恋じゃないと噓を歌う(仮)

万里

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 大学3年、理学部の堂本清一郎にとって「学園祭」なんてものは、研究室で山ほど積み上がったデータ整理がひと段落した後に訪れる、ほんの短い休憩時間にすぎなかった。 普段の清一郎は、黒縁と銀縁が重なった眼鏡の奥で、素粒子や宇宙の法則をじっと見つめている。生活はシンプルそのもの。講義、研究、そして夜中の読書。恋愛やサークル活動なんて、彼にとっては「非効率」の一言で片づけられるものだった。

 だからこそ、その日――清一郎が軽音サークルのライブステージを通りかかったのは、完全に偶然だった。研究室の仲間に無理やり引っ張られ、焼きそばを食べていた途中のこと。 昼下がりの熱気、野外ステージから響く爆音。耳を塞ぎたくなるのを我慢しながら、早く図書館に戻りたいと願っていたその瞬間。赤いテント越しに、視界へ飛び込んできたのは――。

 茶色の髪を揺らし、長身を大きく使ってステージに立つ男子学生。マイクスタンドを片手で握りしめ、観客の中心で歌っている。 名前も学部も知らない。けれど、その声は清一郎の体の奥底まで響き渡り、分子ひとつひとつを揺さぶるようだった。ライトを浴びた横顔は彫刻みたいに整っていて、客席へ投げかける視線は誰にでも届くのに、なぜか「自分だけを見ている」と錯覚させるほどの力があった。

「……っ」 
 清一郎は紙皿を落としかけ、慌てて縁を握りしめる。焼きそばの麺が少し地面に落ちた。普段なら絶対にしない凡ミス。それだけで、彼の世界が揺らいでいる証拠だった。

 試験の合格ライン。実験の誤差範囲。論文の採択確率。清一郎の人生はいつも計算と予測でできていた。けれど今、彼の脳裏に浮かんだのは、全く予測不能な感情。 それはブラックホールの事象の地平線。一度落ちれば、光さえ逃げられない。理性のネジが外れる音がして、世界は彼の歌声を中心に塗り替えられていく。

 彼が右手を高く掲げ、観客を煽る。その瞬間に見せた笑顔――飾り気のない、純粋な笑顔。清一郎の心臓は、これまで経験したことのないリズムで脈打ち始めた。

 ――彼が、欲しい。

 脳が「そんな感情は存在するのか」と問いかけるより早く、身体が、魂が、そう叫んでいた。 それが清一郎にとって初めての、一目惚れ。研究室では絶対に解明できない、恋と呼ぶしかない最強の非合理だった。

 ライブが終わり、彼がステージの奥へ消えても、清一郎はその場から動けなかった。残されたのは耳鳴りのような興奮と、全身を支配する熱い渇望。 人波が少しずつ散っていく中、清一郎の世界はまだ彼の歌声に囚われたままだった。理性ではどうにもならない衝動が、静かに、確実に彼の未来を変えようとしていた。

 *

 その夜、堂本清一郎はベッドで一睡もできなかった。 銀縁メガネを外し、天井をじっと見つめる。頭の中では、彼の残像と、歌っていたメロディが、ディレイエフェクトみたいにぐるぐるリピートしていた。まるで脳内ライブ会場。

「……うるさい……いや、うるさくない……むしろ心地いい……いや、心地よすぎる……」 
 清一郎は布団の中でゴロゴロ転がりながら、理性を取り戻そうと必死に思考を巡らせた。

(待て、堂本清一郎。冷静になれ。心拍数の異常な上昇、手の発汗、注意力の欠如。これは『恋』という、生物学的には種の保存本能に由来する一時的な精神錯乱状態にすぎない!)

 ……と、頭の中で自分に説教する。だが、分析すればするほど「いやこれ、ただの錯乱じゃなくてガチでヤバいやつでは?」としか思えない。今まで、誰か一人の人間にここまで思考を支配されたことなんてなかったのだ。


 翌朝。寝不足で目の下にクマを作りながら、清一郎は一つの結論に達した。

 彼の人生の信条はこうだ。 
「観察対象は、観測者が接近しなければ、その性質を正確に把握できない」 
 量子力学の基本原理。これを、彼という人生最大の未知数に適用する。

 つまり――彼の傍に行く。彼の世界に入り込む。 それが、この非合理な感情を理解し、制御する唯一の方法だ。

「……よし、理論的に正しい。たぶん」

 問題は方法だった。 彼がいる場所は軽音サークル。清一郎がいる場所は理学部の研究室。距離感は、地球と火星くらい。いや、むしろ銀河系の端と端くらい。清一郎は社交的な場が苦手だし、音楽なんて「感覚でやるやつらの世界」だと思っていた。

