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闇の中で
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イリーシャは暗闇の中、目を覚ました。
何も見えなかった。視界は闇に沈み、形あるものを捉えることはできない。
手足が動かない。息が苦しい。自分がとてもちっぽけな存在になったような気分だ。
四囲は寂としていて、人の気配はない。助けを求めようとしても、喉は干からびていて、意味のないしゃがれ声しか出なかった。
朦朧とする頭で、失神する直前までのことを思い出す。
ユージンがイリーシャを抱えた腕の、凶悪なまでの力強さ。
激しい怒気とは裏腹の、甘ったるい仕草、眼差し。
自分の命でさえイリーシャのいない人生の前には無意味と言い切る、その確信の深さ。
イリーシャを奪われるくらいならば、手足を切り落としても構わないという異様な執着心。
そうしてそんな惨たらしいことを言いながら、ひどく幸福そうに笑ったのだ。
その一切がイリーシャを恐怖に陥れた。意識を失い、目先の現実から逃げるほど。
(ジーン、あなたは……)
いつか、こうなる日が来るような気はしていた。彼の愛情が、イリーシャの自由を奪う日が。
彼女はもう逃げられない。どこにも行けない。生涯を、ユージンのもとに縛り付けられたまま過ごすのだ。
闇の中、イリーシャの浅い呼吸が乱れる。ぶわ、と額に脂汗が滲んだ。体全体ががくがくと打ち震える。
恐怖で気が狂いそうだった。
かつて彼は言った。天災は往々にして理不尽なもの、と。
(これも、嵐に遭って大怪我を負ったようなもの、というの……?)
イリーシャはもう、自分の不運を諦めて、何もかもを受け入れるしかないのだろうか? 彼の倒錯的な愛に囲われて、二人だけの世界で微睡むように生きれば良いと?
闇がじわじわと侵食してくる。触覚が失われていく。自分と暗闇の境目がなくなり、溶け合ってしまいそうだった。
(それも、いいかもしれない……)
闇に浸った神経が、ぼんやりと思考をかき混ぜる。
それはそれで幸せな結末だろう。何も考えず、何も見ず、ただ与えられる愛に溺れて。
短命の呪いが成就して、ユージンが死ぬ前には、きっとイリーシャも殺されてしまうだろうけれど。
それまで、ほんの瞬きの間でも、甘い夢を見るのは悪いことではない気がした。
(そのうちに、私もジーンを心から愛せるようになるかもしれないもの……)
ユージンはイリーシャから何もかもを奪うが、同時に何もかもを与えるのも彼なのだ。その献身には果てがなく、危機には必ず駆けつける。
イリーシャの胸の内に、さまざまな情景がよぎっては消えた。
結婚式でも初夜でも、ユージンは決して彼女に口づけを無理強いはしなかった。
ダンスの練習をしたとき、寂しげなジーンの声に抗えなかったのはなぜ?
王宮庭園で身を挺して守られて、泣き出しそうにならなかったか?
舞踏会で声をかけてきた男には悪寒が走ったのに、ユージンから受けたキスには蕩けてしまったではないか。
神殿で昏倒したとき、救いに現れるのはユージンなのだと、信じて疑わなかったくせに。
それらはイリーシャ自身の声となって、頭骨の内側に響き渡り、彼女を責め苛む。
確かにイリーシャは、ユージンに柔らかな気持ちを抱いたのだ。それをもはや、否定することは出来なかった。
(もう、諦めてもいい……?)
