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2章
隠されていた遺言
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エレノーラの興した商会は大きく成長し、大陸の各地に拠点を持っている。国を離れても不自由なく暮らしていけるだけの基盤がある。
監視されているも同然の外遊の他、国外に出るのははじめてだった。書物越し、人伝に見たり聞いたりするのとは全く違う。様々な危険をかいくぐることさえ楽しかった。広い世界、新鮮な空気は『伯父様』を喪った胸の隙間を埋めてくれた。
商品を開発し、販路を開拓する。人材を獲得し、育成する。
生まれ育った国では地位には恵まれていたが、それは同時に軛でもあった。そこから自由になったエレノーラは生き生きと大陸中を飛び回った。
時が経った。のびのびと日を送るエレノーラのもとに、意外な人物が面会を求めてきた。ラザフォード侯爵――現在母国で宰相の地位にある男だ。
エレノーラ嫌いの代表格だったあの男が今更どういう顔で会いに来るものか。好奇心を刺激されて応じる旨の返事をした。母国とはそれなりのつきあいのある某国。その王都にある商会の拠点で会うことになった。
「ごきげんよう、閣下。お変わりないようで何よりですわ」
挨拶をしながら、エレノーラは自分でも白々しいと思った。
ラザフォード侯爵は変わり果てていた。彼は恰幅がよく自信に満ちた物腰の男だったはずだ。それがすっかり肉がそげ、かさの減った頭髪は色あせ、敗残の老兵、という風情だ。
侯爵は挨拶に応えなかった。ひたと据えられた視線の先には、幼い子供がいた。エレノーラに酷似した顔立ち。髪の色は黒い。そして、その瞳の色は青――『王家の青』だ。
「さあ、アルヴィン。向こうに行っていらっしゃい」
エレノーラが柔らかくほほえむ。男の子は固まっている見知らぬ男を不思議そうに一瞥してから、使用人に手を引かれて去って行った。
「あの子供は、やはり……」
「ええ。わたくしの子ですわ。八年前に結婚いたしましたの」
この大陸では貴賤を問わず、教会が婚姻を司っている。夫婦となる二人が教会に赴いて届け出をすれば、それだけで正式に婚姻が成立するのだ。それでも本来王侯貴族となれば、身分と家を守るためには当の二人だけが良ければいい、というわけにはいかないものだ。しかし、エレノーラもその夫も生国での貴族身分にこだわりはない。双方の実家に断りなく夫婦となった。
「ですから、もうご用はお済みですわね?」
母国の国王夫妻の迷走ぶりについてはエレノーラも聞き及んでいる。現王妃を離縁させるか、降格させるか。それとも側室の座をこちらに押しつけてくるか。いずれにしてもかつての婚約者に後始末を押しつけたいのだろうと侯爵の訪問目的を察していたのだ。
「いや……いいえ、本日伺った用件は別にございます」
老貴族は姿勢を正した。何やら決意を固めた表情に見えた。
ラザフォード侯爵が帰って行った後、エレノーラは残された文書を指でなぞった。馴染みのある伯父の筆跡でこう綴られている。
“エレノーラ・シェフィールド公爵令嬢に王位を譲る。王配は女王の意思に任せる。”
「伯父様……」
隣に座った夫ダグラスの腕に優しく引き寄せられる。しばらく夫に身体の重みをあずけて目を閉じていた。
「……ダグラス。わたくし、どうしたらいいかしら」
「エリー、君はどうしたいんだ。もう答えは出てるんじゃないのか?」
夫の穏やかな黒い瞳をのぞきこむと、波立っていた胸のうちが静かに凪いでくる。彼が一人の護衛にすぎなかった頃からそうだった。
「わたくしについてきてくれるでしょう?」
「当たり前だろう。どこへだって、どこまでだってついて行くさ」
こころの赴くままにどこまでも駆けていきたいエレノーラの奔放さを、ダグラスはとどめることなくついてきてくれる。足の妨げになるものをとりのぞこうとしてくれる。そうして寄り添ってくれる彼の存在を確かめるそのとき、深い安らぎといとおしさがエレノーラの胸を満たすのだった。
