愛と猛毒(仮)

万里

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 和弥はオフィスの自席で、ただ呆然と七瀬を眺めていた。七瀬は、雨の中でのあの告白と拒絶を境に、和弥を完全に「透明人間」として扱うようになった。罵倒も皮肉も、苛立ちをぶつける鋭い視線すらない。そこにあるのは、完璧な上司として最低限の業務連絡だけを淡々とこなす、徹底した虚無だった。

 かつてあれほど自分を追い詰めた七瀬の「毒」が、今では恋しい。無視されるということが、これほどまでに自分の存在を希薄にし、骨の髄まで冷やしていくものだとは知らなかった。

 そんな時、隣の席の同僚に肩を叩かれた。

「……村上、和泉さんに挨拶は行ったか? 今日が最終出社だろ」

 その一言で、かつての自分なら心臓が千切れるほど苦しみ、何としてでも彼を繋ぎ止めようと足掻いたはずだ。だが、和泉の背中を見ても、もう胸は痛まない。あの頃の自分は、和泉の優しさに縋り、自分の価値を他人に委ねていた。

 今、和弥の胸に残っているのは、七瀬に拒絶された痛みと、その痛みが教えてくれた自分の愚かさだけだった。和泉はもう、和弥の物語の中心ではない。そして七瀬もまた、手を伸ばしても届かない場所へ行ってしまった。和弥はゆっくりと歩き出す。その足取りは重いのに、不思議と迷いはなかった。これは、過去に別れを告げるための最後の一歩だった。


 和泉はいつも通りの穏やかな微笑を浮かべていた。

「わざわざ来てくれたんだ。……どうしたの、そんな顔をして?」

 その柔らかな声に、和弥は自嘲気味に口角を上げた。
 和弥の心は、すでに別の場所――もっと暗くて、どうしようもなく切実な毒に囚われていた。

「……いや。今まで、ありがとう。和泉がいたから、俺……」

 言葉を紡ぎながら、和弥の脳裏に浮かぶのは、和泉の影に隠れて自分を見守り、傷つきながらも罵倒し続けていた七瀬の姿ばかりだった。和泉への言葉は、かつての初恋を丁寧に棺に入れ、静かに蓋をするための儀式のようだった。

「……俺、ようやく…ちゃんと区切りをつけなきゃって、思って…」

 和泉は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにすべてを悟ったように優しく頷いた。

「……そうなんだ。もう、僕がいなくても大丈夫だね」
「…寂しくなるよ…」

 和泉は少しだけ寂しげに笑い、それからふと真剣な目で和弥を見つめた。

「なあ、和弥」
「ん…?」
「水原課長と、何かあったのか…?」

 その瞬間、和弥の心臓が大きく跳ねた。喉がひりつき、呼吸が浅くなる。言えるはずがなかった。あの夜の、暴力的なまでのキスも。七瀬の喉を潰すような悲痛な告白も。そして、それを自分が真っ向から突き放してしまったことも。

「い、いや……別に……」

 和弥が視線を逸らすと、和泉は静かに首を振った。その仕草は、責めるでもなく、ただ真実だけをそっと差し出すようだった。

「……水原課長は、ずっと和弥のことを見てたよ」

 その言葉は、優しいのに、胸の奥を鋭く刺した。

「正直、少し羨ましいよ。僕は和弥に何もしてあげられなかったから……」

「そんなこと……」

 否定しようとした声は、喉の奥でかすれた。
 和泉は微笑んだまま、しかしその瞳にはどこか痛みを含んでいた。

「ううん。たくさん傷つけて、ごめんね」

 和弥の心臓が、ぎゅっと掴まれたように跳ねた。

「……和弥」

 和泉は、まるで祈るように名前を呼んだ。

「幸せになってね」

 その言葉は、優しさでできているのに、どうしようもなく胸に痛かった。
 和泉は、和弥の恋をそっと包み込み、そのまま静かに手放してくれたのだ。

 和弥は何も言えなかった。言葉を返せば、涙がこぼれそうだった。
 和泉は最後に、穏やかな笑みを浮かべたまま、まるで和弥の背中をそっと押すように言った。

「……本当に、今までありがとう」

 その瞬間、和弥の胸の奥で、閉じ込めていた何かが、静かに音を立ててほどけていった。


 和泉と握手を交わし、胸の奥に長く居座っていた澱がようやく落ちたような心地でフロアに戻った和弥を待っていたのは、あまりにも残酷な噂だった。

「水原課長、本当に成川さんと一緒に海外拠点に行くんですかね?」
「そりゃ、栄転なんだから行くだろう」
「というか、実質的には成川さんのプロジェクトへの引き抜きだろうな」

 同僚たちの無責任な噂話が、鼓膜を突き抜けて脳内に直接流れ込んでくる。和弥の指先から、急速に血の気が引いた。心臓が氷水に沈められたように冷え、呼吸の仕方を忘れたように胸が詰まる。

 七瀬が、いなくなる?
 自分の視界から、手の届く距離から、あの冷徹で、けれど誰よりも熱い瞳を持った男が消えてしまう。和泉を失った時に感じたのは、胸が締め付けられるような「喪失」だった。だが今、和弥を襲っているのはそんな生易しい痛みではない。根こそぎ魂を奪われるような、己の存在そのものが瓦解していく「恐怖」だった。

 七瀬がいない世界を想像した瞬間、足元が崩れ落ちるような眩暈がした。

(……ふざけんな。勝手にいなくなるなんて、許さない)

