王子の苦悩

忍野木しか

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第一章

トイレの花子さん

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「大丈夫? 学校休む?」
 吉田真智子は心配そうに首を傾げると、ベットで横になる息子の青白い顔を覗き込んだ。
「ううん、行くよ」
 体を起こした障子は気怠そうに壁に掛かったカレンダーを見つめた。2014年7月。青い海の絵と白い文字。障子は胸の奥が圧迫されるような強い違和感を覚える。だが、口には出さなかった。
 夕暮れの学校に迷い込んだのは先週の木曜日の事だ。あの不可解な時間喪失以来、障子は日中、頻繁に意識を失うようになった。真智子曰く、決して普通の状態とは言えない障子はそれでも目を開けて活動しているらしい。だが、その間の出来事を障子は覚えていなかった。
「玲華ちゃんに、ちゃんとお礼を言っておくのよ?」
「分かってるって」
 少し焦げた味の無いトースト。無理やり牛乳を喉の奥に流し込んだ障子は、奇妙な朝食に胃を重くしながらも、何も言わずに立ち上がった。
「玲華ちゃんに宜しくね?」
「だから分かってるって言ってんじゃん!」
 玄関を出た障子は心配そうに眉を顰める母の顔を睨みつけた。四日前の木曜日の夜中に半分意識のない障子を家まで送り届けてくれた人が玲華だったそうだ。金曜日の朝に無言で天井を見つめ続ける障子を学校に連れて行ってくれた人も、その日の夕方に障子を家まで送り届けてくれた人も玲華なのだと、真智子は言った。
 障子は全く覚えていなかった。というより、先週の木曜日の朝から月曜日の朝である今日までの記憶が夢の中で見た景色のように曖昧で薄かったのだ。何十年も昔に見た色ような、初めて訪れる町から見える山のような、記憶に残らない景色の残像。
 通学路を無言で歩く障子にはもはや夢と現実の区別がつかなくなっていた。
 とにかく、とにかく、とにかく、あの人に合わないと、あの人なら、何か知っているかもしれない……。
 忘れてしまった道を迷わず進み、夢現な坂を上った障子の目に映る、見覚えのない校舎。強い違和感の中に湧き上がる寂しさと懐かしさ。フラフラと足を前に出した障子の背中を強く叩く誰かの手。
「おはよう! 吉田くん!」
 風に揺れる髪。満面の笑みを浮かべる女生徒。三原千夏の声が青い夏の空を跳ねる。
 振り返った障子はピタリと動きを止めた。情報の錯乱に一瞬思考が停止してしまったのだ。世界に溢れる鮮やかな色。夏風に運ばれる音の波。叩かれた背中を流れる熱い血の躍動。やっと正気に戻った障子は笑い方を忘れてしまっていた固い頬をグッと横に広げてみせた。だが、言葉が出てこない。
「……大丈夫?」
 千夏は少し不安そうに細い眉を顰めると首を傾げた。コクコクと障子は首を縦に動かす。
「お、おはよう!」
「うん、おはよう! 吉田くん、寝不足?」
「う、うん、寝不足かも……。三原さん、今日は遅いんだね?」
「朝練無かったからねー。てゆうか吉田くん、なんであたしの登校ルーティン知ってるの? あわわ、あたし、もしかして吉田くんに、監視されちゃってる?」
「ち、ち、違うよ! 違うから! ほら、ずっと昔にさ、教室で朝早くに会ったよね? だから、三原さん、朝早いのかなって」
「ずっと昔って、いひひ、ねぇ吉田くん、あたしね、吉田くんになら監視されちゃってもいいかなって、思ってるんだよ?」
 千夏は上目遣いに障子を見上げる。栗色の瞳が彼女のタレ目の内に光ると、その下で煌めく濡れたような赤い唇に障子は息を呑んだ。
「だ、だから、その、か、監視とかじゃ……」
 もごもごと動きの悪い唇である。障子の口元に照れたような苦笑いが浮かぶと、その瞳を覗き込むようにして千夏は背伸びをした。
「うーん」
「な、な……。ど、どうしたの……?」
「相変わらず、背負ってるねー」
「へ……?」
「あ、玲華ちゃんだ!」
「ええっ?」
 慌てて後ろを振り返った障子は坊主頭の上級生と目が合うとサッと視線を下げた。
「あはは、吉田くん、浮気はダメだよーだ」
「う、浮気なんか……」
 白い手で口を押さえた千夏がころころと笑う。その透き通るような栗色の瞳に障子の頬が赤く染まってしまう。もう一度障子の背中を叩いた彼女はひらひらと手のひらを空中で動かすと、羽が生えたような軽い足取りで校舎の中へと入っていった。
 暫く金縛りあったかのように正門側のレンガ畳で固まっていた障子は、やっと見慣れた校舎を見上げると、玲華に話があったのだという事を思い出して歩き出した。
 あれ、さっきまで何に悩んでたんだっけ……?
 下駄箱で靴を履き替えた障子は、千夏の眩い笑顔を思い出して、また頬を赤らめてしまう。廊下で話す男子生徒たちの横を抜けた障子は階段を駆け上がった。そうして教室に飛び込んだ彼は姫宮玲華の姿を探した。だが、艶やかな長い黒髪を持った女生徒の姿は何処にも見当たらなかった。
「おい、吉田」
「え?」
 自分を呼ぶ男子生徒の声に障子は慌てて振り返った。
 広いおでこ。短髪の黒髪。田川明彦は腕を組んで障子の顔を睨んだ。普段は口数の多いクラスメイトのギュッと結ばれた唇に、障子は恐々と首を傾げる。
「お、おはよ……」
「お前、なんで金曜の放課後、理科室に行かなかったんだよ?」
「……えっと、何の話だっけ?」
「嘘だろ、お前」
「ご、ごめん」
「超研だよ、お前を連れて来いって、超研の奴らが騒いでるんだってば」
「長剣?」
「超なんちゃら研究部だよ、そういう変な部活があんの。お前、マジでヤバいぜ?」
「な、何で?」
 キョロキョロと周囲を確認する明彦の表情は強張っている。障子はゴクリと唾を飲み込んだ。
「花子さんだよ、トイレの花子さん」
「花子さん? トイレ?」
「知らねーのかよ、お前」
「いや、トイレの花子さんなら、知ってるけど……」
 障子はトイレに隠れるおかっぱの少女の霊を想像した。それを察した明彦は、グッと障子に顔を近づける。
「お化けの話じゃねーってば、花子っていうヤバい先輩が超研に居んだよ」
「ヤバい先輩?」
「そう、マジでイカれたヤバい先輩が、お前を呼び出してんの」
「な、何で僕を……?」
「知らねーって、取り敢えず必死に謝っとけ」
「そ、そんな……。てゆうか、何でその先輩、トイレの花子さんなの?」
「何でも、気に入らない奴をトイレに呼び出してはボコりまくったから、影でそう呼ばれるようになったんだってさ……。絶対に本人の前で言うんじゃねーぞ?」
「う、うわぁ……」
 薄い眉毛をへの字に曲げた明彦は、障子を憐れむように深く頷くと片手を上げて自分の席に戻っていった。
 超研のトイレの花子さん……。異常者は姫宮だけで一杯一杯なのに……。
 席についた障子は先輩に呼び出された恐怖よりも明らかに普通とは違うであろう輩に目をつけられたというショックに呆然とする。
 九時のチャイムが校舎に鳴り響く。依然、玲華の姿はない。
 放課後になる前に早退しよう。
 そう心に決めた障子は、玲華のいない机を横目にため息をついた。



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