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一章
酒場での出会い 1
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暗闇は嫌いだ。何も見えず、何も出来ないから。
空腹はもっと嫌いだ。何度となく死んでいく仲間を見たから。
ただ、一人には慣れた。
母がいなくなってから今日まで、アレンは何があろうと懸命に生きてきたのだ。
すべてはアンナを殺したであろう獣人を、この手で屠るために。
「ん……」
アレンはうっすらと瞼を開け、ゆっくりと瞬く。
薄ぼんやりとした視界には、やや傷んだ木目が映った。
(ここは……どこ、だ)
何か硬い感触を背中に感じ、アレンは動ききっていない頭を懸命に働かせる。
自分が今どこにいるのか、靄のかかった意識では釈然としない。
「──あ、良かった。気が付いたんだな!」
「っ……!」
刹那、他の獣人の気配を感じ、アレンは反射的に飛び起きた。
「うお!? ……あっぶな、当たったらどうするんだよ」
すんでのところで避けた声の主は焦った口調で言った。
「誰、だ」
灰色の耳を持ち、瞳は茶褐色。
服は簡素な黒いシャツとズボンという出で立ちだが、背中から覗く尻尾は白く見えた。
「オレ? 凛晟」
にか、と歯を見せて獣人は笑う。
「りん、せい……?」
聞いたことのない名前にアレンは瞳を瞬かせる。
この国以外の訛りで話す様子から、他国からやってきた肉食系獣人なのだろうか。
アレンがじっと見つめているのに気付いたのか、獣人──凛晟の灰色の耳がわずかに動く。
「心配したんだぞ、いきなり入ってきて倒れたからさ。そりゃあもうてんやわんやで、おちおち酒なんか飲んでられなくて」
あー、と凛晟は伸びをする。
どうやら起きるまで着いていてくれたらしく、同時に申し訳なくなった。
「……ごめん、なさい」
アレンはきゅうと手の平を握り締め、謝罪した。
「いや、なんで謝るんだよ。何も悪いことしてないだろ」
言いながら凛晟は椅子から立つと、目線を合わせるように顔を覗き込んできた。
「お前、名前は?」
じっと見つめてくる茶褐色の瞳は好奇心で満ちており、心なしか背後の尻尾もゆらゆらと揺れている。
「……アレン」
それを何とはなしに見ながら、アレンは小さく名を呟いた。
「アレンか。アレン、……アレン」
凛晟にはしっかりと伝わったらしく、何度もアレンの名を口の中で繰り返す。
やがて凛晟は膝に置いていたアレンの手をぎゅうと握った。
「──よし、覚えた! 今日から俺らダチな!」
「へ」
輝かんばかりの笑みを向けられ、その言葉にアレンは理解が追いつかない。
(ダチ、ってあれだよな……友達、っていう)
スラムで過ごしていると、やや口汚い言葉も自然と耳に入ってくるのだ。
アレンは己の記憶の中にある仲間の姿を思い浮かべる。
草食系獣人と肉食系獣人は相容れないものだと思っていたが、皆快く受け入れてくれた。
離れてからそう時間は経っていないとはいえ、すぐに会えないと思うと寂しかった。
「なんだよ、嬉しくないのか?」
アレンが黙ってしまったのを否と取ったのか、凛晟が改めて顔を覗き込んでくる。
先程に比べて耳が下がり、喉からくぅんと小さな声が漏れていた。
「……いや、嬉しい。嬉しいけど……俺でもいいのかな、って」
薄汚れている肉食系獣人を、冗談とはいえ『友達』と言ってくれるのは嬉しい。
ただ、不思議と凛晟の言葉には嘘はないと思える反面、信じきれない自分がいた。
「もっちろん! じゃないと言わないし!」
(明るくて……俺とは違う人だ)
笑う度に覗く犬歯は鋭く、アレンの言葉に凛晟の尻尾がブンブンとちぎれんばかりに揺れる。
同じ肉食系獣人の中でも凛晟は気安い部類らしく、上機嫌にこちらを見つめてくる瞳は柔らかく細められたままだ。
「なあ、ここって──」