監視されているも同然の外遊の他、国外に出るのははじめてだった。書物越し、人伝に見たり聞いたりするのとは全く違う。様々な危険をかいくぐることさえ楽しかった。広い世界、新鮮な空気は『伯父様』を喪った胸の隙間を埋めてくれた。
商品を開発し、販路を開拓する。人材を獲得し、育成する。
生まれ育った国では地位には恵まれていたが、それは同時に軛でもあった。そこから自由になったエレノーラは生き生きと大陸中を飛び回った。
時が経った。のびのびと日を送るエレノーラのもとに、意外な人物が面会を求めてきた。ラザフォード侯爵――現在母国で宰相の地位にある男だ。
エレノーラ嫌いの代表格だったあの男が今更どういう顔で会いに来るものか。好奇心を刺激されて応じる旨の返事をした。母国とはそれなりのつきあいのある某国。その王都にある商会の拠点で会うことになった。
「ごきげんよう、閣下。お変わりないようで何よりですわ」
挨拶をしながら、エレノーラは自分でも白々しいと思った。
ラザフォード侯爵は変わり果てていた。彼は恰幅がよく自信に満ちた物腰の男だったはずだ。それがすっかり肉がそげ、かさの減った頭髪は色あせ、敗残の老兵、という風情だ。
侯爵は挨拶に応えなかった。ひたと据えられた視線の先には、幼い子供がいた。エレノーラに酷似した顔立ち。髪の色は黒い。そして、その瞳の色は青――『王家の青』だ。
「さあ、アルヴィン。向こうに行っていらっしゃい」
エレノーラが柔らかくほほえむ。男の子は固まっている見知らぬ男を不思議そうに一瞥してから、使用人に手を引かれて去って行った。
「あの子供は、やはり……」
「ええ。わたくしの子ですわ。八年前に結婚いたしましたの」
この大陸では貴賤を問わず、教会が婚姻を司っている。夫婦となる二人が教会に赴いて届け出をすれば、それだけで正式に婚姻が成立するのだ。それでも本来王侯貴族となれば、身分と家を守るためには当の二人だけが良ければいい、というわけにはいかないものだ。しかし、エレノーラもその夫も生国での貴族身分にこだわりはない。双方の実家に断りなく夫婦となった。
「ですから、もうご用はお済みですわね?」
母国の国王夫妻の迷走ぶりについてはエレノーラも聞き及んでいる。現王妃を離縁させるか、降格させるか。それとも側室の座をこちらに押しつけてくるか。いずれにしてもかつての婚約者に後始末を押しつけたいのだろうと侯爵の訪問目的を察していたのだ。
「いや……いいえ、本日伺った用件は別にございます」
老貴族は姿勢を正した。何やら決意を固めた表情に見えた。
ラザフォード侯爵が帰って行った後、エレノーラは残された文書を指でなぞった。馴染みのある伯父の筆跡でこう綴られている。
“エレノーラ・シェフィールド公爵令嬢に王位を譲る。王配は女王の意思に任せる。”
「伯父様……」
隣に座った夫ダグラスの腕に優しく引き寄せられる。しばらく夫に身体の重みをあずけて目を閉じていた。
「……ダグラス。わたくし、どうしたらいいかしら」
「エリー、君はどうしたいんだ。もう答えは出てるんじゃないのか?」
夫の穏やかな黒い瞳をのぞきこむと、波立っていた胸のうちが静かに凪いでくる。彼が一人の護衛にすぎなかった頃からそうだった。
「わたくしについてきてくれるでしょう?」
「当たり前だろう。どこへだって、どこまでだってついて行くさ」
こころの赴くままにどこまでも駆けていきたいエレノーラの奔放さを、ダグラスはとどめることなくついてきてくれる。足の妨げになるものをとりのぞこうとしてくれる。そうして寄り添ってくれる彼の存在を確かめるそのとき、深い安らぎといとおしさがエレノーラの胸を満たすのだった。
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