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〇1章【すれちがいと夜】
3節~灯る想い~ 5
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席に戻ったキリカは、椅子の背に身を預けると、ためらう間もなくパソコンの電源を入れた。
ディスプレイが暗い画面から白く光を灯すまでのわずかな時間さえ、苛立ちに似た焦燥を煽る。
あの三人の顔も、言葉も、態度も、思い返せば返すほど胸の奥で鈍く響く。
すべてが無駄だった。
自分にとって何の意味も持たなかった。
むしろ失われた時間の重さが、砂袋のように心を押しつぶしている。
取り戻さなければ――。
その思いが、胸の奥で小さく燃える。
指先がマウスを握り、無意識にクリックする。
企画書のファイルを開き、必要な資料を並べ、表計算ソフトとワードを立ち上げた。
複数のウィンドウが重なり合い、彼女の視界に次々とタスクを押し付けてくる。
そこから、作業を始めるはずだった。
だが、実際には始まらなかった。
思うように手が動かない。
指先の感覚が鈍い。
何をすべきかは頭で分かっているのに、その指令が手首の先まで届かないような奇妙な空虚さがあった。
――あれ?
構成表の数字やグラフの色分けを何度見比べても、麻衣が差し入れてくれた修正版とどこが異なるのか判然としない。
どこから手をつければいいのか分からず、視界の中で文字だけが滲む。
一文字を打つたびにタイピングがもたつき、カーソルが待ちぼうけを食らう。
焦りが指先を縛る。
一歩進もうとするたび、靴紐が絡むように作業が止まった。
違う、ここじゃない――。
数字を修正しようとすると、別の表が気になる。
グラフを整えようとすると、先に文章の流れを直すべきな気がしてくる。
スクロールが上下に揺れ、同じファイルを開いては閉じる。
まるで迷路を彷徨うカーソルが、行き場を失って画面を漂っているようだった。
気づけばミスが増えていた。
変換ミス、誤字、入力漏れ。
そのたびに指を止めて修正し、また同じ箇所を打ち直し、同じ作業を繰り返す。
前進している感覚がまるでない。
なんで……こんなにできないの――。
その言葉が、唇の端から漏れる。
誰に聞かせるでもなく、吐き出すような小さな声だった。
眉をひそめ、口元を噛みしめ、彼女は画面を睨み続ける。
時間は残酷に過ぎていく。
気づけば時計は夕方を指していた。
オフィスの喧騒はすでに静まり、照明の色が徐々に黄みを帯び始める。
しかし、キリカの中で鳴り続けるのは焦燥と混乱の音だけだった。
それは耳鳴りのように、頭の奥で絶え間なく響く。
「あと少し」
その呟きが、呪文のように口の中で繰り返された。
だが、現実は無慈悲に彼女を追い詰める。
頭がぼんやりしてきた。
指先が、まるで他人のもののように動かない。
視界のピントがずれ、モニターの光がかすかに滲む。
息は浅く、肩に入りすぎた力が首筋を締めつけ、後頭部に鈍い痛みを広げた。
あれ――?
眠気じゃない。
疲労だけではない。
それ以上の何かが、静かに身体を侵食していく。
けれど止まれなかった。
明日の朝までに仕上げなければならない。
もう、時間なんて残っていない。
今さら誰かに頼ることなどできない。
自分の不手際で、他の誰かを巻き込むわけにはいかない。
だから、やるしかない。
立ち止まるなんて、許されない。
その意地だけが、彼女を机に縛りつけていた。
夜は、気づけば深くなっていた。
オフィスの灯りは少しずつ消え、蛍光灯の明かりはまるで月光のように白く冷たい。
それでも、キリカの席のモニターは変わらず光り続けていた。
◆
オフィスには、もう誰もいない。
エアコンの低い音と、自販機の冷却音。
どこかで空調が風を切る音。
それらだけが、この広い空間を埋めていた。
だが、キリカはそれにすら気づいていなかった。
背中を丸め、モニターの光に吸い寄せられるように見入る。
タイピングの音だけが、孤独なリズムを刻んでいる。
――終わらない。
そう思った瞬間、こめかみに指先を当てて小さく叩く。
「……違う……ダメ……」
首を振る。
頭を振る。
そして再び画面へ視線を戻し、修正箇所をスクロールする。
だがまた誤字に気づき、作業は止まる。
やり直し。
グラフの整合性が崩れている。
図表のキャプションとラベルがずれている。
やり直し。
違う……ちがう……。
焦りがミスを呼び、ミスがさらなる焦りを呼ぶ。
それは完璧な悪循環だった。
論理的な判断はもうできなかった。
それでも、手は止まらない。
止めてしまえば、すべてが崩れ落ちる気がした。
「……っ……」
不意に、指が止まる。
画面を見つめたまま、キリカの肩がかすかに震えた。
浅い呼吸。
胸の奥でざわめく何かが、言葉にならない。
思考がまとまらない。
単語が繋がらない。
工程が飛ぶ。
だめ――。
目を閉じ、両手で顔を覆う。
少しだけ落ち着け。
少しだけ。
……休憩したほうがいいかもしれない。
その結論に至り、椅子の背に背中を預けることもできず、机に肘を突き、顎を乗せた。
モニターの光を遮るように、ゆっくりとまぶたを閉じる。
休むわけじゃない。
眠るつもりなんて、ない。
ただ頭の中で工程を並べ、作業フローを確認するだけ。
必要な資料と、チェック項目を――。
「……………………」
静寂がオフィスを満たす。
わずかに開いた口。
かすかに揺れるまつげ。
支えにしていた手が、力を失って滑り落ちる。
キリカの身体が、前に傾いた。
モニターのカーソルだけが、黙って点滅し続けていた。
ディスプレイが暗い画面から白く光を灯すまでのわずかな時間さえ、苛立ちに似た焦燥を煽る。
あの三人の顔も、言葉も、態度も、思い返せば返すほど胸の奥で鈍く響く。
すべてが無駄だった。
自分にとって何の意味も持たなかった。
むしろ失われた時間の重さが、砂袋のように心を押しつぶしている。
取り戻さなければ――。
その思いが、胸の奥で小さく燃える。
指先がマウスを握り、無意識にクリックする。
企画書のファイルを開き、必要な資料を並べ、表計算ソフトとワードを立ち上げた。
複数のウィンドウが重なり合い、彼女の視界に次々とタスクを押し付けてくる。
そこから、作業を始めるはずだった。
だが、実際には始まらなかった。
思うように手が動かない。
指先の感覚が鈍い。
何をすべきかは頭で分かっているのに、その指令が手首の先まで届かないような奇妙な空虚さがあった。
――あれ?
