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第一章
王子様の恐怖
しおりを挟む誰もいない広場。隅に転がる赤いボール。
吉田障子は薄暗い公園の中心に立っていた。空は曇り、微かに赤く、広場の向こうには深い森が広がっている。
いつの間にか赤いボールが足元で揺れている。得体の知れない恐怖に襲われた障子は慌てて出口に走った。後ろから迫る何かの気配。そっと振り返ると、長い手足が見えた。頭の上で蠢く長い髪。真っ黒な身体。
障子は悲鳴を上げた。
前を向くと必死に手足を振る。だが、どれだけ走っても足が進まない。砂の上に倒れる体。障子の腕を掴む誰かの腕。
ふっと耳元に息が掛かった。
「ねぇ、王子様?」
吉田障子はベッドの上で飛び起きた。
少し薄暗い、見慣れた自分の部屋にホッと安堵する。だが、腹の底から湧いてくる恐怖心が中々治らず、暫く心臓がバクバクと鼓動を続けた。全身に嫌な汗をかいている。
障子は暫く呆然と、カーテンの隙間から漏れ出る日差しを眺めた。
やがて気分が落ち着くと、障子はやっとベッドから足を下ろした。時計の針は七時二十分を回っている。立ち上がった障子はパジャマを脱いだ。制服に着替えて靴下を履くと、充電の終わったアイフォンをケーブルから抜き取る。画面には、姫宮玲華からのラインがズラリと並んでいた。
悪夢の原因はコイツだ……。
障子は何百と続くメッセージにゾッとする。
昨日の夕方、亡霊のような玲華に近所の神社まで追われた障子は、このまま家に付いて来られてはたまらないと、ラインの交換を提案した。そうして、しつこい玲華を振り切ることに成功したのだったが、取り返しの付かない事をしてしまったと、今になって後悔する。
携帯を解約しようかと悩みながら、障子は階段を降りた。一階の廊下に母の陽気な笑い声が響いている。
欠伸をしながらリビングに入った障子は、鋭い悲鳴を上げた。
制服姿の姫宮玲華が、テーブルでトーストを齧っていたのだ。玲華は、障子の姿を見ると微笑んで白い手を上げた。
障子は呆然と母親の真智子を見る。真智子は意味ありげに微笑み、親指を立てた。おほほっと笑うと、リビングから出て行く。
玲華は、まるで自分の家で寛ぐかのように椅子にもたれ掛かっていた。トーストを食べ終えると牛乳を飲む。白い髭を作った玲華は、ニッコリと笑って障子の腕を掴んだ。そのまま、リビングを出る。
「遅刻しちゃうぞ、王子?」
……王子はお前だろ。
障子は、我が物顔の玲華を睨んだ。
「ちょっと待ちなさい!」
真智子は慌てて障子に弁当を手渡す。そして、ヘタクソなウィンクをした。
障子はため息をつくと、のそりと運動靴を履く。
外に出ると、眩い朝日に目が眩んだ。玲華が長い髪を揺らして微笑んでいる。先ほどの悪夢を思い出して、障子は腹の底が冷えるのを感じた。
「じゃあ、王子様研究部は?」
「……それって何を研究するの?」
旧校舎裏のシダレヤナギが長い枝をはためかせる。
風が強い。晴天が厚い入道雲に覆い隠されてゆく。
吉田障子は水筒の蓋に冷たいお茶を流した。
玲華は細い黒髪を靡かせながら、長い人差し指を障子に向ける。
「君……」
だがすぐに玲華は、何かに疑問を覚えたように首を傾げた。指の先をくるりと回して上唇に当てると、空を見上げる。
「いえ、何を研究するのでしょう?」
玲華は急に声色を変える。別人のような低い声に、障子は恐々と玲華を見つめた。
「……ねぇ、もう占い部とかでいいんじゃない? 元々、占い部の予定だったんでしょ?」
「あのね、占いは王子様研究部でも出来るけど、王子様を広めるには、占い部じゃダメなんだよ」
玲華は首を傾げた。突風が吹く。ヤナギの枝が激しく暴れた。
「意味が分からないんだけど……? それに、王子様ってあだ名が嫌いだって、何度も説明しなかったっけ?」
「好きとか嫌いとかじゃないの。アナタは王子様で、学校の皆んながそれを認めなきゃいけないの」
「だから嫌だってば! そもそも、そんなの無理だから、何処をどう見たら僕が王子様なの? いやいや、何言ってんだ……。ねぇ、姫宮さん? 一万歩譲って王子様みたいにかっこいい奴がいたとしてさ、高校生にもなって王子様なんてあだ名、あり得ると思う? 僕、もうその単語聞くだけで恥ずかしいんだけど?」
「別に恥ずかしくてもいいじゃない」
「嫌だよ!」
障子は教室で「王子様」と呼ばれたことを思い出した。それほど大きな声じゃなかった為に、大事には至らなかった。だが、今でも冷や汗が止まらない。それでなくとも、クラスメイトに変な噂を立てられ始めていたのである。玲華は、今朝からずっと障子に付き纏っていた。
とにかく、このイカれた女の暴走を止めなければ……。
障子はお茶を飲み干した。
既に太陽は厚い雲に覆われいる。遠い雷の響きに低く振動する空気。
「ねぇ、障子クンって小学生の頃、王子って呼ばれてたんだよね?」
「うん、まあ、小学生の頃だよ?」
「そう呼び始めたのが誰か覚えてる?」
「えっ?」
障子はその事をありありと覚えていた。まだ小学校に入学したばかりの頃、たまたま同じ班だった三原千夏が、自己紹介をした障子を「王子」と呼んで微笑んだのだった。
「……覚えてないよ、そんなの」
障子は嘘をついた。千夏への淡い想いを知られたく無かったからだ。
「本当に?」
「ほ、本当だって! 覚えてるわけないじゃん、そんな昔のこと!」
玲華は石段の上で、白い膝に頬を合わせるように身体を折り曲げた。持ち上がったスカートからスラリとした太ももが覗く。障子は思わず顔を背けた。
「じゃあ、その人を探すところからだね」
「ええっ!? な、なんで? 嫌だよ! む、無理だし、そんなの」
「大丈夫よ、あたしに任せて」
そう微笑んだ玲華の横顔は人形のようだった。障子は恐怖で顔が引き攣る。
横に向けた玲華の白い顔に長い黒髪が掛かった。その首筋にポツリと大きな雨粒が落ちる。
「あら、雨ね? さぁ、中に入りましょう」
玲華は立ち上がると、障子に手を差し伸べた。
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