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【第三部:とらわれの舞姫】第五章
舞姫
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ちょうど準備が整ったころ、テイジーが顔を出した。
「ナイシェ様、そろそろよろしいですか? カイル様もお見えになりました」
「ええ、大丈夫」
ナイシェは銀のショールを手に取ると、テイジーのあとについて小広間へと向かった。
「音楽のほうは、おっしゃるとおりに用意しておきました。……本当に、いいんですか? どんな曲が流れるかも知らなくて」
「ええ、初めて聞く曲のほうが、自由に踊れるから好きなの」
「うわあ、本格的ですね! 私も部屋の隅のほうで見させてもらえるんです。期待してますね」
小広間の裏の扉に到着すると、ナイシェは大きく深呼吸をした。
さあ、カイル伯爵に最高の踊りを披露するのよ。
しばらくして、広間の中から美しい琴の音が聞こえてきた。とびきりやさしくてきれいな曲を、と頼んでおいたとおりだ。しんと澄み渡った空間に、糸のように細い旋律がひとつ。みるみるうちに、ナイシェの心の中に情景が広がった。春も間近な冬の日、溶け始めてきらきらと輝く雪の上を小鳥たちとともに戯れる自分の姿。緑色の芽が雪の中から顔を出し、真っ青な空を仰ぐ。動物たちが一匹また一匹と木陰から姿を現し、春の到来を祝って踊る――。
琴の音に合わせて、ナイシェは小広間へ踊り出た。中央のカイルを始め、そこには数人の侍女、テイジー、そしてシルフィールの姿がある。
うれしい――みんなに踊りを見てもらえるなんて。
春の訪れとともに、動物たちが踊り出す。やさしい風が、梅雨となった雪のしずくを宙に散らす。光るしずくたちに、思わず手を差し伸べる。銀のしずくはナイシェを包み込み、離れてはやがて空気に溶けて消えていった。それは不思議な感覚だった。小広間は青い草木が顔をのぞかせる雪の草原となり、銀のショールは空を舞う小さなしずく。想像の翼を思う存分広げ、体中の喜びを表すには、それだけで充分だった。
長い衣装の裾を細やかなステップで軽快にもてあそびながら、ナイシェは宮殿ではけして見ることのできない最高の踊りを披露した。やがて一筋の琴の旋律が静かに終焉を告げたとき、春の訪れを知らせるその舞も、ゆっくりと幕を閉じた。やさしい沈黙に包まれ、ナイシェは銀のショールを身にまとって床に伏せたまま、しばらく動かなかった。ナイシェだけではない――広間にいるすべての者が、微動だにしなかった。じっと息をひそめ、泡のように美しくはかないその空間を守ろうと、誰ひとりとして口をきく者はいなかった。
それから、人々の目を覚ます拍手の音。ゆっくりとした調子で小広間に鳴り響く、ただひとりの拍手の音に、ナイシェは頭をあげた。それはカイルだった。ナイシェが立ち上がると、カイルがおもむろに歩み寄ってきた。
「……すばらしい。すばらしいよ……」
呟くようにカイルがいう。わずかに眉をひそめ薄く唇を噛んで、きゅっと手を握りしめる。
「最高だ、君の踊りは……本当に、最高だ……」
そしてそっとナイシェの肩に手を置くと、少しだけうつむいて黙り込んだ。
「あの……伯爵?」
不思議そうな面持ちでナイシェが尋ねた途端、カイルはナイシェの細い体をその胸に抱きしめた。言葉を発しようとしたナイシェは、そんなカイルの背中がかすかに震えていることに気づいた。
「……帰っていい」
絞り出すような声で、カイルはそう囁いた。
「もう……帰っていい。君の連れのもとへ……帰れ……」
苦しそうな、しかしはっきりとした口調で、カイルはいった。
「もう戻れ。戻れ……」
ナイシェを抱きながら、カイルはそう繰り返すだけだった。震える声で、自分にいい聞かせるように。ナイシェは何もいえずに、ただそっとカイルの背中に手を当てた。頭の中で彼の言葉がこだましたが、沸き上がるような喜びや驚きは何もなかった。ただ、彼をやさしく抱いたように、彼の言葉をもやさしく抱きしめた。カイルの心の底から絞り出したその言葉を壊さないように、ただやさしく温かく、両腕でそっと包み込むように。