「……軽音サークルの、場所は……」

 清一郎は、サークル説明会のパンフレットをめくる。軽音サークル『ディレイ』。 部室は大学の奥まった古い建物の一室。活動内容の隅っこに、小さく書かれた一文が目に入った。

『部費・活動費の管理に難あり。会計に詳しい人、手伝ってくれる人大歓迎!』

「……これだ!!」

 清一郎は思わず声を上げた。 理学部生として、数字と論理に向き合ってきた彼にとって、会計なんて朝飯前。むしろ得意分野。ここに自分の存在意義がある。

 震える手でメガネをかけ直す清一郎。 それは、彼にとって研究者人生で最も危険で、最も魅惑的な――「恋愛実験」の始まりだった。

「……よし、まずは会計係として潜入だ。これなら合理的だし、自然だし、バレない……はず……!」

 清一郎は、ベッドの上でガッツポーズを決めた。 

 *

 その日、『ディレイ』の部室の扉をノックした瞬間、清一郎は全身から冷や汗が噴き出すのを感じていた。 彼は事前に、ノックの強さ、挨拶の角度、自己紹介の文言まで何度もシミュレーション済み。まるで論文発表のリハーサル並みの準備。だが、目の前の扉を開けるという行為は、未知の試薬を混ぜる瞬間よりもずっと恐ろしかった。

「はいはーい!」 
 元気な声とともに扉を開けたのは彼ではなく、明るく人懐っこい笑顔の女子学生だった。彼女は清一郎の真面目すぎる出立ちを見て、一瞬「え、誰?」という顔をした。

「えーっと……どちら様?」 
「お、俺は……堂本清一郎です。理学部3年で……その、サークルの会計の、お手伝いを……」

 声が上ずり、視線は泳ぎまくり。普段なら流暢なはずの日本語が、まるで未知の外国語みたいに舌の上で絡みついていた。

 女子学生は目を丸くした後、爆笑。 
「え、会計!? マジで!? 超助かる! うち、ドラムの先輩が数字マジでダメで、毎月頭抱えてたんだよね! セイイチロー先輩、神!」

「……神?」 
 清一郎は心の中で反芻した。研究室では「計算マシーン」と呼ばれることはあっても「神」と呼ばれたことはない。なんだこのギャップ。

 部室の中は、予想通り、彼の世界とはかけ離れていた。埃っぽい絨毯、意味不明なポスター、隅に積み上げられたアンプやギターケース。まるでカオスの実験室。 そして、その中央に、少しだるそうに座っている人物がいた。

 彼だ。

 ヘッドホンを首にかけ、スマホをいじりながら、こちらをチラリと見た。 その一瞥だけで、清一郎の心臓はまた異常な鼓動を刻み始める。だが彼はすぐにスマホへ視線を戻した。無関心。冷たいほどの無関心。
(当然だ……ステージの光を浴びる彼と、埃まみれの伝票を整理する俺とでは、存在の次元が違う……)

 自己肯定感が地面にめり込む音がした。だが清一郎は負けなかった。彼の「空間」に入るというミッションが、清一郎の内向的な性格をねじ伏せたのだ。


 そこからの清一郎は、会計の仕事においては完璧だった。 山積みの領収書、バラバラのExcelデータ。彼は冷静沈着な理学部の研究者モードに切り替え、数時間後にはサークルの財政状態を完璧に整理。明瞭なグラフで可視化してみせた。

 その結果が、彼の注意を引いた。 
「うわ、すげぇ。なんじゃこれ。めっちゃ見やすいじゃん」

 彼は清一郎の隣に、気安い調子で腰を下ろした。清一郎の身体は一瞬で硬直。香水なのか、汗なのか、シャンプーなのか――とにかく彼から漂う全てが、清一郎の鼻腔と脳を直撃した。

「あ、あの……これは、月ごとの収支と、楽器別、備品別の消耗費を、傾向グラフとして……」 
「あー、日本語でOK! 要するに、いくら使って、いくら残ってるかが一発でわかるってことっしょ? セ―イチロー先輩、頭いいんだね!」

「……セーイチロー先輩」 
 その呼び方に、清一郎の脳内で花火が打ち上がった。ニックネーム認定。脳内リピート無限再生。

「き、君……は、その……」 
「奏(かなで)でいいよ。みんなそう呼んでるし。俺、音楽以外は結構テキトーだからさ、マジ感謝。これで、もっとライブにお金使えるじゃん」

 奏は無邪気に笑った。そのブラウンの瞳には、偽りなく音楽への情熱だけが宿っているように見えた。 清一郎の心に、一筋の光が差し込む。

(音楽……! これだ。音楽という共通項があれば、彼の隣にいる口実になる。俺は彼の音楽を支えるデータであり、論理だ!)

 そう理屈をつけた清一郎だったが、実際はただ奏の隣にいられるだけで、全身の細胞が歓喜していた。

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