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〇1章【すれちがいと夜】
3節~灯る想い~ 8
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「……よく頑張ったな」
ぽつりと落ちたその言葉は、胸の奥にひときわ静かに響いた。
同時に、ヒロトの手がキリカの頭にそっと置かれる。
その手のひらは軽く、けれど確かな温度を持っていた。
触れられた瞬間、キリカの心の奥に熱がぶわっと広がった。
それは、今まで抑え込んでいたものが一気に解け出すような、どうしようもない温かさだった。
触れられるという行為は、こんなにも違うものなのだ。
井口たちに肩を掴まれたときの、あの物のように扱われる嫌悪感と恐怖。
それに比べて、この手は――ただひたすら優しく、「お前はここにいていい」と静かに肯定してくれるようだった。
「せんぱい……っ、わたし……」
言葉が、喉に詰まる。
涙が堰を切ったようにこぼれて、呼吸が途切れがちになる。
それでも、キリカは必死に言葉を探した。
胸に積もり積もったものを、少しずつ声に変えようとした。
「……ぜんぜん、できなくて……誰にも聞けなくて、怖くて……」
「うん」
「ほんとは、逃げたかったんです……でも、それもできなくて……」
「うん」
「期待されるのがこわくて……でも、嫌われるのも、もっとこわくて……っ」
「……うん、そうか」
ヒロトは一度も口を挟まなかった。
どんなに言葉が乱れても、最後まで耳を傾けて、静かに「うん」と頷く。
ただそれだけなのに、どれだけ心が軽くなるのだろう。
どれだけ救われるのだろう。
キリカには、うまく言葉にできない。
けれど、ヒロトのその穏やかな眼差しが、孤独で固まった心をじわじわと溶かしていくのを感じていた。
「……あのとき、助けてくれたのに……ありがとう、言えなくて……」
「気にするな。お前、あのあともちゃんと頑張ってただろ」
「……見てて、くれたんですね」
「うん……そりゃな」
ヒロトは、涙で濡れた髪の一房を指先でそっと払った。
乱れたブランケットを直す動きが、まるで言葉より雄弁に「安心しろ」と告げているようだった。
「大丈夫だ。ここからは、俺がついてるから」
たった一言。
その言葉は、冷え切っていた胸の奥に静かに火を灯す。
崩れかけていた自分の輪郭が、少しずつ温もりで描き直されていく気がした。
◆
「……落ち着いたか?」
優しく投げかけられた声に、キリカは小さく頷いた。
二人がいるのは、終業後の休憩室。
静まり返った空間に、自動販売機の低い稼働音だけが響いている。
両手に抱えた紙コップの熱が、じんわりと指先に伝わってくる。
キリカはヒロトと少し距離を置くように、ソファの端にちょこんと座った。
まるで、まだ照れを隠すために逃げているかのように。
「……ずびっ」
鼻をすすって、真っ赤な目でこちらを見上げる。
その目は睨んでいるようでいて、ただの照れ隠しにしか見えなかった。
その健気な様子に、ヒロトは思わず吹き出してしまう。
「な、なんですか!」
キリカは顔を真っ赤に染めて、コーヒーを盾のように掲げ、ぷいと顔を背けた。
「……そもそも、なんでいるんですか」
語気は尖っているが、その調子がいつものキリカらしくて、ヒロトは少しほっとした。
「そりゃあな。麻衣からあんな企画書見せられたら、心配にもなるだろ」
その一言に、キリカは言い返せず、唇を噛んだ。
自分でも、あの資料がひどい出来だったと分かっているから。
そんな彼女を前に、ヒロトは立ち上がり、コーヒーを片手に頭を下げた。
「……悪かった!! ごめん!!」
「えっ」
思いがけない謝罪に、キリカは呆然とした。
「な、なんで急に……」
「感情的になって、責任をお前に押し付けた。あのときの言い方は、完全に俺が悪かった」
その真剣な言葉に、キリカは驚きながらも慌てて首を振る。
「わ、わたしも……! 先輩を傷つけること言って……すみませんでした」
互いに謝るその空気に、ふと笑みがこぼれた。
「……じゃあ、これで仲直りってことにしようか」
「……いいですよ。特別に、許してあげます」
キリカが紙コップを差し出す。
ヒロトも無言でそれを軽く合わせた。
コトン、と響く小さな音。
それが、二人の間に残っていたわだかまりをそっと消したような気がした。
……しかし。
「……あ、でも」
キリカが思い出したように口を開いた。
「私、今日……自分から井口先輩たちに近づいちゃいました」
「は?」
ヒロトはコーヒーを吹きかけるのをなんとか堪え、眉を寄せた。
「だって! 他に誰も残ってなかったんです。ちょっと資料整理だけでも手伝ってもらえないかって……」
必死に弁解するキリカを見て、ヒロトは顔を覆って崩れ落ちる。
「なんでよりによってあいつらなんだよ……。気まずくてもなんでも、アレに声かけにいけるなら先に俺たちに言えよ……」
本気でヘコんだ様子に、キリカはつい笑ってしまった。
怒っていない。
ただ、呆れているだけだ。
でも、それが妙に嬉しい。
「……そっちが忙しそうだったから、邪魔したくなかっただけです」
「はいはい」
「……ごめんなさい」
「いいですよ。特別に許してあげます」
