愛と猛毒(仮)

万里

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 成川が去った後の非常階段には、ただ重苦しい静寂と、冷え切ったコンクリートの匂いだけが残されていた。 古びた蛍光灯がジジッ、と小さな音を立てて明滅し、七瀬の足元を不規則に照らす。
 体温が、指先から奪われていく。 もう、自分には帰る場所も、進むべき道も分からない。

 そのとき――。

「水原課長……っ!!」

 静寂を叩き割るような、荒々しい足音が階下から響いてきた。 一段抜かしで階段を駆け上がり、今にも心臓が止まりそうなほど肩を揺らして、和弥が踊り場に飛び込んできた。

「……探したんですよ……!」

「村上……。……どうして、ここに……」

 和弥は答えず、一気に距離を詰めた。 そして、至近距離で七瀬の顔を覗き込み、その動きを凍らせる。

「……課長、泣いて……ましたか?」

 和弥の瞳が、赤く腫れた七瀬の目元を射抜く。それは、まるで七瀬の隠していた弱さを抉り出すような、鋭く、それでいて悲痛な眼差しだった。 七瀬は反射的に顔を背け、震える声で拒絶した。

「泣いてない。……ただ、風に当たっていただけだ」

「でも、その目は……。誰かに、何かされたんですか」

「どけ。……お前には関係ない。仕事以外の関わりは持たないと言ったはずだ」

 震えを悟られないよう、七瀬は精一杯の冷徹さを装って和弥の脇を通り過ぎようとした。だが、すれ違いざま――。

「関係、あるって言ってるだろ!!」

 和弥が、七瀬の腕を力任せに掴んだ。 逃がさない。そんな思いが、指先から七瀬の肌へと伝わってくる。
 痛いほどに強く、身勝手で、呼吸を乱す暴力的な熱。 けれど、その痛みこそが、今の七瀬にとって唯一「自分はまだ生きている」と実感させる、抗えない毒薬だった。

 七瀬の身体が、微かな戦慄に揺れる。 その細い腕を強引に縛り付けている和弥の指先は、怒りか、あるいは恐怖からか、剥き出しの感情を伝えるように小刻みに震えていた。

「……離せ」

 七瀬の声は低く、ひび割れた硝子のようにかすれていた。 だが和弥は、弾かれたように首を激しく振る。

「嫌です。……離しません」

 七瀬は必死に腕を振り払おうと力を込めるが、和弥の手は、まるで命綱に縋り付くような必死さでしがみついて離れない。その無様なまでの執着が、七瀬の胸の奥を締めるように痛めつけた。

「課長、海外に行くって……本当なんですか!? あいつに付いて行くつもりですか…?!」

「お前には……関係ないと言ったはずだ」

「だから、関係、あるんだよ!!」

 和弥の絶叫が、冷たい壁を震わせ、七瀬の心臓を直接叩きつける。 七瀬は驚いて目を見開いた。

「和泉に……言われました。俺を……ずっと見ていたのは、ずっとあんただって。……俺も、今、やっと分かった。俺は、あんたに、ずっと傍にいてほしい!」

 その告白は、七瀬の胸に鋭利な楔(くさび)となって深々と突き刺さった。 ずっと、ずっと、喉が裂けるほど欲しかった言葉。
 けれど、成川の優しさを拒み、傷ついた今の七瀬にとって、それは甘い癒やしなどではなかった。あまりにも純粋で、あまりにも遅すぎたその言葉は、まるで傷口に熱い鉛を流し込まれるかのような、猛烈な毒となって全身を駆け巡った。

「今さら……何を……。何を言ってるんだ、お前は……」

 七瀬の瞳が、行き場を失った涙で激しく潤む。和弥の放つ熱情は、成川の洗練された愛情とは違い、七瀬の理性をすべて焼き尽くし、破滅へと誘う凶暴なまでの「引力」を持っていた。

「今さら……何を……」

 掠れた声は、湿った空気の中に頼りなく消えた。

「今さらでも、何度でも言います! 和泉への気持ちは、本気でした。嘘じゃなかった。……でも、あんたがいないと、俺は……!」

 言葉にならない感情を振り切るように、七瀬が逃げようと身を翻した瞬間だった。 和弥の大きな掌が七瀬の両肩を捉え、逃がさないという意志を込めて、背後の冷たいコンクリート壁へと押し付けた。
 逃げ場を完全に塞がれ、視界のすべてが和弥で埋め尽くされる。

