好きの手前と、さよならの向こう

茶ノ畑おーど

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〇2章【波乱と温泉】

3節~約束~ 1

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「はーい、到着でーす! みなさん、おつかれさまでしたー!」

運転席から弾む声が飛び、バスはゆるやかな弧を描きながら、研修施設の駐車場へと音もなく滑り込んだ。
ブレーキがわずかに軋み、車体が前のめりに小さく頷く。
続いてエアブレーキが乾いた吐息を漏らし、扉のシールが外れる微かな音が空気に混じる。

閉ざされていた熱と会話の名残が押し出され、山の澄んだ外気が一気に流れ込んだ。

金具が弾けるように鳴り、眠気を引きずるような欠伸と、笑い声が交錯する。
通路には、背を伸ばす人影が次々に立ち上がっていた。
微睡の殻が静かに剥がれ落ち、視線が揃って窓の向こうへと向かう。

山裾の淡い緑が肩を寄せ合い、低く連なる瓦屋根の棟が静けさを宿していた。
白木の看板と「歓迎」と記された横断幕。石畳に転がるキャスターの音が、すでにその建物へと流れを作りはじめている。

「わっ、すっごーい! 空気がぜんっぜん違いますね~っ!」

ももの声が真っ先に弾けた。
白いワンピースの裾を押さえながら、身体ごと景色に飛び込むようにして通路を跳ねる。
ドア前で一瞬立ち止まり、胸いっぱいに空気を吸い込むと、そのまま陽を抱き込むようにして外へと飛び出していった。

施設は、旅館のような落ち着いた造りだった。
木の温もりを湛えた玄関庇、広縁のように広がる通路。川のせせらぎが遠くで囁き、小高い林と朱塗りの橋が、山の景に彩りを添える。

「うわぁ、温泉あるって聞いてたけど……ほんとに旅館みたい~! ね、ヒロトせんぱいっ!」

振り返りざまに放たれるその声が、刺すように響いた。
ヒロトはわずかに間を置いてから頷く。

「うん……いい感じだな……」

それだけが、限界だった。
すでに彼女に注がれる視線の密度が、場の空気を静かに変えはじめていた。

彼女の声、動き、笑顔――それらがつくる『隙』に、男たちの視線が次々と引き寄せられる。
露出ではない。けれど無防備さを匂わせるその距離感が、風に揺れる白い布地とともに、誰の目にも止まってしまう。

「なぁ……あれ、天内って新人だよな?」

「同じプロジェクトチームとか……へっ、ラッキー」

聞きたくない言葉が、風の隙間から漏れ聞こえる。

そして、見たくなかった顔が視界に入った。
別のバスから降りてきた井口、石井、杉山。
冴えない笑顔を装いながらも、その目線は確実に、ももの背を追っていた。

胸の奥に張りついていた不安の残り香が、急速に形を持ち始める。

無意識のうちに、ヒロトの視線が泳ぐ。
その先で、麻衣が静かに歩いてきていた。
目が合う前から、言葉にならない意思が届く。

――言いたいこと、分かってるでしょ?

眉だけをわずかに持ち上げ、目だけで笑う。
軽やかな仕草の奥に、やわらかくも確かな圧が宿っていた。

「……いや、あれは、もう仕方ないだろ」

ヒロトが口を開けば、麻衣は肩をすくめて、にこりと笑った。

「ううん、感心してるの。あなたがこういう行事であんなふうに楽しそうにしてるなんて、初めて見たから。ね、『ヒロト先輩』?」

その名の呼び方に乗せた棘が、言い訳の芽を封じ込める。
ヒロトは浅く息を吐き、肩の内側で言葉を飲み込んだ。

視線を逸らした先、女子の輪の中にキリカの姿があった。
ちひろ、すみれ、しおりと並び、何かに応じて短く返している。
笑っているようでいて、その頬に走った陰影だけが、ヒロトの胸に静かなざわめきを残した。

呼びかける言葉は、浮かんだ。だが、声帯に届く前に消えていく。

「はーい、荷物はトランクから順番に! フロントで受付お願いしまーす! 男性陣、先に動いてくださーい!」

麻衣の号令が、空気を切り替えた。
キャスターが一斉に砂利を噛み、列が生まれ、笑い声が動き出す。

陽は高く昇り、風が一度、空気をなぞって抜けていく。
シャツの裾が揺れ、影が玄関先へと伸びていった。

「前の広間に集合でーす! 名札と鍵、忘れずに受け取ってくださいねー!」

清らかな空気の下で、幾つもの波紋がひっそりと交錯する。
ももの笑顔に集まる熱、井口たちの気配、麻衣の沈黙の圧、キリカの頬に落ちた翳り。
それぞれの静かな起伏が、同じ幕の内側で揺れていた。

研修棟の玄関をくぐり、畳の廊下に足を踏み入れたとき、足裏に感じる弾力は、街では出会えない柔らかさだった。

非日常は、穏やかな顔をしながら、静かにその質量を増していく。
イベントの幕は、たしかに上がった。拍手はまだない。
けれど、舞台袖の奥では、役者たちが所作を確かめ、そっと足を一歩前へ踏み出していた。

ヒロトは名札の紙片を受け取り、胸ポケットへ滑らせる。
軽いはずのそれが、妙に重く感じられた。

建物は新しく、空気は澄み、スタッフの笑顔も行き届いている。
それでも胸の奥では、誰にも聴こえない鐘が低く響いていた。

――この二日間は、きっと、ただの『親睦』では終わらない。

玄関先から見上げた空の上。
ひとつの雲が音もなく、かたちを変え続けていた。
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