構成表の数字やグラフの色分けを何度見比べても、麻衣が差し入れてくれた修正版とどこが異なるのか判然としない。
どこから手をつければいいのか分からず、視界の中で文字だけが滲む。
一文字を打つたびにタイピングがもたつき、カーソルが待ちぼうけを食らう。
焦りが指先を縛る。
一歩進もうとするたび、靴紐が絡むように作業が止まった。
違う、ここじゃない――。
数字を修正しようとすると、別の表が気になる。
グラフを整えようとすると、先に文章の流れを直すべきな気がしてくる。
スクロールが上下に揺れ、同じファイルを開いては閉じる。
まるで迷路を彷徨うカーソルが、行き場を失って画面を漂っているようだった。
気づけばミスが増えていた。
変換ミス、誤字、入力漏れ。
そのたびに指を止めて修正し、また同じ箇所を打ち直し、同じ作業を繰り返す。
前進している感覚がまるでない。
なんで……こんなにできないの――。
その言葉が、唇の端から漏れる。
誰に聞かせるでもなく、吐き出すような小さな声だった。
眉をひそめ、口元を噛みしめ、彼女は画面を睨み続ける。
時間は残酷に過ぎていく。
気づけば時計は夕方を指していた。
オフィスの喧騒はすでに静まり、照明の色が徐々に黄みを帯び始める。
しかし、キリカの中で鳴り続けるのは焦燥と混乱の音だけだった。
それは耳鳴りのように、頭の奥で絶え間なく響く。
「あと少し」
その呟きが、呪文のように口の中で繰り返された。
だが、現実は無慈悲に彼女を追い詰める。
頭がぼんやりしてきた。
指先が、まるで他人のもののように動かない。
視界のピントがずれ、モニターの光がかすかに滲む。
息は浅く、肩に入りすぎた力が首筋を締めつけ、後頭部に鈍い痛みを広げた。
あれ――?
眠気じゃない。
疲労だけではない。
それ以上の何かが、静かに身体を侵食していく。
けれど止まれなかった。
明日の朝までに仕上げなければならない。
もう、時間なんて残っていない。
今さら誰かに頼ることなどできない。
自分の不手際で、他の誰かを巻き込むわけにはいかない。
だから、やるしかない。
立ち止まるなんて、許されない。
その意地だけが、彼女を机に縛りつけていた。
夜は、気づけば深くなっていた。
オフィスの灯りは少しずつ消え、蛍光灯の明かりはまるで月光のように白く冷たい。
それでも、キリカの席のモニターは変わらず光り続けていた。
◆
オフィスには、もう誰もいない。
エアコンの低い音と、自販機の冷却音。
どこかで空調が風を切る音。
それらだけが、この広い空間を埋めていた。
だが、キリカはそれにすら気づいていなかった。
背中を丸め、モニターの光に吸い寄せられるように見入る。
タイピングの音だけが、孤独なリズムを刻んでいる。
――終わらない。
そう思った瞬間、こめかみに指先を当てて小さく叩く。
「……違う……ダメ……」
首を振る。
頭を振る。
そして再び画面へ視線を戻し、修正箇所をスクロールする。
だがまた誤字に気づき、作業は止まる。
やり直し。
グラフの整合性が崩れている。
図表のキャプションとラベルがずれている。
やり直し。
違う……ちがう……。
焦りがミスを呼び、ミスがさらなる焦りを呼ぶ。
それは完璧な悪循環だった。
論理的な判断はもうできなかった。
それでも、手は止まらない。
止めてしまえば、すべてが崩れ落ちる気がした。
「……っ……」
不意に、指が止まる。
画面を見つめたまま、キリカの肩がかすかに震えた。
浅い呼吸。
胸の奥でざわめく何かが、言葉にならない。
思考がまとまらない。
単語が繋がらない。
工程が飛ぶ。
だめ――。
目を閉じ、両手で顔を覆う。
少しだけ落ち着け。
少しだけ。
……休憩したほうがいいかもしれない。
その結論に至り、椅子の背に背中を預けることもできず、机に肘を突き、顎を乗せた。
モニターの光を遮るように、ゆっくりとまぶたを閉じる。
休むわけじゃない。
眠るつもりなんて、ない。
ただ頭の中で工程を並べ、作業フローを確認するだけ。
必要な資料と、チェック項目を――。
「……………………」
静寂がオフィスを満たす。
わずかに開いた口。
かすかに揺れるまつげ。
支えにしていた手が、力を失って滑り落ちる。
キリカの身体が、前に傾いた。
モニターのカーソルだけが、黙って点滅し続けていた。
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