、あなたを兄のように慕っていた。そういうのが、私の知る愛です。どうしてそれではいけないんですか」
「兄か」

 ユージンが喉を鳴らして低く笑う。その仄暗さに、イリーシャは我知らず身を引いた。けれどそれを許さないというように彼は腕を伸べ、イリーシャの頬を手のひらで包む。氷の塊を押し付けられているような気がした。

「俺はそれでは我慢できない。イルのすべてを手に入れたい。そのためなら何だってする」
「……ロビンを殺したのもそのためだと?」
「そうだ」

 イリーシャの声を抑えた問いに、ユージンは落ち着き払って頷いた。彼女の滑らかな肌の感触を楽しみながら、

「ロビンを殺した。俺がクロッセル家の当主の座に就いた。だから俺はイルと結婚できた。謝罪はしない。俺はまたイルを奪われそうになれば、何度でも同じことを繰り返す。それが俺の愛だ」
「そんなのは愛じゃない!」
「ならば」

 ぐっと身を寄せ、イリーシャの顔を覗き込まれる。散大した瞳孔に、火花が散っているように見えた。

「この激情は何だ? 誰かを手に入れたいと思うことは罪か? あいにくと、俺はこのやり方しか知らない。一体誰が、愛なるものとそれ以外とを区別する?」

 イリーシャは目を閉じ、泣き出しそうになりながら首を横に振った。彼女にだって分からない。知らないものは区別できない。少なくとも、彼女が抱いたことのない何かであることは確かだった。

 もつれそうになる舌をなんとか動かし、言い返す。

「でも、それでも、私は、ただ相手の幸せを祈るような温かなものを愛と呼びたい……」
「そうか」

 ユージンは憐れむような眼差しをイリーシャに向ける。彼女の白い耳殻に唇を近づけ、低く声を吹き込んだ。

「それなら、俺のような男に愛される不幸を諦めてくれ」

 囁かれるたびにイリーシャの肩がぴくんと跳ねる。ユージンはなだめるように彼女の頭を撫で、優しく耳たぶに口づけた。イリーシャの小さな唇から、弱々しい吐息が漏れる。

「イルにとっては化け物だろうが、俺にはこれしかできないんだよ」

 そうして静かに身体を離し、赤くなったイリーシャの目元を指先でたどった。

「今日は疲れただろう? 眠るといい。俺ももう寝る」

 話の終わりを示す、穏やかな口調だった。

 けれど、イリーシャはそれでは満足できなかった。
 この男の何もかもが恐ろしかった。これほどの激情を抱えて、優しい兄の顔をしていたこと、彼自身も尋常でない自覚があるらしいこと、それにもかかわらず自分の思うがままに振る舞うこと。

 ——だが何よりも、許せない、と思ったのは。

 イリーシャへの愛の名の下に、たった一人の弟を殺し、平然としていることだ。

 イリーシャはベッドの上からユージンに顔を向けた。できるだけ無垢で、清らかな表情を作って。そうして少し小首を傾げ、イリーシャはとびきり優しく囁いた。

「だからあの夏の日、キスしなかったんですか?」

 ユージンの肩が揺れる。イリーシャはぐっと身を寄せて、彼の耳元に息を吹きかけた。

「あのときのあなたなら、私は拒まなかったのに」

 途端、激しく腕を引っ張られて、ぐるんと世界が反転した。気づけばイリーシャはベッドに押し倒されて、ユージンを仰いでいた。

 イリーシャの上に覆いかぶさったユージンは、無表情で見下ろしている。イリーシャの手首は彼の右手でひとまとめに拘束され、頭上に縫いつけられていた。両足の間にユージンの膝が割って入り、抵抗を抑えている。

 もっとも、イリーシャに抗うつもりはなかった。

 抗わなくてはならないのはユージンだ。やるならやれ、という思いでイリーシャは彼をひたと見据えた。あなたの言う愛とやらがどれほどのものか、ここで証明してみせろ。怜悧な面を向ける彼女は今や、裁きの庭の主だった。

 ユージンの手がイリーシャの顎を掴む。乱暴に上向かせられ、ぐっと顔を寄せられた。ユージンの形の良い眉が苦しげにひそめられる。赤い瞳が情欲で濡れていた。

 二人の顔が、あの夏の日と同じくらい近づく。けれど、あのときと違ってイリーシャは目を閉じなかったし、ユージンの手つきはずっと荒っぽかった。

 吐息が混ざり合う。イリーシャは目を逸らさない。熱情に浮かされたユージンの顔をじっと見つめても、恐ろしいほど凪いだ心持ちだった。

 しばらく、ユージンは耐えているようだった。奥歯を噛んで、苦悶の声を漏らす。目の前に差し出された獲物と、彼の愛とやらを秤にかけて、どちらに傾くか見定めている。

 イリーシャはその均衡を、かき乱してやりたくなった。唇をほとんど動かさず、ささめきかける。

「……しないんですか」
「………………………………しない」

 長い沈黙のあと、ユージンはぽつりと呟いた。

 ぎこちなくイリーシャから手を離す。こわばった動きで彼女の上から退いた。ベッドが軋んで、静かな部屋に大きな音が響く。

 ユージンの顔からは、先ほどの荒々しさが綺麗に拭い去られていた。石を投げ込まれた湖面が落ち着くように。そこにはすでに激情の欠片も見当たらなかった。

 敷布の上で、喉元をさらして寝そべるイリーシャを愛おしそうに見つめる。

「俺は別に、イルの身体だけが欲しいわけじゃない」

 寝室の角灯が消される。彼女の隣に、ユージンが身を横たえる気配がした。

「寒くないか?」

 掛布を引き上げ、声をかけてくる。イリーシャは黙って首を横に振った。
 それきり、一睡もできずに朝を待った。
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