 心の奥底から、黒い感情が沸き上がる。
 七瀬の言葉は刃だったが、その刃こそが和弥を現実に繋ぎ止めていた。自分を形作っていた楔(くさび)が、今まさに無理やり引き抜かれようとしている。胸の奥で何かが悲鳴を上げた。

 *

 残業で静まり返った社内。
 非常階段へと続く重い扉を押し開けた瞬間、冷えた空気が肌を刺し、かすかに紫煙の匂いが鼻を掠めた。

 踊り場の手すりに寄りかかり、成川がライターを弾く。火花が一瞬だけ暗がりを照らし、彼の横顔を浮かび上がらせた。

「七瀬、村上くんと何かあったのか?」

 不意の問いに、七瀬は煙草を口に運ぼうとした手を止めた。その仕草はわずかに震えていた。

「……別に。何もない」

「元気がないな。顔色が悪い」

「……そんなことはない。少し疲れているだけだ」

 吐き出した紫煙は、冷えた空気にすぐ溶けて消えた。だが、七瀬の曖昧な言葉は、成川の鋭い視線を誤魔化すにはあまりに弱かった。

 成川は吸い殻を携帯灰皿に押し付け、ゆっくりと七瀬へ歩み寄る。一歩、また一歩。そのたびに、七瀬の逃げ道が狭まっていく。
 そして、成川の手が七瀬の細い手首を掴んだ。

「なあ、七瀬」

「……っ、おい、離せ……」

 七瀬は反射的に振り払おうとしたが、成川の指は驚くほど強かった。力任せではなく、逃がす気がないと告げるような確固たる圧。

「嫌だ。俺は明日には、またニューヨークへ発つ」

「……そうか。気をつけてな」

「そうじゃない」

 成川の声が低く落ち、コンクリートの壁に鈍く反響した。

「俺が求めているのは、そんな社交辞令じゃない。お前の“返事”を聞きたいんだ」

 七瀬は視線を彷徨わせた。
 階段の下にも、上にも、逃げ道はあるはずなのに――成川の手が、声が、過去が、七瀬の足を縫い止めていた。

「七瀬……もういいだろう。あんな子どもに振り回されるのは。君には似合わない」 

 成川の声は低く、抑えた熱を孕んでいた。

「でも……成川、俺は……」 

「俺が全部忘れさせてやる。だからいい加減、『イエス』と言え」

 有無を言わせぬ強引さで、成川の唇が重なった。 七瀬は驚きに息を呑む。

「待て……っ、ここ、会社だぞ……!」

「だからなんだ。誰も来ない」

 成川の強い意志が、狭い非常階段の空気を支配していく。七瀬は後ずさろうとしたが、成川の手が腰を引き寄せ、逃げ道を塞いだ。
 そのとき――成川の視線が七瀬のシャツの隙間に落ちた。

 七瀬の肌に残る、痕跡。和弥が激情のままに刻みつけた、消えない証。
 成川の動きが、そこで完全に止まった。

「……無理だ。成川、俺……」

 七瀬の声は震えていた。その一言が、成川の理性を鋭く裂いた。

「あんな奴のどこがいいんだ……!」

 成川の声が荒れる。普段の冷静さが嘘のように、感情がむき出しになっていた。

「お前を傷つけ、馬鹿にして……そんな礼儀も知らないガキなんか、どうでもいいだろう!」

 成川は七瀬の顎を掴み、痕跡を塗り潰すようにその場所に激しく吸い付いた。

「こんな痕までつけさせて……!もう忘れろ。あんな奴のことなんて、俺が跡形もなく消してやる……!」

 さらに深く、強引に貪るようなキス。 けれど、成川の熱が増せば増すほど、七瀬の心は冷たく凍りつき、瞳からは自分でも止めようのないほどの大粒の涙が溢れ出した。

「やっ……あ……っ」

 七瀬の喉から漏れたかすかな声に、成川はようやく異変に気づいた。見上げた七瀬の瞳には、涙が溢れていた。

「……七瀬」

 成川の手の力が緩む。
 七瀬は震える唇を噛みしめ、言葉を絞り出した。

「ごめん……」
「……」
「……あいつのことが、好きなんだ……っ」

 その告白は、七瀬自身の胸を裂くような痛みを伴っていた。だが、それ以上に成川の心臓を深く抉った。

「……っ!」

 成川は壁に拳を叩きつけた。乾いた衝撃音が非常階段に響き渡る。

「……もう、俺たちは無理なのか」

「……ごめん…っ」

 七瀬は泣きながら、心のどこかで自分を責めていた。
 成川に付いて行けば、輝かしいキャリアも、名誉も、そして自分を大切にしてくれる安定した未来も、すべてが手に入るのだろう。
 それは誰が見ても正しい「正解」だった。

 だが――七瀬の心には、和弥という“毒”が根を張っていた。

 理性では選べない。
 正しさだけではない。
 その毒は、七瀬の心を壊し尽くすほどの熱を求めて叫び続けている。

 成川では埋まらない、どうしようもなく歪んだ渇望。

「……わかった。もう、いい」

 成川は静かに言った。

 最後にもう一度だけ、成川は七瀬の頬に触れた。
 その指先は驚くほど優しく、まるで壊れ物に触れるようだった。

「……体に、気を付けて」

 成川は七瀬から手を離し、重い扉を押し開けると、一度も振り返らずに去っていった。
 扉が閉まる鈍い音だけが、七瀬の胸に深く沈んでいく。
 残された七瀬は、冷たい非常階段の空気の中で、ただ静かに涙を落とし続けた。
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