祈るような気持ちで呟く。イリーシャが敬虔な信徒であれば、きっと神に告解しただろう。
けれど彼女はそうではない。彼女が赦しを求めるべきなのは、この世にたった一人しかいなかった。
(ねえ……ロビン)
名前を呼んだ途端、呼吸が止まるほど鮮やかに、ロビンの顔が思い浮かぶ。
『死にたくない』
手紙の末尾、ぐちゃぐちゃに消された言葉が、静寂に侵された耳に蘇る。
イリーシャは、とうとうそれを直接聞くことができなかった。ロビンはイリーシャに何も告げず、逝ってしまった。あの夜まで一切合切を悟らせず、いつも通りに笑って過ごしていたのだ。
けれど今、はっきりと、ロビンの声が響く。
『助けて、イル』
彼はどんな気持ちでその文章を綴り、そしてかき消したのだろう。
その差し迫った表情も、恐れに染まる息も、ありありと想像できる。
守り合おうと約束したのに、イリーシャは何の役にも立たなかった。ロビンは手紙を遺して、死後もイリーシャを助けようとしてくれたのに。
胸の奥に熱いものがこみあげる。腹の底が沸立つ。闇に溶けていた輪郭が、くっきりと際立つ。
あまりにも悔しかった。あまりにも悲しかった。あまりにも。
——ユージンが、憎かった。
胸を切り裂くような憎悪がイリーシャの体を貫いた。今まで多くの出来事が起きすぎて、それは黒い川のように彼女の心の底を流れているだけだった。だが今や、はっきりと形をとって現れ、今まで感じていたものが可愛いものに思えた。
ああ、そうだ。そんな簡単に諦められるなら、彼女は最初から神殿になんか行っていない。
(ねえ、ジーン。どうして私が神殿へ向かったのか、分かったわ……)
ルファスは言った。救いを求めにきたのだろう、と。そのときに覚えた違和感。
(私、本当は、あなたを傷つけたかったの。いつも余裕ぶってるその面を引っ叩いてやりたかったの。できれば致命傷を与えたくて。少しでもロビンの苦しみを味わってもらいたくて。だってそうでなくては、釣り合いが取れないでしょう)
これはイリーシャの勝手な復讐心だ。ロビンの命には、イリーシャの失敗には、もう取り返しがつかない。あの夜には戻れない。何を捧げたって、彼女の大切な弟は帰ってこないのだ。
イリーシャにできることは、とても少なかった。手元にはたった一つの武器しかない。
それが、彼女がイリーシャ=ド=クロッセルであることだった。
イリーシャは呼吸を整えた。耳元で心音がドクドクと太く鳴った。
(私に唯一許されたのは、あなたから私自身を奪うことだけ。そんなことしかできないのよ)
その結果恐ろしい目に遭って、こんなところまで来てしまったが。
でも、彼女の必死の一撃が、彼に大きな打撃を与えたなら満足だ。
(ロビン……助けられなくて、ごめんなさい。不甲斐ない姉で、ごめんね……)
まったく頼りにならない、約束破りの姉だった。
(いつかそっちへ行ったとき、真っ先にロビンに会いにいくから)
だが、今は。
次にロビンに会ったとき、少しでも胸を張れるような自分でいたい。ただ諦めるなんて、自分で自分が許せない。
萎えた手足のことは思考の外に放り出して、イリーシャは肩でずりずりと這った。ベッドの上だろうか。地面は柔らかく彼女の体を受け止める。しばらく進むとふわふわした地面が途切れて、彼女は頭からべちゃっと落下した。今度は滑らかな感触が頬に当たる。絨毯の敷かれた床のようだ。
辺りは静まりかえっており、イリーシャの衣擦れの音と、せわしない呼吸だけがわずかに響く。それもすぐに闇に吸い込まれて消えていった。
体中が痛い。周囲を取り囲む闇には際限がなく、どこまで進んでも無意味なのではないかという気持ちにさせられる。一つ動くごとに、どんどん体が重くなる。
イリーシャはズキズキする頭を振った。馬鹿な空想だ。どこかの部屋にいるに違いない。果てがないわけがない。
力尽きそうな体を叱咤して、もう一度這う。頭が壁にぶつかった。ほら、これに沿っていけば、出口が見つかるはず。
壁に取り縋って、なんとか胴を起こしたとき。