「お、気が付いたのか」
アレンの言葉に被せるように、不意に扉の方から別の声が聞こえてくる。
凛晟と共にそちらに視線を向けると、艶のある黒髪を緩く後ろで束ね、やや胸元をくつろげた獣人が立っていた。
紺色の薄布一枚に、腰にはやや明るい色をした幅広の布を巻き付けている。
凛晟とも自分とも違う国の服装を思わせるそれに、アレンは首を傾げた。
「良かった、もう大丈夫みたいだな」
アレンの姿を見つめ、獣人は淡く微笑むとゆっくりと部屋に入ってきた。
「あ……」
扉でわずかに隠れていた耳は黒く小さかった。
背後で揺れる尻尾も黒く、髪と同じく艶があるのが見て取れる。
(なんだろう、この人は)
逆らってはいけない気がする、とアレンは反射的に感じ取った。
それは勘というやつなのか、しかし獣人に対して不快感や恐怖はない。
むしろ好奇心にも似た何かが胸の内を満たし、それはじわじわとアレンを侵食していく。
「さて、いきなり倒れちまった訳だが……ここがどこだか分かるか?」
獣人の言葉にアレンは小さく首を振る。
店を見つけて中に入った事で安心してしまったのか、気が抜けたところまでは覚えている。
しかしここは清潔な空気で満ちており、酒の臭いや鼻を覆いたくなる臭いはなく、そもそもこの部屋に居る者以外の声一つ聞こえてこない。
「……そうか。こいつから何か聞いたか」
獣人は凛晟を軽く顎で指し示し、訊ねてくる。
それにアレンはもう一度首を振った。
ここはどこなのか訊ねようとした時に獣人が入ってきて、聞こうにも聞けず終いなのだ。
「え……っ、と」
アレンはことの顛末を獣人に言おうとしたが、もごもごと口を動かすばかりで声になる気配はない。
どうしてかこの獣人を目にした途端身体が萎縮してしまい、耳が垂れて尻尾が逆立ってしまうのだ。
「あーあ、そんな顔させちゃって。アレンが怖がってるだろ、馬鹿レオ」
不意に非難する声が聞こえ、無意識に下げていた視線を上げる。
凛晟がやや怒気を孕んだ声で獣人──レオを叱っていた。
「そんなつもりはないんだけどなぁ。けど、怖がらせたならすまなかった」
レオはアレンの前にやってきて、小さく頭を下げた。
その姿勢はあまりにもしっかりとしており、いっそ清々しささえ感じさせる。
「い、や……確かにびっくりした、けど。……俺こそ助けてくれてありがとう」
つっかえながらだが、アレンも頭を下げて礼を述べた。
本格的な大雨になる前に街に入ったのは幸いだった。
加えてすぐに店を見つけられたのは奇跡にも近く、凛晟を初め店の者が介抱してくれなければ、あのまま寒さで凍え死ぬ未来が見えていた。
アンナを見つけるより先に自分があの世で待っていることになり、それでは黙って発ってしまったスラムの仲間達にも申し訳が立たない。
顔を上げるとレオだけでなく凛晟も目を丸くしており、アレンは首を傾げる。
「……何?」
無意識にぽつりと漏らすと、ややあってレオが顎に手をあてて言った。
「いや、案外肝が据わってるなと思ってな」
「へ」
何を言われたのか分からず、アレンはますます首を傾げる。
疑問ばかりで戸惑うアレンの隣りに凛晟が座り、そっと肩を組んできた。
「そうそう、普通なら真っ先に取り乱すか逃げるかするんだ。ここはほら、ちょーっと強い奴らが多いからさ」
「強い、奴ら……?」
「え、看板があったはずなんだけど。字とか読めない?」
凛晟の言葉にアレンはこくりと頷く。
何かが書いてあるのは理解出来たが、少しも読めないため意味すら分からなかった。
「あー、じゃあ仕方ないかぁ」
小さく息を吐くと、凛晟は何かをレオに合図するように頷いた。
「──よし、顔も見たことだし俺は先に行ってる。また後でな」
言うが早いか、レオは文字通りさっさと部屋を出ていった。
細く艶のある尻尾が楽しげに揺れたのを最後に、扉が閉まると不思議とレオの気配が無くなる。
(なんだ……?)