「応えられないなんて、嘘でした。……俺、馬鹿で、すみません……。お願いです、課長。どこにも行かないでください……っ!」

 和弥の声は、震えていた。 七瀬を踏みにじったような態度は微塵もない。目の前にいるのは、ひとりの情けない男だった。
 その言葉は、七瀬が渇望しては裏切られ、何度も心の中で殺して葬ってきた願い、そのものだった。

 ――なのに。

「……馬鹿にするな……。もういいって言っただろ。……もう、たくさんだ……っ」

 七瀬は泣き笑いのような、今にも砕け散りそうな表情を浮かべた。 それは拒絶というよりも、限界まで磨り潰された心が、これ以上の侵入を拒むために張り巡らせた最後で最大の防衛本能だった。

 七瀬の拳が、和弥の胸を弱々しく叩く。だが、その力ない一打が振り下ろされるたび、七瀬の心が悲鳴を上げて軋む音が、静かな踊り場に響いているかのようだった。

「……もう、俺を……これ以上、壊さないでくれ……」

 唇から溢れ出した呟きは、涙に濡れ、震え、自分自身を繋ぎ止めるための呪詛のようでもあり、目の前の「毒」から逃れたいという切実な懇願のようでもあった。

「……期待させるな……もう……嫌なんだ……」

 七瀬の目から、溢れ出した雫が和弥の手に触れる。 その熱に打たれたように、和弥は一瞬息を呑み、さらに強く、壊れ物を抱きしめるような危うい力で七瀬を壁へと縫い付けた。

「……課長。聞いてください」

 和弥は逃げようとする七瀬の両肩を逃がさないように掴み、一言ずつ、己の心臓を剥き出しにして差し出すような、痛切な響きで言葉を紡いだ。

「課長のいない会社を想像したら……和泉に振られた時よりずっと、ずっと辛かった。……あんたの言葉は、いつもきつくて、酷くて、俺を怒らせてばかりだったけど。でも……」 
「……」 
「あなたが俺を愛してくれたように、今度は俺が、あなたをちゃんと愛したい……!」

 和弥の声は震えていたが、その言葉には一切の迷いがなかった。
 七瀬の胸を真正面から射抜く、真摯で、澄み切った告白。

 七瀬は息を呑んだ。
 最後の最後まで「上司」としての矜持を守ろうと、そして長年「報われない片想い」に耐えてきた男としてのプライドを守ろうと、白くなるほど強く唇を噛みしめる。

「……っ、ふざけるな……。今さら勝手なことばかり言って……。お前なんか、嫌いだ……っ!」

 言葉とは裏腹に、声は震え、七瀬の目からは堰を切ったように大粒の涙が溢れた。
 それは、何年も諦め続けてきた願いが、和弥の熱によって溶かされ、もう抑えきれなくなった証だった。
 和弥はその涙を見て、胸が締め付けられるように痛んだ。
 それでも、逃げずに言葉を重ねる。

「……はい。これから頑張りますから。だから……海外には行かないでください」

 七瀬は顔を伏せたまま、しばらく沈黙した。
 蛍光灯の微かな唸り音だけが、踊り場に響く。

 そして――ぽつりと、七瀬の唇が動いた。

「……海外には……、行かない……」

「え……?」

 和弥が驚きに目を見開くと、七瀬は震える声で、必死に毒を纏わせながら言い放った。

「……別に、お前のために残るわけじゃない。……お前が、俺なしじゃ仕事もまともにできない、救いようのない無能だから……。仕方なく、ここにいてやるだけだ」

 その言葉は毒のようでいて、震えた声がすべてを裏切っていた。
 七瀬はもう抵抗しなかった。
 逃げようともしなかった。
 吸い寄せられるように、和弥の濡れた胸元へ顔を埋める。

 和弥は驚きに息を呑み、次の瞬間には七瀬の背にそっと腕を回した。
 腕の中に収まったその細い肩が、震えているのを感じた。愛おしさと、これまで自分が与えてきた傷への後悔で胸を締め付けられながら、和弥はその体を壊さんばかりに、強く、強く抱きしめた。

「はい。……これからも、よろしくお願いします」

 和弥は七瀬の耳元に唇を寄せ、熱い吐息と共に、最も伝えたかった響きを囁いた。

「……七瀬さん」

 初めて名前を呼ばれ、七瀬の体が大きく跳ねる。 「課長」という肩書きを剥ぎ取られ、ただの「七瀬」として和弥の腕の中に閉じ込められた瞬間、彼が守り続けてきた最後の一枚の鎧が、音を立てて崩れ落ちた。