外から軽やかな足音が響いて、ドアが開けられた。
「まあ、イリーシャさま! お目覚めになったのですね!」
「……え?」
蜂蜜色の髪をひるがえし、青い瞳をきらめかせ、姿を現したのはマリアンヌだった。
廊下から差し込む角灯の光が、部屋の中を照らし出す。
なんの変哲もない寝室だった。見覚えのない部屋ではあったが、恐ろしい拷問器具だとか、血塗れの拘束具だとかが散らばっているということはない。
寝心地の良さそうなベッドが置かれ、シルクの絨毯が広がっていた。窓には厚手のカーテンが引かれており、外の様子は窺えない。だが、わずかな隙間から垣間見ると、夜だということは分かった。
壁に、大きな姿見が立てかけられていた。
鏡の中の影を見て、イリーシャは悲鳴を飲み込む。
そこには、五体満足で床に転がる自分の姿が映っていた。
何も見えなかった。視界は闇に沈み、形あるものを捉えることはできない。
手足が動かない。息が苦しい。自分がとてもちっぽけな存在になったような気分だ。
四囲は寂としていて、人の気配はない。助けを求めようとしても、喉は干からびていて、意味のないしゃがれ声しか出なかった。
朦朧とする頭で、失神する直前までのことを思い出す。
ユージンがイリーシャを抱えた腕の、凶悪なまでの力強さ。
激しい怒気とは裏腹の、甘ったるい仕草、眼差し。
自分の命でさえイリーシャのいない人生の前には無意味と言い切る、その確信の深さ。
イリーシャを奪われるくらいならば、手足を切り落としても構わないという異様な執着心。
そうしてそんな惨たらしいことを言いながら、ひどく幸福そうに笑ったのだ。
その一切がイリーシャを恐怖に陥れた。意識を失い、目先の現実から逃げるほど。
(ジーン、あなたは……)
いつか、こうなる日が来るような気はしていた。彼の愛情が、イリーシャの自由を奪う日が。
彼女はもう逃げられない。どこにも行けない。生涯を、ユージンのもとに縛り付けられたまま過ごすのだ。
闇の中、イリーシャの浅い呼吸が乱れる。ぶわ、と額に脂汗が滲んだ。体全体ががくがくと打ち震える。
恐怖で気が狂いそうだった。
かつて彼は言った。天災は往々にして理不尽なもの、と。
(これも、嵐に遭って大怪我を負ったようなもの、というの……?)
イリーシャはもう、自分の不運を諦めて、何もかもを受け入れるしかないのだろうか? 彼の倒錯的な愛に囲われて、二人だけの世界で微睡むように生きれば良いと?
闇がじわじわと侵食してくる。触覚が失われていく。自分と暗闇の境目がなくなり、溶け合ってしまいそうだった。
(それも、いいかもしれない……)
闇に浸った神経が、ぼんやりと思考をかき混ぜる。
それはそれで幸せな結末だろう。何も考えず、何も見ず、ただ与えられる愛に溺れて。
短命の呪いが成就して、ユージンが死ぬ前には、きっとイリーシャも殺されてしまうだろうけれど。
それまで、ほんの瞬きの間でも、甘い夢を見るのは悪いことではない気がした。
(そのうちに、私もジーンを心から愛せるようになるかもしれないもの……)
ユージンはイリーシャから何もかもを奪うが、同時に何もかもを与えるのも彼なのだ。その献身には果てがなく、危機には必ず駆けつける。
イリーシャの胸の内に、さまざまな情景がよぎっては消えた。
結婚式でも初夜でも、ユージンは決して彼女に口づけを無理強いはしなかった。
ダンスの練習をしたとき、寂しげなジーンの声に抗えなかったのはなぜ?
王宮庭園で身を挺して守られて、泣き出しそうにならなかったか?
舞踏会で声をかけてきた男には悪寒が走ったのに、ユージンから受けたキスには蕩けてしまったではないか。
神殿で昏倒したとき、救いに現れるのはユージンなのだと、信じて疑わなかったくせに。
それらはイリーシャ自身の声となって、頭骨の内側に響き渡り、彼女を責め苛む。
確かにイリーシャは、ユージンに柔らかな気持ちを抱いたのだ。それをもはや、否定することは出来なかった。
(もう、諦めてもいい……?)
