王子の苦悩

忍野木しか

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第一章

炎と濁流

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 燃え盛る女生徒の体。臭いの無い焦げ肉。熱の無い紅蓮の炎。ただ、火に逆巻く空気の流れと煮立つ脂肪のあぶく音だけが睦月花子の耳に響いた。
 変ね……。
 夢か、過去か。とにかく普通ではない状況に花子の口が横に開く。
 無音の空間に甲高い絶叫が響き渡る。金切声を上げて暴れ続ける火だるまの女生徒。火を消してやらねばと息が出来ないだろうと、花子は、女生徒の顔を腕で覆って叩いた。だが、火は消えない。
 益々勢いを増していく火は、いつしか、体育館を埋め尽くしていた。田中太郎の怒鳴り声が花子の背中に響く。花子はその声を無視して女生徒の体を叩き続けた。
「大丈夫だから、落ち着きなさい」
 黒く焦げていく体。乾いていく血液。やがて声を失った女生徒の動きが鈍くなっていく。
 深く息を吐いた花子は周囲を見渡した。床を走る火は舞台を燃やし、壁を伝い、天井を熱した。花子の腕に崩れる黒焦げの肉塊。まだ火の手のない床に黒い女生徒の体を寝かした花子は、他の生徒たちが消えたことに違和感を感じながらも、片膝をついて静かに両手を合わせた。
「おい、部長! 何やってんだ、早く逃げるぞ!」
「うっるさいわね、分かってるわよ」
 ダンッと床を踏みしめた花子は体育館の出入り口を見た。巻き上がってうねる炎。熱と音のない光。麗奈を抱えた太郎に頷いた花子は、気を失ったまま床に伸びる新九郎を担ぎ上げると走り出した。ホログラムのような炎の赤を飛び越える花子。渡り廊下に飛び出すと眩い日差しが花子の頬を照らす。風に靡くヤナギの枝。空に轟く重低音の揺れ。
 立ち止まった花子は空を見上げる。渡り廊下を走り抜けた太郎は、麗奈を肩に負ったまま校舎に続く木の扉を開けた。
「おい、急げって!」
「ねぇ、この音って……」
「んなことはどうでもいいんだよ! とにかく、他の奴らと合流するぞ!」
 怒鳴り声を上げた太郎の体が校舎の中に消える。不審そうに空を見渡した花子は気を失ったまま呻く新九郎を担ぎ直すと校舎の中に走った。


 暗い廊下を飲む込む血の濁流。宮田風花は悲鳴を上げて目を瞑る。轟音。
 祈るように、求めるように、姫宮玲華の腕を抱く手に力を込めた風花は覚悟を決めた。震動。だが、血の波の衝撃はいつまで経っても訪れない。
 そっと目を開けた風花はあっと息を呑んだ。暗い廊下を覆う赤。玲華の伸ばした白い腕に滴る血。彼女の手から溢れる鮮血を避けるかのように、赤い濁流は、玲華の腕の先で大きく二つに裂けていた。左右に分かれた血の川は廊下の壁を沿って上っていき、天井を赤く覆って流れていく。
 ゴボッ、という水を吐くような咳払い。振り返った風花は、廊下に横たわる小田信長に気が付いて駆け寄った。おかっぱ頭に浮かぶ赤黒い液体。白い制服に弾かれる血。逃げるように床に滴り落ちた血は、細い線を作って廊下の向こうに流れていく。
 呻き声をあげる信長の頭を撫でた風花は、濁流を二つに別つ玲華の背中をうっとりと見つめた。
 彼女は魔女なのだろうか……。それとも、神様……。
 およそ非科学的な現象を認めないように努めてきた風花は、この時、生まれて初めて、この世に溢れる不可思議と確かな神の存在を感じた。
 フラフラと立ち上がる副会長。玲華の足元に両膝をついた風花は、轟音を上げて裂ける血の濁流を夢見心地に眺めた。
「あの……姫宮様、これは誰の血なのでしょうか?」
「様って、あはは、これは王子の夢だよ」
「夢、ですか?」
「そう、王子は血が苦手だからね、あたしの血に怯えて横に逃げちゃうんだよ」
「はぁ……」
 よく意味が分からなかった風花は、曖昧に微笑んで首を横に傾げる。
 玲華の眩しい笑顔。彼女の額に浮かぶ汗。伸ばした白い腕に垂れる玲華の赤い血を、ぼーっと見つめていた風花は慌てて立ち上がった。
「し、止血しないと!」
 青ざめた風花は倒れ込むようにして玲華の左腕に飛び付いた。サッと風花を避けた玲華が後ろを振り返る。
「止血したら、夢に飲み込まれちゃうよ」
「飲み……? で、でも、このままじゃ出血多量で死んじゃいますよ!」
「大丈夫だよ。それよりも副会長さん、書記さんを探してきてくれないかな? 変なとこに行っちゃったらさ、あの人、死んじゃうかもしれない」
「しょ、書記って、徳山さん?」
 頷く玲華。玲華の視線の先を追って、風花は血が流れていく廊下の奥を見つめた。目が覚めたらしい信長は廊下に両手をついたまま血に覆われた天井をポカンと見上げている。
「え、徳山さん、流されちゃったの?」
「ううん、走っていっちゃった」
「走ってって……あの人、一人で逃げたってこと?」
「うん、書記さんには逃げる余裕があったんだよ。中々やるね、あの人」
 止まらない血の流れ。痛みに汗を流しながら微笑む玲華に、風花の顔が歪む。生徒会書記徳山吾郎への怒りが風花の胸の内にメラメラと浮かび上がった。
「わ、分かりました、徳山さんの行方を探してみます。ですが、先ずは姫宮様の血を、血を止めないと……」
 怒りと動揺で赤く染まった風花の頬。玲華は黒い髪を揺らして風花に視線を送ると、その目をジッと見つめた。
「副会長さん、あなた、あたしの事どう思ってる?」
「え、と……どうと、言われましても……」
「お化けか魔女だと、思ってるんじゃない?」
「い、いえいえ、そんな!」
 図星を突かれた風花は焦った。そんな彼女の様子に玲華は笑い声をあげる。
「あはは、正解だよ、だから大丈夫」
「正解? お化……いえ、貴方は魔女なのですか?」
「そう、だから、このくらいの傷は大丈夫なんだよ。さ、副会長さん、早く書記さんを探し出して来なさい」
「は、はい!」
 背筋を伸ばす副会長。無邪気に微笑む玲華の赤い唇に頭を下げた風花は、血の流れていく暗い廊下を振り返ると駆け出した。
 その背中を見送った玲華の首筋に汗が流れる。ふうっと息を吐いた玲華は、気の抜けたように廊下に座り込む信長の名を呼ぶと、血の濁流に向かって歩き始めた。





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