つい今しがた居た獣人の匂いすら部屋には残っておらず、空恐ろしさを感じた。
そんなアレンを安心させるように、凛晟がぽんぽんと背中を叩いてきた。
その仕草に少し不安が和らいできて、つい強請るように身体を凛晟に預けてしまう。
「へぇ、アレンはこうされるの好きなんだ?」
「っ、ごめ……!」
どこか笑い混じりの凛晟の声が聞こえ、慌てて離れようとする。
しかしそれよりも早くアレンの肩に手が回され、ぎゅうと密着させられた。
「よし、丁度いいしこのまま話すか!」
凛晟がベッドに座ると、肩と頭が触れ合う。
互いに耳が大きいためか、時折触れ合って少し擽ったかった。
「──アレンが入った店はね、酒場なんだけど時々賭け事もするんだ」
すると一転して、ゆったりとした柔らかな声が部屋に響く。
今までのやや粗野な口調とは違い、幼い子に言い聞かせるような優しいものだった。
「賭け事って分かる?」
唐突な声音や口調の変化に驚きつつも、アレンはゆっくりと口を開いた。
「まぁ……少しは。俺は大人や他の子達がやってるのを見てるだけだったし、やり方はあんまり分かってないけど」
「けど?」
凛晟の促す声につられ、アレンはすぐ横に視線を向ける。
茶褐色の瞳はアレンのことを知りたいからなのか、好奇心できらきらと輝いている。
背後の尻尾もベッドをぽふぽふと叩き、感情を隠しきれていない。
アレンはそれに小さく笑みを浮かべ、ぽつりと呟いた。
「……けど、楽しそうだった。みんながみんな、笑ってて……勝った方はもちろんなんだけど、負けた方も笑ってるんだ」
目を閉じれば、脳裏にはスラムの仲間達の顔が浮かぶ。
スラムは草食系獣人がほとんどを占めていたが、時々『遊び』と称して仲間内で賭け事をしていた。
といっても敗者には罰などなく、ただ単に暇潰しをしていたと言ってもいい。
食うに事欠く生活をしていると娯楽を欲してしまうのか、程なくして子ども達の間でも似た遊びが流行った。
「みんなで石を集めるところから始めたんだけど、あんまり大きい石とかなくてさ。あったとしても少なくて、足りなかったから大人達に借りたんだ」
これは街の貴族を中心に遊ばれている、と教えてもらった。
聞けばアレン達子どもが眠っている間に、美しいなりをした獣人が置いていったものだという。
スラム街のずっと奥、リーダーとなる草食系獣人の元にその獣人は時々来て顔を見せているらしい。
「俺は会った事ないけど、綺麗な顔をした獣人が……チェス、っていうんだったかな。みんなで遊びなさい、って置いていったって聞いた」
「へぇ、いい奴だったんだな」
凛晟が相槌を打つ声に導かれ、アレンは無意識に下げていた顔を上げる。
緩く上がった口角は、こちらを見つめている瞳は優しく、背中に添えられた手は温かい。
「ん?」
どうした、と凛晟が首を傾げる。
「あ、いや……」
アレンはふいとそっぽを向き、もごもごと唇を動かした。
よく考えれば距離が近く、加えてあまりにも凛晟が自然だったため忘れていたが、大事なことをまだ聞いていない。
「えっと、ここって酒場なんだよな。じゃあ都も近い、のか……?」
「都って言い方、珍しいな。……まぁ栄えてはいるよ、別の意味で」
「別の意味……?」
凛晟はどこか遠くを見る仕草をしたかと思えば、アレンの問に答えることなくにこりと笑った。
「それよりさ、アレンはなんでこっちに来ようと思ったんだ? もう少し前にも街はあったと思うけど」
「あ」
確かに都市部に入る前、小さな街があった。
その時に十ほどの子どもから『黒くて背の高い肉食系獣人は都にいる』という情報を摑んだのだ。
その獣人が誰なのか、都に着いてから探す予定だったが凛晟は知っているのだろうか。
アレンは一度唇を噛み、まっすぐに凛晟を見つめた。
「ある獣人を探してるんだけど都に居るみたいで──」
子どもから聞いた情報を掻い摘んで言うと、凛晟は少し考える素振りを見せたあとゆっくりと口を開いた。