 *

 数ヶ月後。 オフィスには、以前と変わらない――いや、以前よりも少しだけ「騒がしく」、そして密やかな熱を帯びた日常が戻っていた。

「おい、村上。この報告書のフォントが、一部違う。何度言えばわかるんだ、この役立たず」

「すみませーん。あ、でもここ、課長が昨日『このままでいい』って仰った場所ですよ? 忘れたんですか、老化ですか?」

「……っ、チッ、屁理屈を言うな。直せと言ったら直せ!」

 七瀬は相変わらずの毒舌ぶりで和弥を突き放すが、その耳たぶは、隠しきれないほど赤く染まっている。 周囲の社員は「またやってるよ」と苦笑いするだけで、誰もその理由には気づかない。だが和弥だけは、その赤みが怒りではなく、昨夜の密やかな名残であることを熟知していた。

 定時を過ぎ、フロアの明かりが半分落とされて二人きりになった瞬間――。 和弥はキャスター付きの椅子を滑らせて七瀬のデスクへと距離を詰め、迷いのない動きでその細い手首を掴んだ。

「課長。さっきの『役立たず』って言葉、結構傷つきました。……今夜、たっぷりと埋め合わせしてくださいね」

「な……っ! 会社で変なことを言うな!離せ……!」

 七瀬は慌てて周囲を気にしながら声を潜めるが、和弥は掴んだ手を離すどころか、指を絡めるようにして力を強める。困惑し、翻弄される七瀬の反応を、和弥は楽しむように眺めていた。

「嫌です。……それより、さっき成川さんと電話してましたよね?」

 一瞬で、七瀬の肩がぴくりと跳ねる。

「……だからなんだ。仕事の電話だ」

「もうあの人と仕事してないでしょ……。俺だけ見ててくださいよ」

 和弥の瞳に宿るのは、一切の遠慮を捨てた、剥き出しの独占欲だ。 それはかつて彼が和泉を見つめていた「憧れ」という名の清廉な感情とは、似ても似つかないものだった。七瀬という猛毒に侵され、執着と、愛へと変質してしまった、男の独占欲。

「……お前、本当に……どこでそんな面倒くさくなったんだ?」

「課長のせいですよ。あんたが俺をこんな風に作り替えたんだ」

 即答する和弥に、七瀬は言葉を失う。そのくせ、首筋から耳元にかけての赤みは、さらに深い色へと変わっていく。 翻弄されているのは、どう考えても自分の方だ――七瀬は内心で、やり場のない毒を吐いた。

(……くそ。どっちが“毒”なんだか)

 だがその毒は、七瀬の胸の奥で、どうしようもなく甘く疼いていた。 かつては「鎧」だった冷徹な仮面は、今やこの生意気な部下の手によって、いとも簡単に剥ぎ取られてしまう。

「……相変わらず、性格悪いですね、課長は」

「うるせえ。お前に言われたくない。嫌ならさっさと辞めて、どこへでも行けばいいだろう!」

 吐き捨てるような拒絶とは裏腹に、七瀬は和弥に繋がれた手を振り払おうとはしなかった。むしろ、その体温を確かめるように指を絡め、逃げる気配すら見せない。 和弥は、その「矛盾」を見逃さない。 七瀬がどれほど不器用で、どれほど臆病で、それでも一度許した相手を誰よりも深く愛してしまう人間なのか――。今では、痛いほど理解していた。

「……行きませんよ。あんたの隣にいるって、決めたんで」

 和弥が静かに、そして深く微笑む。
 和弥は七瀬の指先に、そっと、慈しむように唇を寄せた。 ほんの軽い接触。それなのに、七瀬の肩がビクッと大きく跳ねる。

「ば……っ、馬鹿……! 会社だと言ってるだろ……!」

「分かってます。でも、課長が可愛いのがいけないんですよ」

「可愛くない! ……っ、殺すぞ!」

 七瀬は、繋がれた手をそっと握り返した。 ほんの一瞬、誰にも見られない、二人だけの秘密の合図のように。

(……作り変えられたのは、どう考えても俺の方だろうが)

 そう内心で悪態をつきながらも、七瀬の胸の奥は、これまでにない穏やかさで満たされていた。

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