「ナイシェ様、そろそろよろしいですか? カイル様もお見えになりました」
「ええ、大丈夫」
ナイシェは銀のショールを手に取ると、テイジーのあとについて小広間へと向かった。
「音楽のほうは、おっしゃるとおりに用意しておきました。……本当に、いいんですか? どんな曲が流れるかも知らなくて」
「ええ、初めて聞く曲のほうが、自由に踊れるから好きなの」
「うわあ、本格的ですね! 私も部屋の隅のほうで見させてもらえるんです。期待してますね」
小広間の裏の扉に到着すると、ナイシェは大きく深呼吸をした。
さあ、カイル伯爵に最高の踊りを披露するのよ。
しばらくして、広間の中から美しい琴の音が聞こえてきた。とびきりやさしくてきれいな曲を、と頼んでおいたとおりだ。しんと澄み渡った空間に、糸のように細い旋律がひとつ。みるみるうちに、ナイシェの心の中に情景が広がった。春も間近な冬の日、溶け始めてきらきらと輝く雪の上を小鳥たちとともに戯れる自分の姿。緑色の芽が雪の中から顔を出し、真っ青な空を仰ぐ。動物たちが一匹また一匹と木陰から姿を現し、春の到来を祝って踊る――。
琴の音に合わせて、ナイシェは小広間へ踊り出た。中央のカイルを始め、そこには数人の侍女、テイジー、そしてシルフィールの姿がある。
うれしい――みんなに踊りを見てもらえるなんて。
春の訪れとともに、動物たちが踊り出す。やさしい風が、梅雨となった雪のしずくを宙に散らす。光るしずくたちに、思わず手を差し伸べる。銀のしずくはナイシェを包み込み、離れてはやがて空気に溶けて消えていった。それは不思議な感覚だった。小広間は青い草木が顔をのぞかせる雪の草原となり、銀のショールは空を舞う小さなしずく。想像の翼を思う存分広げ、体中の喜びを表すには、それだけで充分だった。
長い衣装の裾を細やかなステップで軽快にもてあそびながら、ナイシェは宮殿ではけして見ることのできない最高の踊りを披露した。やがて一筋の琴の旋律が静かに終焉を告げたとき、春の訪れを知らせるその舞も、ゆっくりと幕を閉じた。やさしい沈黙に包まれ、ナイシェは銀のショールを身にまとって床に伏せたまま、しばらく動かなかった。ナイシェだけではない――広間にいるすべての者が、微動だにしなかった。じっと息をひそめ、泡のように美しくはかないその空間を守ろうと、誰ひとりとして口をきく者はいなかった。
それから、人々の目を覚ます拍手の音。ゆっくりとした調子で小広間に鳴り響く、ただひとりの拍手の音に、ナイシェは頭をあげた。それはカイルだった。ナイシェが立ち上がると、カイルがおもむろに歩み寄ってきた。
「……すばらしい。すばらしいよ……」
呟くようにカイルがいう。わずかに眉をひそめ薄く唇を噛んで、きゅっと手を握りしめる。
「最高だ、君の踊りは……本当に、最高だ……」
そしてそっとナイシェの肩に手を置くと、少しだけうつむいて黙り込んだ。
「あの……伯爵?」
不思議そうな面持ちでナイシェが尋ねた途端、カイルはナイシェの細い体をその胸に抱きしめた。言葉を発しようとしたナイシェは、そんなカイルの背中がかすかに震えていることに気づいた。
「……帰っていい」
絞り出すような声で、カイルはそう囁いた。
「もう……帰っていい。君の連れのもとへ……帰れ……」
苦しそうな、しかしはっきりとした口調で、カイルはいった。
「もう戻れ。戻れ……」
ナイシェを抱きながら、カイルはそう繰り返すだけだった。震える声で、自分にいい聞かせるように。ナイシェは何もいえずに、ただそっとカイルの背中に手を当てた。頭の中で彼の言葉がこだましたが、沸き上がるような喜びや驚きは何もなかった。ただ、彼をやさしく抱いたように、彼の言葉をもやさしく抱きしめた。カイルの心の底から絞り出したその言葉を壊さないように、ただやさしく温かく、両腕でそっと包み込むように。
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