「多分だけど、レオに聞いた方が早いと思う。あいつは情報通だからさ」
「レオが?」
先程姿を現して、すぐに退室していった獣人は子どもの言っていた情報がほとんど合っている。
まさか、という思いと共に名を呟くと、それまでアレンの背中に添えられていた凛晟の手が離れた。
「そう、いけ好かない奴。でも悪い奴じゃないから、すぐに仲良くなると思う」
言いながら凛晟はベッドから立ち上がり、淡く微笑む。
その声音でレオを信頼しているのが分かり、アレンは眩しいものを見るように片目を閉じた。
「んじゃ、もう立てそうなら下に行こうぜ。皆、アレンのこと心配してるからさ」
そっと手を差し出され、アレンはぎこちないながらも己のそれを重ねる。
部屋を出る前に窓へ視線を向けると、未だ雨が降っているのが映った。
雨足は弱まっているようだが、それでも先程はなかった雷がどこかで轟いている。
「っ!」
雷鳴がここまで聞こえてくる気がして、無意識に耳や尻尾が垂れてしまう。
そんなアレンに気付いた凛晟が、小さな声で囁いた。
「オレがいるから大丈夫だよ」
柔らかな声がすぐ隣りから聞こえてきて、アレンはわずかに目を瞠る。
「こっち」
アレンの様子に気付いているのかいないのか、凛晟はぐいと手を引いてくる。
十数段の階段を降りた先は店の中で、大量の椅子やテーブルが散乱しているのが見えて二重に驚く。
(ここ、最初に入った酒場、だよな……?)
あまりの変わりように二の句が継げないでいると、不意に背後から影が差し込んだ。
「もう歩いても大丈夫なのか」
「あ、レオ」
誰かの低い声とわずかに高い凛晟の声が同時に聞こえ、アレンは流れるままに背後を振り返った。
片頬をやや上げたレオがこちらを見下ろし、ゆったりとした声で続ける。
「どうだ、気分は」
空腹はもっと嫌いだ。何度となく死んでいく仲間を見たから。
ただ、一人には慣れた。
母がいなくなってから今日まで、アレンは何があろうと懸命に生きてきたのだ。
すべてはアンナを殺したであろう獣人を、この手で屠るために。
「ん……」
アレンはうっすらと瞼を開け、ゆっくりと瞬く。
薄ぼんやりとした視界には、やや傷んだ木目が映った。
(ここは……どこ、だ)
何か硬い感触を背中に感じ、アレンは動ききっていない頭を懸命に働かせる。
自分が今どこにいるのか、靄のかかった意識では釈然としない。
「──あ、良かった。気が付いたんだな!」
「っ……!」
刹那、他の獣人の気配を感じ、アレンは反射的に飛び起きた。
「うお!? ……あっぶな、当たったらどうするんだよ」
すんでのところで避けた声の主は焦った口調で言った。
「誰、だ」
灰色の耳を持ち、瞳は茶褐色。
服は簡素な黒いシャツとズボンという出で立ちだが、背中から覗く尻尾は白く見えた。
「オレ? 凛晟」
にか、と歯を見せて獣人は笑う。
「りん、せい……?」
聞いたことのない名前にアレンは瞳を瞬かせる。
この国以外の訛りで話す様子から、他国からやってきた肉食系獣人なのだろうか。
アレンがじっと見つめているのに気付いたのか、獣人──凛晟の灰色の耳がわずかに動く。
「心配したんだぞ、いきなり入ってきて倒れたからさ。そりゃあもうてんやわんやで、おちおち酒なんか飲んでられなくて」
あー、と凛晟は伸びをする。
どうやら起きるまで着いていてくれたらしく、同時に申し訳なくなった。
「……ごめん、なさい」
アレンはきゅうと手の平を握り締め、謝罪した。
「いや、なんで謝るんだよ。何も悪いことしてないだろ」
言いながら凛晟は椅子から立つと、目線を合わせるように顔を覗き込んできた。
「お前、名前は?」
じっと見つめてくる茶褐色の瞳は好奇心で満ちており、心なしか背後の尻尾もゆらゆらと揺れている。
「……アレン」
それを何とはなしに見ながら、アレンは小さく名を呟いた。
