好きの手前と、さよならの向こう

茶ノ畑おーど

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〇1章【すれちがいと夜】

3節~灯る想い~ 12

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「……まぁ、だからさ」

手元の資料をまとめる手を止めず、ヒロトがふっと口を開いた。
その声は夜更けのオフィスに低く響き、静けさをわずかに震わせる。

「この企画書が終わっても、もっと大変なことが待ってるから。覚悟しとけよな」

言葉は脅すようでいて、そこに滲んだ優しさをキリカは敏感に感じ取った。
彼女は視線を伏せたまま、口元に笑みを忍ばせる。

「……はいっ」

疲労が積み重なっているはずなのに、声にはどこか誇らしさが宿っていた。

自分たちなら、このプロジェクトをやり遂げられる――そんな実感が胸の奥で芽吹いていた。


ヒロトは、そんな笑顔を横目に見ながら、新人枠として加わる予定の女性の名を思い出す。
麻衣が「今まで会ったことがないタイプで、面白そう」と評していた【天内もも】。

『面白そう』という言葉が妙に引っかかり、予感のようなざわめきが胸をかすめた。
今回以上の波風が立たなければいいが――そんな想いを息とともに飲み込む。

そのとき、キリカが小さく呟いた。

「……塚原先輩に、謝らないと」

「どうした、突然」

ヒロトが怪訝そうに視線をやると、キリカは手を止めて少し俯いた。
まるで胸の内を吐き出すように、言葉が零れる。

「私……あんな大変な時期に、チーム抜けたいなんて言って、混乱させたし。この企画書だって、無理やり締め切りを延ばしてもらって……」

声は沈みがちだったが、その奥にはけじめをつけようとする意志が感じられた。

ヒロトは少し目を細め、静かに笑うように言った。

「麻衣は、ちゃんとやってないヤツには厳しいからな」

「……え?」

不意を突かれたように顔を上げるキリカに、ヒロトは身を少し寄せて声を落とした。

「ここだけの話な。お前がチーム抜けたいって言いに行ったとき……めちゃくちゃ怒られたんだよ、俺」

キリカの目が丸くなる。

「…………」

「明坂があんなこと言い出したの、俺の責任が大きかったからな。ちゃんとしろよって喝入れられた」

ヒロトは肩をすくめ、苦笑した。

「感情的に怒る麻衣、あんまり見たことなかったけど……あれはすごかったな。大学時代から数えても、あんな顔されたことなかったよ」

しばし、キリカは言葉を失って彼を見つめていた。
やっと絞り出すように、ぽつりと声を落とす。

「……そう、なんですか……」

「伝わってるんだよ。明坂が、どれだけ頑張ってるか。じゃなきゃ、いくら後輩相手とはいえ、あいつが泣いたりしない」

「…………はい……」

静かに頷いたその瞬間、キリカの眉がぴくりと動いた。

「…………えっ、泣いてたんですか?」

ヒロトは一瞬、ハッとして口を押さえた。

「…………あっ」

露骨な動揺に、キリカの瞳が面白がるように光る。

「……塚原先輩が。泣いてたんですか……」

唇の端が、じわりと上がる。

「やべえ……バレたら殺される……」

ヒロトの額に、冗談抜きの冷や汗がにじんだ。

「…………この件は、どうかご内密に」

「……それは……中町先輩の今後次第ということで」

勝ち誇ったように頬を膨らませるキリカに、ヒロトはぐったりと項垂れた。

「……明坂、お前……性格悪いな……」

「性格は悪くないです。ちょっとだけ仕返しです」

くすくすと笑う彼女を見て、ヒロトもつられて口元を緩めた。
徹夜明けを目前にした夜、二人の間に残っていたわだかまりは、もうすっかり溶けていた。
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