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第三章 放置ダンジョンで冒険者暮らし編
第148話 逃亡者
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「なんで、なんで私がこんな目に――」
夜の帳が下り、世界は闇に飲み込まれていた。大黒泰子は泥と汗にまみれた顔で路地をさまよい、時に物陰へ転がり込み、時に川へ飛び込み、下水道をはい回って逃げ続けている。ドロドロのワンピースはすでに布きれ同然、頼みのスマフォも電池が尽き、川の水で完全に沈黙した。最後に賢治へかけたとき、彼は冷たくこう言ったのだ――「大人しく自首しなさい」と。
離婚も考えている、と続いた声が頭にこびりつく。優しいはずの夫が“視野に入れている”と濁したのは、つまり決定事項なのだ。
(全部、全部あの女のせいだ。鬼姫さえいなければ!)
恨みと恐怖が胃袋を焼き、胸を掻きむしりたくなる。
泰子が賢治に出会ったのは、たまたま通りかかった夜の裏路地だ。チンピラに絡まれていた賢治を、虫の居所が悪かった泰子が追い払った。礼と称して振る舞われた食事。厚い財布。チンピラを吹き飛ばした際の賢治の潤んだ眼――それらは“シャバい男”の印象を塗り替えるには充分すぎた。
裕福な遺産もちだと知ったとき、泰子は勝利を確信した。人生の伴侶を見つけ、金色の生活を手に入れた彼女はこう思ったのだ。「これで鬼姫より上に立てた」――と。
だが鬼姫は、いつの間にか“美しき冒険者”の二つ名を得ていた。ランクが駆け上がるニュースを見るたび、泰子の優越感にはシミのような焦げが増えた。鬼姫が結婚し、母となり、なお輝きを増したと風の噂に聞いた夜、泰子の心は煮え返った。
浪費は加速し、ついには賢治にクレジットカードを取り上げられ、裏金を借りる羽目になる。その相手がよりによって鬼姫の弟・帝の店だったと知った時、泰子のプライドは粉々になった。
返済に追い詰められた彼女へ、暴走族時代の先輩が差し伸べた手――武器の密売。その汚れた大金で帝への借金を清算したものの、ほどなく警察の追跡が始まった。こうして泰子は、なりふり構わぬ逃亡者に堕ちたのである。
(どうしてあの女だけが順風満帆で、あたしだけが這いつくばらなきゃ――)
闇の中で唇を噛み切りそうなほど強く結ぶ。湿った血の味が広がった。
「もう、ここしかない――」
追い詰められた泰子が潜り込んだのは、陽輝山にぽっかり口を開けたダンジョンだった。魔物の巣窟と知りながら、警察の包囲よりはマシと踏んだのだ。特攻隊長として名を馳せた自分なら、鬼姫より上手く立ち回れる筈、と高をくくっていた。
しかし現実は甘くない。ダンジョン内でゴブリンの群れに襲われ、棍棒を奪って応戦しても、矢が膝を射抜き、刃が腕を裂いた。血で濡れた足を引きずり、泰子は暗い洞窟に身を潜める。
「クソ! あいつら徒党を組むとヤバい……」
外へ戻れば逮捕、奥に進めば魔物。選択肢などない。視界が霞み、鬼姫の影だけがやたらと鮮明だった。
――憎い。憎い。憎い。
もしもあの時、自分が鬼姫を打ち負かしていたなら。自分に鬼姫のような“力”さえあれば。負の念は毒のように泰子の血管を満たしていく。
そのとき、耳ではなく脳髄へ沁み込む声が響いた。
『……力を欲するか。ならば来い。ここへ――お前が望むのなら』
泰子はぎょっとしながらも、声の“方向”が手に取るように分かった。理屈ではない。導かれるように奥へ進み、魔物も現れず、やがて小広い空洞へ出る。正面の壁には、人間の半身が岩と一体化した奇怪な姿があった。
「壁に……人が埋まってる?」
生きているのか死んでいるのか――泰子の問いに、半身の男は唇だけで笑った。
「来たか」
「喋った!? あんた、生きてるのかい!」
「これで“生きている”と言えるかは分からんがな」
自嘲が混じる低い声。泰子は距離を保ちつつ睨む。
「私を呼んだのはあんた?」
「あぁ。声が届いたということは、お前に資格があるということだ」
男の胸元に、墨より黒い結晶――黒い輝石が浮かび上がる。
「それは……?」
「力だ。憎悪と渇望に共鳴する宝核。お前にも心当たりがあるだろう?」
鬼姫の顔が脳裏に焼き付く。泰子は唇を噛む。
「……それがあれば、あいつに勝てるのか?」
「さぁな。だが何もしないよりはマシだろう?」
男は苦笑し、壁に縫いとめられた手をわずかに広げた。
「どうすればいい?」
「強く望み、私からこれを抜き取れ――それで契約は完了する」
怪しいと感じつつも、他に道はない。泰子は黒い石へ手を伸ばし、噛みつくように叫ぶ。
「私はあいつを憎んでる! あんたの力を寄こしな!」
石に触れた瞬間、闇より濃い光が奔流となって泰子を包む。
「あぁ……これで、やっと眠れる……」
男は安堵の吐息とともに蝋細工のように崩れ去った。一方、黒い輝石は液体のごとく泰子の腕へ溶け込み、血管を逆流して心臓へ達する。激痛に喉を裂く悲鳴を上げた泰子は、のたうち回りながら、意識を闇に落とした――。
夜の帳が下り、世界は闇に飲み込まれていた。大黒泰子は泥と汗にまみれた顔で路地をさまよい、時に物陰へ転がり込み、時に川へ飛び込み、下水道をはい回って逃げ続けている。ドロドロのワンピースはすでに布きれ同然、頼みのスマフォも電池が尽き、川の水で完全に沈黙した。最後に賢治へかけたとき、彼は冷たくこう言ったのだ――「大人しく自首しなさい」と。
離婚も考えている、と続いた声が頭にこびりつく。優しいはずの夫が“視野に入れている”と濁したのは、つまり決定事項なのだ。
(全部、全部あの女のせいだ。鬼姫さえいなければ!)