「アレンか。アレン、……アレン」
凛晟にはしっかりと伝わったらしく、何度もアレンの名を口の中で繰り返す。
やがて凛晟は膝に置いていたアレンの手をぎゅうと握った。
「──よし、覚えた! 今日から俺らダチな!」
「へ」
輝かんばかりの笑みを向けられ、その言葉にアレンは理解が追いつかない。
(ダチ、ってあれだよな……友達、っていう)
スラムで過ごしていると、やや口汚い言葉も自然と耳に入ってくるのだ。
アレンは己の記憶の中にある仲間の姿を思い浮かべる。
草食系獣人と肉食系獣人は相容れないものだと思っていたが、皆快く受け入れてくれた。
離れてからそう時間は経っていないとはいえ、すぐに会えないと思うと寂しかった。
「なんだよ、嬉しくないのか?」
アレンが黙ってしまったのを否と取ったのか、凛晟が改めて顔を覗き込んでくる。
先程に比べて耳が下がり、喉からくぅんと小さな声が漏れていた。
「……いや、嬉しい。嬉しいけど……俺でもいいのかな、って」
薄汚れている肉食系獣人を、冗談とはいえ『友達』と言ってくれるのは嬉しい。
ただ、不思議と凛晟の言葉には嘘はないと思える反面、信じきれない自分がいた。
「もっちろん! じゃないと言わないし!」
(明るくて……俺とは違う人だ)
笑う度に覗く犬歯は鋭く、アレンの言葉に凛晟の尻尾がブンブンとちぎれんばかりに揺れる。
同じ肉食系獣人の中でも凛晟は気安い部類らしく、上機嫌にこちらを見つめてくる瞳は柔らかく細められたままだ。
「なあ、ここって──」
「お、気が付いたのか」
アレンの言葉に被せるように、不意に扉の方から別の声が聞こえてくる。
凛晟と共にそちらに視線を向けると、艶のある黒髪を緩く後ろで束ね、やや胸元をくつろげた獣人が立っていた。
紺色の薄布一枚に、腰にはやや明るい色をした幅広の布を巻き付けている。
凛晟とも自分とも違う国の服装を思わせるそれに、アレンは首を傾げた。
「良かった、もう大丈夫みたいだな」
アレンの姿を見つめ、獣人は淡く微笑むとゆっくりと部屋に入ってきた。
「あ……」
扉でわずかに隠れていた耳は黒く小さかった。
背後で揺れる尻尾も黒く、髪と同じく艶があるのが見て取れる。
(なんだろう、この人は)
逆らってはいけない気がする、とアレンは反射的に感じ取った。
それは勘というやつなのか、しかし獣人に対して不快感や恐怖はない。
むしろ好奇心にも似た何かが胸の内を満たし、それはじわじわとアレンを侵食していく。
「さて、いきなり倒れちまった訳だが……ここがどこだか分かるか?」
獣人の言葉にアレンは小さく首を振る。
店を見つけて中に入った事で安心してしまったのか、気が抜けたところまでは覚えている。
しかしここは清潔な空気で満ちており、酒の臭いや鼻を覆いたくなる臭いはなく、そもそもこの部屋に居る者以外の声一つ聞こえてこない。
「……そうか。こいつから何か聞いたか」
獣人は凛晟を軽く顎で指し示し、訊ねてくる。
それにアレンはもう一度首を振った。
ここはどこなのか訊ねようとした時に獣人が入ってきて、聞こうにも聞けず終いなのだ。
「え……っ、と」
アレンはことの顛末を獣人に言おうとしたが、もごもごと口を動かすばかりで声になる気配はない。
どうしてかこの獣人を目にした途端身体が萎縮してしまい、耳が垂れて尻尾が逆立ってしまうのだ。
「あーあ、そんな顔させちゃって。アレンが怖がってるだろ、馬鹿レオ」
不意に非難する声が聞こえ、無意識に下げていた視線を上げる。
凛晟がやや怒気を孕んだ声で獣人──レオを叱っていた。
「そんなつもりはないんだけどなぁ。けど、怖がらせたならすまなかった」
レオはアレンの前にやってきて、小さく頭を下げた。
その姿勢はあまりにもしっかりとしており、いっそ清々しささえ感じさせる。
「い、や……確かにびっくりした、けど。……俺こそ助けてくれてありがとう」