祈るような気持ちで呟く。イリーシャが敬虔な信徒であれば、きっと神に告解しただろう。
けれど彼女はそうではない。彼女が赦しを求めるべきなのは、この世にたった一人しかいなかった。
(ねえ……ロビン)
名前を呼んだ途端、呼吸が止まるほど鮮やかに、ロビンの顔が思い浮かぶ。
『死にたくない』
手紙の末尾、ぐちゃぐちゃに消された言葉が、静寂に侵された耳に蘇る。
イリーシャは、とうとうそれを直接聞くことができなかった。ロビンはイリーシャに何も告げず、逝ってしまった。あの夜まで一切合切を悟らせず、いつも通りに笑って過ごしていたのだ。
けれど今、はっきりと、ロビンの声が響く。
『助けて、イル』
彼はどんな気持ちでその文章を綴り、そしてかき消したのだろう。
その差し迫った表情も、恐れに染まる息も、ありありと想像できる。
守り合おうと約束したのに、イリーシャは何の役にも立たなかった。ロビンは手紙を遺して、死後もイリーシャを助けようとしてくれたのに。
胸の奥に熱いものがこみあげる。腹の底が沸立つ。闇に溶けていた輪郭が、くっきりと際立つ。
あまりにも悔しかった。あまりにも悲しかった。あまりにも。
——ユージンが、憎かった。
胸を切り裂くような憎悪がイリーシャの体を貫いた。今まで多くの出来事が起きすぎて、それは黒い川のように彼女の心の底を流れているだけだった。だが今や、はっきりと形をとって現れ、今まで感じていたものが可愛いものに思えた。
ああ、そうだ。そんな簡単に諦められるなら、彼女は最初から神殿になんか行っていない。
(ねえ、ジーン。どうして私が神殿へ向かったのか、分かったわ……)
ルファスは言った。救いを求めにきたのだろう、と。そのときに覚えた違和感。
(私、本当は、あなたを傷つけたかったの。いつも余裕ぶってるその面を引っ叩いてやりたかったの。できれば致命傷を与えたくて。少しでもロビンの苦しみを味わってもらいたくて。だってそうでなくては、釣り合いが取れないでしょう)
これはイリーシャの勝手な復讐心だ。ロビンの命には、イリーシャの失敗には、もう取り返しがつかない。あの夜には戻れない。何を捧げたって、彼女の大切な弟は帰ってこないのだ。
イリーシャにできることは、とても少なかった。手元にはたった一つの武器しかない。
それが、彼女がイリーシャ=ド=クロッセルであることだった。
イリーシャは呼吸を整えた。耳元で心音がドクドクと太く鳴った。
(私に唯一許されたのは、あなたから私自身を奪うことだけ。そんなことしかできないのよ)
その結果恐ろしい目に遭って、こんなところまで来てしまったが。
でも、彼女の必死の一撃が、彼に大きな打撃を与えたなら満足だ。
(ロビン……助けられなくて、ごめんなさい。不甲斐ない姉で、ごめんね……)
まったく頼りにならない、約束破りの姉だった。
(いつかそっちへ行ったとき、真っ先にロビンに会いにいくから)
だが、今は。
次にロビンに会ったとき、少しでも胸を張れるような自分でいたい。ただ諦めるなんて、自分で自分が許せない。
萎えた手足のことは思考の外に放り出して、イリーシャは肩でずりずりと這った。ベッドの上だろうか。地面は柔らかく彼女の体を受け止める。しばらく進むとふわふわした地面が途切れて、彼女は頭からべちゃっと落下した。今度は滑らかな感触が頬に当たる。絨毯の敷かれた床のようだ。
辺りは静まりかえっており、イリーシャの衣擦れの音と、せわしない呼吸だけがわずかに響く。それもすぐに闇に吸い込まれて消えていった。
体中が痛い。周囲を取り囲む闇には際限がなく、どこまで進んでも無意味なのではないかという気持ちにさせられる。一つ動くごとに、どんどん体が重くなる。
イリーシャはズキズキする頭を振った。馬鹿な空想だ。どこかの部屋にいるに違いない。果てがないわけがない。
力尽きそうな体を叱咤して、もう一度這う。頭が壁にぶつかった。ほら、これに沿っていけば、出口が見つかるはず。
壁に取り縋って、なんとか胴を起こしたとき。
外から軽やかな足音が響いて、ドアが開けられた。
「まあ、イリーシャさま! お目覚めになったのですね!」
「……え?」
蜂蜜色の髪をひるがえし、青い瞳をきらめかせ、姿を現したのはマリアンヌだった。
廊下から差し込む角灯の光が、部屋の中を照らし出す。
なんの変哲もない寝室だった。見覚えのない部屋ではあったが、恐ろしい拷問器具だとか、血塗れの拘束具だとかが散らばっているということはない。
寝心地の良さそうなベッドが置かれ、シルクの絨毯が広がっていた。窓には厚手のカーテンが引かれており、外の様子は窺えない。だが、わずかな隙間から垣間見ると、夜だということは分かった。
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