恨みと恐怖が胃袋を焼き、胸を掻きむしりたくなる。
泰子が賢治に出会ったのは、たまたま通りかかった夜の裏路地だ。チンピラに絡まれていた賢治を、虫の居所が悪かった泰子が追い払った。礼と称して振る舞われた食事。厚い財布。チンピラを吹き飛ばした際の賢治の潤んだ眼――それらは“シャバい男”の印象を塗り替えるには充分すぎた。
裕福な遺産もちだと知ったとき、泰子は勝利を確信した。人生の伴侶を見つけ、金色の生活を手に入れた彼女はこう思ったのだ。「これで鬼姫より上に立てた」――と。
だが鬼姫は、いつの間にか“美しき冒険者”の二つ名を得ていた。ランクが駆け上がるニュースを見るたび、泰子の優越感にはシミのような焦げが増えた。鬼姫が結婚し、母となり、なお輝きを増したと風の噂に聞いた夜、泰子の心は煮え返った。
浪費は加速し、ついには賢治にクレジットカードを取り上げられ、裏金を借りる羽目になる。その相手がよりによって鬼姫の弟・帝の店だったと知った時、泰子のプライドは粉々になった。
返済に追い詰められた彼女へ、暴走族時代の先輩が差し伸べた手――武器の密売。その汚れた大金で帝への借金を清算したものの、ほどなく警察の追跡が始まった。こうして泰子は、なりふり構わぬ逃亡者に堕ちたのである。
(どうしてあの女だけが順風満帆で、あたしだけが這いつくばらなきゃ――)
闇の中で唇を噛み切りそうなほど強く結ぶ。湿った血の味が広がった。
「もう、ここしかない――」
追い詰められた泰子が潜り込んだのは、陽輝山にぽっかり口を開けたダンジョンだった。魔物の巣窟と知りながら、警察の包囲よりはマシと踏んだのだ。特攻隊長として名を馳せた自分なら、鬼姫より上手く立ち回れる筈、と高をくくっていた。
しかし現実は甘くない。ダンジョン内でゴブリンの群れに襲われ、棍棒を奪って応戦しても、矢が膝を射抜き、刃が腕を裂いた。血で濡れた足を引きずり、泰子は暗い洞窟に身を潜める。
「クソ! あいつら徒党を組むとヤバい……」
外へ戻れば逮捕、奥に進めば魔物。選択肢などない。視界が霞み、鬼姫の影だけがやたらと鮮明だった。
――憎い。憎い。憎い。
もしもあの時、自分が鬼姫を打ち負かしていたなら。自分に鬼姫のような“力”さえあれば。負の念は毒のように泰子の血管を満たしていく。
そのとき、耳ではなく脳髄へ沁み込む声が響いた。
『……力を欲するか。ならば来い。ここへ――お前が望むのなら』
泰子はぎょっとしながらも、声の“方向”が手に取るように分かった。理屈ではない。導かれるように奥へ進み、魔物も現れず、やがて小広い空洞へ出る。正面の壁には、人間の半身が岩と一体化した奇怪な姿があった。
「壁に……人が埋まってる?」
生きているのか死んでいるのか――泰子の問いに、半身の男は唇だけで笑った。
「来たか」
「喋った!? あんた、生きてるのかい!」
「これで“生きている”と言えるかは分からんがな」
自嘲が混じる低い声。泰子は距離を保ちつつ睨む。
「私を呼んだのはあんた?」
「あぁ。声が届いたということは、お前に資格があるということだ」
男の胸元に、墨より黒い結晶――黒い輝石が浮かび上がる。
「それは……?」
「力だ。憎悪と渇望に共鳴する宝核。お前にも心当たりがあるだろう?」
鬼姫の顔が脳裏に焼き付く。泰子は唇を噛む。
「……それがあれば、あいつに勝てるのか?」
「さぁな。だが何もしないよりはマシだろう?」
男は苦笑し、壁に縫いとめられた手をわずかに広げた。
「どうすればいい?」
「強く望み、私からこれを抜き取れ――それで契約は完了する」
怪しいと感じつつも、他に道はない。泰子は黒い石へ手を伸ばし、噛みつくように叫ぶ。
「私はあいつを憎んでる! あんたの力を寄こしな!」
石に触れた瞬間、闇より濃い光が奔流となって泰子を包む。
「あぁ……これで、やっと眠れる……」
男は安堵の吐息とともに蝋細工のように崩れ去った。一方、黒い輝石は液体のごとく泰子の腕へ溶け込み、血管を逆流して心臓へ達する。激痛に喉を裂く悲鳴を上げた泰子は、のたうち回りながら、意識を闇に落とした――。
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