つっかえながらだが、アレンも頭を下げて礼を述べた。
本格的な大雨になる前に街に入ったのは幸いだった。
加えてすぐに店を見つけられたのは奇跡にも近く、凛晟を初め店の者が介抱してくれなければ、あのまま寒さで凍え死ぬ未来が見えていた。
アンナを見つけるより先に自分があの世で待っていることになり、それでは黙って発ってしまったスラムの仲間達にも申し訳が立たない。
顔を上げるとレオだけでなく凛晟も目を丸くしており、アレンは首を傾げる。
「……何?」
無意識にぽつりと漏らすと、ややあってレオが顎に手をあてて言った。
「いや、案外肝が据わってるなと思ってな」
「へ」
何を言われたのか分からず、アレンはますます首を傾げる。
疑問ばかりで戸惑うアレンの隣りに凛晟が座り、そっと肩を組んできた。
「そうそう、普通なら真っ先に取り乱すか逃げるかするんだ。ここはほら、ちょーっと強い奴らが多いからさ」
「強い、奴ら……?」
「え、看板があったはずなんだけど。字とか読めない?」
凛晟の言葉にアレンはこくりと頷く。
何かが書いてあるのは理解出来たが、少しも読めないため意味すら分からなかった。
「あー、じゃあ仕方ないかぁ」
小さく息を吐くと、凛晟は何かをレオに合図するように頷いた。
「──よし、顔も見たことだし俺は先に行ってる。また後でな」
言うが早いか、レオは文字通りさっさと部屋を出ていった。
細く艶のある尻尾が楽しげに揺れたのを最後に、扉が閉まると不思議とレオの気配が無くなる。
(なんだ……?)
つい今しがた居た獣人の匂いすら部屋には残っておらず、空恐ろしさを感じた。
そんなアレンを安心させるように、凛晟がぽんぽんと背中を叩いてきた。
その仕草に少し不安が和らいできて、つい強請るように身体を凛晟に預けてしまう。
「へぇ、アレンはこうされるの好きなんだ?」
「っ、ごめ……!」
どこか笑い混じりの凛晟の声が聞こえ、慌てて離れようとする。
しかしそれよりも早くアレンの肩に手が回され、ぎゅうと密着させられた。
「よし、丁度いいしこのまま話すか!」
凛晟がベッドに座ると、肩と頭が触れ合う。
互いに耳が大きいためか、時折触れ合って少し擽ったかった。
「──アレンが入った店はね、酒場なんだけど時々賭け事もするんだ」
すると一転して、ゆったりとした柔らかな声が部屋に響く。
今までのやや粗野な口調とは違い、幼い子に言い聞かせるような優しいものだった。
「賭け事って分かる?」
唐突な声音や口調の変化に驚きつつも、アレンはゆっくりと口を開いた。
「まぁ……少しは。俺は大人や他の子達がやってるのを見てるだけだったし、やり方はあんまり分かってないけど」
「けど?」
凛晟の促す声につられ、アレンはすぐ横に視線を向ける。
茶褐色の瞳はアレンのことを知りたいからなのか、好奇心できらきらと輝いている。
背後の尻尾もベッドをぽふぽふと叩き、感情を隠しきれていない。
アレンはそれに小さく笑みを浮かべ、ぽつりと呟いた。
「……けど、楽しそうだった。みんながみんな、笑ってて……勝った方はもちろんなんだけど、負けた方も笑ってるんだ」
目を閉じれば、脳裏にはスラムの仲間達の顔が浮かぶ。
スラムは草食系獣人がほとんどを占めていたが、時々『遊び』と称して仲間内で賭け事をしていた。
といっても敗者には罰などなく、ただ単に暇潰しをしていたと言ってもいい。
食うに事欠く生活をしていると娯楽を欲してしまうのか、程なくして子ども達の間でも似た遊びが流行った。
「みんなで石を集めるところから始めたんだけど、あんまり大きい石とかなくてさ。あったとしても少なくて、足りなかったから大人達に借りたんだ」
これは街の貴族を中心に遊ばれている、と教えてもらった。
聞けばアレン達子どもが眠っている間に、美しいなりをした獣人が置いていったものだという。
スラム街のずっと奥、リーダーとなる草食系獣人の元にその獣人は時々来て顔を見せているらしい。