「ちょっと! 誰のマネですか、それ!」
思わず二人で笑い合う。
深夜のオフィス、誰もいない休憩室。
それなのに、そこにはやさしいぬくもりが広がっていた。
ぽつりと落ちたその言葉は、胸の奥にひときわ静かに響いた。
同時に、ヒロトの手がキリカの頭にそっと置かれる。
その手のひらは軽く、けれど確かな温度を持っていた。
触れられた瞬間、キリカの心の奥に熱がぶわっと広がった。
それは、今まで抑え込んでいたものが一気に解け出すような、どうしようもない温かさだった。
触れられるという行為は、こんなにも違うものなのだ。
井口たちに肩を掴まれたときの、あの物のように扱われる嫌悪感と恐怖。
それに比べて、この手は――ただひたすら優しく、「お前はここにいていい」と静かに肯定してくれるようだった。
「せんぱい……っ、わたし……」
言葉が、喉に詰まる。
涙が堰を切ったようにこぼれて、呼吸が途切れがちになる。
それでも、キリカは必死に言葉を探した。
胸に積もり積もったものを、少しずつ声に変えようとした。
「……ぜんぜん、できなくて……誰にも聞けなくて、怖くて……」
「うん」
「ほんとは、逃げたかったんです……でも、それもできなくて……」
「うん」
「期待されるのがこわくて……でも、嫌われるのも、もっとこわくて……っ」
「……うん、そうか」
ヒロトは一度も口を挟まなかった。
どんなに言葉が乱れても、最後まで耳を傾けて、静かに「うん」と頷く。
ただそれだけなのに、どれだけ心が軽くなるのだろう。
どれだけ救われるのだろう。
キリカには、うまく言葉にできない。
けれど、ヒロトのその穏やかな眼差しが、孤独で固まった心をじわじわと溶かしていくのを感じていた。
「……あのとき、助けてくれたのに……ありがとう、言えなくて……」
「気にするな。お前、あのあともちゃんと頑張ってただろ」
「……見てて、くれたんですね」
「うん……そりゃな」
ヒロトは、涙で濡れた髪の一房を指先でそっと払った。
乱れたブランケットを直す動きが、まるで言葉より雄弁に「安心しろ」と告げているようだった。
「大丈夫だ。ここからは、俺がついてるから」
たった一言。
その言葉は、冷え切っていた胸の奥に静かに火を灯す。
崩れかけていた自分の輪郭が、少しずつ温もりで描き直されていく気がした。
◆
「……落ち着いたか?」
優しく投げかけられた声に、キリカは小さく頷いた。
二人がいるのは、終業後の休憩室。
静まり返った空間に、自動販売機の低い稼働音だけが響いている。
両手に抱えた紙コップの熱が、じんわりと指先に伝わってくる。
キリカはヒロトと少し距離を置くように、ソファの端にちょこんと座った。
まるで、まだ照れを隠すために逃げているかのように。
「……ずびっ」
鼻をすすって、真っ赤な目でこちらを見上げる。
その目は睨んでいるようでいて、ただの照れ隠しにしか見えなかった。
その健気な様子に、ヒロトは思わず吹き出してしまう。
「な、なんですか!」
キリカは顔を真っ赤に染めて、コーヒーを盾のように掲げ、ぷいと顔を背けた。
「……そもそも、なんでいるんですか」
語気は尖っているが、その調子がいつものキリカらしくて、ヒロトは少しほっとした。
「そりゃあな。麻衣からあんな企画書見せられたら、心配にもなるだろ」
その一言に、キリカは言い返せず、唇を噛んだ。
自分でも、あの資料がひどい出来だったと分かっているから。
そんな彼女を前に、ヒロトは立ち上がり、コーヒーを片手に頭を下げた。
「……悪かった!! ごめん!!」
「えっ」
思いがけない謝罪に、キリカは呆然とした。
「な、なんで急に……」
「感情的になって、責任をお前に押し付けた。あのときの言い方は、完全に俺が悪かった」
その真剣な言葉に、キリカは驚きながらも慌てて首を振る。
「わ、わたしも……! 先輩を傷つけること言って……すみませんでした」
互いに謝るその空気に、ふと笑みがこぼれた。
「……じゃあ、これで仲直りってことにしようか」
「……いいですよ。特別に、許してあげます」
キリカが紙コップを差し出す。
ヒロトも無言でそれを軽く合わせた。
コトン、と響く小さな音。
それが、二人の間に残っていたわだかまりをそっと消したような気がした。
……しかし。
「……あ、でも」
キリカが思い出したように口を開いた。
「私、今日……自分から井口先輩たちに近づいちゃいました」
「は?」
ヒロトはコーヒーを吹きかけるのをなんとか堪え、眉を寄せた。
「だって! 他に誰も残ってなかったんです。ちょっと資料整理だけでも手伝ってもらえないかって……」
必死に弁解するキリカを見て、ヒロトは顔を覆って崩れ落ちる。
「なんでよりによってあいつらなんだよ……。気まずくてもなんでも、アレに声かけにいけるなら先に俺たちに言えよ……」
本気でヘコんだ様子に、キリカはつい笑ってしまった。
怒っていない。
ただ、呆れているだけだ。
でも、それが妙に嬉しい。
「……そっちが忙しそうだったから、邪魔したくなかっただけです」
「はいはい」
「……ごめんなさい」
「いいですよ。特別に許してあげます」
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