「俺は会った事ないけど、綺麗な顔をした獣人が……チェス、っていうんだったかな。みんなで遊びなさい、って置いていったって聞いた」
「へぇ、いい奴だったんだな」
凛晟が相槌を打つ声に導かれ、アレンは無意識に下げていた顔を上げる。
緩く上がった口角は、こちらを見つめている瞳は優しく、背中に添えられた手は温かい。
「ん?」
どうした、と凛晟が首を傾げる。
「あ、いや……」
アレンはふいとそっぽを向き、もごもごと唇を動かした。
よく考えれば距離が近く、加えてあまりにも凛晟が自然だったため忘れていたが、大事なことをまだ聞いていない。
「えっと、ここって酒場なんだよな。じゃあ都も近い、のか……?」
「都って言い方、珍しいな。……まぁ栄えてはいるよ、別の意味で」
「別の意味……?」
凛晟はどこか遠くを見る仕草をしたかと思えば、アレンの問に答えることなくにこりと笑った。
「それよりさ、アレンはなんでこっちに来ようと思ったんだ? もう少し前にも街はあったと思うけど」
「あ」
確かに都市部に入る前、小さな街があった。
その時に十ほどの子どもから『黒くて背の高い肉食系獣人は都にいる』という情報を摑んだのだ。
その獣人が誰なのか、都に着いてから探す予定だったが凛晟は知っているのだろうか。
アレンは一度唇を噛み、まっすぐに凛晟を見つめた。
「ある獣人を探してるんだけど都に居るみたいで──」
子どもから聞いた情報を掻い摘んで言うと、凛晟は少し考える素振りを見せたあとゆっくりと口を開いた。
「多分だけど、レオに聞いた方が早いと思う。あいつは情報通だからさ」
「レオが?」
先程姿を現して、すぐに退室していった獣人は子どもの言っていた情報がほとんど合っている。
まさか、という思いと共に名を呟くと、それまでアレンの背中に添えられていた凛晟の手が離れた。
「そう、いけ好かない奴。でも悪い奴じゃないから、すぐに仲良くなると思う」
言いながら凛晟はベッドから立ち上がり、淡く微笑む。
その声音でレオを信頼しているのが分かり、アレンは眩しいものを見るように片目を閉じた。
「んじゃ、もう立てそうなら下に行こうぜ。皆、アレンのこと心配してるからさ」
そっと手を差し出され、アレンはぎこちないながらも己のそれを重ねる。
部屋を出る前に窓へ視線を向けると、未だ雨が降っているのが映った。
雨足は弱まっているようだが、それでも先程はなかった雷がどこかで轟いている。
「っ!」
雷鳴がここまで聞こえてくる気がして、無意識に耳や尻尾が垂れてしまう。
そんなアレンに気付いた凛晟が、小さな声で囁いた。
「オレがいるから大丈夫だよ」
柔らかな声がすぐ隣りから聞こえてきて、アレンはわずかに目を瞠る。
「こっち」
アレンの様子に気付いているのかいないのか、凛晟はぐいと手を引いてくる。
十数段の階段を降りた先は店の中で、大量の椅子やテーブルが散乱しているのが見えて二重に驚く。
(ここ、最初に入った酒場、だよな……?)
あまりの変わりように二の句が継げないでいると、不意に背後から影が差し込んだ。
「もう歩いても大丈夫なのか」
「あ、レオ」
誰かの低い声とわずかに高い凛晟の声が同時に聞こえ、アレンは流れるままに背後を振り返った。
片頬をやや上げたレオがこちらを見下ろし、ゆったりとした声で続ける。
「どうだ、気分は」
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臆病な魔術師と番を手に入れたい騎士の、すれ違いラブコメディ
※第1章完結しました
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長編です。お付き合いくださると嬉しいです。
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